一族と百年。松家仁之、光の犬
読み手を選んでしまう小説がある。
松家仁之の『光の犬』はまさにそれだ。
導入部から読者の見識を試す。
なかなか挑発的な作品だと感じた。
出版社の紹介帯には架空の町を舞台にした百年に及ぶ一族の終焉を描いた物語と要約されている。
このコピーを目にして素通りできる読書家はいない。
松家仁之の「光の犬」(2017)に着想を得て録音。
録音時期:2025年9月
ガルシア・マルケス『百年の孤独』は生命そのものに重みはなく季節が巡るように魂が散っては咲いてを繰り返し変容する様が強烈な印象を残したのに対し、本書は登場人物の死、そして生の瞬間がその場に居合わせかのような臨場感で繊細に描かれる。
一同は屈折した思いを抱え時間と共に成長し、老いに翻弄される。
その描写も異様にリアリティがある。
物語の中で展開される宗教、天文学、医学にまつわるエピソードも抽象的な描写は一切なく一様に説得力がある。
にもかかわらず、この小説には決定的に何かが欠けている。
一族と彼らを取り巻く人々の断片的な話に終始し、物語を牽引するドラマが乏しい。いや、ドラマすらない。
読み進めると次第に登場人物は作家の知識を露骨にひけらかすための狂言回しであることに気がつく。
この小説は他人のエピソードをつなぎ合わせただけの代物だ。
作家が物語に登場してこそ小説は完成する。
そんな冷ややかな気分で読了に向けて頁を捲った矢先だった。
不意にこの物語の主題が明らかになる。
これは小説という体裁を借りた作家自身の半生であることが明示される。
さらに、共感さえ不要だ、と釘を刺す。
その瞬間から、それまでのソフィケイトされた文筆は一転、武骨でエモーショナルな描写に様変わりしていく。
当然、物語の景色も変わり果てていく。
全ての事象が加速をつけて立体的になり、日常という名の悪夢として読者に襲いかかってくる。
序章で掲げられる消失点なる気取ったワードも最後は跡形もなくなり、文字通り消失する。
素晴らしい。
この壊れ方。
これぞ小説の真骨頂、と呼べる瞬間だった。
楽曲『光の犬』ついて。
2025年9月、本書を読んでいた。
その時、音信不通だった知り合いから直島にいるとの連絡があった。
コロナ禍の最中に瀬戸内海を放浪した果てに直島に行き着いた自分に対して真っ先に伝えたかったとのことだった。
自分が訪れた直島は観光客が全くいない解放感と人影さえない殺伐とした奇妙な孤独感の相反する空気が漂う稀有な場所として記憶に刻まれていた。
島の外れにあるミュージアムショップまで足を運んだ。
そこでようやく島の人間に出会えた。
「夕方には嵐が来ます、短い時間ですが島を楽しんでください」
コロナ禍におけるの配慮ある端的な会話だった。
そんなことを思い出しながら直島をテーマにしたアルバムの録音を始めた。
光の犬はそのクロージングトラックとして録音した。
動物が苦手な自分にとっては、貴重なタイトルとなった。
