【8月12日・特別記事】JAL123便――私が「圧力隔壁」に疑問を持った理由

あの日、ここで何が起きていたのだろうか。
この話題には、できれば触れたくありませんでした。
1985年8月12日。
日本航空123便が、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落しました。
乗員・乗客520人が亡くなりました。
あれから41年。
8月12日になると、私は今でもこの事故を思い出します。
事故そのものだけではありません。
私には、子供の頃から飛行機について教えてくれた一人の叔父がいました。
その叔父が、この事故について語った言葉が、今でも私の頭から離れないのです。
私に飛行機を教えてくれた叔父
私が子供の頃から影響を受けた大人は何人かいます。
自然農法の川口由一も、その一人です。
しかし、もっと身近なところで私に影響を与えた人がいました。
私のもう一人の叔父です。
叔父は東京の人でした。
そして、死ぬまで関東弁でした。
晩年は奈良で暮らしていましたが、私の記憶の中では、ずっと東京の人です。
若い頃の叔父には、妙な口癖がありました。
「俺はいつか中国大陸へ渡って、モンゴルで馬賊の頭目になるんだ」
子供だった私は、本気なのか冗談なのか分かりませんでした。
ただ、
「この人なら、本当にやりかねない」
とは思っていました。
戦闘機からYS-11、そして飛行船へ
叔父は、戦争中、陸軍の「隼」のパイロットだったそうです。
宮中警護や首都警備を任務としていたと聞いています。
戦後は航空自衛隊に入り、最終的には空将補で退官しました。
普通なら、そこで航空人生は終わっても不思議ではありません。
しかし、叔父は違いました。
退官後は民間航空会社に入り、YS-11の定期便の機長を務めました。
その後は、同じ航空会社でパイロットの育成にも携わりました。
飛ぶことが、仕事であり、人生そのものだったのだと思います。
さらに面白いのは、その後です。
叔父は、日本で最初の飛行船である「日立キドカラー号」のパイロットとして、日本全国を回りました。宣伝飛行をしながら全国を巡り、その経験によって飛行船パイロットの資格を取得した、と聞いています。
戦時中は戦闘機。
戦後は自衛隊。
その後は旅客機。
そして飛行船。
叔父の人生そのものが、日本の航空史の一部のようでした。
「まっすぐ飛ばない」セスナ
その後、叔父は古いセスナを一機購入しました。
大阪八尾飛行場をベースにして、セスナのパイロットを育てていました。
そのセスナが、また面白い飛行機でした。
かなりのオンボロです。
叔父は笑いながら、
「この飛行機は、まっすぐ飛ばないんだぞ」
と言っていました。
そして、岐阜羽島の上空を飛んでいたら、新幹線に抜かれたという話もしていました。
もちろん、飛行機と新幹線では速度の条件が違います。
でも、叔父はそんな話を楽しそうにしていました。
飛行機は、単なる機械ではない。
機体には一機一機、癖がある。
操縦する人間が、その癖を知って飛ばす。
子供だった私は、そんなことを叔父から教わったのだと思います。
Uコンに夢中になった少年
私が中学一年生の頃、Uコン作りに夢中になった時期があります。
飛行機の模型を作り、ワイヤーで操縦する。
あの頃の私にとって、それは最高の遊びでした。
なぜ私がそんなものに夢中になったのか。
いま振り返れば、叔父の影響が大きかったのだと思います。
叔父は、飛行機がなぜ飛ぶのかを教えてくれました。
翼がどうして揚力を生むのか。
飛行機はどうやって旋回するのか。
簡単な操縦方法。
子供だった私は、そんな話を聞きながら、飛行機というものにどんどん惹かれていきました。
だから私にとって「飛行機」は、単なる乗り物ではありません。
子供の頃の記憶とつながっています。

「孫子を読め」
そして、叔父からもう一つ言われたことがあります。
「孫子の兵法を読め」でした。
なぜ飛行機乗りの叔父が、子供の私に『孫子』を読めと言うのか。
当時はよく分かりませんでした。
しかし、今になって考えると、叔父が教えたかったのは、単なる戦争の方法ではなかったのかもしれません。
相手は何を考えているのか。
自分はいま、どこにいるのか。
目の前に見えているものだけで判断していいのか。
状況はどう動いているのか。
そういうことを考えろ、と言っていたのかもしれません。
私は、叔父から直接そんな説明を受けたわけではありません。
ただ、子供の頃から叔父の話を聞いてきた私には、そんな感覚が残っています。
就職するときにも、叔父は変わっていた
私が就職するときにも、叔父は普通の大人とは違うことを言いました。
