見出し画像

母をおぶった秋の日、私は介護の原点を知った――背中で聴いた声――

第一章 母をおぶった秋の日

「死にたくない」

末期がんであることを悟った母は、
その思いを何度も口にした。

決して高齢とはいえない年齢だった。
働き者で負けず嫌いな母は、自分の身に起きていることを感じ取りながらも、それを受け入れきれずにいたのだと思う。

私は言葉に詰まった。
励ませばいいのか、静かに聞けばいいのか、あるいは「大丈夫だ」と言えばよいのか。どの言葉も、本当ではない気がした。

結局、私は何も言えず、ただ母のそばにいることしかできなかった。

懸命に病気と闘いながらも、日が経つにつれ、母の体は次第に弱っていった。

治療が一区切りついた頃、母の希望もあって、父や兄妹兄嫁と相談し、自宅で看ることになった。
家には近所の人や友人、昔からの知人がよく訪ねてきた。母は床に伏しがちになっても、人が来ると不思議と顔色が少し明るくなった。

私はそのころ福島市に住んでいた。
そんなある日、ふと私は思い出した。母には毎年欠かさず楽しみにしていた行事があった。二本松の菊人形である。

「今年が最後かもしれない」

そう思った瞬間、私は迷うのをやめた。
体力のことを考えれば無理かもしれない。それでも、行ける可能性が少しでもあるなら、連れて行きたいと思った。

当日、私は妻と共に、母と父を山形へ迎えに行くため、車を走らせた。

車の窓には、霧雨がやわらかくにじんでいた。
道端の木々は色づき始め、しっとりと濡れていた。

母は少し緊張した顔をしていた。
外へ出るのも、父との旅行も久しぶりだった。

会場は山の上にあり、坂道が続いていた。
母は最初、杖をつきながらゆっくり歩いたが、少し進むと息が切れた。

「ちょっと休もうか」

私がそう言うと、母は苦笑いを浮かべた。

「情けないねえ」

「そんなことない」

そう言って私はしゃがみこんだ。

「おぶさるか」

母は一瞬、遠慮するような顔をした。
それから小さく頷いた。

「重いぞ」

「大丈夫だよ」

背中に感じた母の体は、思ったより軽かった。
けれど、その軽さが、かえって胸にこたえた。

幼い頃、私を抱いてくれたその人が、いまは私の背中に乗っている。
その事実はあまりにも静かで、言葉にできなかった。

私は母をおぶって、ゆっくり坂を上った。
菊人形の鮮やかな色彩。人々のざわめき。秋の冷たさを含んだ空気。

母は私の肩越しに、静かに言った。

「きれいだね」
「これて良かった」

その声はとても小さかった。
けれど、確かに弾んでいた。

一時間ほどだっただろうか。会場を巡り、最後に写真を撮った。
私はその写真を、今も財布に入れている。

そこに写る母は、穏やかな顔をしていた。
疲れていたはずなのに、満ち足りた表情だった。

父と母のツーショットは、二人とも、これ以上ないほどの笑顔だった。

それから、わずか一か月半後、母は山形の天童市の自宅で、家族に見守られながら六十五歳で静かに息を引き取った。

葬儀が終わってしばらくした頃、私は何度もあの日の写真を見返した。

そして思った。
母にとって、あの菊人形の時間は、ただの外出ではなかったのではないか。

あれは——
最後にもう一度、自分の好きだった景色に会いに行く、小さな旅だったのかもしれない。

介護とは何か。
あのときの私は、まだその問いに答えを持っていなかった。

だが、ひとつだけ確かな感覚が残った。

介護は、ただ食べさせたり、寝かせたり、身の回りを整えることだけではない。

その人が
「もう一度これを見たい」
「もう少しこうしていたい」

と願う気持ちに、できる形で応えていくことでもある。

私の介護の原点は、
あの秋の日の坂道にある。


第二章 知らなかった世界へ

母を看取ってからしばらくして、人生は思いがけない方向へ動き始めた。

妻の両親が認知症になり、二人だけで暮らすことが難しくなったのである。頼れるのは娘である妻だった。私は次男坊で、実家を継ぐ立場でもなかった。そうして私たち夫婦は、福島を離れ、長野県飯田市へ移ることになった。

