【歴史小説】寧らかの波 第一章(3)「いつか必ず、俺は帰ってくる」
あらすじ
16世紀。
異国の血を引く楠葉入鹿は、淡路国の沼島で育ての親ジイや幼馴染おえいと穏やかに暮らしていた。
ところがある日、突如ジイに襲われ、とっさに反撃してその命を奪ってしまう。
同時に沼島は武士の船団に囲まれ、管領・細川高国と美貌の明国人・宋素卿が現れる。
かつて細川の戦友だったジイは、住民の命と引き換えに、剣の技を授けた入鹿を差し出す密約を交わしていたのだった。
連れ去られるように故郷を離れ、宋素卿と行動をともにすることになった入鹿。果たして彼を待ち受ける運命とは……
本文
三
「入鹿、海の向こうから、船が」
そう叫びながら、竹穂垣の間からおえいが駆け込んできた。
だが、入鹿の膝の上に横たわっている老人の姿を見下ろすと、血を抜かれたように青くなった。
「卜山先生」
「案ずることはない」
老人は息も絶え絶えに声を発した。
「これが最も良い終わり方であった」
「あなたがやったの」
大きな黒い瞳が、恐れおののき震えている。入鹿は、まともに見返すことができず目をそらした。
傍らには、先ほどまで卜山の振り回していた薙刀が転がっている。
「わしが、やらせたのだ。入鹿がこの島へ来た最初の日からずっと、今日のように試されることは決まっていた。この者は、それを立派にやり遂げてみせたのだ。褒めてやれ、えいよ」
「何のことですか」
「すぐにわかる。船を見たのだろう。どのくらいの数で来ておるか」
「大船が十隻くらいも」
「まずは、盛大な出迎えだ。古き友、古き敵が乗っている。ここでしばし、待っているがよい」
言い終えてしまうと、卜山は口の端から赤いものを垂らした。
「ジイ、手当てをしよう」
腹から無理に短刀を引き抜くこともできなかった。それでも入鹿は、組紐を巻いた柄が突き出ているのが忍びなくて、その体を濡縁の上へ何とか持ち上げようとした。
「よさぬかっ」
卜山はむずかるように、若者の腕を振り払った。荒っぽいのにてんで力がない。そんな仕草だった。
「父から受け継いだ短刀により、お前の手でこの命が終わるのなら、もはやこれ以上のことは望めぬ。決してその邪魔立てをするでないぞ」
ほどなくして、夥しい人の気配と、整然とした足音が大地を震わすのが感じられた。
北の船着場かららしい。たちまち陸へ上がってきた大勢の姿が、木立の間から覗き見えてきた。その数は、ゆうに百を超えんばかりだった。この島にそれだけの人数が一どきに集まったことなど、絶えてないだろう。
そのほとんどが、甲冑に身を固めた武士だった。わずか数名ばかり、直垂烏帽子の男たちが厳重に取り巻かれている。
さらにたった一人だけ、異様な風体の者が目についた。男物の真っ赤な漢服を着た、あれは女だろうか。娘、というほど若くはないが、すらりとして色が白く、目元口元が涼しい。
褐色の直垂に身を固めた男が、ひとり前へ進み出てきた。丸顔で目が大きく、かなり長身だ。漢服の女が、その傍らに付き従っている。
「お久しぶりにござる、畠山尾張入道殿」
男は腰の後ろで手を組んだまま、瀕死の相手に微笑すら向けていた。
「細川右京大夫、ようやってきたな。そなたの望み通り、わしの命は今日ここで終わる」
「またまた」
たなごころを前へ突き出し、人懐っこいくらいに笑ってみせた。
「買いかぶり過ぎですなア、ご自身のことをね。今のあなたが死のうが生きようが、私にとっては大差ない。もはやそんなことすら、わからなくなってしまわれたのですか」
そうして周囲を見渡し、粗末な庵を憐れむように目を細めた。
「それだから、このような終わり方になってしまったのだ。昔のあなたなら、例えその足がちぎれようとも、私と最後に一戦交え、戦場で死のうとなさったでしょうに」
「わしは長らく死に損なってきた」
「全く、仰る通り。あなたほど、死に損ないという言葉の似合う方はそうそうおりませんよ。正覚寺で死んでもよかった。天王寺で死んでもよかった。高屋城で死んでもよかった。にもかかわらず、あなたは今、こんな所で死のうとしている」
フフッ、と鼻から息を抜いて笑う。
