わたしの転職体験 その4 事業企画への道 米国ベンチャーのLSI開発職出向·米国駐在から鉄鋼会社研究所LSI量産·試作工場開発職へ~当たり前過ぎて意識しなくなっていること
【経緯】
大学を卒業して希望していた鉄鋼会社に入社、専攻していた表面物理学を活かせる研究部門に配属されました。そこでのんびり論文ドクター位取ってから総合企画部、そして役員狙いかなぁとぽんやり考えていたのでした。
社内結婚を期に一気に人生が動きました。
夫婦同部署不可もあり、研究(コストセンター)から事業部門(プロフィットセンター)へ希望通りの転職。それを足ががりに会社の未来の中核事業へ転職。転職先の製造所の所長にアピールが功奏し、米国カリフォルニア州のシリコンバレーの最先端半導体ベンチャーに転職となりました。
【米国ベンチャー企業への転職】
スタンフォード大学帰りの教授の研究室での研究生活が活きて、直ぐに業務に慣れました。技術英語なので楽勝で既存技術の移管のための技術習得と量産工場向けの日本語書類の整備は直ぐに終わらせました。
しかし、新規商品の開発は厳しかった。設備が現行の先端装置で次世代の装置ではありませんでした。研究開発で培っかたチューニングノウハウを駆使して、無理やり次世代の商品開発を進めました。ですから台湾から量産技術を移管していたテームが担当していた次世代の製造装置での量産試作設備準備状況を常に確認していました。それに合わせて開発を調整していくという地味な作業も加えつつの、最先端商品の開発は、一寸古い設備を改造しまくって国際的レベルの研究を進めていた学生時代を彷彿(ほうふつ)とさせるものでした。
でも楽しい
チェコスロバキア人の開発パートナーとフィリピン人のアシスタント、韓国人や台湾人の仲間とまさに国際的環境での開発でした。
夜中まで働いて、カリフォルニアの夜空を見ながらいつもひまわりのタネを食べていた夜勤の受付の方に長話を、特にボーゲル氏の“Japan as No.1”がベストセラーになり、日本の就労環境に関して質問攻めにあったことも、今となっては楽しい思い出です。
【政治家ではなく私企業に就職を選択して良かった】
そして2年後。私だけは海外慣れしてるとのことで最後まで米国に残っていました。そして世界最大のIT企業に工場管理システムのプラットフォームを用意させて、そこに鉄鋼会社の持つ全自動多品種大量生産技術を惜しみなくつぎ込んだ最新量産試作工場が完成したのでした。そして全ての業務を完了し帰国。
希望通りのLSI量産·試作工場開発職へ転職でした。
この海外への転職で、子供の頃からなりたかった国際人になったんだなとしみじみ感動していました。
素敵な転職の連続
帰国後、真新しい試作工場を見て感動。基幹産業の面目躍如。米国のベンチャーに2年間居たので、その設備の充実度は衝撃的でした。
【世界初の装置のみ】
製造装置は次世代のもののみでした。
【生産性2倍】
シリコンウェハ(シリコン単結晶の円盤で、その表面に半導体を作ります)の直径も標準の6インチではなく当時誰も量産に使っていない8インチ。生産性が約2倍でした。
【鉄鋼生産で培った技術が惜しげもなく投入】
加えて各装置にシリコンウェハを搬送して処理をしていくのですが、コンピューター制御の全自動で全く人の手は使いません。
夢のような人生の展開が続きました。
蛇足
シリコンバレー駐在時の小ネタ2つ
「私だけは海外慣れしてるとのことで最後まで米国に残っていました。」のでそのまま米国駐在員としてリエゾン業務をしないかという話が有りました。しかし、マジで日本食が恋しくなって限界、というのは洒落で、上昇志向の強い私は次期主力事業の中核から総合企画部経由役員というキャリアパスにこだわっていました。
ちなみに吾妹は米国駐在員も良いのではと勧めてくれました。王道を歩めという大学の担当教授の手向(たむ)けの言葉を胸に、帰国を選択したのでした。
その頃日本ではバブルが崩壊し始めていました。
しかし、次期主力事業ということで全くその影響を受けず、むしろ事業化を急ぐ動きに。この後も驚くほどの高待遇で思いっきり新規事業開発を楽しめる未来が待っていました。
運と勘としつこさ
が引き寄せた転職人生が続きます。
補
宜しければこちらもお楽しみ下さい。