土地を離れ、仕事を辞め、新しい生活を始める。若い頃なら躊躇したかもしれないが、そのときは不思議と「もう行くしかない」と思えた。人生には、考えるより先に決めなければならないことがある。

新しい仕事を見つける必要があった。福島でヘルパーの資格を取っていたこともあり、私は義父母の世話に少しでも役立てばと思って、飯田市にあるヘルパーステーションに応募した。すぐに採用が決まった。

初日、主任に聞かれた。

「料理はできますか?」

独身時代から料理は比較的好きだった私は、少し胸を張って答えた。

「はい、だいたいは」

だが、その返事が甘かったと知るのに、時間はかからなかった。

訪問介護は、想像していた以上に忙しかった。

決められた時間の中で、湯を沸かし、洗濯機を回し、冷蔵庫の中を見ておかずを考え、食事を作って食べてもらい、片付けをし、掃除をし、記録を書く。利用者さんごとにやるべきことも家の勝手も違う。四十五分や一時間が、あっという間に過ぎていく。

私は最初、台所と居間を何度も往復しながら、状態確認し、頭の中で段取りを組み立ててた。そしてそれから目にも止まらぬ速さで、家事をこなしていく。ようやく一段落したと思うと、利用者さんが「ねえ、ちょっと」と話しかけてくる。

「なまりがあるけで、どこの出身なの?」
「どうして飯田に来たの?」
「仕事はいいからお茶を飲んで話をしよう」

——そんなわけにはいかない。

私は手を動かしながら、山形県出身で福島から来たこと、ユーモアを交えて、妻に引っ張られる形で来たことを話した。するとたいてい少し笑いながら、「それにしても、よく来てくれたなあ。あんたは偉い!」と言われた。

私はそのたびに、その言葉に救われた。慣れない土地で、慣れない仕事をしながら、失敗も多く、気持ちも沈み、鬱的だった。

そのとき「あんたは偉い!」の一言が、まるでこの土地で受け入れてもらえた印のように感じられた。

ある男性の家では、腎機能が落ちていたため、野菜はカリウムを減らすように一度湯でこぼしてから調理する必要があった。私は教えられた通りに鍋を扱いながら、その人の話を聞いていた。

「昔は酒が強くてな。飲みすぎて腎臓を壊したんだ」

そう言ってその人は笑った。

「だから、あんたはお酒には気をつけなよ」

私も思わず笑ってしまった。

調理の注意点を教わっているはずなのに、その時間は人生勉強のようでもあったからだ。

訪問介護の仕事は、単なる家事代行ではなかった。私は、利用者さん一人ひとりの生活の中へ、短い時間だけ招き入れられているのだと感じるようになった。

玄関の靴、冷蔵庫の中身、テレビの音量、テーブルの上、本棚や飾り物——
その細かなものの中に、その人の人生のヒントが残っていた。

そして何より、帰り際にかけられる一言が、心に残った。

「ありがとな」

その言葉で、こちらの疲れが、ふっとやわらぐ。
支えているつもりで行ったはずなのに、帰る頃には自分の方が支えられていることがある。

介護は、一方向の仕事ではなかった。


第三章 語られる人生

ケアマネジャーとして働くようになってからは、
とくにその思いが強くなった。

食事、排泄、入浴、服薬、安全確認はもちろん大切である。
だが、その人がどんな人生を歩いてきたのかを知らなければ、本当の意味でその人に合った支援には届かないのではないか。そう思う場面が増えていった。

「何を大切にして生きてこられたのですか」

その問いに、最初は曖昧に笑う人もいる。
だが、少し時間をかけると表情が変わる。
畑仕事の話になると急に元気になる人。昔の商売の話になると声が弾む人。孫の話になると目元がゆるむ人。

目の前の「要介護認定を受けた高齢者」が、
一人の人生を持つ人として自分に迫ってくる瞬間だった。

ユニット型特養では、二十四時間シートを使い、生活リズムを把握することが勧められている。
起床、食事、排泄、睡眠、活動。とても大切なツールである。

だが私は、そこに時間の流れだけでなく、その人の背景も書き添えたいと思っていた。

自営業だった。教師だった。りんご農家だった。裁縫が得意だった。若い頃は民謡をよく歌った。戦争で兄を亡くした。火事で焼け出された。三六災害を経験した。

日課や支援内容だけの表では、その人らしさは見えてこない。

たとえば、ある女性は食事の時間になると落ち着かなくなり、車いすでの移動であり、立てないにもかかわらず「手伝わせて」と何度も立ち上がろうとした。

最初は認知症の症状としてだけ捉えられていたが、生活歴を聞くと、その方は長年、大きな畑で作物を作る働き者の主婦だった。食卓が終わればすぐ片付ける。それが何十年もの身体感覚になっていたのである。