それを見ていた入鹿の胸に、理由もわからない怒りがこみ上げてきた。しかし、そもそも卜山を刺してしまったのは、他ならない自分自身なのだ。
「まあ、もうよいです。過去のことなどは。今や天下は、このわたしの掌中にある。将軍の進退すら、おのれの思うがままだ。恐れるものなど何もない」
そこで目を細め、底知れず暗い光を瞳の奥に灯した。
「たった一人、四天王の最後の生き残り、大内義興を除けばね」
卜山は、入鹿の腕の中に横たわったまま、何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。次第に軽く、冷たくなっていくような気がした。
「ジイを」
たまらず、声を上げていた。
「ジイを助けてやってくれ」
「おやおやおやおや」
相手はこちらを見下ろしつつ、戯れるようにかぶりを振ってみせた。
「育ての親の思いを、無にするものじゃありませんよ。こう見えても、わたしは尾張入道殿を尊敬しているのだ。あなたなんぞが知るよしもない昔から、わたしたちは共に戦ってきたのです。あなたのおジイ様は、その戦いぶりと不屈の魂によって、一時は全ての武士の憧れを集めるほどのお方だったのだ」
胸に手のひらを置き、むつかしげに瞼を閉じている。ともに戦った若き日を、思い起こしているのか。
「もちろん最後まで、というわけにはいきませんでしたが。本当に、人の死に時というのは難しいものです」
「もうよいでしょう、右京兆殿。何も知らない子どもをおちょくるのは」
真紅の漢服が前へ進み出てきた。苦りきった面差しで、たっぷりとした袖袋を差し伸ばしている。妙な気がしたのは、やけに声が低く、顔と合っていない、と感じられたからだった。
「いやはや素卿、すまんすまん。旧友と再会を果たし、つい気が浮ついてしまったのかもしれんな」
「早いところ、用事を済ませてしまいましょう。堪輿によれば、この島の気の流れは非常に悪い。これよりも悪い地相は、ちょっと考えられないくらいです。あまり長く留まっていれば、人の理にも不穏な影響を及ぼしましょう」
「ほほう、左様か」
「宋学の神髄に則れば、間違いはありません」
ばさりと音を立てて腕を組み、艶やかだが傲然とした目つきで、こちらを見下ろしてきた。
「楠葉入鹿。あなたは畠山卜山から、この私、宋素卿に売られたのだ。たった今この時からは、私の元で存分に働いてもらうぞ」
「何だって」
思わず、膝元にある顔を覗き込んだ。
ほどけかけた鉢巻の下で、色の悪い汗の玉を浮かべ、苦しげに細い息を喘がせている。心の強さだけで、どうにか命をつないでいるのだろう。
「入鹿よ、これがわしの最後の言葉になる。よく聞いておけ」
「ジイっ」
「あの者は、管領細川高国。幼き新将軍を操り、今やこの国の武家の頂点に立つ男だ」
改めて見上げ直した。なぜあんなやつが、という気が、どうしても入鹿にはしてならなかった。
「奴の言う通り、我らはかつて戦友同士だった。先代の公方様に従い、乱れきった天下をともに鎮めた。
が、やがて我らは仲間内で争いを始めてしまった。わしは身を引いて京を離れ、領国の河内や紀伊も捨てて、ここ沼島へ隠棲していたのじゃ」
「物は言いようですな。実の子に、自分の城から追い出されておきながら」
高国は、憎さげな冷笑さえ含んでいた。ジイに本当の子どもがいたということさえ、入鹿は知らなかった。
「細川の家は、我ら畠山と同じように、激しい家督争いをしていた。あの高国の最も手強い敵だったのが、傍流の阿波細川家じゃ。わしがこの島へ逃れられたのも、阿波守護の手引きがあればこそであった。
しかし先年、京での合戦に敗北し、阿波勢も壊滅した。もはや畿内にあやつを止められる者はいない。すると先代の公方様とこのわしを匿った罪により、沼島の住民を皆殺しにする、と伝えてきおった」
入鹿は思わず、立ち尽くすばかりのおえいの姿を見やった。
日に焼けた、すらりとした乙女。丸い両の瞳は怯えに揺らめき、細い肩や膝まで小刻みに震えている。
「わしは、この命と引き換えに、島の者たちを助けるよう申し入れた。が、そこの宋素卿なる明国人が、もう一つの条件を加えてきた。
