興味本位で(笑)盛り上がるイマドキの企業のOB会を覗いてみませんか… その7 続編5 移動だけでも勝手に自分を盛り上げる貪欲さ 当たり前過ぎて意識しなくなっていること
人間60年以上してるんでOB会の道すがら、色々な場所に思いや思い出がいっぱい…
半島のローカル駅前から楽しみ尽くす…
と云う話の続き。
こんな事まで考えて電車に乗ってるの
と驚くかと思いますが、マジ(笑)そうなんです。
だから楽しくて仕方ない…
今回は生麦駅から先にある旧花月園前駅。今は花月総持寺駅。遊園地としては太平洋戦争終戦前に機能不全に。“よみうりランド”、今となっては“としまえん”迄も閉園する今の流れの先駆け。
名前が特徴的で記憶に残る駅でした。その後競輪場になって、余り良い感じでは無い印象。この駅に近くなると何となく京急のお客さまの層が苦手な方々になる… 今はよく整備された公園になって居ます。總持寺(そうじじ)は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗の仏教寺院。永平寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)。1911年に石川県鳳至郡門前町から現在地に移転したとのことなんですが…
寺と云えば… 同期で東京工業大学(現東京科学大学)の銀時計組のマスター卒。お父さんが私の勤めていた鉄鋼会社の役員で新規事業担当だった事も有り新入社員育成指導の3年間を過ぎて間もなく、新規事業関係の子会社の社長に就任。その後も輝かしい職位を… ところが今年の年賀状で知った事ですが、地元に帰ってお寺の住職になったとのこと… そう云えば会食時に良く”徳を積む“話題を持ち出して酒の肴にしていました。そんな事まで思いが及んでしまいます。
因みに生麦駅の話題で触れた魚屋さん。旧東海道沿いに新鮮な魚介類が購入できる生麦魚河岸の最寄り駅。
そして程無くして鶴見駅。
京浜工業地帯の企業の方々の足。鶴見線の起点。そこには日本の工業化への歩みの一翼を担った京浜工業地帯の歴史が…

鶴見駅を起点とする鶴見線は、京浜工業地帯の発展と密接に結びつき、その通勤の足として非常に重要な役割を担ってきました。その歴史は複雑で、単なる旅客輸送だけでなく、貨物輸送の変遷も大きく関わっています。
鶴見線の誕生と京浜工業地帯の発展
鶴見線の前身は、1926年(大正15年)に貨物路線として開業した鶴見臨港鉄道です。この路線の設立は、京浜工業地帯の「父」とも呼ばれる実業家、浅野総一郎の壮大な埋め立て計画に端を発します。
* 埋め立て事業と工業地帯の形成: 浅野総一郎は、欧米の先進的な港湾都市を視察し、日本が港湾施設の整備で大きく立ち遅れていることを痛感しました。そこで、東京湾の遠浅の海岸を埋め立て、大型船が着岸できる工業用地を造成する計画に着手。1908年(明治41年)に埋め立てを出願し、地権者や漁業権との調整を経て、1913年(大正2年)に着工、1922年(大正11年)には広大な工業用地が造成されました。
* 鉄道の必要性: この埋立地には、浅野造船所(後の日本鋼管)、浅野セメントなどの工場が次々と建設され、京浜工業地帯の中核を形成していきました。しかし、陸上交通の不便さが課題となり、原料や製品の輸送、そして工場で働く人々の通勤の足として鉄道が必要不可欠となりました。
* 鶴見臨港鉄道の設立: こうした背景から、浅野総一郎らが中心となって鶴見臨港鉄道株式会社が設立されました。当初は、埋立地内の工場群への貨物輸送を主な目的としており、現在の鶴見線が京浜東北線の鶴見駅に乗り入れるようになったのは、1934年(昭和9年)のことです。1930年(昭和5年)には電化とともに旅客輸送も開始され、工場の従業員の通勤輸送が本格化しました。
鶴見駅の役割と変遷
鶴見駅自体は、鶴見臨港鉄道の開業よりもはるかに早く、1872年(明治5年)に日本で6番目に開業した鉄道駅として誕生しています。当初は旅客駅として営業していましたが、京浜工業地帯の発展とともに、貨物取扱も開始され、重要な物流拠点となっていきました。
* 初期の鶴見駅: 明治時代に日本初の鉄道が開通した際、鶴見駅もその一員として開業しました。初期の鶴見駅は東海道本線の駅として、主に旅客輸送を担っていました。
* 工業地帯との連携: 大正時代に入り、鶴見の臨海部に工場群が形成されると、鶴見駅はこれらの工場とを結ぶ貨物輸送の拠点としても重要性を増します。鶴見臨港鉄道の鶴見駅乗り入れは、この連携をさらに強固なものにしました。
