薄皮一枚のニューヨークと、シェアハウスを「今日中に出ていけ」と言われた話【NY回想録 #1】
白昼堂々のミッドタウンのカフェ。
お気に入りのダイナーで、パンケーキを前に、名前も知らない誰かと交わした「偽装結婚」の交渉。
そして、あの怪しげな闇サイトを通じて足を踏み入れた、昼間の世界からは決して見えない「秘密の部屋」の匂い。
映画に出てくるような暗い路地裏ではなく、太陽の光が降り注ぐごく普通の日常のすぐ隣で、そんな異常な選択が当たり前のように息づいている。それこそが、私の知るニューヨークの、本当の危うさでした。
ごく普通の生活をしているようで、実は存在してはならない存在。そんな「普通」と「異常」が、信じられないほどの薄皮一枚で隣り合っている街。
コロナ前、私はそんな世界の中心であるニューヨークシティにいました。
滞在した期間は、人生の重みを変えてしまうほどに長い、15年間。
その15年という歳月のうち、前半の私は、WEBデザインの夢を追いかける、どこにでもいる「ごく普通の真面目な女の子」でした。少し大人しくて、目立つのが苦手で、異国の裏社会なんて歩くはずもなかったような、そんな私です。
けれど、いくつかの不運やビザの壁が重なり、私は日本の「まともなレール」からあっけなく脱落してしまいました。
誰のせいでもありません。極悪人がいたわけでもない。ただ、日本に帰るという選択肢を捨てて、オーバーステイになってでもこの街に居座ると決めたのは、他の誰でもない私自身でした。すべては、自分が選んだことでした。
合法的な身分を失った瞬間から、私の15年間の「後半戦」。
不法滞在者としてのサバイバルが始まりました。
生き残るため、そしてこの街にしがみつくためなら、もう「大人しくて控えめな自分」の殻を破るしかありませんでした。なりふり構っていられなかった私は、生きるために、自分の意思で一線を越えていきました。
見知らぬメキシコ人からの偽造ドキュメントの購入、生きるために割り切った「夜の仕事」、永住権を得るための愛のない婚活や、心をボロボロにすり減らした泥沼の失恋。
それでも、自分の中にある「普通の感覚」と良さだけは、どうしても捨てきれずに、ずっともがいていました。
そして、コロナ禍という国家の大きな網が迫ってきたとき、私はすべてを置いて、愛する猫を抱えて日本へ帰ることを決意したのです。
このnoteは、かつて異国の闇で必死に息を吸おうとしていた「あの頃の私」を、人生の大事な一部として忘れないための備忘録です。
でも、せっかくなのでただの昔話で終わらせず、このnoteが誰かのヒントになれば、と思ってます。
現代の日本には、「一度レールを外れたらもう終わりだ」「会社を辞めたら生きていけない」と、息苦しさを抱えて絶業している人がたくさんいます。
そんなあなたへ、どうしても伝えたい。
アメリカ政府に存在を否定され、パスポート一枚で危うい世界の裏側を泳いでいた私ですら、何とか生き延び、今は日本の真ん中で、穏やかで幸せな日々を取り戻しています。
人生、レールを外れたって、したたかささえあれば、いくらでも生きていける。
この記録が、今を生きづらいと感じているあなたの心を少しだけ軽くし、したたかにタフに生き抜くための、人生のヒントになれば幸いです。
私の15年間のニューヨーク生活。その中で、それなりに順調だった私の生活が少しずつシビアな現実へ傾き始めた、ある時期の出来事があります。
まずは、私が一緒に住むことになった、あの不気味なルームメイトの話からさせてください。
ミッドタウンの奇妙な部屋、笑顔の優しい家主
まだ私が合法的な学生ビザを持ち、ニューヨークの街に純粋な憧れを抱いていた頃の話です。
NYCの家探しは、常に制限つきでした。高い家賃と、学生という不自由な身分。だけれど学校やインターン先から遠すぎる場所は避けたい。ということで、ルームシェアは必須です。そんな中で私が見つけたのは、日本人のコミュニティサイトに載っていた、マンハッタン・ミッドタウンの物件でした。
ペンステーションのすぐ近くという、超便利な立地。さっそく連絡をとり、部屋を見せてもらうことに。
アパートを案内してくれたのは、家主兼ルームメイトとなる年配の黒人男性、バーナード(仮名)でした。
バーナードの第一印象は、背が高く、痩せていて、常に穏やかな笑顔を浮かべている「優しいおじいさん」でした。ジャズのロデューサーをしているという彼のユニットは、13階建てのビルの中にあり、とにかく風変わりな作りをしていました。
リビングの天井は異様に高く、キッチンへと続く廊下はだだっ広い。そのくせ、バストイレが一緒になったバスルームは、バスタブもなくシャワーだけの、身をよじるのも一苦労なほど狭くて簡素。
「ここは昔、クラブとして使われていたんだ」