それを知った私は、「〇〇さんは働き者だったんですね。座ったままでいいですので、お盆を拭いてもらえますか」と声をかけるようになった。

すると、その人は喜んで拭いてくれた。
食後の時間が穏やかになった。

できないことを止めるだけではなく、これまでの人生の流れを尊重しながら、今の形に置き換えていく。私はそこに、介護の深さを感じた。

心に残っているのは、戦争や災害を体験した方々の語りである。
飯田の大火のことを語ってくれた人がいた。火の手が夜空を赤く染め、逃げるときに持ち出せたのはわずかなものだったという。三六災害の泥の匂い、川の濁流の音、瓦礫の山。記録には残るだろう。

だが、実際にそこを生きた人の口から語られると、言葉の重みはまるで違った。

ある男性は言った。
「あの頃は本当に何もなかった。でもな、みんなで助け合ってきた。生きるのに必死だったから、辛いと思うこともなかった」

そう言って笑った顔に、私は言いようのない強さを感じた。
悲惨さを知らないわけではない。だが、その記憶に押し潰されず、その後の人生を生きてきた人の顔だった。

また、飯田市には中国残留孤児として過ごされた方が多く住んでいる。

ある方は語ってくれた。
親に置いていかれたこと、日本に戻ってきてからの言葉の壁、周囲に理解されない孤独。

そのどれも、私が軽々しく「大変でしたね」と言えるものではなかった。

それでも、その方は言った。
「でも苦しいことばかりじゃなかったよ。中国人も優しく助けてくれた」

その言葉を聞いたとき、私は胸が熱くなった。
人は、何を背負ってきたかだけで決まるのではない。どのようにそれを見つめてきたかで、人生の表情は変わるのだと思う。

こうして私は、語られる人生の中に、これからの支援の手がかりだけでなく、自分自身が生きていくためのヒントを、何度も見つけてきた。


第四章 親の人生を知らなかった私

利用者さんの話を聞くようになるにつれ、私はある現実に何度もぶつかるようになった。

自分は、親の人生をほとんど知らない。

母は六十五歳で亡くなった。どんな少女時代を過ごし、どんな夢を持ち、何を諦め、何を楽しみにしていたのか。いまになって考えれば、知りたいことばかりだった。

それなのに私は、母が元気なのは当たり前で、母を「母」という役割でしか見ていなかった。

そして、父が八十歳で末期がんと診断されたとき、私はようやく父と向き合おうと思った。

それまでの私にとって父は、子どもたちに無関心で、自分勝手な人だった。

思い出といえばパチンコ屋で、父が打つあいだ、私は床の玉を拾っていた。共に遊んだ記憶も、褒められたことも、叱られたことも、進路の相談をしたこともない。

私は長いこと、「自分は望まれて生まれたわけではない」と感じていた。父のようにだけはなりたくないと思い、理解しようともしてこなかった。

私は、思い切って尋ねた。

「どうして、何も言ってくれなかったのか?」

父は少し間を置いてから、ぽつりと話し始めた。

「俺の父親は厳しかった。農家の長男は家を継いで当たり前。自由なんて何もなかった。だから、お前たちには自由に生きてほしいと思ってな。あれこれ言わなかったんだ」

その言葉を聞いた瞬間、私は自分の中の父のイメージが、音を立てて崩れていくのを感じた。

無関心だったのではない。父は父なりの不器用な考え方で、私たちに干渉しないことを選んでいたのだ。

もちろん、それが子どもにどう伝わるかまでは分かっていなかったのだろう。だが少なくとも、私が勝手に「何も考えていない」と決めつけていた父の中には、父なりの人生観があった。

