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「サルに恋する5秒前」 10「カッキーの情熱」


(あらすじ)
くるみ23歳は、木の上で絵を描くサルに似た画家の悟流サトルに初めての恋をした。
悟流はくるみの会社の先輩、美女のあおいの恋人だ。
悟流と話をする機会を得たくて、彼の親友の画家のカッキーと恋人ごっこをした。
くるみは悟流へのラブソングを創って公園で歌った。
くるみはカッキーに「恋人ごっこ」だったと伝えた。

✨✨✨

柿本潤平カッキーは親友の悟流の家を出て、どうやって帰ったか覚えていない。
バイクも置き去りにした。

くるみと付き合って本気で好きになって「恋人ごっこ」だったと打ち明けられ、彼女は悟流を好きだと知った。

ハートブレイクの朝、くるみに撤退することを明言したものの、心の中で恋の炎は燃え続けていた。
悟流にはあおいという恋人がいるから、チャンスがあると思った。



親友への嫉妬が冷静なブルーになった頃、悟流のアパートへ行った。

「くるみんに振られた。悟流のせいでひどいめにあったわ。飯でもおごれ」

柿本潤平は軽口を叩いて悟流の部屋へ行き、親友の留守中、つい好奇心から絵を見てしまった。

裸体画のモデルはくるみだった。

くるみの豊満な乳房が画の中央に描かれ、あどけない顔立ちに情熱を帯びた瞳がこちらを見つめている。

柿本潤平の恋はモノクロになった。

くるみの覚悟と悟流への愛を感じた。
第一の打撃だ。

第二の打撃は、親友の描いた裸体画の他を圧倒するような類い希な才能だ。

サルに似た画家の親友に、恋も絵の才能もかなわないと突き付けられた。

柿本潤平は数日、虚ろだった。
バイクも取りに行けない。置き去りのまま。

ぽんやりした日々を過ごすうち、あおいから電話があった。

「カッキー。電話するなって言われたけど、しちゃった」

「悟流とはどうなったんや?」

「コンクールの絵に集中したいから会えないって言われてる」
「押しかけたりすればええのに」
「感じるから。距離を置きたいって」

あおいが感じるなら、きっとそうなのだろう。
「コンクールの絵を見せてもらった?」
「カッキーと一緒に描いたヌードモデルでしょう?」

あおいは何も知らないんだと思った。

「カッキー今日は話してくれるのね。電話するなって言われて傷ついたんだけど」

柿本潤平は反省した。
あおいに八つ当たりをした。
悟流に好きな人ができたのかも、と聞かされて、くるみを諦めきれない感情が逆立ち、しっかり彼氏を繋ぎとめろ、俺になんか電話すんな、と苛つきをぶつけた。

