BeyoncéのOn the Run Tourと歌舞伎に共通する“逸脱の美学”|ボニー&クライドから考える
なぜ人は“危険な恋”を物語化してしまうのか?
はじめに
初めてBeyoncéとJay-ZのOn the Runツアーのビジュアルを見たとき、私は少し怖かったです。
覆面をした二人。
顔を隠したまま寄り添い、ステージに立つ姿は、恋人というより“逃亡者”のように見えた。
もちろん、美しかった。
圧倒的にスタイリッシュで、映画のワンシーンのようだった。
けれど同時に、なぜこんなにも危険が美しく演出されるのか、引っかかりました。
On the Run Tour/On the Run II Tourは、実在した犯罪者カップル「ボニー&クライド」をモチーフにしたツアーである。
逃亡。覆面。銃。忠誠。
社会から逸脱した二人の世界。
しかし考えているうちに、私はふと思った。
――これ、日本にも昔からあった構造ではないか?
歌舞伎や浄瑠璃には、現実の事件や犯罪、社会からはみ出した人間たちを、“美”へ変換してきた長い歴史がある。
盗賊。放火犯。心中した恋人たち。
本来なら悲惨で、危険で、現実では決して美談ではないはずの出来事が、舞台の上では「様式美」へ変わっていく。
なぜ人は、“逸脱”を美しく感じてしまうのだろうか。
この記事では、ボニー&クライド、歌舞伎の『曽根崎心中』『白浪五人男』『八百屋お七』、そしてOn the Run Tourを通して、その「逸脱の美学」について考えてみたい。
第1章:ボニー&クライド――“逃亡する恋人たち”の原型
ボニー・パーカーとクライド・バロウは、1930年代アメリカに実在した犯罪者カップルである。
大恐慌時代、二人は強盗や逃亡を繰り返し、警察との銃撃戦を経ながら全米を移動した。最終的には待ち伏せした警察に射殺され、短い人生を終える。
現実の彼らは決してロマンチックな存在ではない。
銀行だけでなく、小さな商店や一般人も被害を受け、多くの命が奪われた。実態は極めて暴力的な犯罪集団だった。
しかし1967年の映画『Bonnie and Clyde』(邦題『俺たちに明日はない』)は、彼らを“反体制的な若い恋人たち”としてスタイリッシュに描いた。
ここで重要なのは、「事実」ではなく「演出」である。
映画の中で二人は、
退屈な社会から逃げる若者
銀行=権力への反抗者
運命共同体として生きる恋人
として描かれる。
犯罪そのものよりも、
「二人だけの世界」
「逃げ続ける関係」
「破滅へ向かう恋」
が強調されているのだ。
そしてこの構造は、現代ポップカルチャーにも受け継がれていく。
第2章:『曽根崎心中』――“死によって完成する恋”
ここで日本の歌舞伎・浄瑠璃を見てみたい。
『曽根崎心中』は、1703年に近松門左衛門が発表した作品で、実際に起きた心中事件をもとにしている。
主人公は、醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初。
二人は愛し合っているが、徳兵衛は金銭トラブルと裏切りによって社会的信用を失い、追い詰められていく。
このままでは二人は結ばれない。
そこでお初と徳兵衛は、「この世で結ばれないなら、来世で夫婦になろう」と語り合い、心中を選ぶ。
現代感覚で言えば、かなり重い物語である。
しかも当時、この作品はあまりに人気になりすぎて、実際に心中を真似する人が続出したとも言われている。
つまり、悲劇が“美”として消費されたのだ。
ただし、『曽根崎心中』は犯罪者の物語ではない。
ここで美化されているのは、「悪」ではなく、
純愛
社会に許されない恋
死によって永遠化される関係
である。
しかし本質的には、ここにも「逸脱」がある。
社会制度や常識から外れた恋愛が、物語として美しく変換されているのだ。
第3章:『白浪五人男』――犯罪が“粋”へ変わる瞬間
一方、『白浪五人男』はもっと直接的に“犯罪の美学”を扱っている。
正式名称は『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)』。河竹黙阿弥による江戸後期の歌舞伎作品である。
主人公は盗賊たち。
特に有名なのが、弁天小僧菊之助だ。
弁天小僧は、美しい武家娘に女装して呉服屋へ入り込み、巧みにゆすりを行う。
そして正体を見破られた後、有名な名乗り台詞を口にする。
「知らざあ言って聞かせやしょう」
歌舞伎を知らない人でも、一度は耳にしたことがあるかもしれない。
ここで面白いのは、本来なら盗賊であるはずの彼らが、“粋”で魅力的な存在として描かれていることだ。
派手な衣装。
華やかな見得。
美しい台詞回し。
犯罪は、舞台の上で「悪の華」に変換される。
