不思議の住処 おまけ 後編
隣町に住む絵描きに会いに行こうと思い、バス停に行く。古びた木製のベンチと、色褪せた時刻表、大きな時計がはまった美術作品に囲まれながらバスを待つ。
絵描きは明石の知り合いらしく、一度だけ喫茶『阿吽』で話したことがある。彼に会いに行くのは、阿吽の店内に飾る絵画を店主の代わりに受け取るためだった。
坂の上から、明石が大勢の人ならざるものたちを連れて歩いてくる。そして、私の隣に並んでバスを待ちはじめる。妖怪学校の引率の先生のようだと思った。私より先に明石が口を開いた。
来週は虫送りの日だろう。
ああ、それに関係があるのか。
おおありさ。人間たちは魑魅魍魎を追い出した後の面倒を見ない。だから先に僕がこうして彼らを避難させるんだ。
それはご苦労様。しかし、虫送りに本当に効果があったとは。
ある。だから困る。中途半端な心得や行動力というものは、時に無知や怠惰より厄介なものだ。
しかし、人も作物を育て、売って、食って、そうして生きてゆかねばならぬのだ。悲しいことに、色々な犠牲の上に立つことでしか、生きられぬのだ。
わかっているよ。そのくらい。人が健気で可愛い生き物であることくらい。
ああ、そうだったな。明石はそういうやつだ。
君はそうは思わないのかい?。
人は、怖いものだ。
バスがやってくるのが見えた。時刻表にはない、中途半端な時刻にやってくるその古い、運転手不在のバスは、何度瞬きをしても消えることはなく、ついに私の目の前に停まった。
さて、君も乗っていくかい?
隣町には行くか?
ああ、隣町にしか行かないよ。
では、私も乗るよ。
休妖の里行きと表示されているバスに、乗ってみることにした。明石は飄々としていてまるで本心が見えないが、嘘はつかない。隣町へ早く着くのならば、魑魅魍魎と共にバスに揺られるのも悪くない。そう思いつつ、先日の夜の百鬼夜行の不気味さを思い出さないわけではなかった。
誰一人声を出さない静かな箱の中で、過ぎゆく見慣れた街並みを窓から眺めて暇を潰す。決して眠いわけではないのに、意識の半分が夢の中へ迷い込もうとするような、音や光が淡くなって浮遊するような心地がする。
隣町へは約30分ほどで到着するはずで、実際その通りになったわけだが、着いたのは赤い屋根の家が一つあるだけの、爽やかな風の吹く大草原だった。
魑魅魍魎はこの土地のことがよくわかるようで、バスから降りてすぐに、各々家に入るなり草原に寝転がるなりしてくつろぎ始めた。私と明石も最後に降りた。明石はまた、私より先に口を開いた。
ここも異界だよ。
そうか。何故山や森の奥ではなくここなのだ。
僕らの住処にも、縄張りのようなものがあるということだ。追い払われたら居場所がなくなってしまう、そんな者たちのためにここはある。妖の中でも、儚い者たちだ。今後どこかで関わることになった時は、優しくしてやってくれ。
わかった。
ありがとう。
明石はバス停のすぐそばに立つ木にかかった鈴から垂れた紐を揺らし、カラコロと音を鳴らした。鈴の音色は人間の声に変わった。鈴から少女の声が聞こえた。
こんにちは!兄のお知り合いの方々ですよね!この境界の鍵は兄にしか使えないので呼んできます!少々お待ちください!
待っている間、鞄の中にしまっておいたあの本がカタカタと音を立てるのが聞こえた。私は本を鞄から取り出した。
パラパラとめくってみると、美しく文字は整列し、元の文章を成していた。そのうちの「あ・り・が・と・う」の文字だけが一瞬立ち上がり私を見上げ、そしてまた紙の中に戻っていったのを見た。
その様子を明石は特に驚くこともなく見ていて、すぐに状況をある程度理解したらしく、本に向かって「よかったね」と呟いた。
ちょうどその時、何もなかったはずの場所に木製の扉が現れた。扉の向こうから絵描きの声がした。
明石さん、佐川さん、境界を跨ぐことをゆるします。
明石が扉を開けると、そこは沢山の絵が保管されている民家の一室に繋がっていた。兄である絵描きの横で私と明石が扉の向こうからやってくるのを迎えてくれた少女は、私の手元を見るともともとの笑顔がさらに大きくなった。
ああ!その本は私が失くしたと思っていたものだわ!
よかった。この本が帰りたがっていたよ
ありがとうございます。もう失くさないように大切にします!
