#36 都市が説明してくれなかった固有名詞 : スタバで知った都市のインフラ
上海のスターバックスで、新作メニューの看板を眺めていた。
そこに収まっていた、一人の男の顔。
ルックスのパッケージは、いわゆるアイドル系イケメンではない。
強いて言うなら、鈴木亮平を華奢にして、バカリズムの面相を混入させ、レザージャケットを羽織らせ、少しストリートの無骨さを足したような佇まい。
俳優か、あるいは新進気鋭のインフルエンサーか。
生活のあちこちで見かける割に、正体が掴めない。
でもついに先日、その下に添えられたアルファベットの記号を目にして、ようやく検索の指を動かした。
JAY CHOU。
中国語表記は周杰伦(ジョウ・ジェルン)。
調べてみれば、それは「ちょっと気になるイケメン」などという生易しい存在ではなかった。
C-POP界の生ける伝説。
日本で例えるなら、米津玄師の構築力、藤井風のグルーヴ感、星野源のマルチタスク、ミスチルの持続可能な汎用性。それらを一人に注ぎ込み、市場規模だけをマイケル・ジャクソン級に肥大化させたバグ。
2022年の世界アルバム売上チャートでは、テイラー・スウィフトやBTSを抑えて世界1位に君臨した男。
おそるべし、中華圏の市場規模。
ときに世界ランキングの景色まで変えてしまう。
それが、何の変哲もないストリートの兄ちゃんのような顔をして、スターバックスのサイネージでおしゃれに身体をクネらせていた。
YouTubeで10曲ほど、その音源を漁ってみた。
なるほど。
大衆向けのマスポップスの体裁をとりながら、その構造は職人的に冷徹で、捨て曲が一切ない。
クラシックの緻密なコード進行に、伝統的な中国の記号が絶妙なバランスで溶け込んでいる。
思い返せば、タクシーで何度も聴いていたこの声。
雰囲気の良いカフェでよく流れていたイントロ。
地下鉄。
商業施設の広告。
上海で暮らしていると、周杰伦(JAY CHOU)は空気のように現れる。
でも不思議なことに、誰も説明してはくれない。
必要がないほど、社会のインフラと化している。
思えば、上海に来たばかりの頃は、すべてが珍しかった。
建物も。
街路樹も。
コンビニの棚も。
知らないものだらけだった。
でも二年目も半分を過ぎると少し変わる。
生活の文法が分かり始める。
タクシーの乗り方も。
病院の受付も。
フードデリバリーの使い方も。
異国は少しずつ日常になっていく。
その一方で、違和感だけはまだ残っている。
だから目に留まる。
誰も説明してくれない巨大な存在。
街の人々にとっては空気のように当たり前なのに、自分だけが知らないもの。
周杰伦も、そのひとつだった。
たぶん、この感覚は長くは続かない。
来たばかりなら、すべてが異文化に見える。
五年も住めば、きっと当たり前になる。
その中間。
違和感は残っているのに、街の文法は少し分かってきた。
いまはそんな時期なのだと思う。
だから今日もまた、上海というコンクリートジャングルで、誰も説明してくれない獲物の足跡を探す。
