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ユーロビジョンとLGBTQ+/クィア表象の歴史(1950-1980年代)

はじめに

ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Eurovision Song Contest, 以下ユーロビジョン)は1956年に誕生したヨーロッパ最大の音楽番組です。

ユーロビジョンはお茶の間で家族で見る娯楽番組、そして「LGBTQ+のオリンピック」と言われるほどのクィアの祭典としての性格を併せ持ちます。歴史を紐解くと、ヨーロッパにおけるクィア表象の歴史の一端を垣間見ることができます。

表象:対象となる物事がメディアや文化の中でどのように描かれ、認識されるかということ。

クィアを公表した出場アーティストを全て挙げようとするとそれこそ長文になってしまうので、可能な限り触れつつ、ここでは全体の歴史を通して特に象徴的な瞬間を取り上げていく予定です。

(浅学な筆者のため「これも重要でしょ!」というパフォーマンスがあればコメントいただけると嬉しいです!)


1950年代 〜ユーロビジョンの始まり

ユーロビジョンの運営団体・欧州放送連合(EBU)は1950年に設立されました。50年代はテレビ放送が国際化した時代です。1953年にはエリザベス2世の戴冠式がイギリス国外でも生中継されました。

元々「ユーロビジョン(Eurovision)」という語は各国のイベントを生中継する国際放送網の名称でした。生放送のオープニングにはマルカントワーヌ・シャルパンティエによる17世紀の宗教音楽『テ・デウム(Te Deum)』序曲が用いられました。今ではユーロビジョンのファンファーレとして有名なあの曲です。

50年代当時はあまり知られておらず、ほとんど忘れられていた曲であったと言われています。

1955年にスイス出身のジャーナリストでEBU理事を務めたマルセル・ベザンソン(Marcel Bezençon)が「各国共同開催の音楽コンテスト」という構想を提案します。

1956年、第1回ユーロビジョンがスイスのルガーノで行われました。参加国は7カ国。政治色のないイベントとして企画されていましたが、やはり必然的に第二次世界大戦の記憶が背景に残る時代でもあります。

『De vogels van Holland(オランダの鳥たち)』を歌ったイェティ・パール(Jetty Paerl)はナチス占領下のオランダでレジスタンスに加わり、亡命ラジオ局で「ラジオ・オラニエのイェチェ」として活動していました。

ドイツのヴァルター・アンドレアス・シュヴァルツ(Walter Andreas Schwarz)はユダヤ人として家族を殺され、自身も強制収容所に送られていますが、司令官の一人が偶然幼馴染であったことで辛うじて生還しています。

楽曲『Im Wartesaal zum großen Glück(大きな幸福の待合室で)』はドイツの歴史的反省に対する問いかけの歌として解釈されています。

こうした初回大会においても、すでにクィアの歴史の痕跡として語るべきことがありました。

フランス代表として『Il est là(彼がそこにいる)』を歌ったダニ・ドーベルソン(Dany Dauberson)は、当時の新聞で同性愛関係がスキャンダラスに書き立てられていました。

フランスのナイトクラブ歌手ダニ・ドーベルソン(26歳)は、フランスの美人コンテスト主催者ギー・リナルドが歴代優勝者を伴って行った地中海クルーズで「ミス・レスボス」に選ばれた。授与はアテネのアクロポリス近郊で行われた。彼女はフランスの俳優ジョルジュ・ブレアがイタリアの令嬢ジョヴァンナ・ピニャテッリ(26歳)と離婚を望む原因にもなっている。ブレアによれば、1954年から結婚している妻が明らかにダニ・ドーベルソンとの親交の方を好んでいるというのである。

「デア・シュピーゲル」誌, 1960年2月16日
https://www.spiegel.de/politik/dany-dauberson-a-6d7c3a61-0002-0001-0000-000043063357?context=issue
レスボス島は「レズビアン」の由来になった地名

ドーベルソンは1967年に自動車事故で重傷を負い、同乗していたパートナーのニコル・ベルジェ(Nicole Berger)が死亡したことの精神的ショックもあり、歌手としてのキャリアを終えてしまいます。