観客は現実の被害者ではなく、“アウトローの格好良さ”を見る。
これは、ボニー&クライドの映画化とも非常に近い構造である。
現実では危険な存在であっても、物語の中では「反骨」や「自由」の象徴になっていく。
第4章:八百屋お七――“情念”によって浄化される犯罪
そして、もう一つ興味深いのが「八百屋お七」である。
お七は江戸時代に実在したとされる少女で、恋人に会いたい一心から放火を行い、火刑に処された。
放火は当時、極めて重い犯罪だった。
しかし後世の浄瑠璃や歌舞伎では、お七は単なる犯罪者ではなく、“恋に生きた少女”として描かれていく。
特に有名なのが「櫓のお七」の場面だ。
雪の夜。
華やかな振袖姿のお七が、火の見櫓へ登り、半鐘を打ち鳴らす。
その姿は、恐ろしい犯罪者というより、恋に取り憑かれた悲劇のヒロインとして演出される。
さらに印象的なのが、お七には「年齢を低く偽れば刑が軽くなったのに、それをしなかった」という逸話が残っている点だ。
史実としてどこまで正確かは別として、このエピソードには強いドラマ性がある。
若さ
恋
一途さ
覚悟
破滅の受容
そうした感情が見えてしまうからこそ、人々は彼女を単なる放火犯としてではなく、“物語の主人公”として語り継いだのだろう。
ここで美化されているのは、犯罪そのものというより、“極端な情念”である。
しかし結果として、犯罪は感情によって浄化され、美しい悲劇へ変換されていく。
\恋の炎が燃え上がる🔥/
— 国立文楽劇場(大阪・日本橋) (@nbt_osaka) January 22, 2024
恋ゆえに、火付けの大罪を犯した八百屋お七。
『伊達娘恋緋鹿子』では、恋人の吉三郎の窮地を救うため、閉じられた木戸を開こうと半鐘を打つ、という趣向になっています。人形遣いが姿を見せずに櫓を登る場面は必見です❗️
いよいよ千穐楽、最後の最後までお楽しみください✨ pic.twitter.com/79opuLQbvG
第5章:On the Run Tour――現代の“逸脱の演出”
そして現代に現れたのが、On the Run Tour/On the Run II Tourだった。
BeyoncéとJay-Zは、このツアーで「Bonnie & Clyde」的イメージを大胆に取り入れている。
覆面。
逃亡者演出。
犯罪映画風の映像。
銃を思わせるビジュアル。
“夫婦=共犯者”の構図。
特に印象的だったのが、2014年のOn the Run Tour公式ポスターに使われた黒いスキーマスク姿だった。
顔を覆った二人が抱き合うそのビジュアルは、まるで現代のボニー&クライドのようだった。
一方、On the Run II Tourでは、覆面表現はさらにファッションとして洗練されていく。
メッシュやジュエリーを使ったマスク、ラグジュアリー・ブランドと組み合わされた衣装によって、“犯罪者的イメージ”は、よりスタイリッシュでアート的なアウトロー表現へ変化していた。
しかし興味深いのは、彼らの楽曲の大半は、実際には反社会的な内容ばかりではないことだ。
むしろ、
愛
忠誠
女性の強さ
成功
夫婦関係
が中心にある。
つまりOn the Run Tourは、
「危険」
「犯罪」
「アウトロー性」
を、“愛”と“スタイル”によって包み込み、美へ変換するショーなのだ。
これは、歌舞伎が現実の盗賊や事件を様式美へ変換した構造と、とてもよく似ている。
結論:なぜ“逸脱”は美しく見えるのか
現実の犯罪や破滅は、本来決して美しいものではない。
ボニー&クライドの被害者たち。
放火の恐ろしさ。
盗賊による被害。
心中という悲劇。
そこには現実の苦しみがある。
それでも人は、それらを“物語”へ変換してしまう。
なぜなら、逸脱した人間たちは、
社会から外れ
常識を越え
感情を極端な形で生き
破滅へ向かって突き進む
からだ。
本当は、美しいと感じてはいけないのかもしれない。
けれど、人は昔からそこに惹かれてしまう。
「自由」
「情熱」
「運命」
「二人だけの世界」
を見てしまう。
歌舞伎は、そうした逸脱を様式美へ変えてきた。
江戸〜明治の歌舞伎では当たり前だった『逸脱の美学』が、現代日本ではコンプライアンスや人権意識の高まりにより、直接的な形では控えられるようになった。
ただし、古典芸能の伝統として、歌舞伎の中にはその精神が今も息づいている。
そしてOn the Run Tourもまた、現代ポップスターによる“逸脱の演出”だったのかもしれない。
逃げる二人は、本当に逃げているのではない。
私たちが見たい「物語」を、走り続けているだけなのかもしれない。
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