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【歴史小説】寧らかの波 第七章(2)「脇目もふらず、とにかく遠くまで逃げろっ」


ここまでのあらすじ

 16世紀。
 異国の血を引き、剣術「かげりゅう」を受け継いだ少年・楠葉入鹿くすばいるかは、美貌の明国人みんこくじん宋素卿そうそけいと出会い、南海に「境界に生きる者たちの国」を作るため共闘を誓う。
 日本の細川ほそかわ京兆家けいちょうけ・明国の宦官かんがんと通じている素卿は、勘合かんごう貿易の莫大な利を守るために行動するが、対立する大内おおうち氏から刺客を送られ、入鹿は彼らと激闘を繰り返す。
 第二の故郷である南海の臥蛇島がじゃじまを、元の仲間である中林なかばやし孫太郎まごたろうにより焼き払われた素卿たちは、大内の遣明船けんみんせんを追いかけて大陸の港都・寧波ねいはへと向かう。 
 明の官吏・朱子純しゅしじゅんと武人・愈志輔ゆしほ、大内の遣明正使で狂僧の謙道宗設けんどうそうせつ、異形の巨人・神代こうじろ源太郎げんたろうらが待ち構える寧波で、果たして誰が生き残るのか。
 物語はいよいよ佳境へ!……

本編

     二

 素卿は、深紅の官服に着替えてきた。胸元に竜と唐草模様が刺繍され、いかにも壮麗なものである。
沼島ぬしまへやってきた時と、同じ衣だな」
 ずいぶん昔のことのようだが、入鹿ははっきりと憶えていた。
「これは飛魚服ひぎょふくといって、錦衣衛きんいえい、という禁軍の証なのだ」
「あんたは、近衛兵だったのか」
「まさか。十年前に北京へ赴いた時、皇帝から特別に下賜されたものだ。私にとっては、最高の正装、というわけだ」
 嘉賓館の宴の間は、見渡すばかりの広さがあった。
 床には毛の長い段通だんつうが敷きつめられ、履き慣れない唐靴からぐつの足を取られてしまいそうだ。
 左右に黒檀こくたんの椅子と卓が揃い、早くも酒器が並べられている。正面の壁には巨大な屏風びょうぶが立てられ、漢詩と色つきの山水画が交互に描かれていた。
 正使の鸞岡瑞佐が上席の左側に座し、随従の禅僧たちが、序列の順に連なっていく。
 客衆きゃくしゅうの席はない。飽くまで国同士の儀礼なので、貿易の分け前にあずかろうとしているだけの商人たちは、港で待ちぼうけを食らっていた。
 素卿は僧たちの次席を与えられているが、永春と入鹿は入口に近い末席だった。それでも使節の端くれとして、座が設けられているだけましなのだろう。
「これでは万一の時、動きにくいな」
 入鹿は傍らの永春へつぶやきかけた。
「素卿や瑞佐との間が、離れ過ぎている」
「手元に武器がなければ、どちらにしろ同じことじゃ」
 老人は仕方なさげにかぶりを振った。
 正面の中央は、市舶太監しはくたいかん頼恩の席だった。二人か三人分の広さを占め、不愛想にふんぞり返っている。
 明国側の官吏たちは、上席の左右に設けられた別の卓に集められている。管弦の楽人、舞人らも屏風の前の持ち場につき、はや支度は整えられていた。
 ところが、細川方と向かい合う大内方の者たちが、まだ一人も姿を見せていない。
 頼恩が、苛立った調子で声を張り上げた。官人が慌てて側へ駆け寄り、耳元に囁きかけると、また小走りに部屋から出てゆく。宦官はまた別の従者を呼び寄せ、何事か言い含めて走らせる。そんなことばかりが繰り返されていた。
「まずいな」
 入鹿はまた永春の方へ顔を向けた。
「この場へやってこないつもりじゃないのか」
「ならばそれもよし。次の手立てを講じるまでじゃ」
 が、宗設はいきなり戸口に出現した。
 その姿を入鹿が目にするのは、大内館での夜以来だった。
 片目から唇にかけて、無惨な切り傷の痕が斜めに走っている。あの時入鹿がつけてやった、薬研やげん藤四郎によるものではないのか。
 すり切れた墨染衣に、壊色えじき絡子らくすを掛けたばかりで、晴れがましい宴に備えていたとも思われない。路地から迷い込んできた、みすぼらしい老僧としか見えなかった。
 その背後には、見上げるほどの巨躯を誇る怪人が控えていた。
 申し訳程度になえ烏帽子えぼしを引っかけてはいるが、やはり汚らしい小袖一枚きりで、港からそのまま上がってきた水手の親玉という風情である。
「神代源太郎」
 入鹿は思わず、その名をつぶやいていた。
 が、あとに従う大内方の武士たちはみな、立烏帽子に直垂ひたたれという日本の礼装に身を固めていた。僧たちも、色つきの袍裳ほうも五条ごじょう袈裟げさを掛けた正装だ。
 それだけに、先頭二人の異様な姿が際立っていた。
 主席の頼恩が、遅参を責める金切り声を投げつけた。かえって呼びつけられたように、宴場のど真ん中を、宗設と神代はためらいもなく突き進んでゆく。
「道理なき者を上座に据え、正義ある者をおとしめる。これを枉曲おうきょくと言わずして何と呼ぶか」
 正面を見据えたまま、はっきりと宗設は言い放った。
「これが世界の主人を標榜し、礼と仁で四海を治めんとする大明国のなすことか。おのれの欲心から理非を曲げる者が上に立つならば、いかに中華と言えども将来はくらい。その行く末とて、決して長くはあるまい。巨木が倒れる時に飛び散るであろう果実は、我らがしっかりと味わわせてもらう」
 あまりにも迷いがないので、誰一人として止められなかった。入鹿もまた、椅子に縛りつけられたように身動きできなかった。その目の前を、二人は一瞥いちべつもくれずに通り過ぎていった。
 宗設は上席の正面で足を止め、頼恩の目の前に立ちふさがった。
「謙道、そなたという者は、つくづく」
 正客の瑞佐が、咎めるようなため息をついた。
 宗設が黙ったまま顎をしゃくると、背後の神代がのっそりと前へ出た。筋張った左右の腕を振り上げ、あたかも大木槌おおきづちのような両拳を、剃り上げた頭のてっぺんに叩きつけた。
 血と肉が飛び散り、高僧の顔面は柘榴ざくろの実のように潰れた。
ー!」
 どこからか甲高い悲鳴が上がった。
 続けて、大内方の者たちが、宴席の卓をことごとく蹴り上げて引っくり返した。
 怒号と叫喚が会場に響き渡る。
 鉾を手にした衛兵たちが飛び出してきて、頼恩の周りへ殺到した。頭二つぶんも抜きん出た巨人へ向かって、ばらばらに切っ先を突きつけてゆく。
 が、神代はそれらをことごとく払いのけ、反対に柄をつかんでは押し転がしていった。あとは乱戦だった。小柄な宗設の姿は、もはやどこにも見えない。
 入鹿もまた、目の前の卓越しに躍りかかってきた武士と組み打ちになった。
「素卿、逃げろ」
 見も知らない相手の肩をつかみ、押し合いへし合い格闘しながら、入鹿は叫んでいた。
「連中の狙いはお前だ。恨まれているのは、お前一人だ。脇目もふらず、とにかく遠くまで逃げろっ」

~(3)へ続く

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