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「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」③ -豊橋に眠る古代と神話の交差点・愛知県豊橋市-吉田城・豊橋公園・飽海神明社

②の続きです。

前回までのnoteはこちら↓
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」①
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」②


歴史素人の倶楽部活動ですので、色々と間違って記述してしまうこともあるかもしれません…。予めお伝えしておきます。
(余裕があれば、間違いご指摘など、教えてくだされば幸いです)

石垣と刻印

吉田城へ入る前に、まずは江戸時代の2度の地震にも耐えた、現存する城内最古の石垣を見ることにしました。

目的の石垣と刻印。

吉田城パンフレットより


親切に案内してくださった

早速、事前にDLしておいた上記のパンフレットを元に刻印探しをしようとしていたら、吉田城前にいた案内のおじさんが来てくださり、自然な流れで案内してもらうことに。親切にどうもありがとうございました。

正直、案内してもらわなければ、素人には到底見つけられない刻印ばかりでした。


一文字鱗


山田

2023年に、本丸正面入り口に築かれていた石垣の解体修理工事を進めていて、これまで隠れていた刻印13個が新たに見つかったらしい。
そのうちの1つである「山田」の刻印が刻まれた石垣。

吉田城築城の経緯を知る重要な手掛かりとなるらしく、名古屋城(名古屋市)築城とも関連があるのでは、とのこと。

浪漫が広がります。

凄いものが、ラフに置かれ過ぎているのも、またいい。

北御多門跡にある刻印。お分かりいただけるだろうか。


先ほどの写真、左上部の石垣に刻まれた十字

パンフレットに載っていない刻印も沢山案内していただいた。
丸で囲まれていない「筆文字の十」は島津藩の家紋と仰っていたかな。

島津十字(しまづじゅうじ)、島津十文字とも、単に十字紋とも。
漢字の「十」を図案化したもので筆文字のものを指します。

丸に十字に変更される前の島津家の定紋とされています。

キリスト教伝来よりも古くから使用されていた家紋であり、
十字架の影響を受けたという説の信頼度は低い。

引用:KAMON DB

島津十字紋は、十字を筆で書いたように描く

薩摩鹿児島藩島津氏鎌倉時代より使用していた家紋ということで『島津十字』『島津十文字』と呼ばれる。

十字紋については、「日向記」に源頼朝が出陣の日、
箸を取って十字の形を作り、家紋とするようにいったとある。

ちなみに、江戸時代以降は『丸に十字』が定紋となった。

引用:家紋のいろは


「島津藩」の刻印を目にしたとき、不意に一つの夢を思い出しました。
それは、とてつもなく荒唐無稽で、それでいて胸の奥に深く残っている夢です。

与太話ですが、せっかくですので、ここに書き残しておくことにします。




夢の話

それは、もう何年も前―
2015年か、2016年ごろだったでしょうか。
私の心に、今もかすかに痕跡を残す、不思議な夢のひとつです。

私は夢の中で、九州のどこかにある「島津」という家に売られました。
女中としての奉公だったのか、
あるいは、そこは廓のような場所で働くためだったのか―

その区別さえ、夢の中でも曖昧で、霧の中にぼやけたままです。

その家の者と思しき人影―
男だったのか女だったのかさえも分からず、
ただ、まるで墨絵のように輪郭だけが揺れていたのを覚えています。

私はほかの少女たちとともに、その人影のあとをついて、
静まり返った屋敷の中へと足を踏み入れました。

屋敷の中はひどく薄暗く、冷えた空気が肌にまとわりつきました。
私たちは声も出せぬまま、急勾配の階段を登っていきました。

どこへ連れて行かれるのかも分からぬまま、ただ、登る。

やがて辿り着いた一室―
その場所に入った瞬間、
私は耐え難いほどの不安と恐怖に襲われました。

ただ、ここにいてはいけない、という本能的な危機感だけが胸を締めつけました。

言葉にはできない、ただ、
「ここにいてはいけない」と、
全身が叫ぶような感覚に突き動かされ、私は逃げ出しました。

夢の中の私は、駆け出し、暗がりを抜けて、屋敷の外へ―

すると、目の前に一台の白いバンが止まっていました。

私は迷わず飛び乗りました。
ほっと胸をなでおろした瞬間、目が覚めました。

その時代にバンなどあるはずもなさそうですが、
夢の中ではそれが当然のように存在していました。

時代も場所も、夢の世界では混ざり合い、境目が曖昧になります。
だからこそ、あの夢にはどこか現実以上のリアルさがありました。



刻印を見たことで、この夢のことを久しぶりに思い出しました。
まるで、封じていた記憶が刻まれた文字に呼び起こされたかのようです。

この夢の不思議なところは、もう一点あります。
この夢を見た朝に、夢の内容を母にしたところ、母もまた似た光景を夢で見たことがある、というのです。

私よりも5年以上前に見たらしいのですが、母は私の姉と一緒に、「島」がつく家に、売られた夢を見たらしいです。「島津」だったか「島村」だったかは覚えていないが、その場から、船付き場に行き、船で逃げたらしい。

