自動記述と自分。|随筆
発熱その他で臥せっている間に色々を持て余して書いた、自動記述に関したいわゆる長文自分語りです。
恥ずかしくなったら、ものも言わずに削除します。
自分の観測範囲内ではありますが、自動記述の投稿数がじわじわと増えていて、嬉しく思ったり、応援などの気持ちを込めてハートマークを置き逃げしたりしております。
筆者さまによる自動記述についての楽しさや難しさを始めとした「実際に書いてみると……」というお話もとても興味深く、ならば自分もひとつ書いてみるか、と気を向けた次第です。
わたくし個人の自動記述に於いては、行なう際に感覚が「閉じている」ときと「開いている」ときがあります。
此処でいう感覚の開閉とは言葉を脳に迎えるにあたったセンシティヴィティを指し、いわばアンテナのような部分の具合にあたります。体調・精神状態・その他に因って受信量またはその内訳に多少の異なりが発生するのです。
「閉じている」ときは多くが自分の手の中だけで完結するため可動域がある程度限られており、単語が手を引いて連れてくる次の言葉との整合性が潜在意識で組まれている場合もあります。
いっぽう「開いている」ときは普段使いをしていなかったり馴染みのない言葉もそうでないものも引っ切りなしに飛んできて、溺れてしまわないように息継ぎをするにも必死の状態です。
開閉に関わらず自動記述は可能で、どちらでも肩の力を抜ききった状態で書いております。特別な意識や技術を要するでもありません。その時その瞬間に『そこにあっただけ』のものを出力しているという仕組みですから。
記事編集画面を開いた瞬間に『そこにあった』語句を入力したところを起爆点として、手品の万国旗の如く文字通りにまさしく自動的な連なりが発生してゆきます。
わたくしの自動記述の中に有る「正気・現実」と「狂気*・幻想」の配分は模倣がきっと難しく、わたくしもまた、他の人の配分の真似ができない。
(*この「狂気」とは結果の雰囲気が含んだ単純な『現実や整合性とのズレ』と受け止めてください)
センテンスが一見華美であれ、平仮名の羅列のみであれ、瞬間的なものを文字にして追い出せばそれは自動記述と云うことに変わりはない筈。
読んでいて心地よい自動記述作との出会いの要は恐らく運と相性であり、詩や小説だとかエッセイに日記その他、あらゆる書き物または創作物に触れるときと同様かと思います。
自動記述という手法を知った切っ掛けも偶発的なものでした。現在はアカウントごと削除していらっしゃる方ですが、たまたま開いたnoteに記された不思議な世界に一目で惹かれ、お姿が見えなくなるまで投稿に注目しておりました。
2021年頃当時、試しに書いてみて満足してから何年も空白を置き、不意に再び書いてみようかなと思い付いたのもまた偶然。今ほど継続できるとは、そして本の形にする日さえ来るとは、過去には考えてもみませんでした。
「運命」または類する表現の普段使いはあまり好まない性質ではありますが、少し、信じてみてもいいかもしれませんね。
これにて無粋な語りはお終いです。お付き合いくださり有り難うございました。
数ある出会いの中から当noteを選び、お越しくださる皆様に感謝を込めて。
……『脳洗浄』にこういった内容のあとがきを用意していればよかったですね。時すでに遅し。🍣
続編
■ 「開いて」いる自覚があった日の記事
■ 「閉じて」いるかなと思った日の記事
