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お母さん、自信を持って②



母は、私の味方だと思っていた。

ある時期までは。

でも、違ったのだ。

ある事件をきっかけに、私はそのことを思い知らされる。



そう気づいた日から、私は長いあいだ矛盾の中で苦しむことになる。

それでも、私にとって家族としての拠り所は、母しかいなかった。



母の離婚をかけた本気の家出


中学生のとき、母が長期にわたり家を出た。

母は以前から、何度も実家へ帰っていた。

けれど、このときだけは違った。
離婚の危機を感じた、本気の家出だった。


父と祖母たちとの生活に耐えかねて、私たちが寝ているあいだに母は実家へ帰ってしまった。

私は十三歳だった。

その頃の私は、母の味方でいるつもりだった。
母を応援していた。
この長期戦の家出で、離婚が成立すればいいと
本気で思っていた。

「母よ、粘れ」と心の中で思っていた。

父に殴られたり、髪を引っ張られたり、
罵倒されたりすることには、もううんざりしていた。
痛かったし、辛かった。

元々、毒の原点は父方の親戚たちの価値観にもあったと思う。
嫁を追い出すことを武勇伝のように語るような、古い男尊女卑の空気が残っていた。


何か問題が起こると、
父は祖母をかばい、祖母は父をかばった。

そして、母や私たち子どものせいにされた。

それならもう、私たちは要らないではないか。
「どうぞ親子でやってください」
私はそんなふうに、心の中で突っ張っていた。

母が出ていったことを、私は父への最後通告だと思っていた。
母が意地を張るなら、私も意地を張ろう。
私も頑張るから、お母さんも簡単に帰ってこないで。
離婚に向けて、私たちは団結して戦うのだ。

これは、我慢ではなく忍耐だ。
そう思うことで、私は自分を奮い立たせていた。

この頃の私は、まだ自分の感覚を信じていた。



祖母の作る弁当のグレードが下がっていく


母がいなくなった家では、最初のうち、祖母が私のお弁当を作ってくれていた。

けれど、そのお弁当はだんだんとグレードが下がっていった。

おかずは減り、彩りはなくなり、限りなく日の丸弁当に近いものになっていった。

私が「おいしい」と言わなかったからだと思う。

でも、言えるはずがなかった。
思春期で素直になれなかったこともある。
けれどそれ以上に、私は母の味方でいるつもりだった。

母を追い詰めた側の家の人に、笑顔で「おばあちゃん、ありがとう」などと言えるはずがなかった。

父には言われた。
「おばあちゃんにありがとうと言え」と。

けれど、どんなに怒られても、私は言わなかった。
言いたくなかった。


あの頃の私は、大人たちが自分の感情ばかりを優先しているように感じていた。


だから私は、自分でお弁当を作ることにした。

父から最低限のお金をもらい、買い物に行って、家にある材料で、なんとか作った。
今思えば、十三歳の子どもが一人で抱えることではなかった。
けれど当時の私は、それが母への応援になると思っていた。
きっと願いは叶う、そう思っていた。

そんな生活が二ヶ月ほど続いた頃、
父に言われた。

「お母さんに帰ってきてもらわないと困る」と。

父は言った。
「家が回らないから、お前、お母さんに帰ってきてくれと言えるか?ただし、俺に言われたとは言うなよ」
とんでもなく身勝手なミッションだった。
子どもだった私に、大人同士の問題を解決する
役割を背負わせたのだ。

要するに、母を連れ戻してこい、ということだった。

断ればどうなるかを、私は知っていた。
だから行くしかなかった。

自分の意思とは裏腹に、私は母の実家へ向かった。

母は、そこに一人でいた。
母方の祖父母は、以前から予定していた旅行に出ていた。
母はその留守番をしていたのだ。



母なら、私の気持ちを分かってくれると思っていた。

私は母の味方でいたのだから。



お母さんは、私を褒めてくれる。



十三歳の私は、母を迎えに行くのではなく、母に抱きしめてもらいに行くような気持ちだった。


けれど、現実は違った。

母は私を責めた。

「なぜ来たの」
「お父さんに言われて来たんでしょう」

そう言われた。

そして私は、祖父母の家の玄関に立たされた。
白状するまで家には上げない、と言われた。




私はわけもわからず、謝った。

そして、玄関で土下座をした。



このときほど、泣いたことはない



そのとき、涙がこぼれ落ちた。
これでもか、と泣きじゃくった。

なぜ、私がこんなことをしなければならないのか。
私は母を信頼していた。
母を慕っていた。
母の味方でいようとしていた。

それなのに、どうして母は私にこんな仕打ちをするのだろう。





そこで私は、薄々気づいてしまった。

母が来てほしかったのは、私ではなかった。
母は、父に来てほしかったのだ。

父に謝ってほしかった。
父に追いかけてほしかった。
父に、自分を選び直してほしかった。


私は母の娘だった。
けれど、その場で母が見ていたのは、娘としての私ではなかった。





離婚したかったのではないのか?


母は結局、なんだかんだ言いながら家に帰ってきた。

そして母は、実家の祖父母にも不満をぶつけた。
自分が困って帰ってきたのに、予定していた旅行をキャンセルしてくれなかった、と。

でも、祖父母には祖父母の人生がある。
子どもだった私にも、それは分かった。

その時、私は気づいた。
母が一番心配していたのは、私たち子どものことではなかった。

「働きたくない」
「自分の入る墓がない」
「モテないから、新しい男の人なんてできない」

母の口から出てくる言葉は、いつも自分自身の不安ばかりだった。

私たちを守りたい、という言葉は出てこなかった。

そのとき私は、はっきりとは言葉にできなかったけれど、何かが壊れたのだと思う。


私は母を守ろうとしていた。
でも母は、私を守る人ではなかった。

ただ、母自身も誰かに守られることを求めていたのかもしれない。

母は、一人の女性として、まだ自分の人生を生きる準備ができていなかったのかもしれない。

そのことに気づいた時、私は深く傷ついた。

なぜなのか。
離婚したかったのではなかったのか。

その矛盾が、十三歳の私の心に、ぐるぐるとまとわりついた。


母は父を愛していたのかもしれない。
それとも、父に必要とされる自分を手放せなかったのかもしれない。

私には、そのどちらなのか分からなかった。
ただ、信じていた母に届かなかったことだけが、苦しかった。

このときから、私は人間不信に陥っていったと思う。

でも、長い年月を経た今、私は少しずつ分かるようになった。


母を変えることはできない。
けれど、自分の人生をどう生きるかは、自分で選ぶことができる。

私は母と同じ道を歩かない。

自分自身の足で立っていきたい。


「お母さん、自信を持って」



もう、誰かに選ばれることで自分の価値を確かめなくてもいい。


これからは、自分で選んで生きていきたい。

誰かの人生ではなく、私自身の人生を。



ここまでお読みいただきありがとうございます。


参考文献



※この記事を書くにあたり、あらいぴろよさんの『虐待父がようやく死んだ』を読み、私自身の育った環境と似ていることから、親子関係や機能不全家庭について考えるきっかけをいただきました。




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