そうしてあげてくれ
少女は一礼し、部屋から出ていった。絵描きは言った。
佐川!久しぶりだな、明石は時々ここに来るからそうでもねえけどさ。どっちにしろ二人とも会えて嬉しいぜ。明石、今年も妖たちをここまで連れてきてくれてありがとな。
そっちこそ、異界絵の管理、ご苦労様。さて、僕の役目はこれにて終わり。せっかく隣町まで足を運んだのだから、少し散歩でもしてくるよ。それでは。
おう、またな。そんじゃ佐川、ちょっと待っててくれ。頼まれてた絵はもちろん完成してるんだが、休妖の里の準備と被っちまって梱包がまだできてねえんだ。すぐ終わらせる。
わかりました。絵を見て待っています。
共通の知人である明石がいなくなっても、絵描きの自然体で素直な態度のおかげで、それほど気まずくはなかった。彼の言った通り絵を持ち帰るための準備はすぐに終わり、私は無事に受け取ることができた。
休妖の里の絵を眺めていたからか、絵描きはそれについて詳しく教えてくれた。
この絵は特殊な塗料で描かれたものなんだ。ちゃんと日が暮れるようになっているし、時々雨が降ったりもする。すごいだろ。古くから神に選ばれた絵師たちが、時代の移り変わりと共に加筆修正を繰り返し、時に一から新しい絵を描いて、この休妖の里の過ごしやすさを守っているんだ。俺もその選ばれた絵師のうちの一人ってわけ。
なるほど。責任ある仕事ですね。私ならその重圧に耐えられるかわかりません。
まあ確かに、無闇に異界を増やしてはならないとか、塗料を盗まれてはならないとか、神に無断で後継者を募ってはならないとか、いろんな決まり事があるし、何より俺だって神の使いの端くれなわけだから、そこに対する背負いきれなさというか、怖さみたいなのはある。
神は寛容で優しいのだとばかり思っていました。
神様の中には俺たち人間ともまるで古くからの友人と話すかのように仲良くしてくださる人もいる。草祖草野姫とか。でもそれは俺たちなんてその気になればいつでも消し去ってしまうことができるからなんだぜ。
では上級妖怪である明石もですか。
ああ、もちろん。俺や佐川とは比べ物にならないくらい強いからな。まあでも明石はいいやつだし、佐川だってそうだ。お互い逆鱗に触れるようなことはないだろうさ。さてと、すぐに『阿吽』に届けに行くならそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?
そうですね。興味深いお話も聞けたことですから、帰ることにします。今日はありがとうございました。
またいつでも遊びに来いよ。じゃあ、またな。
さようなら。
私は絵描きの家を後にした。部屋の窓から顔を出した絵描きの妹が手を振ってくれたので、振り返し、最寄りのバス停までゆったりと歩いた。バス停には明石がいて、偶然にも、また共にバスを待つことになった。
帰りのバスを待ちながら、私は絵描きに言われたことを思い出した。午後の暖かな日差しに照らされる明石の横顔に問うてみることにした。少しばかり勇気のいることだった。
なあ、明石。私は君があまり多くのことに執着せず、感情の起伏も激しくない性格だと思っているが、今後、それがいつなのかはわからないが、明石が私を軽蔑し、易々と消し去ってしまうことはあるだろうか。
こんなことを言うのは気恥ずかしくもあり、ダサくて情けないような気にもなり、言ってからすぐに居心地の悪さが増していくのがわかった。気色の悪いことを聞いたと思った。明石の返答までの間が実際より長いように感じられた。明石は私の方を見ずに、けれども茶化さずに淡々と言った。
どうだろう。その時にならなければわからない。だけどさ、僕が君にとっての災いになる可能性はあっても、自分の意思で君の前から突然消えることは、ないと思うよ。
そうか。
そうだ。心配しなくても、時々こうして、君に会ってあげるさ。
この先も、時々、こうして私の隣に立つのだな。
ああ、時々。それから。
それから?
君の最期には必ず。
虫送りの夜
陽が沈み、闇の中を虫送りの列がゆっくりと歩いていく時刻になった。何故だか明石もそこに混じっていたが、明石はおかしなやつなので驚きはなかった。彼には敵も味方も何もなく、祓われる側のことも祓う側のことも、皆等しく薄らと愛しているのだろうと思った。
私も松明のゆらめくその列の最後尾に加わってみて、なんとなく、今の我々こそ百鬼夜行という言葉に似つかわしい存在ではなかろうかと、思ってみる。
思ってみるだけで、たいした発見や感動は得られなかったが、大きく吸い込んだ空気が鼻の奥を通り抜けた時、この間の、つまりは文學市三日目の夜に見た、明石が率いたあの不気味な妖の列は一体何だったのか、きちんと読まないまま少女の元へ帰っていったあの本の中身はどんなものだったのか、自分は、そしてこの世界は、いったいどうしてこんなふうに在るのだろうかと、新たな疑問たちが頭をよぎるのだった。
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