入鹿、お前の手によってこのわしを殺させ、その武芸を証し立てた上で、おのれに身柄を引き渡せ、というのだ」
「どうして」
入鹿には、話のつながりが全くわからなかった。ついさっきまで知りもしなかったことに、いつの間にか深く巻き込まれている。
「どうして俺なんだ」
「わしは若いころ、戦に敗れて熊野の里へ逃れたことがあった。その地で愛洲移香斎という剣豪から、陰の流、という剣術を授けられた。お前にずっと教え込んできたのは、その秘伝じゃ。お前は自分でも悟らぬうちに、この国でも比肩する者がないであろう、兵法の使い手になっておったのじゃ」
思わず、自分のたなごころを広げて見下ろした。それは他でもないジイの、武家の貴種の血で鮮やかに濡れていた。
「もう一つ、理由がある。お前は楠葉西忍の玄孫、そして赤沢宗益の息子だからだ」
「赤沢宗益?」
一体誰なのか。
「それが、父の名前なのか」
「わしが生涯、合戦で勝てなかった相手は、赤沢宗益ただ一人だけだ」
卜山は皺ばんだ瞼を下ろし、もはや答えなかった。
母から、父の話を聞かされたことはほとんどなかった。幼いなりに、尋ねてはいけない気がしていた。それは恐らく、間違っていなかったと思う。言外に感じられるだけでも、普通の妻と夫でないことは明らかだった。
「おい、もう話は終わったか。わかったら、とっとと行くぞ」
広い袖の端で鼻先を押さえながら、異国の美丈夫は眉をしかめていた。
この島が臭い、とでも言うのか。
「誰が」
入鹿は奥歯を噛みしめ、前歯を激しくすり合わせていた。
「誰がお前たちなんかと」
立烏帽子の細川高国が、こほん、と一つ咳払いをした。
「わたしは素卿ほど短気ではないつもりだが、早うしなされや。入道殿、約定を違えられるようなら、先だって申し渡した通りにもできるよう、わざわざ人数を連れてきておるのですぞ」
木立の周りは、甲冑に身を固めた武士たちに取り囲まれている。北の船着場には、もっと数多くの男たちがいて、主人の指図一つで動き始めるつもりなのだろう。
「俺が行けば、島のみんなは助けてくれるんだな」
血の味がするほど下唇を噛み破りながら、入鹿は上目で相手を睨みつけていた。
「くどい。我らはそういう面倒なのは嫌いだ。汚れ仕事というのは、少なければ少ないほどよいものでな」
「わかった」
入鹿は、卜山の頭をそっと地へ下ろすと、魂が入れ替わるように立ち上がった。着流した小袖の前に、染め上げたような血潮が広がっていた。
「入鹿」
反対の側で、おえいがずっと震えている。真夏に耐え難い寒さでも感じているように、腕や肩をさすり続けていた。
「おえい。いつか必ず、俺は帰ってくる。そうして、お前と一緒になる。すまないが、その日までどうか俺を待っていてくれ」
「こんなの、あんまり急に。入鹿、行っちゃいやだよう」
女童に戻ったような涙声で、顔を皺くちゃにしていた。それを見ると、入鹿の胸も握りつぶされるように痛んだ。
が、今は他に選べる道はない。いきり立って刃向かったところで、島の人々が皆殺しにされるだけなのだ。
「おうー悲恋悲恋。見目麗しいことよなあ」
異国人が、あくびをしながら煽り立ててきた。それも入鹿は虫の声のように聞き流すしかなかった。もっとはるかに大切な思いが、自分の胸の内では渦巻いているのだ。
「ジイ、今までありがとう。母とこの島へやってきたあの日、俺のことを受け入れてくれて、本当に嬉しかった」
卜山の口元には、見分け難いほどのかすかな笑みが浮かんでいた。横たわる土くれに、黒ぐろとした血が染み広がっていく。
「俺はジイの息子として、立派に生き抜いてくる」
甲冑の男たちに促され、入鹿は船着場への道をゆっくりと歩き始めた。戻りたくなる思いを振り捨てるために、もう後ろを振り返らなかった。おえいの声も、卜山の声も、何も聞こえてはこなかった。
その時、自分は二度とこの道を歩くことはないだろう、という予感が、入鹿の頭をさっとよぎって消えた。
~第二章へ続く
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