父はさらに言った。

「子孫に美田を残さず、ってあるだろ。財産なんか残さない。あれば兄弟げんかになるからな。自分の人生は自分でやればいい」

不器用で、どこか乱暴な言い方だった。
だがそこには、確かに父なりの覚悟があった。

私はさらに踏み込んで聞いた。

「死ぬのは、怖くないの?」

父は即座に答えた。

「全然怖くないぞ。人は死んだら土に帰るだけだ」

そのとき私は初めて父を、「自分勝手な人」ではなく、「自分なりの哲学を持って生きてきた人」として見ることができた。

そして父は最後にこう言った。

「俺はやりたいことは全部やってきた。後悔はない。お前も、やりたいことをやって生きろ」

その言葉は、父が私に初めてくれた人生の教えだった。

私はそのとき、他人の人生を聞く仕事をしながら、自分の家族のことを何も知らなかったのだと気づかされた。

そして同時に、知ろうとすれば、まだ間に合うこともあるのだと思った。


第五章 歌声喫茶の午後

介護の現場では、「できなくなったこと」に目が向きやすい。
歩けない。覚えられない。言葉が出にくい。支援が必要な状態を把握することは重要だ。

だが、そればかりに目を向けていると、その人の中にまだ残っている力を見落としてしまう。
私は特養で働く中で、そのことを何度も感じた。そしてひとつの答えをくれたのが、音楽だった。

月に一度ほど、私はギターを持って「歌声喫茶」の時間を開くようになった。
地域交流室に集まり、利用者さんのリクエストに応じて季節の歌や懐かしい歌謡曲を一緒に歌う。回を重ねるうちに、その時間は私にとっても特別なものになっていった。

私がギターを抱えて現れると、誰かがすぐに言う。

「今日は何を歌うの?」
「『北国の春』、お願いできる?」
「『りんごの歌』もいいねえ」

普段は表情の乏しい方が、その日ばかりは少し身を乗り出す。
職員も自然と笑顔になる。音楽には、人を変える力がある。

歌い始めると、不思議なことが起きる。
さっきまでぼんやりしていた方の口が、自然に動き出す。声が出にくい方でも、歌になるとフレーズが続くことがある。手拍子を打つ方、目を閉じて聴く方、昔の歌詞をそらで口ずさむ方。

長野県では最後に「信濃の国」を歌う習慣がある。これがまたすごい。
歌詞カードを見なくても、皆さんちゃんと歌える。あの一体感を見るたびに、歌は記憶のどこか深い場所に残るものなのだと思う。

ある女性は言った。
「この歌、若い頃によく歌った」
ある男性は言った。
「戦争が終わって、みんなで歌ったなあ」

歌は単なる娯楽ではなく、その人の人生の扉をそっと開く鍵のようだった。

歌うと、人は少し若返る。
正確には、若い頃の自分を思い出したような表情になる。記憶がその人の中に戻ってきて、今ここにいる身体と、昔の自分が一瞬つながるのだと思う。

また、歌うことは自然に口や喉を使うことにもつながる。
訓練として「発声してください」と言われるより、好きな歌を歌う方がずっと続く。

楽しいからこそ、身体も動く。
鈴などを鳴らせそうな方には、「よかったら一緒に鳴らしてみませんか」と声をかける。歌えなくてもいい。リズムを取れなくてもいい。参加していると感じられることが大切なのだ。