* 戦時買収と国有化: 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)7月1日、鶴見臨港鉄道は戦時買収私鉄に指定され、国有化されて「鶴見線」となります。これにより、より公共性の高い交通機関としての性格を強めました。
* 通勤路線の特化: 戦後、高度経済成長期を経て京浜工業地帯がさらに発展すると、鶴見線は工場で働く人々の通勤輸送に特化した路線へと変貌していきます。特に平日の朝夕の通勤ラッシュ時の混雑は非常に激しく、日中や休日には極端に運行本数が少なくなるという「都会のローカル線」とも称される特徴を持つようになりました。
* 時刻表の特性: 工場の始業・終業時間に合わせてダイヤが組まれており、特定の時間帯に運行が集中します。そのため、「1本逃したら次の電車が数時間後」という状況も珍しくありません。
* 利用者の変化: 現在でも、鶴見線の利用者のほとんどが工業地帯で働く従業員ですが、最近では海芝浦駅のような「出られない駅」やレトロな雰囲気の国道駅などが、鉄道ファンや観光客の間で「都会の秘境駅」として知られるようになり、昼間や休日の利用者がわずかながら増加する傾向も見られます。
* 貨物輸送の衰退: かつては貨物輸送も活発に行われていた鶴見線ですが、トラック輸送の普及などにより、貨物輸送の比重は大きく低下しました。鶴見駅での貨物取扱は、1974年(昭和49年)に廃止されています。
複雑な歴史が織りなす鶴見線の特徴
鶴見線は、その誕生から現在に至るまで、京浜工業地帯の経済活動と人々の暮らしを支え続けてきた歴史を持ちます。
* 私鉄から国有化へ: 浅野総一郎という個人の企業家精神と、京浜工業地帯の発展という国家的な要請が融合し、私鉄として開業した路線が戦時中に国有化されるという、日本の鉄道史における典型的なパターンの一つと言えます。
* 多岐にわたる支線: 工場群へのアクセスを重視したため、扇町、海芝浦、大川と複数の終着駅を持つ複雑な路線網を形成しています。これら支線は、それぞれ特定の工場の貨物や通勤輸送のために建設された歴史を持ちます。
* レトロな駅舎: 国道駅に代表されるような、開業当時の雰囲気を色濃く残す駅舎も多く、京浜工業地帯の歴史を今に伝える貴重な存在となっています。特に国道駅の高架下には、第二次世界大戦中の機銃掃射の痕が今も残り、激動の歴史を物語っています。
鶴見線は、単なる通勤路線としてだけでなく、日本の近代産業の発展と、それに伴う人々の生活の変化を映し出す、生きた歴史遺産とも言えるでしょう。
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鶴見駅駅へのデビューは大学生時代。しかもセットで極めて特徴的な駅である海芝浦駅へのデビューに重なります。
懐かしいなぁ…
まさかこの路線で通勤する事になるとは…
閑話
大学時代、基幹産業の雄、鉄鋼会社の本社に勤めるって何となく希望していました。丸の内。
運も手伝って入った希望の鉄鋼会社。しかし新入社員は誰も本社配属にはならず…
私がその希望を叶えるのは解析、新規事業、地方の秘密工場、米国駐在、新工場立ち上げと先端半導体の商品化で15年楽しみ、実績を積んで満を持して大きく技術系から事務系に異動した時でした。憧れの丸の内本社での仕事も快適でした。
閑話休題
工場見学と云う科目が有って、各業種毎に先輩が居る工場を見学して単位が取得できる科目。遠い所では神戸にある製鉄所、福山にある製鉄所、名古屋の自動車組立工場などなどを訪問し、一般的な工場見学とは異なり大学の授業と云う事もあり、こんな事まで開示してくれるのかと云う施設や情報満載。学生でもその授業の価値は充分理解できました。私の居た大学は政治経済学部と理工学部は看板学部で先輩方の後輩への思いが伝わる… 流石最難関私立大学だと感心しました。この授業で既存の工場を集約し、人工島を造って纏まった広大な敷地に銑鋼一貫の直線的な合理的レイアウトの生産設備を京浜と福山に集約している鉄鋼会社に就職先を決めた曰く付きです。勿論研究所も大学の研究所とは比べ物にならない程の充実ぶり。しかも研究員よりも実験補助や機器の保守をして頂くアシスタントの数が遥かに多い。衝撃的でした。