・白い砂利がある家屋
・「島」がつく家
・廓のような雰囲気
・若い娘が何名もいる
・場所は九州

という合致点から、その夢の舞台は、おそらく同じ場所だろう、という話になりました。
あり得ないような、でも実際に私も母も見た、不思議な夢です。

途中の挿絵は、自分の夢を頼りに、生成AIでつくってみました。
最近読んでいる大好きな漫画の中に、「不便が女をあげる」という言葉がありました。コスパやタイパが重視される今の世の中に、どこか息苦しさを感じている私にとって、その一言は胸に深く響きました。

それでも、、、AIはやっぱり便利ですね!

私の夢の中で見た風景は、完璧には再現できませんでした。

でも、それがかえって嬉しかったです。
なんだか、ちょっとだけAIに勝てたような、そんな気がして。
馬鹿馬鹿しいけれど、ふっと笑ってしまいました。

さてさて、本編へと戻りましょう!

修理中の石垣〜薬研堀〜徳川家康公腰掛松旧趾

石垣の補修をするらしく、この状態で見られるのは今だけとのこと


城主が酒井忠次の頃の薬研堀

断面がV字型になっているのが特徴の薬研堀です。

薬研堀とは
日本の城郭において堀を築く際に用いられる形状の一つで、
堀の断面がV字型になっている堀を指します。

薬研とは
薬草をすりつぶす道具を薬研といい、
堀の形が薬研に似ていることから薬研堀と呼ばれています。

薬研堀の特徴は、堀が非常に深く、かつ狭いため、敵兵が堀を越えて城壁に近づくのを困難にしています。

また、この形状は、敵が梯子や他の攻城器具を使用するのを効果的に妨げています。
しかし長い年月にともない、堀底が埋まってしまい、一見すると薬研に見えないことの方が多いです。

発掘調査により、薬研堀だと判明することもあります。

引用: 東海の古城 〜歴史の旅

豊橋公園から駐車場に行くまでの横道にこの堀がありましたが、おじさんのご案内がなければ気づけませんでした!本当に感謝です。


徳川家康公腰掛松旧趾

案内してもらわなければ絶対に知らなかったスポット。

公園内の駐車場の隅にポツンとありました。
徳川家康公腰掛松旧跡の石碑です。

以前この場所は安久美神戸神社があったそうです。
この後に行く、安久美神戸神社の鬼祭徳川家康も見物したそうです。
その際に腰掛た松の跡と言われています。

案内してくださったおじさんと、家康の身長の話で盛り上がりました。笑

吉田城へ戻り、城の中へ

案内してもらいながら、薬研堀を通り、豊川沿いを歩きながら吉田城へ再び戻ってきました。
豊川沿いを歩き、吉田城へ戻る


浮世絵に描かれた吉田城

東海道五十三次之内 吉田豊川橋 天保年間初期 歌川広重(豊橋市美術博物館蔵)

まさに上の写真の景色!

「末広五十三次吉田」慶応元年(1865)歌川貞秀

吉田城内

吉田宿の商家一覧が面白かった

吉田城の中は、何度も訪れており、今回は写真もあまり撮らず、記録はしていないのですが、見応えがあり、いつ来ても楽しいです。

「1軒しかない下駄屋はぼろ勝ちだな〜」
「風呂屋は19軒もあったのか!」
「薪屋は8軒あるということはつまり・・・」

などと仲間と盛り上がりました。

道草の途中で麹屋さんがあったのですが、おそらくこの「麹屋5軒」のうちの1つだと思います。近いうちに、行ってみるつもりです。


城の最上階から。菊!


こういった解説や甲冑、本丸復元模型、などが沢山あります。
豊川、瓦、豊川橋が見えます


豊橋が舞台の「負けヒロインが多すぎる!」のキャンペーン(?)が多すぎる!
・・・お城の中のこの意味不明なチグハグさ、、嫌いじゃないです


三の丸会館で御抹茶をいただく

三の丸会館は、豊橋公園の一角に佇む、多目的文化施設
「抹茶」の幟に釣られました🐻
お抹茶とお菓子をいただきました
お茶室の机に、豊橋のマークが!


三の丸口門跡

豊橋公園の入口にある三の丸口門跡から出て、
今から前述の「安久美神戸神明社」へ向かいます。

次回
次回 安久美神戸神明社〜豊橋鬼祭について〜倭姫命〜元伊勢伝説 ④へ続きます!へ続きます!

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