見出し画像

【歴史小説】寧らかの波 第四章(2)「人間というのは、どこまでも果てしなく汚れられるものだ」


ここまでのあらすじ

 16世紀。
 異国の血を引く少年・楠葉入鹿くすばいるかは、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、さらにはジイと旧知の管領かんれい細川高国ほそかわたかくにによって、故郷沼島ぬしまの人々を人質に取られる。
 細川氏のために働くことを強いられた入鹿は、美貌の明国人みんこくじん宋素卿そうそけいとともに大内おおうち氏の持つ勘合かんごうを奪いに行くが、異形と化した明国の僧・宗設そうせつに裏切られて失敗する。
 南海の臥蛇島がじゃじまへ渡った入鹿は、佐々木ささき永春えいしゅんという倭寇わこうの生き残りの老人と出会う。そして素卿の本当の夢が、境界に生きる者たちの安息の場所を築くことだと知る。
 島の来訪神・ボゼに扮した中林なかばやし孫太郎まごたろうに逆恨みされ、火槍かそうで襲われながらも、入鹿は何とかこれを打ち倒す。
 島に居場所をなくした孫太郎も一行に加え、素卿たちは大内の遣明船を水際で阻止すべく、大陸の港都・寧波ねいはへ向かうのだった……

本編

    二

 何かに衝かれたように、はっと目を覚ました。
 背中を持ち上げると、部屋の中は薄く差し込む朝日でほの明るかった。
 三方の壁につけられたしょうという寝台に、それぞれ自分と、永春と、孫太郎が横たわっている。
 二人はまだ眠っていた。いずれも寝相が悪く、被子ベイジという掛け布団を蹴り上げ、陶枕とうちんは傍へ転がっていた。孫太郎などは、頭と足とが逆向きになっている。
 ただいびきがうるさいのは老人の方で、遠雷が響いているかのような有様だ。このせいで自分は目覚めてしまったのかと思った。
 もう一度寝入る気にもならず、入鹿は立ち上がって現地の履物に足を通した。
 部屋を出て暗い階段を降りてゆくと、中庭に面した廊下に、白い広袖のころもがふわりと折り重なっていた。
 井戸の方を見やり、思わず息を呑んだ。
 丈の高い裸身が、こちらに背中を向けながら髪をまとめている。肩や腿の肉は引き締まってたくましいが、腰から尻にかけての曲線は、女のものと見るしかない。
 が、その尻には痛々しい蚯蚓腫みみずばれが、まるで網の目のように走っていた。血が滲み出し、端の方では肉がえぐれている。
 思わず立ち止まって見つめていると、相手が振り返った。
 素卿だった。
 眼差まなざしが合ったが、何も言うことはできなかった。
 相手はややためらっていたが、やがてかえって誇示するように、正面からこちらへ向き直った。
 両の乳房がない。やはり、大内館おおうちやかたの水堀で目にした通りだった。
 今は薄衣うすぎぬ越しでもなく、曇った朝日の中でまともにさらされている。淡い肉色の肌で、両脇にかけて裂けたような傷痕が、思いのほか端正に走っていた。
「お前に見られるのは、これで二度目だな」
 入鹿は曖昧にうなずいたが、何と答えるべきかわからなかった。
「不気味な体だろう」
「そんなことは」
 ない、と思った。むしろ美しい、とすら思った。男か女か、即座にはわからない気がする。ただそれだけのことだ。無惨な傷痕さえも、心の気高さを表しているように感じられた。
「まあ、どちらでも構わないがな」
 言いながらも、やはり尻の有様は気になるのか、半身になって脾腹ひばらの方をこちらへ向けた。
「昨夜は、太監のところへ行っていたのか」
 尋ねるべきか迷ったが、ずっと心の内に秘めているわけにもいくまい。ならば、他に誰もいない今の方がよいだろうと思った。
 素卿は意外そうに目を見開き、こちらを見返してきた。
「そうだ。よく知っているな」
「永春が言っていた」
「まあ、どのみちお前は知っておかなくてはなるまい。仲間だからな」
「仲間」
 入鹿は驚いた。素卿からそう言われたのも初めてならば、そんな風に考えられているとさえ、思ってもみなかった。
「事前の根回しを、徹底しておかなくてはならない。何しろ、勘合かんごうなしで朝貢使と認められようというのだからな。よほど無理を通し、横車を押そうとしているのは間違いない」
「大丈夫だったのか」
「何が?」
 横目で鋭く振り返った。
「あんた自身も、よほど無理をしなければならないんだろう」
「まあな」
 微笑を浮かべてみせたが、さすがに底の深い疲れが滲んでいた。
「宦官というのは、底意地の悪い連中だと聞いた」
「底意地が悪いだと! そんな可愛らしい程度ならよかったんだがな。あいつらは、腐った肉だ。人の心など、とうに失っている」
 言い捨てると、木桶を井戸の傍に置き、柱廊の方へ歩き始めた。
「ところがどうやら、この私もあいつらと同類らしい。あいつらは股ぐらの棒が、私には乳の膨らみがない。男と女の証を、互いに失っている。だからこそ、やけに親しんでくるのだ。訳知り顔の薄笑いで近寄ってくる。まあこちらとしては、それをどこまでも利用してやるまでのことよ」
「あんたは違うさ」
 入鹿はまっすぐに声をかけた。素卿はこちらを見ないまま、脱ぎ散らかされていた衣を手に取り、水滴の浮かんだ体も拭かずに袖を通していった。
「お前のようなガキに、何がわかる。人間というのは、どこまでも果てしなく汚れられるものだ。全く、いつか地の底まで突き抜けてくれればよいのに、と思うくらいさ!」
 入鹿は黙っていた。なぜ、女としての証を切り落とすことになったのか。そこまでのことを尋ねてみるのは、まだ難しかった。
「今日は、寧波の町へ出かけるぞ」
「出かける?」
「そうだ。実際事を起こしたあかつきには、恐らくただでは済まない。お前にも命を賭けて戦ってもらうことになる。そのための支度だ」

~(3)へ続く

いいなと思ったら応援しよう!

大純はる(おおいとはる) チップをいただけたら、取材や資料収集のための活動資金にあてさせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!