あおいも寂しかったのだろうに、思いやれる心の余裕が無かった。

「ちゃんと言わなきゃいけなかったのに、すまんかった。あの日、お菓子を持ってきてくれてありがとうな。お菓子が無かったらバイクで事故ってたわ」

「そういうのは、ちゃんと会って目を見て言うものよ」
「……」
「ごめんね。困らせるようなこと言って」

「会おうか」
「え?」
「ちょっと付き合って欲しいんや。悟流のアパートにバイク忘れて」
「何でそんな大きな忘れ物するのよ」

「バイクより大きなものを失ったからな」

「どういう意味?」

「わからんでもええから、ちょっと付き合ってくれ。一人で取りに行く勇気無いんや」

✨✨✨

柿本潤平はあおいと一緒に、悟流のアパートに行き、バイクを引き取った。

悟流の住居まで来たのにノックもしないのが、二人の悟流との距離感だ。

あおいをバイクの後ろに乗せて、見晴らしの良い場所へ走らせた。

前にもこんなことがあった。
あおいがストレイシープ(恋の迷子)になり、自分の家まで相談しに来た時だ。

芝生に座って雲を見上げるあおいに恋して、彼女をスケッチした。
結局それは絵にしなかった。
親友の彼女なのに切なすぎるから。

背中にあおいの温もりを感じて遠い日を思い出しながら、柿本潤平はバイクを走らせた。

景色の良い場所にバイクを止めて、並んでベンチに座って話した。

柿本潤平は欠落した何かを、自分を騙して気づかないふりして心の奥にしまい込んで、あおいと他愛もないお喋りをすることで一時、癒された。

しかし柿本潤平は、あおいには別の感情があることに気づかなかった。

あおいは柿本潤平と隣り合わせで話をすることに、浮かれている自分があることに戸惑った。

あおいはその感情が何なのかは自分でもわからなかった。

不思議だけどカッキーといるのが心地よい。

柿本潤平はあおいの横顔を見て、
「目を見て言うものよって言われたけど、照れるな」
と茶化した表情をした。

あおいはそれに乗らず、真剣な顔して見つめ返してくる。

柿本潤平は真剣に言った。
「あおいちゃん、ありがとう」

「うん」
あおいは嬉しそうに微笑んだ。

美人なのに表情をくずして笑う顔が可愛いな、と柿本潤平は思った。

✨✨✨

柿本潤平は家に帰り、あいつに勝負もしないで引き下がるのは嫌だと思って、真っ白なカンバスを出した。

ヌードモデルを雇って描いたスケッチには気持ちが乗らない。

ストレイシープになって雲を見上げるあおいを描いたスケッチを引っ張り出した。

今日のあおいの飾らない可愛い表情を思い出す。

突然、柿本潤平の中に閃きが生まれた。

彼はカンバスの真ん中に、芝生で足を投げ出して空を見上げるあおいを思い出しながら、今日見た可愛い笑顔を描いた。

柿本潤平は画の世界に入り込み、他のことは何も考えなかった。
画のあおいの身体を描くとき、アトリエで雇った胸の大きな色っぽいヌードモデルを描いた。

柿本潤平は自由な発想が湧き上がるまま、二つのイメージが合わさった裸体画を夢中で描いていった。

情熱の全てを、絵を描くことに注ぎ込んだ。
画風は色彩が鮮やかで幻想的な柿本潤平風。

絶望してからの空虚な心が、魂をこめて絵を描くことで満たされていった。

✨✨✨

あおいは夜のお風呂上がり、ホームウエアを着てソファーでくつろぎ、髪を乾かしていた。

電話が鳴った。カッキーからだ。
彼から電話をくれるのは初めてだ。

「どうしたの、カッキー」
あおいは上気した声で聞いた。

「ちょっと出てこれないか? バイク走らせて、あおいちゃんのマンションに来たんや」
「ええっ」
「急に来ちゃ迷惑やな。ごめん、またにするわ」
「待って切らないで! 5分で降りて行くから」

慌てて鏡の前に飛んで行く。
化粧を落としたすっぴんの顔が映って、あおいはどうしようと呟いた。
髪も半乾きだ。
服はどうするの?
ちゃんとした服に着替えてすっぴんではバランスがおかしいし、何もかも整えるのは5分では無理だ。
あおいは唇にリップを塗って、髪にブラシを入れて、家を飛び出した。

マンションのエントランスを出ると、カッキーがバイクの前に立っていた。



「カッキーどうしたの。あああ、あんまり見ないで話してぇ」
「は?」
あおいは手をバタバタして顔や身体を隠した。
「すっぴんだし髪も濡れてるし変な格好だから見ないでぇ」

カッキーから見れば全く問題ない美しいあおいだが、困ってジタバタしている彼女は見たことのない可愛さだ。

「あおいちゃん。申し訳ない」
柿本潤平は深々と頭を下げた。

「どうしたの」
「なぜ謝っているか、いずれわかると思う。俺を軽蔑するやろうな」
「何のこと。コンクールの絵は描いたの?」
「今日、締め切り間際に出品完了した」
「間に合って良かったね」