そんな充実した授業に取り上げられたのが鶴見線の海芝浦駅直結の東芝さん。その駅は鉄道ファンには有名で当時はカーブの曲率が大きく、旧型の全長の短い車両が起用されて居ました。今と異なり大きな窓ガラスは作れず、鋼材の接合も電磁シーム溶接等は無いので只管リベットを打って… その複雑な造形が今となっては逆に美しく感じるのです。
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JR東日本海芝浦駅は、鶴見線の終点の一つであり、その特異な立地と歴史から鉄道ファンに人気の高い駅です。特に旧国鉄時代には、その特殊な運用形態から短尺車両が長く活躍したことでも知られています。
海芝浦駅の歴史
海芝浦駅の歴史は、元々東芝京浜事業所(旧・東京芝浦電気鶴見工場)への貨物輸送を目的として建設された鶴見臨港鉄道の路線に遡ります。
* 1940年(昭和15年)11月: 鶴見臨港鉄道の新芝浦駅から海芝浦までの貨物線が開通しました。この時点では旅客駅ではありませんでした。
* 1943年(昭和18年)7月1日: 第二次世界大戦中の戦時買収により、鶴見臨港鉄道は国鉄に買収され、鶴見線の一部となりました。この際に海芝浦駅も国鉄の駅として旅客営業を開始しました。駅の改札を出るとすぐに東芝の敷地となるため、一般の人は駅の外に出ることができません。この特殊な構造は現在も変わっていません。
旧国鉄時代の車両と運用
海芝浦駅を含む鶴見線では、その路線の特性上、過去に様々な車両が活躍してきました。特に旧国鉄時代には、以下の様な特徴的な車両が起用されました。
* 短尺車両の活躍(17m国電など):
鶴見線は、カーブが多く、また工場地帯の狭い敷地を縫うように走るため、比較的車長の短い車両が適していました。
* クモハ12形など「17m国電」: 国鉄時代には、モハ11形、クハ16形、サハ17形など、車長が17m級の古い形式の電車(通称「17m国電」)が長く運用されていました。これらの車両は、戦前のモハ30系、モハ31系、モハ33系などをルーツとするものが多く、更新工事を重ねながらも、鶴見線のような支線区で細々と活躍していました。海芝浦駅のような終端駅での折り返しや、狭隘なヤードでの入換作業などを考慮すると、短い車両は非常に重宝されたと言えます。
* 特徴的な運用: これらの短尺車両は、通勤輸送の混雑時間帯を除けば、1両や2両といった短い編成で運行されることも珍しくありませんでした。特に、海芝浦支線は利用客が東芝関係者に限られるため、必要に応じて最小限の編成で運行されていました。
* 置き換えの経緯: 1970年代に入ると、これらの旧型車両は、より近代的な73系電車などに順次置き換えられていきました。しかし、一部の車両はさらに長く使われ、その姿は多くの鉄道ファンの記憶に残っています。
* 73系電車:
1970年代以降、鶴見線でも本格的に73系電車への置き換えが進みました。73系は、戦後復興期の通勤輸送を支えた代表的な車両で、鶴見線のような工業地帯の輸送にも適していました。海芝浦駅でも、これらの車両が頻繁に行き来する姿が見られました。
* 101系・103系電車:
さらに時代が下ると、国鉄時代末期からJR初期にかけて、より新しい101系や103系電車が鶴見線にも導入されました。特に103系は、国鉄を代表する通勤型電車として全国各地で活躍し、鶴見線においても長きにわたり主力車両として運行されました。海芝浦駅でも、これらの車両が東芝の社員や関係者を乗せて往来していました。
まとめ
海芝浦駅の歴史は、工場へのアクセスという特殊な背景と深く結びついており、その駅の構造自体が歴史を物語っています。特に旧国鉄時代には、その特殊な運用形態ゆえに、他の路線ではあまり見られなくなった短尺の旧型車両が長く活躍し、鶴見線の特徴的な風景を形作っていました。これらの車両は、海芝浦駅の「秘境駅」とも称される独特な雰囲気をより一層引き立てていたと言えるでしょう。現在では新型のE131系が導入されていますが、かつては様々な車両がこの地を走っていた歴史があります。

出典
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一度は乗ってみたかった希少な旧型国電車両に大学の授業で乗れるとは…
運と勘としつこさの人生の面目躍如
しかも駅の横は東京湾。申し訳程度に海沿いに短い遊歩道。東芝さん専用駅なので駅員さんは居らず、切符は箱に入れるだけ。何とも昭和な大らかさ… 見学では門外不出のタービンの見学と詳細な技術説明。圧巻でした。鶴見駅から海芝浦駅の事迄想起しちゃうんですよねぇ…