「企業なんか行かずに、警察へ行け」
そして、
「外事課で働け。これからは外国人がらみの犯罪が多くなるから」
と言いました。私が英語と中国語を勉強していたことを知っていたからです。
私は結局、警察官にはなりませんでした。
しかし、今になって振り返ると、叔父はいつも「これから何が起きるか」を考えていた人だったのだと思います。
中国大陸へ渡って馬賊になる。
孫子を読め。
外事課へ行け。
飛行機に乗り、飛行船に乗り、セスナを操縦する。
一見すると、ばらばらの話です。
しかし、そこには一つの共通したものがあったように思います。
世の中を少し先まで見て、自分で判断する。
それが叔父という人だったのかもしれません。
1980年頃の中野ブロードウェイ
叔父は東京・中野のブロードウェイに住んでいました。
1980年頃、私が東京勤務になり、東京でアパートを探していた時期があります。そのとき、私は叔父のところに泊めてもらいました。
当時の中野ブロードウェイには、今とは違う空気がありました。
沢田研二は、もう住んでいませんでした。
青島幸男は、まだいました。
私はそこで叔父の世話になりながら、東京での新しい生活を始めようとしていました。
いまの中野ブロードウェイを見ると、ずいぶん様変わりしました。
街も変わりました。建物の雰囲気も変わりました。
そこにいた人たちも、ほとんどいなくなりました。
でも、私の記憶の中には、1980年頃の中野ブロードウェイが残っています。
そして、その場所に住んでいた叔父の姿も残っています。
1985年8月12日、私は北京にいた
そんな叔父の影響を受けて育った私にとって、JAL123便の事故は、単なる航空事故ではありませんでした。
事故当日、私は中国・北京にいました。
アメリカのコンピューター会社の社員として、当時の中国の商務省のコンピューター室で、システムに関連する仕事をしていました。
日本航空123便が墜落したことを知ったのは、その日のことです。
翌13日、中国人のエンジニアたちと一日中、この事故について話しました。
日本人として。
中国人として。
そして、一人の人間として。
なぜ、こんなことが起きたのか。
人間の命とは何なのか。
運命とは何なのか。
若かった私たちは、そんなことを話していたのだと思います。
そして、この事故では、同じ会社の先輩も亡くなりました。
だから、私にとってJAL123便事故は、ニュースの一つではありませんでした。
叔父が言った「圧力隔壁はあり得ない」
事故の後、叔父ともJAL123便について話しました。
そのとき叔父は、
「圧力隔壁はあり得ない」
という趣旨のことを言いました。
私は航空事故の専門家ではありません。
叔父の言葉をもって、公式の事故原因を否定するつもりもありません。
ここは、はっきり書いておきたいと思います。
現在、運輸安全委員会が示している事故原因は、1978年に行われた後部圧力隔壁の不適切な修理に起因する疲労亀裂が進展し、隔壁が損壊。その後、尾部胴体、垂直尾翼、操縦系統が損壊し、飛行性能と主操縦機能を失った、というものです。事故調査報告書は1987年6月に公表され、運輸安全委員会は2025年にもこの見解を改めて説明しています。
これは、現在の公的な事故原因です。
私は、それを知らないわけではありません。
それでも、叔父の言葉が私の中に残っています。
なぜなら、叔父は航空について素人ではなかったからです。
戦時中の軍用機。
航空自衛隊。
YS-11。
飛行船。
セスナ。
そして、横田空域や横田RAPCONのこと。
長い年月、実際に飛行機を操縦してきた人でした。
だから私は、
「本当にそうなのだろうか」と考えるようになりました。
東京の空は、そんなに単純ではない
叔父は、早い時期から東京上空の民間航空機の飛行ルートについても話していました。
東京の空には、たくさんの民間航空機が飛んでいる。
それぞれが決められた高度、速度、航路を守りながら飛んでいる。
地上から見ているだけでは分からない世界が、空にはある。
私は子供の頃から、そんな話を聞いていました。横田空域のことも聞いていました。
だからJAL123便についても、私は事故調査報告書を読む以前から、
「今回の事故は、そんなに単純なものではない」
という感覚を持っていました。
もちろん、それは事故原因を説明する証拠ではありません。
叔父の経験も、JAL123便の事故原因を直接証明するものではありません。
ただ、私がこの事故について「本当にそうなのだろうか」と考えるようになった背景には、子供の頃からのこうした経験があります。
疑問を持つことと、陰謀論は違う
JAL123便については、現在もさまざまな説が語られています。
