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【歴史小説】寧らかの波 第四章(1)「宦官てのはな、自分でここを切り落とした男のことなんだよ」


ここまでのあらすじ

 16世紀。
 異国の血を引く少年・楠葉入鹿くすばいるかは、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、さらにはジイと旧知の管領かんれい細川高国ほそかわたかくにによって、故郷沼島ぬしまの人々を人質に取られる。
 細川氏のために働くことを強いられた入鹿は、美貌の明国人みんこくじん宋素卿そうそけいとともに大内おおうち氏の持つ勘合かんごうを奪いに行くが、異形と化した明国の僧・宗設そうせつに裏切られて失敗する。
 南海の臥蛇島がじゃじまへ渡った入鹿は、佐々木ささき永春えいしゅんという倭寇わこうの生き残りの老人と出会う。そして素卿の本当の夢が、境界に生きる者たちの安息の場所を築くことだと知る。
 島の来訪神・ボゼに扮した中林なかばやし孫太郎まごたろうに逆恨みされ、火槍かそうで襲われながらも、入鹿は何とかこれを打ち倒す。
 島に居場所をなくした孫太郎も一行に加え、素卿たちは大内の遣明船を水際で阻止すべく、大陸の港都・寧波ねいはへ向かうのだった……

本編

第四章

     一

 ろう欄干らんかんに手を載せて体を支えると、目の前には真っ暗な水面みなもが広がっていた。
 闇に塗り込められた対岸に、ぽつぽつと灯が連なっているのを、黒い鏡のように映し返している。
 月湖げっこ、という名の湖だった。
 空から見下ろせば、三日月の形をしているというが、このくらいの高さからでは、とてもそんなことはわからない。
 鳥でもあるまいし、実際に見た者がいるのだろうか。
 冬の寒風が吹きつけてくると、入鹿いるかは静かな湖面に背を向け、青銅の火鉢が焚かれている室内へ戻った。
「どうじゃ、夜の寧波ねいはの眺めは」
 永春えいしゅんがこちらへ声をかけてきた。
 袖のたっぷりした漢服かんぷくを着て、幞頭ぼくとうとかいう頭巾をかぶっていると、白髭の明国人にしか見えない。
「暗いばかりで、何もわからん」
「今はそうであろうが、何もかもが我らの国ではあり得ん大きさじゃろう」
「確かにそうだ」
 こんな望楼つきの宿でさえ、堺はもちろん京にだって一つもないだろう。
 しかし、大きければ大きいほど、数が多ければ多いほど良いのかは、わからないという気もした。
 永春は、椅子イーズ、というものに腰を下ろしている。手元には、よくわからない漢語の綴じ本を広げている。
 その斜め向かいでは、孫太郎まごたろうがふんぞり返って床へ足を投げ出していた。
 臥蛇島がじゃじまでは永春とあれだけ厳しくやり合っていたのに、島を離れてからは互いに平気な顔をしている。ボゼの一件を蒸し返すこともなければ、そもそも口数自体が少ない。
 二人の間柄はよくわからないが、老人も本当はこの男を罰したくなかったのだろう、という気がした。
素卿そけいはどうしたんだ」
 と、入鹿は何気なく尋ねてみた。
 しかしその言葉が、目の前の二人をやけに張りつめさせるのを感じた。
「大事な交渉がある」
 永春が独りごつように答えた。
「そんなことも言っていたが、もうすっかり夜更けだぞ」
「今夜は帰るまい。市舶太監のところへ話を通しに行っておるんでの」
「シハクタイカン?」
「お前は本当に、何一つものを知らんのじゃな。異人のツラをした、淡路あわじの山猿じゃねえのか」
 孫太郎がこちらを見ないまま、憎さげに吐き捨てた。口を開いたかと思えば、こんな調子なのだ。
「そちらこそ、盛りのついた南海の島猿だろうが」
「何じゃと、こら」
「やめんか、お前たちは」
 永春が煩わしそうに、節くれ立った手を振り立てた。
