桜 雑感

昨日は桜が満開でした。
目黒川だ千鳥ヶ淵だと、有名な名所に出かけなくても、日々の散歩のなかで、はっと息をのむような桜に出会うことがあります。それも一か所ではありません。
街のあちらこちらに、さりげなく、しかし確かに存在しています。
桜は、特定の場所に閉じ込められたものではありません。日常のなかに静かに広がり、人の心を包み込みます。
この包摂の感覚こそ、日本人にとって桜が特別である理由なのかもしれません。
桜を見ていると、時間のあり方について考えさせられます。
四季は毎年巡る循環的な変化ですが、人の人生は不可逆的に進みます。
一度きりの時間を生きる私たちにとって、毎年変わらずに咲く桜は、どこか慰めであり、同時に切なさの源でもあります。
在原業平は「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠みました。
桜があるからこそ人の心は揺れ動く。しかし、その儚さゆえに、桜は深く心に残るのでしょう。
散ればこそ美しい――その感覚は、日本人の美意識の根底に流れているように思います。
桜の美しさについて考えるとき、私は新渡戸稲造の言葉を思い出します。
彼は『武士道』の中で、日本人の精神を桜にたとえました。
西洋の人々がバラの華やかさを愛するのに対し、日本人は淡く静かに咲き、潔く散る桜に美を見出します。
桜は棘も毒も持たず、自然の呼び声に従っていつでもその命を手放す覚悟を持つ花です。
その姿に、日本人は理想の生き方を重ねてきたのでしょう。
もっとも、現代の私たちは、その感覚をどこまで保っているでしょうか。
桜の下に集まる人々の様子を見ていると、他者への気配りよりも、自分の都合や楽しみが優先されている場面に出会うこともあります。
かつて自然との付き合い方が人の在り方を決めると言われたように、桜との向き合い方は、そのまま人と人との関係にも映し出されます。
花見の席で、「気配り」と「気遣い」の違いについて話したことがあります。
気配りとは、他者のために未来を見て行動すること。
一方で気遣いは、今この瞬間の自分や相手の距離を測る行為とも言えます。
日本人は気遣いには長けていますが、行動としての気配りは必ずしも多くない。
桜の下でさえ、その違いが見えてくるのは興味深いことです。
また、日本人の特質としてしばしば語られる「運命に逆らわない」姿勢も、桜とどこか通じるものがあります。
流れに抗わず、自然のなすがままを受け入れる態度は、美徳であると同時に、現実から目をそらす弱さにもなり得ます。
ビジネスの現場では、意思決定を先送りする傾向として現れ、しばしばリーダーシップの欠如と見なされます。
しかし、その根底にある感性は、桜を愛でる心と同じ地平にあるのかもしれません。
春になると、さまざまな記憶がよみがえります。
松尾芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜かな」という句の通りです。
人生は一度きりでありながら、記憶は季節とともに何度でも立ち上がってきます。
その繰り返しのなかで、人は少しずつ自分自身を理解していくのでしょう。
桜は毎年咲き、そして散ります。
その姿は変わらないようでいて、見る側の私たちは確実に変化しています。
だからこそ、同じ桜であっても、同じようには見えません。
春は始まりの季節です。
英語で卒業式を意味する「commencement」が「始まり」を意味するように、一つの終わりは新しい始まりでもあります。
桜の下で立ち止まり、これまでを振り返りながら、次の一歩を考えるには、これほどふさわしい季節はありません。
一時、日本も入学式を9月に移すべきだという議論があったと思いますが、何をかいわんやです。
桜は何も語りません。
ただ咲き、ただ散るだけです。
しかしその静けさの中に、日本人が長く抱えてきた時間感覚や美意識、そして生き方の問いが凝縮されています。
今年もまた、桜が咲きました。
その意味を、今年は少し立ち止まって考えてみてもよいのではないでしょうか。
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