私はここで、支援の本質を少し教わった気がしている。

介護は、できない部分を補うだけの仕事ではない。
できる部分を使いながら、一緒に楽しい時間をつくることもまた支援である。

歌声喫茶が終わると、誰かが言う。

「楽しかった」
「またお願いね」

その言葉を聞くたびに、私は思う。
介護の仕事には、世話だけではない、もうひとつの温度が確かにあるのだと。


第六章 失ったものと、残されているもの

私は三歳のときの事故で、右手の薬指と小指を途中から失った。
物心がついたときには、もう「みんなと少し違う自分」がそこにいた。

周りの子どもたちは好奇心のままに聞いてきた。
「どうしたの?」
「いつになったら生えてくるの?」

私はそのたびに心のどこかで縮こまった。
小学校の音楽の時間、リコーダーの穴をうまく押さえられず、ひとりだけ音を外すことが、ひどく恥ずかしかった。

そのうち私は、「指を使う楽器は自分には無理だ」と思い込むようになった。
そして、体もあまり丈夫ではなく、自己嫌悪ばかりが増えていった。

中学二年のある日、私は母に向かって言ってしまった。

「産んでくれと言った覚えはない」

今思えば、あれは母への言葉でありながら、どうにもならない自分の現実に向けた叫びでもあった。

そんな私に、小さな転機をくれたのは兄だった。

中学生の頃、兄がギターの楽しさを教えてくれた。
おそるおそる弦を弾くと、音が出た。左手でコードも押さえられる。右手の三本の指でアルペジオもストロークもできる。

「できる」——その感覚は、私にとって予想外の喜びだった。

ただ、その意味を本当に理解したのは、ずっと後になってからである。

介護の仕事に就いてから、私は多くの「失ったものを抱える人」に出会った。

歩けなくなった人。物忘れが進んだ人。細かい作業が難しくなった人。
だが、その人たちの中には必ず、まだ使える力が残っていた。

昔話を始めれば目が輝く人がいる。歌えば自然に声が出る人がいる。手を握ると、驚くほどしっかり握り返す人がいる。

失ったものより、残されているものを見る。
それがその人らしさを支えるのだと、私は利用者さんから教えられた。

そしてあるとき、ふと気づいた。
自分はずっと、失った二本の指ばかりを見てきたのではないか、と。

介護の現場で学んだ視点は、そのまま私自身にも向かってきた。
自分にないものではなく、自分にまだあるものを見る。

ある日、私は、子どもの頃に諦めた「指を使う楽器」にもう一度挑戦してみようと思った。

中古のアルトサックスを手に入れた。

もちろん最初は簡単ではなかった。音も出ないし、息も続かない。何より、右手の薬指と小指が関わるキーに届かなかった。

それでも、今の私は昔とは少し違っていた。

「工夫すれば、できるかもしれない」

介護の現場で、工夫すればできると教えられてきた。

だから、そう思えた。

私はキーに小さな細工を施した。短くなった指でも届くように。

何度も試し、失敗し、また調整した。

すると、つながらなかった音が、ある日つながった。

その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。

人生は、欠けた部分で決まるのではない。
残されている力をどう使うかで、広がり方が変わる。

そのことを、私は介護の仕事から教えられ、
自分の体で学び直した。


第七章 向いていない私が、なぜここにいるのか

私は長いあいだ、自分は介護、とくにケアマネジャーには向いていないと思っていた。

人と深く関わることが得意だったわけではない。むしろ逆である。
若い頃の私は、自分を好きになれず、人のこともどこか信じきれなかった。

そんな私が、こんなにも人と関わる仕事をしているなど、昔の友人が「七不思議」と言うのも無理はない。

実際、最初の頃は失敗ばかりだった。
段取りもうまくいかない。気の利いた言葉も出ない。気疲れも激しい。

これでは向いていないのではないか、と何度も思った。

それでも続けてこられたのは、利用者さんの言葉と、仕事仲間の支えがあったからである。

「あなたがいてくれて助かるよ」
「よくやってるよ」
「あなたが来ると安心する」

その一言一言に、私は何度も救われた。

また、同僚や先輩の中には、私のできていないところばかりを見るのではなく、できるところを見つけて励ましてくれる人がいた。

迷っているときはさりげなくフォローし、失敗して落ち込んでいるときは、自分の失敗談を話して安心させてくれた。

私はその姿を見て思った。
自分も、誰かを支えられる人になりたい、と。

できない自分を責めるより、支え合える関係をつくることの方が大事なのではないか。
そう考えるようになってから、仕事の見え方が少しずつ変わっていった。

人生は、ときどきオセロゲームのようだと思う。
黒ばかりに見えていた盤面が、一手で白へと変わることがある。
欠点だと思っていたものが、ある出会いで別の意味を持ち始める。