あおいは今日、悟流からコンクールの絵を出品したという電話をもらって、展覧会で会った時に大事な話があると言われた。
声の沈んだ感じから別れ話を予感させた。

柿本潤平は真剣な顔して、あおいに向き直った。
「俺は最低な人間だ。自分を軽蔑する。でも昨日までの時空に戻ったとしても、俺は同じことをするんやと思う」
「何のこと」
「あおいちゃんは傷つくやろうな。最低なことを俺はしてしまったんや」
「さっぱりわからないわ」
「あおいちゃん。俺を許さなくていいけど、頼みを聞いてくれないか?」
「なぁに? カッキーの頼みなら何でも聞くよ」

「あおいちゃんが困った時、悲しい時、苦しい時、淋しい時、笑わせて欲しい時、よければ俺を呼んで欲しい」

「え」
「あおいちゃんが俺を必要とするなら駆けつけるから」

あおいは混乱しつつ、カッキーの真剣さが伝わってきた。

「あおいちゃんが望むことは何でもする。ごめんな、今はそれしか言えん」
バイクにまたがって帰ろうとするカッキーに聞いた。

「じゃあ23時55分に電話してくれる?」
「……」




「カッキーにおやすみって言って欲しいの。くるみんと別れたから、その時間は空いてるんでしょう?」

柿本潤平は髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしった。

「だめなの?」

「俺は本当に最低な人間やな。何でもするって言ったばかりやのに」

「くるみんを忘れられないの?」

柿本潤平は何とも言えず情けない顔をして、バイクで走り去った。

✨✨✨

鈴村朔からくるみに電話があった。



「さっくん、どうしたの?」
「くるみ、頼みがある」
「なぁに?」
「悟流さんの絵の展覧会、一緒に行ってくれないか? ほら俺の裸体画だろ」
「うん」 
「一人で観に行く勇気がないんだ」