鶴見線は私のお世話になった鉄鋼会社もエンジニアリングや造船部門を経由しての研究所への通勤の足の一つでも有りました。と言っても基本は自動車通勤だったので専ら研究室の定例の飲み会の時の足(笑)。先輩達のお気に入りの町中華が鶴見駅に有り…
食後は何故かバッティングセンター。
意外だったのは大学の良く勉強されたと見えて瓶底眼鏡を掛けていた先輩係長さん。とても運動神経が良いとは思って居なかったのですが… バッティングセンターに皆で行くだけあって、皆さんお上手で驚きました。
締めはパーラーで甘い物と云う何とも研究所らしい… 皆さん結構個性的な選択で… 私は子どもの頃、食べる機会が少なくコンプレックスを持っているフルーツパフェを選択したのを覚えて居ます。
鶴見駅から鶴見線に乗っての最初の駅。国道。凄い単純な命名なんですが… 生麦の魚屋さんの話で話題にした魚河岸の名残り同様、高架の下に一寸した飲み屋街が有り昭和の雰囲気が残っていて実に猥雑。
こんな事を思い出しつつ… 鶴見駅を越えると…八丁畷(はっちょうなわて)駅。畷(なわてなんで)知らなかった…

因みに駅名の由来は、開業当時の地名から名付けられたもの。同駅付近は江戸時代、川崎宿(現在の小川町付近)から市場村まで、たんぼ道がまっすぐ八丁(約800m)ほど続いていたので八丁畷と呼ばれていたとのこと。
此処も良く通勤で利用しました。南武線の盲腸かなぁ… 尻手浜川崎線と云うローカル線との接続で。
因みに数年前、戯れに川崎駅から徒歩で行く煙モクモクだけど美味い旨い焼肉屋が有ると言われて行った店…
焼肉ジンギスカン つるや
044-211-0697
神奈川県川崎市川崎区日進町19-7
懐かしの八丁畷駅に思いっきり近かったので驚き、しかも懐かしさに浸りました。
とても歴史を感じさせる味のある駅名がつづく京浜急行本線。
そしてやっとOB会の会食場所の鰻屋がある川崎駅に。
つづく
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経緯
1980年代半ば。新入社員として入社した鉄鋼会社。大学での研究分野を順当に引き継いで最大の研究部門、鉄鋼研究所の物理解析の部門へ配属。
同じフロアに偶々勤務していた吾妹を拝み倒して結婚して頂きました。大学生時代の教訓を活かしての
何に対しても自分の人生は自分で決めるスタンス
フロアに夫婦を配置しないと云うお作法は珍しく、私が職場を変わり、新材料事業部と云う名の新規事業担当部門の予算で生きる人間に。そこで最先端電子部品の開発を。
その辺りは以下のその1でも楽しめます。
新規事業企画の面白さを知ったこの経験。鉄鋼分野の神髄の分野、世界最大の海外研究機関での研究開発経験者、国営通信会社からヘッドハンティングされた企画マネージメントのプロなどなど物凄い経歴の持ち主ばかり。精鋭部隊に新入社員の3年間の育成指導開けの私が入った感じでした。ですからそこでのチャレンジングな日々は忘れられません。覗くのは…そんな同じ釜の飯を食った兵(つわもの)の集うOB会。
昭和の香りプンプンのお作法でお食事会の内容と日程が決まりました。
当日。久しぶりの大好きな鉄道での移動の為に吾妹のお出掛けに便乗してスクーターでの少し遠いローカル駅へのツーリングを楽しむ… その間にその駅の歴史や付近の八幡様等に思いを馳せて知的欲求も満たす…
吾妹を見送って、駅までの散策でも歴史と今の人々の暮らしを楽しむ…
私の別荘のある半島は明治時代は船舶や例えば富岡製糸場を作る資材を造るなと日本の近代化の礎を築いた地域。80年余り前は半島全体が軍事施設。鉄道も国鉄と標準軌の私鉄が有り近現代史に彩りを与えています。
まぁ、大人のお作法として以下の知識を踏まえての鉄道旅。
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三浦半島と千葉の標準軌私鉄と旧日本軍の発展との関係
三浦半島と千葉に存在する標準軌の私鉄は、単なる地方交通機関というだけでなく、その成立と発展の過程において、旧日本軍の軍事戦略と深く結びついていました。標準軌の採用は、将来的な軍事輸送への対応を視野に入れたものであり、具体的な軍事施設へのアクセスを担う重要な役割を果たしました。戦後、これらの鉄道は平和利用に転換され、地域住民の生活を支える重要なインフラとなっていますが、その歴史の背景には、かつての軍事大国の姿が色濃く反映されていると言えるでしょう。これは、インフラ整備が単なる経済活動に留まらず、国家戦略と密接に連携していることを示す、興味深い事例であると言えます。