私はいまでも完璧な介護者ではない。
悩むことも、迷い、失敗もある。

だが、この仕事を今日まで続けてこられたのは、
一人ではなかったからだ。


終章 間に合うということ

私は六十八歳になった。
いま、ケアマネジャーとして、誰かの暮らしと、その最期に寄り添う仕事をしている。

そんなある日のことだった。
雪がうっすら舞う寒い日、道端の畑で、一人のおばあちゃんが仰向けに倒れていた。

「起き上がれない」

その方を起こし、おぶって隣の自宅までお連れした。家に着くと、おばあちゃんは安心したように、「ありがとな」と言った。

その言葉を聞いたとき、私は背中に残るぬくもりに、ふいに昔の記憶を呼び戻された。

福島の菊人形の日。
母をおぶったあの坂道。肩にかかった重み。背中越しの静かな息づかい。

「きれいだね」「これて良かった」
あのときの母の声。

数日後、気になってもう一度その家を訪ねた。
おばあちゃんは元気そうだったが、倒れていたことはもう覚えていないようだった。

その時の状況を話すと、少し驚いた顔をして、「そうだったのか。ありがとな」と再び微笑んでくれた。

けれどそのとき、感謝したいのは、むしろ私の方だと思った。

あの日の記憶を、もう一度、この胸の奥から呼び起こしてもらったからである。

中学二年の頃、私は母に言った。

「産んでくれと言った覚えはない」

母は何も言い返さなかった。
ただ、少し寂しそうに笑った。

あの頃の私は、自分のしんどさや怒りや、生きづらさの置き場所が分からなかったのだと思う。

そして、そのぶつけどころのない思いを、いちばん受け止めてくれそうな母に向けてしまったのだ。

やがて私は、母を介護する側になった。
菊人形へ連れて行き、背中におぶり、あの日たしかに母を支えていた。

けれど——本当に伝えたかったことは、何ひとつ言えないままだった。

謝ることも、あの日の言葉を取り消すことも、感謝をきちんと伝えることもできなかった。

私は、間に合わなかったのである。

だから今も、胸の奥で何度も言い続けている。

もし、もう一度会えるなら。
今の私が、あの頃の母の前に立てるのなら。

「お母さん、あのときはごめんね」

そして、今度こそ、まっすぐにこう言いたい。

「産んでくれて、ありがとう」

介護の仕事をしていると、「間に合う」ということの重みを思う。

もう少し早く聞いていれば。
もう少し早く謝っていれば。
もう少し早く、その人の人生を知ろうとしていれば。

そう思う場面は少なくない。

だから私は、利用者さんの話を聞き、ご家族に生活歴を尋ねる。

できることを一緒に楽しみ、小さな願いを、できる範囲でかなえたい。

それは単なる支援ではない。

その人が、人生を生きてきたと感じられる時間を、守ることだと思う。

介護とは、ただ支えることではない。
その人の願いを知ろうとすること。人生に耳を澄ますこと。失ったものより、残されている力を見ること。

一緒に笑い、一緒に歌い、ともに生きている時間を感じること。

もしこの仕事を言い換えるなら、「支援」や「世話」だけでは足りない。

「寄り添う」だけでも、まだ少し足りない。

不器用で、もっと温かい、人間くさいものだと思う。

私は、その人の生きざまに触れ、「共にいる」ことだと思っている。

向いていないと思っていた私が、なぜここまで歩いてこられたのか。
たぶん答えは、いつも同じ場所へ戻る。

一人ではなかったからだ。

利用者さんがいてくれた。仕事仲間がいてくれた。家族がいてくれた。

そして——母の言葉が、ずっと私の背中を押してくれていた。

あの日、菊人形の坂道で、私は母をおぶっていた。
だが本当は、あのときからずっと、私は母に背負われて、ここまで来たのかもしれない。

そう思うと——人生には、間に合わなかった言葉がある一方で、

伝えられなかった思いが、形を変えて、その後も誰かを支え続けることがあるのだと感じる。

母に伝えられなかった「ありがとう」は、

いま、利用者さんの話を聞く私の姿の中に、少しずつ形を変えて生きているのかもしれない。

もしそうだとしたら、

私の人生もまた、ぎりぎりのところで、まだ間に合っているのかもしれない。

そして私は、今日もまた、誰かの人生にそっと耳を澄ます。

あの秋の日、背中で聴いた声は、
いまも静かに、私の中で生きている。

#創作大賞2026
#エッセイ部門


いいなと思ったら応援しよう!

がんばってネコ 🌿 がんばってネコからのお願い   読んでくださりありがとうございます🐾 心が少し軽くなったり、前を向けたと感じていただけたら、とても嬉しいです🍀 これからもやさしい言葉を届けていけるよう、そっと応援していただけたら励みになります🐱✨