☆51.「歴史の授業は"本物"を見せろ」というアドバイスにモヤモヤした話。
おはようございます。
ノマドニアの講座会場に現れる猫ちゃんがすっごくかわいくて、ずっと撫でちゃう猫アレルギーこと私です。最近やっと晴れる日が増えてきたので、どんどん撫でたいですね。かわいい。

話がそれました。
今回は「”授業は本物を見せるべき”にモヤモヤした話」というテーマで、15年間教員をやってきた中で「本物を見せる」ということに対してずっと考えていたことを書いてみます。
もちろんただの一意見ですので、それぞれの考えがあることは当たり前で、私の考えが正しいわけでも誤っているわけでもないし、皆様の考えが正しいわけでも誤っているわけでもない。そして教えている対象や環境、性質によっても変わりますからね。
いわゆる一般受験を目指すクラスは一切教えていなかったのでこのスタイルに振り切れたところもあります。それを前提に置きます。
授業の持ち物は「想像力」だけでいい。
私の15年の教員生活の後半半分は、とても一般的に「授業」と呼べる代物ではありませんでした。演劇を始めたこともあってあらゆる小道具を駆使して「感じてもらう」ことに重きを置きました。先輩には”実写版日本史”なんて呼ばれましたが、まさしく私にとって教室は日本史を演じる舞台であり……否、教室だけでは収まらずに廊下や外にはみ出していました。(その節は大変ご迷惑をおかけしました!)
歴史科目は、言ってしまえば「誰も真実を知らないもの」を教えるという狂気の科目。残された貴重な実物を除けば、本物は存在しないに等しい。だからこそ想像力が必要だし、どれだけ語っても教科として学んでも、”本や画面の向こうの世界”から脱せない。「同じ世界にあった、空気を震わすもの」としての感覚がなければ、それは絵空事で終わってしまう。だから可能な限り代用品を集めて、同じ世界のものであるかを実感させることに重点を置きました。
なので私は「歴史の授業の名を借りた”道徳の授業”」を展開してきました。歴史そのものは今後の新発見であっさり覆る。聖徳太子が厩戸王になったように。鎌倉幕府成立年がコロコロ変わるように。だから覚えることに意味を見出しておらず、むしろ歴史を見ていく中で学ぶべきは世の中の仕組みとバイアス、人間の構造にあると考えていました。
そのためには、想像力が欠かせない。目の前にそれがあると想像する力。それさえあればいい。あとはこちらが、彼らを想像の世界に引き込むための”物語”を用意する。極端な話、空欄穴埋めなんてしなくてもいいとさえ思っています。
本物を使えるに越したことはない。
もちろん、使うものが本物であるに越したことはありません。ただ学校の特性によっては安全性や破損のリスクもあるので、そこはケースバイケース。私の場合は比較的落ち着いた高校生が対象だったため、色々使えたのは幸いでした。
私が主に使っていた本物は「石器」「貨幣(寛永通宝)」「繭玉」「綿糸」「軍票(紙幣)」「古新聞」「国旗」の大きく6つ。復刻版ですが尋常小学校の国語と修身の教科書も使っていましたね。古新聞はたまたま祖父宅に眠っていたものですが、それ以外は安価に揃えられるし、触って壊れても問題がない。
石器は実際に紙を切らせたり、綿糸から糸を作ってみたり。軍票は質が悪いことを利用して「偽札が混じってるぞ!」と、お札の透かしを探させることで経済における信用の大切さを感じさせたり。軍票だけはそもそも質が悪いこともあってジップロック的な袋に入れて使用していましたが、それ以外は基本、直に触らせていました。
というのも私は「使うことができないものを”(授業においては)本物”とは認めない」というスタンスをとっています。本物を"見せたい"のなら博物館でいいし、本物に価値を見出せるのは「興味を持った後」だと思っているからです。
私は曽祖父が日露戦争に従軍した時の写真も史料として使いました。私は教科書に載っていない様々な写真を使いましたが、彼らからすれば教科書の写真と変わらない。私はその"認識のずれ"を利用して、授業プリントに曽祖父の写真をあたかも史料かのように載せていました。タネ明かしした後に「落書きしました」と謝りに来た生徒は一人や二人ではありません笑 でも彼らにとってはそこが、歴史と自分たちが繋がった瞬間なんです。
映像資料を「本物」と呼ぶことへの強烈な違和感。
最近では教育のICT化も進み、電子黒板を用いて映像授業を展開することも増えてきたと思います。それ自体はすごくいいこと。授業の幅が広がって、メリハリもつけやすくなりました。ただ同時にモヤモヤすることがあって、それは「映像資料を”本物”として扱う」ことへの違和感でした。
理由はふたつ。
ひとつは、直接触れるもの、同じ空間にあって空気を震わせるものを「本物」と定義する私とは相性が合わなかったこと。歴史と現代が繋がっていることを認識するためには、いわゆる五感すべてが必要だと考えています。映像は補足資料としては優秀なのですが、メインにするには力不足。結局は「画面の向こうの話」以上に身近にすることはできません。
ふたつめは、映像資料はその多くが恣意的に作られたものであるということ。ニュース映像は特に危険で、メディアという商売である都合上、構造的に感情を煽るよう設計されています。メディアが悪だなんて論じるつもりは微塵もありませんが、こと授業という拒否権のない状況で見せるにはマイナスパワーが強すぎます。だったら映画を見せる方がエンタメに少し寄せられる分まだマシだと思っています。
映像資料の使い方で一番最悪なのは「教師が意図した感想を持ってもらうために映像を使う」こと。賢い子は気づいて醒めるし、素直な子は「大人の言うことを聞く子=自分の意思を持たない子」になってしまうし、不真面目な子は無理やり見させられて傷を抉られる。大人はそれで教えた気になって成長しない。誰も得しないんですね。
