ルウと、解ける。
ぐつぐつ。ぽこぽこ。
無数のあぶくが、浮かんでは弾ける。
どろりと濁った茶色の液体をじいっと眺めながら、私は焦燥に似た何かに追い立てられていた。
子どもの頃の母の味を、再現したい。
それは、祈りか、あるいはただの義務感か。
お玉で掬い、小皿に落とす。
湯気が鼻をくすぐる。
ひと口、飲み込む。
だめだ。これじゃない。
かつて、母の作るカレーは、世界でいちばん温かかった。
鍋の底でルウがゆっくりと溶け、甘い匂いが家じゅうに広がっていく。
「ごはんよー」と叫ぶ、母の声。
鍋にお玉を沈め、ゆっくりと持ち上げる。
皿の真ん中に盛られたごはんに、黄金色の液体がすべり落ちる。
その上には、揚げたてのカツ。
熱々で、サックサク。
「ほら、仕上げの、魔法の粉」
と笑って、母は私に( )を差し出した。
そうだ。
あれだ。
私には、( )の部分の真実が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
あの“魔法の粉”の正体が掴めない限り、母は永遠に取り戻せない。
*
母が壊れはじめたのは、ちょうど、祖母が亡くなった頃だった。
一切の料理をしなくなった。
台所に残ったのは、空っぽの鍋と焦げついたルウの跡だけ。
私は「父」という存在を知らない。
私と母は、母の実家に身を寄せていた。
母と祖母は、型の違う電池を無理やり押し込めているような、いびつな関係だった。
折り合いが悪い――幼い私にも、それだけはわかった。
「母さんはね、愛されずに育ったのよ」
母はよくそう言った。
呪いのように。何度も、何度も。
けれど祖母の葬儀の日、母は違う言葉を口にした。
「あなたのおばあちゃんは、孤高。
理解されづらい人だった。けれど、気高い人だった。」
母と娘って、何なのだ。
死んだおばあちゃんは、一体どこへ行ってしまったのだろう。
あの日抱いた違和感をきっちり言語化できたのは、ずいぶんと後の話だ。
*
高校を出て、逃げるようにこの町を離れた。
恋人ができた。
優しい人だ。
そして、私はもうすぐ母になる。
まだまったいらなお腹を撫でる。
私の中で、何かが静かに動きはじめている。
この小さな命のために――
いや、きっと、自分自身のために。
私は、母に会わなければならない。
あの“魔法の粉”の正体を、確かめなければならない。
そして――
あのカレーの味を、取り戻す。
*
実家に帰るのは、JRの切符を握りしめて家を飛び出した、あの日以来だった。
駅前はすっかり変わり果て、まるで見知らぬ街のようだ。
かつて、私は、
「ジャスコ建設、絶対反対!」
「弱い者いじめは、やめろ!」
という立て看板を背に、改札をくぐった。
いまではジャスコはイオンとなり、駅からはイオン行きの無料送迎バスが走っている。
変わったのは、街だけじゃない。
母も、きっと、私も。
「私、結婚するから。もうすぐ子どもも生まれる」
「そうなんだ。やったじゃーん。彼氏、イケメン?」
十数年ぶりの母は、拍子抜けするほど明るかった。
「い、イケメンかな……うーん、写真見せたら、優しそうだねっては言われる」
「あー、はいはい。そっち系ね。言うことないときに捻りだすやつね」
けれど、流しの横のポリ袋ホルダーには、洗われないままの総菜の空き容器が、いくつも雑に放り込まれていた
こびりついたタレが、母の心のひび割れのように見えた。
「あのさ、聞きたいことがあって」
私は、切り出す。
「何よ?」
「昔さ、よくカレー作ってくれたじゃん。あのときお母さん、“魔法の粉”かけてくれてたよね?あれって、何だったのかなって」
「魔法の粉?」
母が、つまらなさそうに、魔法、ともう一度、つぶやく。
そして、ああ、と口を開いた。
「“味の素”のこと?」
えっ……?
「ていうか、カレー作ってくれてたの、あんたのおばあちゃんよ?
魔法の粉(笑)も、ばばあ。あの人、“味の素”信者だったからね」
「あたし、料理なんてやったことないもん」
「だから、ばあちゃん死んでからはずっと総菜オンリーだったでしょ?
いまなんて、いい時代になったよね。セブンプレミアムは神だわ」
「味の……素」
呆然として、私は繰り返す。
「え、だって、熱々でサックサクの、カツは」
「マルナカの総菜のこと?」
あれマルナカだったの!?
ああ、そうか――
白状します。
私、本当は別にカツカレーが格別思い出の味だったわけじゃないんです。
母(※実はおばあちゃん)の、ビーフストロガノフ(※レトルトでした)とか、鯛の昆布締め(※デパ地下だそうです)とかも好きだったんです。
いや、むしろそっちが良かった。
でも、めんどくさそうだったから。
カレーくらいならイケるっしょー、くらいのノリでした。
私、料理できないんです。(遺伝)
そんなわけで、私、料理は放棄します。
パパに任せた。
☟【煮崩れミドル・ミドル】ぬるっと起承転結結な
『ルウと、固まる。』はこちら。☟
※参加していました。(過去形)
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