裸体画のコンクールの最終選考に選ばれた六枚の絵が発表された。
木山悟流と柿本潤平の名前があった。

若手画家の登竜門のコンクールで、商業活動して五年以内が応募条件。
藝大の同級生の二人は最後のチャンスとなる。

悟流が描いた絵は鈴村朔だ。
飛車の駒を持って海に立つ裸体画だ。

最終選考の六枚の絵を一般公開する前日に選考会があり、選考に残った画家は三人ずつ招待できる。
悟流は鈴村朔とくるみとあおいを招待した。

「いいよ、さっくん。一緒に観に行こう」



美術館の最寄り駅で待ち合わせした。
くるみが待っていると、鈴村朔はサングラスをかけて現れた。

「あれ? なんか印象違うね」
「素通しで見る勇気なくてさ。他の人に絵と俺の顔を見比べられたくない」



展示会場の美術館へ行くと、絵は飾られていなかった。

開始時刻になって一人ずつ画家の名を呼び、飾られるという。
会場の後方には、コンクールの選考をする絵画の重鎮たちがずらりと並んで、厳かな雰囲気だった。

悟流がくるみと鈴村朔に近づいた。「今日は来てくれてありがとう」
見たことのないスーツ姿だ。

「悟流さん、久しぶり」
くるみが嬉しそうに言った。



「ごめんね、連絡できなくて」
悟流も会えて嬉しくて微笑んだ。

「今日決まるわけじゃないんでしょう?」

「正式発表は一般公開の後だけど、今日、大方の選考がされると思う。鈴村くん、コンクールに出す許可をくれて心より感謝します」

握手を求める悟流に、鈴村朔は応じた。

木山悟流も緊張しているが、鈴村朔の緊張はそれを上回っていることに、くるみは気づいた。

あおいがやって来た。
「さとるん。ここまでこれて良かったね」
悟流を優しい笑顔で見つめた。

「ありがとう。君にも本当に感謝しています」
悟流は深々と頭を下げた。

あおいはちょっと涙が出て、ごまかすように笑った。
「後で話があるんでしょう?」

悟流は画家の佇む場所へ戻った。
カッキーの姿はまだ無い。

あおいは鈴村朔に向き直った。
「鈴村くん。あの時はケーキをご馳走様でした」

「羊雲のケーキ、絶品だったでしょう?」

司会の女性がアナウンスした。
「お時間になりました。最終選考に残った六人の若手画家のお名前をお呼びします。呼ばれた方は前に出てください」

くるみが画家の佇む場所を振り返ると、スーツ姿の柿本潤平の姿があった。
木山悟流とは離れた場所に立っている。

最初に名前を呼ばれた若手画家が、絵画の重鎮の審査員の前に緊張した様子で進み出て一礼した。

その画家の絵が会場の右端に飾られた。

審査員たちが進み出て、真剣な表情で点数や評価を書きとめる様子があった。

鈴村朔が震えた声で「くるみ」と言った。

「どうしたの?」 
「手を握ってもいいか? 緊張して、お、落ち着かなくて」
「うん、いいよ」
鈴村朔はくるみの手をぎゅうっと握った。
彼の手は汗ばんでいた。
「東大の合格発表の百倍くらい緊張する」
「大丈夫?」
くるみは繋いでないもう一つの手で、落ち着かせようと鈴村朔の背中をさすった。

くるみは、はっきりとわかった。
もし自分の裸体画がここに登場するなら、確実に心臓が持たなかった。
そこまで想像できていなくて、自分の裸体画を選んで欲しいと願った。

木山悟流が頑なに、くるみの絵をさらしたくない、点数をつけられたくないと言った意味がようやくわかった。

私の代わりに、鈴村朔はコンクールのモデルの役を担ってくれたのだ。

若手画家の名前が呼ばれていき、四枚の裸体画が飾られた。
全て女性を描いた裸体画だ。
残るはあと二枚。
そのスペースが、主役を待つように中央にある。

「続きまして、木山悟流。『海で飛車になる』」

鈴村朔がくるみの手をぎゅうっと握った。
くるみも握り返した。

悟流が前に進み出て、
「木山悟流です。よろしくお願い申し上げます!」
明るい笑顔で大きな声で言い、審査員たちに向けて深くお辞儀をした。

悟流より前の候補四人は小さな声で陰気な雰囲気で挨拶したので、悟流の印象は若々しいオーラがあった。

「海で飛車になる」が中央に飾られた。

飛車駒を持ち、波立つ海を背に立つ美しい男の裸体画に、どよめきが起こった。
魂のこもった情熱的な絵だ。





木山悟流の唯一無二の画家の才能が、余すことなく情熱的に表現されて描かれていた。

審査員たちの盛り上がる熱気で、木山悟流の絵の評価が高いことがわかった。

「最後の一枚です。柿本潤平。『可愛い幻想の女神』」

「はい!」
柿本潤平が大きな声で返事し、前に進み出た。堂々とした顔つきと足取りに覚悟を感じる。

「柿本潤平です。よろしくお願い申し上げます!」

木山悟流を上回る体育会系の学生のような大きな声を出し、華やかな人をひきつける笑顔で、身長のある身体を勢いよく折り畳んで、審査員たちに向けてお辞儀した。

場の空気が変わった。

木山悟流の描いた情熱的な絵とタッチが違い、シャガールを思わせるような幻想的な世界観、鮮やかな美しい色彩、現実と夢想が交錯するような、軽妙で色遣いに才能がある柿本潤平らしさが出た素晴らしい絵だ。

画の真ん中で足を投げ出して空の雲を見つめる可愛い女神は、あおいだった。

美しいあおいの顔立ちにとろけるような純粋さが表情に出て、とてつもなく可愛くて魅力的だ。

画の裸体は胸が大きくて、胸の小さいあおいではないことが明らかだった。

画の女神のあおいを中心に、現実とは違う幻想の世界がちりばめられ描かれていた。

審査員たちは色めき立ち、柿本潤平の描いた「可愛い幻想の女神」をいろんな角度から魅入った。

くるみは振り返って、あおいを見た。
あおいは目を見張って驚きを表している。
悟流が駆け寄って、あおいに聞いた。
「ヌードモデルになってないよね?」
あおいは頷いた。
「コンクールに出すこと、カッキーに許可した?」
あおいは首を横に振った。