私はほぼ毎年、太平洋戦争の短編アニメ(松本零士『THE COCKPIT』)を見せて、感想を「”戦争”というワードは使用禁止」というルール書いてもらう授業をしていました。戦争なんていう画面の向こうの話ではなく、血の通った自分の言葉で書いて欲しかったからなのですが、まずルールを守れない子が過半数。責めているのではなく、それくらい「戦争は"悲惨と書くもの"」ということが染み付いてるんだなと、壁の高さを思い知らされていました。
血の通った偽物か、見せるだけの本物か。
自分で言うとすごくカッコ悪いですが、私は「血の通った偽物は、見せるだけの本物に勝る」と信じています。そうでなければ、演劇というジャンルが2000年の時を超えることはなかったはずですから。
目的は実感してもらうことであって、本物を見せることではない。”実写版日本史”の授業をしていく中で、アドバイスとして「本物を見せたらいい」と何度も言われましたが、見せるだけの本物にどれほどの意味があるか。そして見せるだけの本物なら、教室ではなく博物館で授業をするべきで、そうなれば教える人は教師ではなく学芸員さんでいい。
授業で本物を使う目的は、そこから何かを感じ取って欲しいからだと思うんです。だったらそこで使うものが必ずしも本物である必要はないと考えています。本物を見せることが目的であれば見せればいいと思いますが、本物から何かを感じ取れる人は「興味がある人」だけ。興味ない人にとっては本物は「ただの石ころ」と変わらないか、せいぜい「これいくらで売れるんだろう」が関の山。私は偽物を使って本物を演じ続けることで「興味を持つきっかけを作る」ところに全力を注ぎました。
3年間も暮らすんだから、楽しい場所にしたいじゃない。
おもちゃの刀や拳銃、大仏の被り物、能面……色々持って行きましたし、できることなら鎧か袴で授業したかったくらい。”ええじゃないか”で札束(百均とかにある偽物です)をばらまき、散々遊んだ後でみんなで掃除したり。時には生徒を共犯者にして奇襲させたり。生徒を巻き込んで散々遊んで、その上でそこから得られる教訓や核心の話をするのが理想型でした。
勢い余ってヒヤリハットしたり、私が怪我をしたこともあるので加減は必要です。が、授業に興味を持つきっかけなんてくだらなくていいんです。モテたいからギターを始めるのと同じ。
仮に学ぶきっかけにならなかったとしても、授業で笑ってくれればそれでいい。学校が楽しい場所なんだって思ってもらえればそれでいい。アンダークラスの無気力の塊みたいな子が「生まれて初めて平均点以上取った」って目を丸くする姿は、今でも忘れられないくらい嬉しいことでした。
進路を決めるより夢を持つことが先で、夢を持つより明日に希望を持つことが先で、明日に希望を持つより今日笑うことが先。だから今日笑うことが何よりも大切だと私は考えていました。
生徒は通う学校を変えることができません。だから、せめて私が教える子たちにだけは楽しい姿を見せたかった。一人の力では教育の常識を変えることはできないけれど、せめて授業の教室の中だけでもね。
学校は、偽物には辛い環境。
色々語ってきましたが、私は現状、教師ではありません。
これが答えです。どうあがいても”異物”であることに違いはありません。学校側がこうした不安定要素の強い人間をリスクと考えることはとても自然だと思っていて、何より「切る」ことができるのはむしろ尊敬します。
偽物は所詮偽物です。ヒーローショーだって、「中の人」がいます。そんなことは誰でも知っています。けれど、偽物だってヒーローはヒーローじゃないですか。私は空っぽの本物になるくらいなら、血の通った偽物でいたい。少なくとも教師としてはそれを貫けたと思っています。
同時に、私にはまだまだ学ばなければならないことがたくさんある。だからこそ今を生きる生徒たちと同じ立場でいられるんです。現実を変えるにはまだまだ力が弱いことを自覚している。だから同じ目線に立てて、同じ方向を向いて歩んでいけると思っています。
なにより、偽物に血を通わせるにあたって、学校の教室はあまりにも狭すぎた。世界に飛び出したのはある意味、自分の心の赴くままに動いた結果で、それくらい大きく飛び出してみたかったのかもしれないなと今では思います。ジョージアでの生活は後悔してないし、もっと旅をしたいです。
今が一番幸せ。
信じられているから走るのだ。
間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。
私はなんだかもっと恐ろしく、大きいもののために走っているのだ。
子供は大人の言う通りにはならないが、する通りになる。
今の私を象徴する言葉です。
何をしているかは関係ないし、面白いと思ってやらない理由がない。やりたいことを優先できる。怖いことに挑めばいい。失敗したらしたで、しくじり先生よろしく話せることが増えるので得が大きい。
そう思ったらすごく気が楽になったというか、少なくとも悩むことはめっきり無くなりましたね。まだ迷いが出ることはあるし、苦しい瞬間は多々あります。それを友に話したら「それは成長痛だね」って言われました。そうかこれが乗り越えるものってやつなのか……と面白くなってきました。
私の周りには挑戦者しかいないから、私がヌメヌメ立ち止まることは色々な意味で許されません。人生は夜明けが一番しんどい。これもまた夜明けなのかもしれませんね。色々な人と関わる中でもらったチャンス、飛び付かなきゃ嘘でしょ!
なりふり構わず 真剣にやっていると 誰かが笑ってくれる
99人が馬鹿にしても、1人が笑ってくれたら、それでいいじゃねえか
ここまで読んでくださった皆様に、素敵な朝日が昇りますように。
……
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