50年代にはその後も、当時は意識されることのなかった、しかし今見ると大きな節目が1958年に刻まれています。

「シャンソンの貴公子」と呼ばれたフランスのアンドレ・クラボー(André Claveau)は、20世紀前半のミュージック・ホールで同性愛を公にする歌手の一人として知られていました。(戦後は時代状況の変化から隠すようになったため、カミングアウトした人物とは捉えられていません)今のところ史上初のクィアのユーロビジョン優勝者ではないかと言われる歌手です。

曲名は『Dors, Mon Amour(眠れ愛しい人よ)』。同年の出場曲には日本で「ヴォラーレ」として有名なドメニコ・モドゥーニョ(Domenico Modugno)の『Nel blu, dipinto di blu(青く塗られた青の中)』がありました。

1960年代 〜暗示する時代

1960年代はロンドンで起こった文化現象を指す「スウィンギング・シックスティーズ(Swinging Sixties)」という言葉があるように、若者文化が花開き、音楽やファッション、生活のあり方に様々な革命が起こった時代です。

画像はTEYXOの記事から
イメージが分かりやすいため拝借です

ポップスの多様化の中で「ユーロビジョン・サウンド(Eurovision Sound)」と呼ばれる個性が見られるようになるのもこの頃です。キャッチーなメロディやドラマティックな変調、ひねりのあるユニークな歌詞などが特徴です。

代表例として挙げられるのはフランス・ギャル(France Gall)の『Poupée de cire, poupée de son(邦題:夢見るシャンソン人形)』やサンディ・ショー(Sandie Shaw)の『Puppet On A String(あやつり人形)』など。

60年代は光も濃ければ闇も濃い時代。上記2作は現在の視点から見ると「人形」をモチーフとして、当時の若い女性歌手を取り巻くジェンダー構造を反映した作品にもなっています。

『Puppet On A String』は60年代ロンドンを舞台にした映画『ラストナイト・イン・ソーホー』でも芸能界の性的搾取を描く場面で登場します。サンディ・ショー自身も性差別的な歌詞をあまり気に入っていなかったと後に述べています。

ただ、ジェンダー表象という点ではささやかながら見逃せない一歩があります。ノルウェーのオーセ・クレベラン(Åse Kleveland)は1966年、ユーロビジョンで初めてズボンを履いて(ついでにギターも抱えて)歌った女性となりました。

60年代においては、まだ多くの国で同性愛は違法であり犯罪とみなされていました。(例えばイングランドでは1967年、ドイツは東西それぞれ1968、1969年に合法化されています)

そのような時代背景の中でクィア表象は直接的ではなく、あくまで「そう読み取れる」形で出現します。明言せずにクィアを暗示することをクィア・コーディング(queer coding)と呼びます。

クィア・コーディングについてのドキュメンタリー。クィア・コーディングはヘイズ・コード(Hays Code)という倫理規定のあった映画業界において、様々な形で用いられた手法でした。

現在、ユーロビジョンにおけるクィア・コーディングの最初期の例と理解されているのがジャン=クロード・パスカル(Jean-Claude Pascal)『Nous les amoureux(私たちは恋人同士)』です。1961年の優勝曲です。

曲の歌詞を見ると、社会的に認められず秘密にするしかない恋愛を歌った内容になっています。

Nous, les amoureux – on voudrait nous séparer
私たちは恋人同士、人は私たちを引き離そうとする
On voudrait nous empêcher d’être heureux
私たちが幸せになるのを許そうとしない
Nous, les amoureux – il paraît que c’est l’enfer
私たちは恋人同士、そこにあるのは地獄か
Qui nous guette ou bien le fer et le feu
または剣と炎が私たちを待ち構えている
(…)
Nous les amoureux – le soleil brille pour nous
私たちは恋人同士、太陽が私たちを照らす
Et l’on dort sur les genoux du Bon Dieu
そして私たちは神の膝元で眠る
Nous, les amoureux – Il nous a donné le droit
私たちは恋人同士、神が権利を与えてくれた
Au bonheur et à la joie d’être deux
二人でいる幸せと喜びを得る権利を

Jean-Claude Pascal "Nous les amoureux"