審査員の一人が柿本潤平に何か話しかけて、彼は満面の笑顔で丁寧に答えた。

話を終えて下がった柿本潤平の腕を悟流はつかんで、会場の外へ引きずり出した。

くるみは追いかけた。

展覧会の会場の前で、木山悟流が柿本潤平の胸ぐらをつかんでいた。

くるみは身体が勝手に動いた。

木山悟流は柿本潤平を馬乗りに押し倒した。  
 
くるみは全速力で走って飛び込んだ。

馬乗りになって柿本潤平に殴りかかる木山悟流の前に、くるみは小柄な身体を滑り込ませた。

木山悟流はくるみが突然現れたのが視界に入って拳を脇に逃したが、くるみの頬に一部当たった。

くるみは頬を押さえながら、「カッキー会場へ戻って!」と叫んだ。
柿本潤平は身体を逃して、呆然とその場から離れて歩いた。

会場前に佇むあおいと顔が合った。
柿本潤平は、彼女の足下に土下座した。
「あおいちゃん、申し訳ありません!」
あおいは動揺しながら柿本潤平を見下ろした。
柿本潤平は立ち上がり、ふらふらと会場へ戻った。

木山悟流は呆然として、くるみを見つめ、
「あ……当たったよね?」と苦しそうな表情で聞いた。
「かすっただけ」
くるみは頬を押さえながら微笑んでみせた。

くるみは痛んだ頬を背け、木山悟流の拳を両手で包んだ。
「この手は絵を描くためにあるんでしょう? そんなことしちゃだめ」
「……」
「悟流さんも会場に戻って。早く!」
悟流を思いっきり押し出した。

