#37 完璧な防具としてのペルソナ : 都市に提出する、3文字の境界線。
プラスチックのカップに貼られた感熱紙のラベル。
そこには、私の本名ではない、けれど私の血が半分通った名前が印字されている。
この街における、ハンドルネームの扱われ方は極めてドライで合理的。
ビジネスでも日常でも、人々は驚くほどカジュアルに英語名や別名を使いこなし、生活している。
本名とオフィシャルな自分の間に、1枚のスマートなスクリーン(境界線)を引く。それがこの都市の、暗黙のドレスコード。
日本人相手に仕事をする現地のビジネスパーソンが、呼びやすさを配慮して「田中です」とシレッと日本姓を名乗る処世術。
日本では一度もこれに遭遇した記憶がないけれど、香港でもバンコクでも、ビジネスパーソンは概ね英語名を持っていたりする。
因みに、不動産会社の担当者は「Jason」という上海人だった。
深夜でも光の速さで返信が返ってくることもあれば、面倒な交渉事になると、数日間この世界から姿を消すこともある。
Jasonという記号だけは、不思議なくらい最後までブレない。
その一方で、とっくに70歳を超えているであろう老練な漢方の先生は、ジェラピケもどきのラブリーな部屋着を羽織りながら、現役で「リカちゃん」というあまりにチャーミングな愛称を名乗り、気功の講義をしている。
不都合なノイズを遮断するための「Jason」と、他者との摩擦を和らげ、世界を少しだけまあるく生き抜くための「リカちゃん」。
どちらも、本名という呪縛から身軽になり、この巨大な都市をサバイブしていくための、実によく出来た仮面の使い手たち。
郷に入っては郷に従え、というわけではない。ただ、このスマートな仮面舞踏会の運用が、そろそろ私にも必要な場面が見えてきた。
キラキラした偽名を名乗ったりなどしない。
自分のパーソナルな輪郭を他者には見えない形で裏地に染み込ませることにした。
ひとつは、生まれてこの方、今のこの年齢にいたるまでずっと呼ばれ続けてきた、身体に馴染んだあの響き。
もうひとつは、かつて観た、そして今も自分を惹きつけてやまない、偏愛するアジア映画監督へのオマージュ。
その2つのピースを掛け合わせ、現地のデータベースに最も自然に溶け込む3文字の漢字と、そしてアルファベットの並びをスマートに調律する。
中国人がパッと見れば、ごくありふれた、それでいてカルチャーへの造詣が深い大人の女性を連想する字面。
これにより、都市のノイズに紛れる完璧な防具としてのペルソナが、スタバの感熱紙という極めてありふれた物質としてこの世界に産声を上げる。
そうして私はシレっとステルス・デビューを果たした。
「標準の甘さ」でオーダーしたアイスラテは、いつもより少しビターで、格別に美味い。
スタバの店員や周囲の人間からすれば、私はただの「ラテを買いに来た、よくある名前の女性」に過ぎない。
あらゆる日常の属性をすべて剥ぎ取った、冷徹な一人の観察者。
この新しく手に入れた仮面をポケットに忍ばせ、これからこの巨大な都市の隙間を、どう歩いていこうか。