登場人物の性別には触れられていません。フランス語は主語の性によって語が変化しますが、この曲では「nous(私たち)」や「on(私たち)」といった中立的な主語が注意深く用いられています。意図的な曖昧さの残る歌詞は異性愛規範を超えた共感を集めました。

ジャン=クロード・パスカル自身もゲイであったと言われていますが、生涯カミングアウトすることはありませんでした。当時のルクセンブルクやフランスで同性愛は犯罪ではありませんでしたが、タブー視する風潮は残っていました。

フランスでは前年の1960年に公然わいせつ法が改正されています。これにより公の場で同性愛とされる行為や異性装を行った場合の罰則が重くなり、警察による弾圧の対象になりました。(この法律は1980年まで有効でした)

政治家ポール・ミルギュによる修正条項

[ポール・ミルギュ]皆さんも同性愛という災厄の深刻さをご存知でしょうから、長々と述べる必要はないと思います。私たちは、この災厄から子どもたちを守る義務を負っています。

フランス国民議会議事録, 1960年7月18日
https://archives.assemblee-nationale.fr/1/cri/1959-1960-ordinaire2/060.pdf

1970年代 〜キャンプの定着

1970年代は時代背景としてゲイ解放運動(Gay liberation)の幕開けに重なります。ポップカルチャーの舞台ではグラム・ロック(glam rock)の流行により中性的なファッションが広がります。

初期のクイーン(Queen)
ランナウェイズ(The Runaways)

70年代のユーロビジョンを語る上で欠かせないのが、1974年のABBA(アバ)による『Waterloo(ウォータールー)』の優勝です。力強いギターリフやアップテンポな曲調はそれ以前の優勝曲のイメージとは異なり、またビジュアル面ではきらびやかな衣装やトゲトゲのギターなど、グラム・ロックの影響を見ることができます。

70年代は参加国の増加などから視聴率が徐々に拡大し、ユーロビジョンが大衆的になっていった時代と言われています。保守的な見方からすれば「大衆に迎合した」「下品になった」ということになりますね。ノリのいいディスコやロックの存在感が増します。

ユーロビジョンにおけるディスコ・ナンバーの先駆けとなった、1978年のイズハール・コーエン&ジ・アルファベータ(Izhar Cohen & The Alphabeta)による『A-Ba-Ni-Bi』

派手な衣装、ダンス、過剰な演出などが現れ始め、いわゆるキャンプの美学に接近していったと言い換えることもできます。

キャンプ(camp):主にゲイカルチャーの美意識を説明するための言葉。大げさに誇張された振る舞いや、装飾が過剰なケバケバしいファッションなどに代表される。

この流れは、ユーロビジョンがさらに派手でカラフルでポップになっていく80年代へと繋がっていきます。

1980年代 〜テレビ時代とエイズ危機

1980年代はMTV(一日中MVを流し続けるケーブルテレビ)の影響で音楽が「聴く」ものから「観る」ものへと変化していきます。視覚アピールの重要性が以前にも増して高まりました。

MTVで放送された最初のミュージック・ビデオ、バグルス(The Buggles)の『Video Killed the Radio Star(邦題:ラジオ・スターの悲劇)』

ユーロビジョンで今も語り草になっているようなおもしろ系のステージもだいたいこの時期から現れ始めます。

ユーロビジョンにおける奇抜なステージの最初期の例として挙げられることの多い、1980年の双子デュオ・ソフィー&マガリー(Sophie & Magaly)による『Papa Pingouin(パパ・ペンギン)』

1986年にはユーロビジョン出場曲における初のドラァグ・パフォーマンスが登場します。ノルウェーのケティル・ストッカン(Ketil Stokkan)『Romeo(ロミオ)』でバックダンサーを務めたのはグレート・ガーリック・ガールズ(Great Garlic Girls)というグループのドラァグクイーンでした。

厳密に言うと、ユーロビジョン全体を通した初のドラァグ・パフォーマンスは1973年ルクセンブルク大会の幕間の余興に登場したクラウンのチャーリー・リベル(Charlie Rivel)だったりします。

80年代はエイズ(AIDS)危機という大きな出来事がゲイ・コミュニティを襲いました。世界的に拡大したHIV/AIDSの流行は、感染症の恐怖だけではなく社会的な偏見も煽る結果となり、暗い影を落とす時代となってしまいました。