悟流は心配そうな顔をしつつ会場へ戻った。

くるみは会場から離れて歩いて行く。

鈴村朔が駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「見ないで」
くるみは頬を手で隠した。

鈴村朔はくるみの肩を抱いて寄り添い、タクシーへとエスコートした。

くるみは頬の痛みを感じながら切なく思った。 
あおいのことであんなに怒って、悟流は彼女のことを好きなのだろう。

✨✨✨

くるみをアパートまで送った鈴村朔は、心配で寄り添っていた。

拳がかすっただけだと、くるみは言うが、頬は腫れていた。
病院には行かない、大丈夫だと言う。
鈴村朔は買い物へ行き、氷や食材を買った。

くるみのアパートへ戻り、氷を袋に入れてタオルで巻いて、頬に当てさせた。
くるみは痛みと精神的な疲れで、ソファーでぐったり寝そべっている。

鈴村朔はご飯を炊いて、身体が温まるスープと簡単なおかずを作った。

「何か食べられそう?」

「わかんない。さっくんがせっかくつくってくれたから」
くるみはのろのろ起き上がった。

「俺のことは気にしなくていいよ」

「もう少ししてから食べる」
くるみはまた横になった。

「明日、会社は無理だな」

「頬の腫れが無くなるまで、風邪ひいたって言って休む」

鈴村朔は切ない気持ちになった。

もし木山悟流がとっさに拳を逃がさなかったら、このくらいの腫れではすまなかったはずだ。

くるみは飛び込んでいって悟流を守ったのだ。
彼の絵を描くためにある手と、審査会場での彼の立場を。

「さっくんの絵、素晴らしかった。感動しちゃった」

「木山悟流の絵だろ。俺は単なるモデル」

「モデルの魅力が重要なの」

「モデルは二度とごめんだ」

「悟流さん、さっくんのこと絶賛していたから、またお願いされると思うよ」

「もう嫌だ」

意志の強い言い方に驚き、くるみが頬を冷やしながら鈴村朔を見上げると、彼は切ない表情で見つめた。

「気づいているんだろ? 俺が……」

くるみは困った表情をした。
その表情で、鈴村朔は全てをわかった。

「俺が料理が上手いってことを」
鈴村朔はふざけて悪戯っぽく微笑んだ。

「まだ食べてないからわからない」
くるみも微笑んだ。

「明日休むなら、もっと買ってきたほうがいいな。飲み物も冷蔵庫に無かったし。痛み止めの薬も飲んだ方がいい。他になんか欲しいものある?」

くるみは遠慮と欲求の間の表情をした。

「遠慮しないで言えって」

「プッチンプリン食べたい」

鈴村朔は吹き出した。
「了解。買ってくる」

✨✨✨

審査の展覧会が終わり、会場の外であおいが悟流に近づいた。



「さとるん、お疲れ様。嬉しかった。私のために、あんなに怒って」
「あおいちゃんは大丈夫? 傷ついたよね?」
「よくわからないの」
「え?」
「だってカッキーの絵は、顔は確かに私だけど身体は違うでしょう? あんな巨乳で」
「……」
「タイトルが可愛い幻想の女神で、現実の私とは違うような? でも私をめちゃくちゃ可愛く描いてくれたような? とっても素晴らしい絵だった。もちろん、さとるんの絵も素晴らしかったわ。いいライバルね」

柔らかい言い方に悟流の心が和らいだ。
彼女のこういうところが好きだったな、と思った。
 
「コンクールの絵を出品した日の夜、カッキーが家に来たの」
「え」
「自分で自分を軽蔑してるって言ってた。あおいちゃんが困った時、悲しい時、苦しい時、寂しい時、笑わせて欲しい時、俺がいつでも駆けつけるって言ってくれたの。さっぱりわからないけど嬉しかったの」
「……」
「だから、さとるん。話があるっていうの、だいたい予想がつくけど、私を可哀想に思わなくていいからね」
あおいは自然体に美しく微笑んだ。

「最後に私のために怒ってくれて嬉しかった。私のことを尊重してくれているってわかったから」
「……」
「カッキーのことを許してね? またいつか親友になって欲しいな」

悟流は気づいた。
あおいはカッキーにひかれている。
でもカッキーの気持ちはわからない。あおいに対する償いの申し出かもしれない。

「さとるん。お互いの気持ち、ゆっくり話そうね」
「うん。今日はごめん」
「どこか行くの?」
「今度ゆっくり話そう」

悟流は全速力で走って行き、タクシーをつかまえた。

彼の慌てた様子を見送るうち、あおいは信じられない推理の閃きが起こった。

✨✨✨

悟流はタクシーで、くるみのアパートに駆けつけた。

ドアベルを鳴らすと、鈴村朔がドアを開けた。

悟流は驚きつつ「あがらせてもらうよ」と玄関へ足を踏み入れたが、鈴村朔に阻まれた。

「くるみは会いたくないと言ってます」
鈴村朔は悟流を突き飛ばした。

悟流が来るのは想定内だったので、くるみに聞いておいた。
彼女は「悟流さんに顔を見られたくない」と言ったのだ。
今は痛み止めの薬を飲んで、ぐっすり眠っている。

鈴村朔はムカムカしていた。
木山悟流の衝動的な拳のせいで、くるみは傷つけられたのだ。

「ひとめ、くるみちゃんの顔が見たい」
「帰れ!」
鈴村朔は、悟流を押し出した。

「頬が腫れて痛んでいるくるみに伝えることは?」
木山悟流はやはりそうだったのかと衝撃を受ける。

「謝りたい」
「了解。伝える」
鈴村朔はドアの鍵を閉めた。

押し出された格好で、呆然とアパートを離れた悟流は、くるみのスマホに電話した。
彼女は出なかった。

力なく歩きながら、悟流は思い出していた。
審査会場で、くるみと鈴村朔は手を繋いでいた。
二人の距離がすごく近かった。

コンクールを終えて、あおいとの恋人関係を解消してから進みたくて、くるみと連絡をほぼ取っていなかった。

くるみの気持ちは変わってしまったのだろうか?





木山悟流は自宅に戻ると、あおいがアパートの前に立っていた。

「どこ行ってたの?」

悟流が答えずにいると、あおいはきつい瞳で見つめてきた。

「くるみんを好きなの?」


(11話に続く)



イラストを描いてくださった方々です。






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