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今はJR東日本と分割民営化されたJNR(Japan National Railways 日本国有鉄道)もまた、この半島の近現代史には大きく関わって居ます。
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横須賀線横須賀駅の特徴と三浦半島国防の歴史的重要性
横須賀線横須賀駅の機能的な設計は、単なる旅客駅というよりも、軍港横須賀を支えるための軍事輸送拠点としての役割を色濃く反映しています。そして、三浦半島は、江戸時代の開国期における外国船来航への防衛意識の高まりから、明治以降の近代国家建設における海軍の拠点化、そして大規模な東京湾要塞の構築に至るまで、日本の国防上、常に極めて重要な位置を占めてきました。三浦半島全体が「軍事要塞」と表現される時期があったことは、その地理的特性と日本の近代化における軍事戦略が一体となっていたことを如実に示しており、日本の近代史を理解する上で不可欠な要素であると言えます。
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と、まぁ鉄道と云う切り口だけでも興味深いんですが、中々険しい地形的なと特徴を持つ半島の別荘生活で日常的に利用する鉄道トンネル/道路の隧道についても深掘りしてみました。
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三浦半島の鉄道と道路のトンネル/隧道の歴史:難所克服と国防・地域発展の軌跡
三浦半島の鉄道と道路のトンネル・隧道は、単なる地理的障壁の克服の歴史にとどまりません。その始まりは、近代日本の国防上の要請、特に横須賀軍港への迅速なアクセス確保という、国家的な重要課題と密接に結びついていました。横須賀線のトンネル群、特に田浦駅周辺の連続するトンネルは、その象徴と言えるでしょう。さらに、東京湾要塞の構築期には、文字通り半島全体が「地下の要塞」と化すほどの軍事関連トンネルが掘り進められ、その秘匿された歴史は現代にも影響を与えています。そして戦後は、これらのインフラが平和的な経済発展と住民生活の利便性向上へと転換し、三浦半島の豊かな自然と歴史的魅力を享受するための重要な要素となっています。三浦半島のトンネルは、日本の近代化と軍事史、そして平和な現代へと続く地域の歩みを、今も静かに見守り続けているのです。
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都区内で育った身としては、そもそも関東平野とは異なる地形的特徴を持つ半島の地学的な歴史にまで興味は及びます。
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三浦半島の地学的地形的特徴:地球創生から現代に至る変動の歴史 〜変動する大地が育んだ独自の地形
三浦半島の地学的地形的特徴は、地球創生期からのプレートテクトニクスという壮大なプロセスの結果として理解できます。特に、新生代における伊豆弧の衝突と海成層の堆積、そして第四紀における急激な隆起と浸食作用が、現在の複雑で変化に富んだ地形を形成しました。
* 東京湾の「喉元」としての地形: 複雑に入り組んだ海岸線と、東京湾に突き出す地形は、かつての国防上の重要性と深く結びついています。これは、地質学的な隆起と浸食が、戦略的な地形を生み出した例と言えます。
* 変動帯に位置する日本の縮図: 三浦半島の地質と地形は、日本列島全体がプレートの境界に位置する変動帯であることの典型的な例です。現在も隆起が進行しており、地震活動のリスクも抱える「生きている大地」であることを示しています。
* 学術研究の宝庫: その複雑な地質構造と活発な地殻変動の痕跡は、地球科学の研究対象としても極めて重要であり、多くの研究者が三浦半島の地質を調査し、地球の歴史解明に貢献しています。
このように、三浦半島の地形は、気の遠くなるような地球史の積み重ねと、現在も続く地殻変動によって形成された、まさに「変動する大地の縮図」と言えるでしょう。
