【歴史小説】寧らかの波 第五章(2)「そんなことで、素卿殿の夢見る国を作れるのかっ」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引く少年・楠葉入鹿は、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、管領・細川高国のために働くことを強いられる。
境界に生きる者の国を築こうとしている明国人・宋素卿と入鹿は行動をともにし、南海の臥蛇島から大陸の港都・寧波へと渡ってゆく。
そこで明の官吏・朱子純と武人・愈志輔に尋問され、素卿の過去が明らかになる。素卿は実は乳房を切り落とした女であり、寧波出身の元歌妓であった。
一行は船で双嶼島へ逃亡し、仲間たちの船団とともに明の海軍を迎え撃つ。入鹿の剣技は明の兵士を圧倒するが、愈志輔と斬り合って窮地に陥る。
致命的な一撃を受ける直前、入鹿は海に飛び込んでどうにか難を逃れるが、そのまま果てしなく沈んでゆき、意識を失ってしまうのだった……
本編
二
細長い海峡の両側に、二つの島が横たわっている。
対岸は仏渡島、こちらは六横島。双嶼門と呼ばれる海の扉だった。
波は凪のように静かで、鈍色の冬日を映す鏡のようだ。
そこを横切って、鳥の群れが翼をはためかせながら飛んでゆく。
数えきれないほど行き交うのは、帆柱一本の小船だ。ただ明律で禁じられている二本帆はもちろん、三本の大型船も珍しくない。
この国の海禁という政策は、どうやらてんで守られていないらしい。
沿岸の民にとっては、海は生活の道であり、暮らしの糧だ。そこへ出ていくな、と言われるのは、生きるな、と言われるのに等しいだろう。
皇帝が飽くまでそれを改めないなら、この国にいられない人間、というものが大量に出てくる。それでも彼らはめしを食わなければならないし、誰かがそれを救わなければならない。
素卿は、そんな重荷を自ら背負おうとしているのだ。
入鹿は葉叢の下で、抜き身の刀を中段に構えていた。
考えをおのれの内側へ集める。
なぜ、自分は負けたのか。
「弱いからだ」
と、口に出してつぶやいた。当たり前のことだ。だが、なぜ自分は、愈志輔よりも弱かったのか。
ジイの剣は強い。陰の流の直系なのだ。自分はそれを、誰よりも色濃く受け継いでいる。そのはずだった。
が、敗れてしまった。
先だっての夢。……
ジイもまた、自分の父である赤沢宗益に敗れていた。もはや技どうのこうのではない。戦場のただ中で、疲れ切ったところを、力でねじ伏せられるようにして打ち負かされたのだ。
戦いとはいったい、そういうものではないのか。
いくら稽古を重ねてきた、ジイの命をこの手で奪った、という思いばかり強くても、戦という現場で奔流のような勢いに押されてしまえば、もはや抗う術がない。
ならば一体、どうすればいいのか。
入鹿は、たった一つのことに思い悩んだまま、身動きを取ることさえできなくなっていた。
ふと、足元に一本の太い枝がころころと転がってきた。
そちらを横目で見やると、白髪白髭の老人が同じような木の棒を手にしていた。先端をこちらへ傾け、木刀のような構え方をしている。
「永春の爺さん、何のつもりだ」
入鹿は、総身の張りを緩めないまま尋ねた。
「わしとて、昔は愛洲移香斎様とともに、いっぱしの海賊を気取っておったのじゃ」
「ああ、それは聞いた」
「ならばこれも言ったであろうが、移香斎様の太刀筋を最も近くで見ていたのは、このわしじゃ」
もう一度、黙ってうなずき返す。
「そのわしから見ればの、そなたの剣はどうにも無駄が多い。いらぬ動き、いらぬ思いが混じり過ぎている。雑念、と言ってもよかろう」
「そんなことは」
ない、と言いたかった。何かを思い悩みながら、刀を振るっているわけではない。その場に臨めば、おのれの中はいつでも空っぽのはずだ。
しかし、力強く打ち消すこともできなかった。そもそも、いらない動き、ということさえ考えてみたこともない。ただ身についたものの赴くままに戦っているだけなのだ。
「俺は何も考えていない。それがかえって、強みになっているんじゃなかったのか」
「ただ雑兵を斬り回すのならば、それでも充分であろう。しかし、おのれの壁になるような手練れと巡り合った時には、何かを変えねばなるまい」
そのことは入鹿も、おぼろげながら感じていた。だからこそこうして、おのれを見つめ直している。しかし、一体どうすれば。
「今のままでは、そなたの剣は移香斎様はもちろん、畠山卜山殿のそれとも、似て非なるものとしか呼べまい」
「ならば、どうすればいい」
「それを考えるのだ」
こちらへ向き直ると、木の枝で下段の構えを取ってきた。
「たった今自分が何をしているのか。何をしようとしているのか。なぜそれをするのか。そうすればどうなるのか。常に頭を巡らせるのじゃ。そうして所作の一つ一つに、おのれ自身の答えを込める。込めた上で、また全ての考えを潔く放り投げ、きっぱりと無になる。ただ単に空っぽであるのと、全てを知り抜いた上で手放すのとでは、一瞬の閃きに大きな違いが出る」
「まだよくわからないが」
入鹿は自分の刀を鞘に納めると、足元の枝を拾い上げ、老人の方へ向けて八相に構えてみせた。
「やってみる値打ちはありそうだ。だからって永春、あんたが俺に稽古をつけようって言うのか。あんたよりもずっと若い、本物の武将だったジイを、俺は殺しているんだぞ。手加減をしろと言うのなら、そもそも稽古にならない」
「手加減など要らんわ。ただし、わしは反撃することはない。ひたすらそなたの太刀筋を見切るだけじゃ。こんなわしを打つことさえできんとしたら、そなたの剣が卜山殿に遠く及ばんとしても、むしろ当然のことであろうよ」
穏やかに挑発されている気がして、入鹿は棒を握る手に力を込めた。
「大口を叩いときながら、あっさり音を上げないでくれよ」
咄嗟に三撃、入鹿は永春に向かって打ち込んだ。その全てを、老人はほとんど体を揺らさないまま、紙一重でかわしてみせた。
「どうした」
入鹿は愕然として、息も忘れた。
今度はさらに五刀、目にも止まらない速さで突きを繰り出した。
が、同じだった。枝の先はことごとく空を切り、老人の痩せた体に触れることさえできなかった。
「それが、無駄な動きだと言うのだ」
永春の眼差しは険しく、口ぶりは責めるように厳しい。
「そんなことで、素卿殿の夢見る国を作れるのかっ」
頭に血が上り、やたらめったらと打ち掛かりそうになった。
が、そこで敢えて深く息を吸い込み、おのれを抑えつけた。
入鹿はだらりと腕を下ろすと、木の枝も手放し、その場にどっかりと座り込んだ。
「考えてみる。永春の言う通りに」
「それでよい」
相手はむしろ喜ばしそうに、深々とうなずいた。入鹿は瞼を閉じ、おのれの中の深い無へ、内なる目を向けた。
真っ暗なばかりで、何もわからない。だが、この闇の底から、きらりと光る砂金のような何かを見出さなければならない。そんな気がした。
「これだ、と思える何かが見つかったら、また相手をしてやる」
遠ざかっていく老人の足音さえ、早くも気にならなくなり始めていた。
~(3)へ続く
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