エイズ危機の黎明期を描いた映画。脚本家ラリー・クレイマー(Larry Kramer)の実体験をもとにした作品です。

ジンギスカン(Dschinghis Khan)のメインダンサーとして知られる南アフリカ出身のルイス・ヘンドリク・ポトギーター(Louis Hendrik Potgieter)は1994年にエイズ関連の合併症で亡くなりました。

余波は楽曲の中にも残されています。オランダのゲイ・アイコン、ウィレケ・アルベルティ(Willeke Alberti)による『Waar is de zon(太陽はどこ)』について、作詞家のコート・ファン・ドゥースブルフ(Coot van Doesburgh)は「エイズで亡くなった友人を看病した経験から歌詞を書いた」と後に述べています。

ウィーンで行われる世界最大級のエイズ・チャリティイベント「ライフ・ボール(Life Ball)」は1993年に始まって以来、ユーロビジョンとも半ば連携した関係性を築いてきました。2007年にはオーストリアのエリック・パピラヤ(Eric Papilaya)『Get A Life - Get Alive』が公式テーマソングに選ばれています。

まとめ +その後のカミングアウト

1950年代から1980年代までを見てきました。現代の目線から見ると、クィア表象という点では流石にまだ限定的な範囲に収まっているように見えるのではないかなと思います。

この時期に出演したアーティストの中には、その後何年も経ってからカミングアウトした人もいます。彼らの存在は、ユーロビジョン史の序盤にも多様なセクシュアリティが確かに存在していたことを伝えてくれます。

ここでは前半の終わりとして、できるだけそうしたアーティストをピックアップしていきたいと思います。

1959年、1961年にベルギーを代表したボブ・ベニー(Bob Benny)は2001年になって、ゲイであることをカミングアウトしました。

『Hou Toch Van Mij(どうか私を愛して)』

『September, Gouden Roos(九月、黄金のバラ)』

1968年にオランダを代表したロニー・トーバー(Ronnie Tober)は1998年に、ユーロビジョン出演当時から交際していた同性のパートナーと結婚しています。

『Morgen(明日)』

1973年にスイスを代表したパトリック・ジュべ(Patrick Juvet)は自身の性的指向を隠してはいませんでしたが、2005年に出版された自伝で改めてバイセクシャルであることを述べています。

『Je vais me marier, Marie(僕は結婚するよ、マリー)』

1976年にルクセンブルクを代表したユルゲン・マルクス(Jürgen Marcus)は1991年、ドイツのポップミュージック界で初めてゲイであることをカミングアウトした人物となりました。

『Chansons pour ceux qui s'aiment(愛し合う人々のための歌)』

1983年、1991年(この時は優勝)、2006年と3度スウェーデンを代表したカローラ・ヘグクヴィスト(Carola Häggkvist)は2000年代初頭に同性愛嫌悪ととれる発言で物議を醸していましたが、2014年のテレビ出演の際、女性と恋愛関係にあった経験を告白しています。後にこれから女性と交際する可能性を尋ねられ、「あり得る」と回答しています。

『Främling(見知らぬ人)』

『Fångad av en stormvind(激しい風にとらわれて)』

『Invincible(無敵)』

同年1983年のオーストリアのグループ・ウェストエンド(Westend)のメンバーだったハンス=クリスチャン・ワグナー(Hans-Christian Wagner)はゲイであることを周りに隠していませんでした。グループメンバーは当時を回想して、「彼はユーロビジョン前後を通して、むしろセクシュアリティを公然と表明していた」と語っています。

『Hurricane(ハリケーン)』

そこから読み取れるのは、前半世紀のユーロビジョンにおいてクィア表象を認めることが比較的難しいもう一つの理由です。アーティストがアイデンティティをオープンにしていても、そもそもメディアが報道しなければ広く共有されることはない、ということです。

個々のアーティストが発信力を持ち、視聴者もまた言論に参加できるようになるにはさらにその先の時代を待たなければなりませんでした。

ユーロビジョンのあり方が激変する90年代、2000年代以降については後編へ続きます。

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