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『シェルター』 第1話

シェルター
MRT

 午後七時、学校を出る。自転車に乗ると、冷たい風が耳にあたって気持ちがいい。冬の冷気は好きだ。前から吹いてくる冷たい風が、自分を通り抜けていくとき、その日にあった未消化の出来事も、自分の背後に置き去りにできるような気がしてくる。

 信号を待つと、解いた髪が首もとに帰ってきてくれる。暖かい。かじかんだ指に息を吐いて、いっときの憩いを得る。ハンドルを持ち、ペダルを漕ぐ。そこそこ混み合った往来に気をつけながら。難しそうに見えて、実はそれほど集中を必要としない、機械的な作業だ。今日のような落ち着かない日には、気を紛らすのにちょうどいい。

「じゃあユウ、また明日ね!」
「うん、またね、ショウ」

 ショウの挨拶でわれにかえる。たまたま、部活帰りだったショウと駐輪場で会って一緒に帰っていたのだった。中学で同じ陸上部だったショウは、はっきりした性格が付き合いやすいし、明るい性格だ。他愛のないことを話しながら、ショウは私の右側を走って、そのまま信号を右折して別れた。交差点で別れたときにふと気づいた。私は完全に上の空で、相槌を打つ一方だった。ショウはさっきの私のこと、変だと思わなかっただろうか、と気になった。でも、ショウは気が置けない人だし、そのことで腹を立てたりはしないだろうと思い直した。

 信号が変わる。一人で風を受けると、頭の中のファジーな靄の奥から、冴えた思考が戻ってきてくれる。信号待ちをしているときに、それとなく待つ人の顔をのぞいてみる。私と同じだ。身体は家路をたどりながら、頭はとりとめのないことを考えている。この街だけでも何万人もの人が、今この時間、同じような状態にある。今日これからのことや、これまでのことを何となく考える時間の中にある。そう考えると、何だか不思議な感じもする。

 信号を待つ。学校を出た時に見かけた車も、私の隣で信号を待っている。都市の車通勤は大変なんだな。結局、自転車とかかる時間が変わらないんだ。この信号を渡ったら人通りの多い大通りは終わり。一本入った少し薄暗い上り坂に差し掛かる。帰り道の中でいちばんの難所だから、この信号にいたるまでの体力の配分を考えながら帰る打算は、もう体に染み付いている。坂を登りきったところに私の家、古い頑丈さが取り柄のマンションはある。

 最後の坂は結構、きつい。初めて見た人はみんな驚く。街の中にこんな坂があったんだね、とか。ショウは、この坂があるから、ユウは足が速いんだね、とか、むかし言ってくれたっけ。中学の頃は、この上り坂を一息で上がることができたら、何かいいことがあると思って運試しのように登っていった。高校に入ってからは、もう久しく、登りきっていない。

 とぼとぼと自転車を押して100メートルくらい歩ききる。マンションの一階部分だけが暗く、他の部屋はみんな明かりが点いていた。一階には小さなカフェが入っている。名前は「MARS」。私が小学校の2年か3年の頃、ここにオープンした。最近になって、インスタを通じて有名になりつつあるらしい。ローカル番組にも取り上げられたりしている。私は、行ったことはない。お菓子や最近の流行に鋭い友達からは、羨ましがられたもする。でも実際、近くに住んでいたって、そんなに行く機会はない。カフェのインスタ映えするケーキは、お小遣いで気軽に食べに行けるほど安くはないのだ。

 家の鍵を取り出しながら、エントランスを通り抜け、ふと横目に「MARS」の方を振り返ると、「バレンタインフェアー」の広告が出ている。表のショーウィンドーではなく、その横にさりげなく。このマンションに用がある人しか見えないような、微妙な位置に貼ってあった。いつ貼り出されたのか、全く気づかなかった。全体は白地の縦長の長方形、ピンクのハートの透かしの上に、カタカナで大きく「バレンタインフェアー」、その下に期間、1月20日から1ヶ月間。インスタ映えで話題になる店とは思えない、何というか、ダサいなと思った。経営難の店なんかを専門家が介入して立ち直らせるテレビ番組を見たことがあるけれど、位置といいデザインといい、コメンテーターの経済学者だか心理学者だかに集中砲火を浴びそうな広告だ。そんなことを思いながら、エレベーターに乗った。

 最上階から一つ下の、十一階に私のうちがある。「11」の数字が薄いオレンジ色に点灯するとき、はっとした。忘れていたことを思い出した。そうだ、今日は特別な日だった。背中がぞくっとする。急に、胸が苦しくなった。家のドアの前で大きく深呼吸をした。ドアノブを持つ手が、汗ばんでくるのを感じた。少しいつもより明るい大きめの声で、「ただいま」と言った。

 おかえり、と母は優しくいつものように私を迎えてくれた。

 それから、お互いが疲弊するまで、私は2時間ほど詰問された。

 私は、おそらく優等生だとみんなに思われている、今も、昔も。小学生の頃から、何かとクラスのまとめ役だった。中学では陸上部で短距離の選手だったし、成績はその頃も今も上位の方だ。別に、リーダーになりたいとかそういう気持ちを抱いたことはない。どちらかといえば、いつも、そんなに目立ちたくないと思っていた。ただ、小学校の頃から、教師に頼られていることを感じることは多く、その期待を裏切ってはいけないような気持ちがあって、誰もなり手がなければ、私が学級委員などのまとめ役を買って出た。高校一年の今のクラスでも私はやはり、いつの間にか委員になっていた。

 ときどき、私はみんなに気を使わせている、と感じることがあった。私がいるところでは、何となく、みんな思い切りはしゃいだり、バカをしたりしづらそうだった。理由はよくわからないまま今日にいたっている。先生とつながっている、と警戒されているのかもしれない。昔、小学校の頃に仲が良かった友達に、そんな寂しさを打ち明けたことがあったけれど、「ユウは可愛いから」、と一言返された。私にとってそれは答えになっていなかったけれど、そのとき以来、この件については誰とも話したことがない。

 今日は、そんな私がピアスを開けた日だった。学校を出る直前、ドン・キホーテで買ったピアッサーで。一人で鏡を見ながら教室で。誰もいなくなる時間を見計らって。ほぼ出入り自由の体育館の製氷機から氷を抜き取って。左耳の感覚がなくなるまで冷やして。そして、やった。大した事件じゃなかったはずなのだけれど、まるで計画的大犯罪に及ぶ人のような気分だった。

 寝る前、鏡をながめた。金属が身体を貫通しているのが、人ごとのように不思議な感覚だった。母に似た大きめの耳たぶは、鉛色のファーストピアスに貫かれ強く圧迫されている。赤い耳たぶから、不意に幼児のふっくらした肌を連想すると、急に鉛色のピアスが悪者に見えてきた。純真無垢な何かを押しつぶす鉛。耳たぶは、強い支配力に苦しみつつも、声を上げられない無邪気な子どものようだなと思った。ズキズキ疼いて、少し寝つきが悪かった。


第2話につづきます、週1更新予定)

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