「他に行くところもない者同士、少しは思いやり合わんか。ずっとそんな調子では、素卿殿を困らせるだけじゃぞ」
「ふん」
 孫太郎はそっぽを向き、腕を組み合わせてまた反り返った。
市舶司しはくしというのが、明国みんこくの港で船の出入りを司っておる役所じゃ。ここ寧波府に置かれている」
「ほう」
「その長官が、市舶太監じゃ。だが太監は普段、浙江せっこう行省ぎょうしょう都の杭州こうしゅうにいる。正式な朝貢使ちょうこうしがやってきた時ぐらいしか、寧波まで出向いてくることはない」
「そのタイカンってやつが、今はこの町まで来ているわけか」
「さよう」
「俺たちは、いつの間にか正式な使いにでもなってたのか」
「むろん、違う。そなたらみたいにボロいなりで、そんなわけがあるかい。ただ、他でもない宋素卿そうそけいにたっての話があるなら、ということで、太監の方からわざわざやってきたのよ」
「あいつは、そんなに大物なのか」
「それはそうじゃ」
 永春は心なしか誇らしげに、漢服の胸を反らしてみせた。
「今から十二年前、我らはともに南京なんきん応天府おうてんふから北京ぺきん順天府じゅんてんふまで上り、年賀の儀に参列して、皇帝にも拝謁した。天にも届くほどの黄色い階段の上に、ちっちゃい男が座っておってな」
 指の間を丸くして、わずかな隙間を作ってみせた。
「明国と日本の言葉を同じように操り、両国の大身にも顔が利く。そのような人物など、おいそれと見つかるものではない。素卿殿のようなお方は極めて貴重じゃ」
「そういうものか」
 寧波だけでも、夥しい人がいる。杭州、南京、北京がそれより大きい町だとすれば、この国の人間はそれこそ数え切れないくらいだろう。にもかかわらず、素卿のような者は他に一人もいないというのか。
「だけどそもそも、どうしてあいつは俺たちの言葉を話せるんだ。時々、あいつが明国人だってことも忘れてしまいそうになる」
 永春はそれには答えず、けろりと口をつぐんだ。その辺りのことは、自分で訊けということなのか。
「お前はどうせ、太監というのがどんな人間かも知らんのじゃろうが」
「はあ?」
 孫太郎が、また嘲るような口を叩いてきたので、入鹿はわざと顔を歪めてそちらを見下ろした。
「太監てのはなあ、宦官だ」
「カンガン?」
「ほら見ろ、やっぱり知らないんじゃねえか」
 孫太郎は満悦げに笑う。入鹿はかえって面差しを掻き消し、静かに睨み返した。
勿体もったいつけずに教えろ」
「なかなか素直になってきたじゃねえか。まあええじゃろ、宦官てのはな、自分でここを切り落とした男のことなんだよ」
 股ぐらを開き、その真ん中を手刀で何度か払ってみせた。
「何のために、そんなことをする」
「知るか。でも現実に、そういうやつらがこの国にはうじゃうじゃいやがる」
「ただいるだけではないぞ。皇帝に近侍し、国家の権を一手に握っておる。それが名前とは裏腹に、この明国というものの暗さじゃ」
 白髭をしごきつつ、永春は得々とうなずいた。
「そういう連中は、おしなべて権力欲と猜疑心が激しい。失われたものを、別の面で埋め合わせようとしているのかもしれんの」
「皇帝ってのは、そんな奴らじゃなけりゃ信じられないのか」
「そういうことじゃろう。今、浙江の市舶太監を務めているのもむろん宦官で、頼恩らいおんというものじゃ。素卿殿とは、旧知の間柄だと聞いておる」
「あいつは、そんな化け物に会いに行ってるってわけか」
 ふと、素卿の身の上が気がかりになった。
 しかし、自分などが案ずる程度のタマでもあるまい。そう思い直し、もう一度外の景色を振り返った。
 黒い雲が流れてゆくと、満月だった。月湖の水面に照りつける微光の中で、一羽の白鷺が勢いよく翔び立っていた。

~(2)へ続く

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