自衛隊機の動き。
米軍機をめぐる話。
ミサイル説。
操縦士の対応。
救援活動。
CVRやFDRをめぐる問題。
注)CVRやFDRについては、遺族が日本航空に対して生データ等の開示を求める裁判まで起こしています。東京地裁、東京高裁で請求は退けられ、最高裁でも上告が認められませんでした。事故調査報告書にはCVRの一部の書き起こしが掲載されていますが、遺族が求めた生の音声・データそのものが全面的に公開されたわけではありません。
これらを一緒にしてしまえば、簡単に「陰謀論」という言葉で片づけることができます。
しかし私は、
疑問を持つことと、陰謀論を信じることは違う
と思っています。
公式の事故原因を知る。
資料を読む。
証言を確認する。
異なる説があれば、その根拠を見る。
そして、それでも分からないことがあれば、
「私はここが分からない」
と言えばいい。
運輸安全委員会自身も、2025年の会見で、事故原因をめぐってさまざまな説がネットや出版物で語られていることを認めたうえで、現在の事故原因について改めて説明しています。
私は、こういう姿勢が大切だと思います。
「公式だから信じろ」でもない。
「公式だから嘘だ」でもない。
事実を確認し、自分の頭で考える。
それしかないのではないでしょうか。
1985年という年
そして、私にはもう一つ、気になることがあります。
1985年という年です。
JAL123便の事故から約1か月後。
9月22日、ニューヨークのプラザホテルでプラザ合意が結ばれました。
その後、円は急速な円高へ向かいます。
日本経済は大きく変わっていきました。
やがてバブル経済。
その崩壊。
そして長い経済停滞。
さらに、その後の政治と構造改革。
もちろん、JAL123便事故と、その後の日本経済や政治の変化を直接結びつける根拠を、私は持っていません。
だから、因果関係だとは言いません。原因と結果のあいだは複雑すぎる。
ただ、1985年という年を振り返ると、
「日本という国の何かが、大きく動き始めた年だった」
という感覚があります。
事故も。
経済も。
政治も。
それぞれは別の出来事です。
しかし、長い時間軸で眺めると、それらが同じ時代の空気の中にあったことが見えてきます。
私は、そういう「時代のつながり」を考えることが好きなのです。
8月は、私にとって悲哀の月だ
私は昔から、日本の夏が大嫌いでした。
8月6日。
広島。
8月9日。
長崎。
8月12日。
JAL123便。
8月15日。
敗戦。
もちろん、それぞれは全く別の出来事です。
同じものとして語るべきではありません。
それでも、この数日間に日本人が経験したものを並べると、言葉がなくなります。
原爆。
戦争。
敗戦。
そして、突然失われた520人の命。
私は以前、8月という月を「喪失」の月だと思っていました。
最近は、それよりも「悲哀」という言葉のほうが近い気がしています。
悲しみが大きすぎて、簡単な言葉では語れない。
だから、年月が経つにつれて、記憶が沈黙の中に埋もれていく。
私は、それが怖いのです。
語られない記憶を、書き残す
41年が経ちました。
1985年を知らない世代が、社会の中心になっています。
私が北京でこの事故を知ったときの年齢に近い人たちが、いまでは中堅の世代になっています。
時間は、それほど遠くまで進みました。
だからこそ、書いておきたいと思います。
私はJAL123便の真相を知っているわけではありません。
航空事故の専門家でもありません。
まして、何か新しい証拠を持っているわけでもありません。
ただ、私は航空を生業として生きた叔父から、子供の頃から飛行機の話を聞いてきました。
Uコンに夢中になった少年時代がありました。
18歳のときには、その叔父から車の運転を教わりました。
そして1985年8月12日、私は北京で520人の死を知りました。
翌日、中国人のエンジニアたちと、その悲しみについて語りました。
そして、同じ会社の先輩を失いました。
だから私は、8月12日になると、この事故を思い出します。
そして、叔父の言葉を思い出します。
「圧力隔壁はあり得ない」
その言葉が正しかったのか。
間違っていたのか。
私には分かりません。
だから、断定しません。
ただ、忘れない。
調べる。
考える。
そして、最後まで分からないものは、
「私は、まだ分からない」と書き残す。
それもまた、歴史と向き合う一つの方法だと思います。
41年前の今日、御巣鷹の尾根で亡くなった520人の方々。
そして、そのご家族。
私は、心から哀悼の意を表します。
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