神様。いらっしゃるならどうか、そこに正座しろ。(1)
[あらすじ]
「見たことないから、神様も幽霊も宇宙人もいない」
「彼とカノジョのセックスもないのと同じ」
そう言い切って生きてきた遥は、恋人がいる宗教二世の坂本に惹かれ、不毛な関係を続けていた。
仕事、恋愛、宗教。
周囲の人々がそれぞれ「収まるべき場所」を見つけていく中、遥だけがどこにも辿り着けない。
やがて取り残された遥は、信じてもいない神に初めて祈る。
そのとき彼女が捧げたのは、どこまでも身勝手で、滑稽で、けれど剥き出しの祈りだった――。
収まる場所を持たないまま生きていくしかない人のための、不実で切実なアンチ恋愛ストーリー。
1. チキンラーメンと神様
坂本君のあとを、歩く。
六月の夜の生ぬるさ。
錆びた鉄の匂いをまとった風が、鉄骨の二階建てのアパートの、階段の踊り場まで届いていた。
赤茶けた手すりの階段を上ると、最初の扉が坂本君の部屋だった。
扉の右横に、無名の表札が少し黄ばんでいる。
彼はポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。
手に提げたコンビニの袋が、がさがさと鳴る。
玄関を入るとすぐ、小さなダイニングになっていた。
シンクの上には突っ張りラックが据え付けられていて、アルミの片手鍋と、白い深皿がふたつ重ねて並べられていた。
その奥に、すりガラスの引き戸。
坂本君はスニーカーを脱ぐと、そのまま奥へ進んだ。
私はちょっと迷って、自分のサンダルだけを揃えてごつい靴の隣に並べた。
「散らかってますけど」
彼が変に丁寧な口調で言う。
「おじゃまします」
私もよそよそしく答える。
引き戸が開く。
その瞬間、視線が部屋の一角に吸い寄せられる。
重心がそこにあるみたいに。
木製の台座。
その上に、無造作に束ねられた線香。
祭壇。
目が、離れない。
線香の隣に、封の切られていないチキンラーメン。
上目遣いのひよこが、こちらを睨み返してくる。
「暗黙の了解」
話題にしてはならない。
けれどみんな、なんとなく、知っていること。
適当にどうぞ、と手のひらで促されて、畳の空いた場所に腰を下ろした。
「正座て」
坂本君はふっと笑って小さな折りたたみテーブルにコンビニ袋を置き、畳に座って中身を探る。
そしてグレープフルーツサワーと発泡酒を取り出すと、サワーをこちらに差し出した。
受け取った缶が、ずっしりと冷たい。
缶を膝の上で両手に包むと、指に湿った冷たさが広がった。
目線を神棚に向け、足を崩しながら、言ってみた。
「カミサマが見てますけど?」
彼はほんの数秒言葉を失ってから、
「……きみ、すごいな」と言った。
「今まで何人か家に来たけど、これに触れたの、きみが初めてやで?そこみんな気ぃ遣ってスルーすんねん」
あ、言うんだ、と思った。
みんながスルーしてること。
それから、「何人か」が耳にざらつく。
私も、そのひとり。
気を遣わなかったわけじゃない。
むしろ過剰に気を遣って、空回っただけ。
私はそういう距離感の狂い方をしてしまう。
でも「こいつだけは違う」と印象づけられたのではないか――
なんて。
ばかげた思い上がりだということはわかっていた。
それでも、「すごいな」という彼の言葉は、私を高揚させた。
チー鱈。カルパス。むき栗。グミ。
レジ袋の中身を、テーブルにばら撒く。
「なんやねん、グミて。こどもか」
「グミじゃないよ。グミをチョコレートでコーティングしてるもん」
「グミやんけ」
「おいしいんだってば。私、イチゴはそんなだけど、イチゴ味は好きなの」
坂本君は、手のひらに乗せたパッケージをじっと見る。
「桃やん」
「えっ!?桃!?」
ほら、と軽く投げる。
両手で受ける。
「ほんとだ」
「なんで間違えんねん」
「桃なんて、あること知らなかったもん。ピンクだから、イチゴだとばっかり」
「めっちゃ白桃って書いてますけど」
ぴり、と袋を破って一粒手のひらに転がし、口に放る。
甘さがねっとり絡む。
目の端に、ちらちらと祭壇が映り込む。
よけるように視線を移動させる。
安っぽい黒のテレビボード。テレビ。押し入れ。掛け時計。
長押に引っ掛けたハンガーにぶら下がるシャツ。
引き戸の隅には、未開封のAmazonのダンボールが積まれている。
坂本君の、生活。
スマホが音を鳴らす。
坂本君が発泡酒の缶を持ったまま、親指だけで画面を起こす。
「チカちゃんだ」
「チカ?」
目が坂本君の手元に向く。
「いま養老でみんなで飲んでまーす、だって」
「なんでそっちに連絡来るの。私にはないけど」
「知らん」
「ねえ」
聞いてみた。
「なにキョー?」
「え」
坂本君が顔を上げる。
「宗教」
「知ってどうすんの」
「別に。ただ、覚えとこうかなと思って」
「覚えてどうすんの、そんなもん」
それでも、彼は短い単語を呟いた。
カタカナではなく、漢字っぽい言葉。
小さく繰り返して、心に留める。
気づくと、彼の顔がすぐ目の前にあった。
彼の指が頬に触れる。
反射みたいに、少しだけ身体を後ろに引く。
けれど、すぐにその距離も埋められた。
唇が重なる。
目を閉じて、その角ばった文字を頭の中でリピートする。
彼が、信じるもの。
彼が、縋るもの。
どっちの字だろう。
候補の漢字を何度も、何度も入れ替える。
時折、その隙間に「チカ」「養老」が割り込んでくる。
2. プレハブの朝
いいなと思ったら応援しよう!
あたしのことはいいから!そのチップは、おまえとおまえの大切な人のために使え!