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間口を少し広げて全般的な地域の歴史も概観してみました。
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三浦半島の歴史と国防:東京湾の「喉元」としての戦略的重要性の変遷 〜国防史を語る「生きた博物館」
三浦半島は、古くは武士団の拠点、江戸時代には鎖国下の対外警戒の最前線、そして明治以降は近代日本の海軍の中枢と東京湾要塞の中核を担い、「軍都」としてその姿を変えてきました。戦後も、米軍基地という形で国防上の重要な役割を継続しています。
この地の歴史は、まさに日本の国防史そのものであると言えます。ペリー来航の地、海軍の礎、そして太平洋戦争の記憶、さらには戦後の国際関係まで、三浦半島を歩くことで、日本の国防がどのように変化し、今日の姿に至ったのかを肌で感じることができます。三浦半島に残る歴史的建造物や遺構は、過去の国防の営みを伝える「生きた博物館」として、私たちに多くの示唆を与えてくれるでしょう。
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実に面白い。それらを踏まえて最後に平和な半島の今を概観。
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現在の三浦半島:国防の歴史を超えた平和的魅力の多層性
三浦半島は、かつての国防という重い歴史を背負いながらも、現代においてはその歴史遺産を平和的に継承し、豊かな自然環境、多様な文化、そして地域住民による温かいコミュニティを育む地域へと変貌を遂げています。戦争の記憶を語り継ぎつつも、海と緑に囲まれた穏やかな暮らし、そして人々が安心して暮らせる社会を築こうとする姿勢こそが、三浦半島が現在持つ最も大きな「平和的な魅力」であると言えるでしょう。これは、単なるレジャーの場としてだけでなく、持続可能な社会のあり方や、歴史と向き合い未来を築くことの重要性を私たちに示唆しているのです。
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とまぁ、これぐらいの事は頭に入れてのプチ鉄道旅。
吾妹への新鮮野菜や未来のレモンサワー等お土産満載のバックパックを背負って改札を抜けると…
標準軌の美しい線路。しかもアンバランスなホームの構造に驚きました。
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京急富岡駅のプラットフォームの特異な構成
京急富岡駅が下りは単線、上りは複線のプラットフォームを持つのは、京急線の輸送需要の変遷、特に上り方面の列車待避の必要性に応えるために行われた駅の改良工事の歴史的結果です。1987年のダイヤ改正で待避線が設置された際に、上り線のみにその設備が設けられたことが、現在の特異な配線に繋がりました。これは、限られたインフラの中で最大の輸送効率を追求する、鉄道会社の合理的な判断が反映されたものと言えるでしょう。
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こんな事に思いを馳せるのもまた鉄道マニアの醍醐味。
そして横浜駅手前の初期の短い車両時代の名残(なごり)の急な曲線区間。品川と北品川区間は絶滅しますが、此処は今のところは温存(笑)。そこには私鉄ならではの合理性が有りました。その中間には平沼駅の遺構。第二次世界大戦に翻弄され短命で消えた駅です。横浜駅手前では新田間(あらたま)川を眺めながら埋め立てや水害等の歴史を思い…2004年に自宅マンションがまさかの水害に遭って貴重な体験をしたことまで…
横浜駅を後にし駅間距離:1.6kmと直ぐに到着するのが神奈川駅。旧東海道沿いに有り付近には台場跡… 明治時代の外交官が仮に大使館として使った寺院も… 開国国直後の過渡期を担った地域です。この辺り迄は横浜駅近くに住んでいた居た頃散歩して楽しんだ思い出の地。
仲木戸駅。此方も将軍の鷹狩り場、宿営地の歴史も… 生麦駅。生麦事件の場所は、バスの運転士にもなりたかった夢の代替としてのトラック運転士時代抜け道として多用した旧東海道沿い。そして駅の反対側は曰く付きの法政女子高等学校。その辺りの話しは内緒です。(笑)