なるほど、エントランスにはまるで「劇場の受付」のようなくり抜かれた小部屋があり、後に彼はよくそこに座って、何かしらの作業をしていました。渡米して以来、数々のルームシェアを経験してきましたが、黒人のアメリカ人男性とルームシェアをするのは初めての経験。彼はベジタリアンで、自分だけでなくルームメイトにも「家で肉を調理してはいけない。」というハウスルールを課してくる強烈さはありましたが、「まあこれも海外生活の醍醐味」くらいに思い、何より立地の良さに目が眩んだ私はそのまま入居を決めてしまいました。
今思えば、もっと早く彼の本性というか、違和感に気づくべきだったなと思います。
最初の1ヶ月は、何事もなく過ぎていきました。
ことの発端は、私が当時知り合った、大学で知り合ったフランス人の男友達を部屋に招いたことでした。
もちろんシェアアパートなので、誰かを連れ込むことに抵抗はありました。でもハウスルールに「友人の立ち入り禁止」というものはなく、自室の中でただお喋りをしていただけです。性的な行為も、不純なことも、何一つしていません。
けれど、彼を送り出すために玄関に向かったとき。
あのエントランスの「受付の小部屋」の暗がりに、バーナードが座っていました。彼は、私たちが通り過ぎるのを、笑顔を一切消した無表情で見つめていました。心臓が、冷たくなるのを感じました。
嫌な予感は、翌朝に的中します。
バーナードが私の部屋のドアを激しくノックし、ドアをあけると
「あのように男を連れ込んで、お前は何を考えているんだ」と突然怒声を浴びせてきたのです。「俺がどういう気持ちになるか分からないのか」と。
いや、わからないよ。。。「俺の気持ち」とは??
と思いつつも、大人しくて言い返すことも苦手だった私は、心臓をバクバクさせながら、ただ「ごめんなさい」と謝ることしかできませんでした。
彼のいちゃもんはそれだけでは終わらず、次の日の朝、またドアが叩かれました。彼の妹が部屋に来ていたのですが、彼女の鼻が良いからという理不尽な理由で、「お前の男が昨日、部屋でタバコを吸っただろう」と詰め寄ってきたのです。
私も友達も、タバコなんて1本も吸いません。
あまりに理不尽な言いがかりに、私は悔しさと恐怖で涙が溢れ、
「吸ってない!決めつけて文句言うな!」
と大声を張り上げてドアを閉めました。怒りの感情をどうしてもコントロールできなかった。
しばらくして部屋を出ると、バーナードは一転して、いつもの優しい笑顔で「Sorry, I didn’t mean to make your life harder(ごめん、君の生活を辛くするつもりはなかったんだ)」と謝ってきました。その二面性がむしろ不気味でした。
けれど、本当の恐怖は、その日の夜に訪れました。
深夜、静まり返ったアパートで、私の部屋のドアが三度、ノックされました。
恐る恐るドアを開けると、暗がりにバーナードが立っていました。昼間の優しい笑顔はどこにもありません。彼は私の目をじっと見つめ、低く、ねっとりとした声でこう言いました。
「もし俺が、君と寝たいと言ったらどうする?」
咄嗟のことで、頭がパニックを起こしました。
「No…」
それだけを何とか絞り出し、ドアを勢いよく閉めて鍵をかけました。
ベッドの上で、心臓が波打ち、体がガタガタと震えて止まりませんでした。彼は、私が部屋に男を招いたのを見て、私のことを「ヤリマン」だと勘違いし、自分もいけると思ったのでしょう。恐怖の中で、私は一睡もできない夜を過ごしました。
そして、その2日後の朝。
私はバーナードに、キッチンへ呼び出されました。
「実は、このビルは3人以上でのシェアを禁止しているんだ。監視カメラでバレた。だから、今日中に出ていってくれ」
one day notice(明日出ていけ)どころではない。
それは、非常な「same day notice(今日出ていけ)」の通告でした。
ビルのカメラでバレたというのも、シェア禁止というのも、すべて嘘だったんじゃないかな。自分の誘いを断った私を、ただ腹いせに追い出したいだけだったのかもしれない。
大袈裟かもしれないけどその時は「人生、終わった」と、絶望のどん底に突き落とされた気分でした。
私はパニックになりながらも、すぐに香港人の親友アマンダに電話をかけました。彼女は「今すぐうちにおいで」と、ブルックリンの一人暮らしの部屋にしばらく泊めてくれると言ってくれたのです。
私には、助けてくれる友達という「最強のカード」が残っていました。
アマンダに手伝ってもらい、急いで荷物をまとめ、ミッドタウンからブルックリンまでタクシーを何度も往復させて、その日のうちに引っ越しを完了させました。
去り際、部屋の真ん中に、あえてまとめた生ゴミを置きっぱなしにして鍵を閉めました。それが、二十代の大人しかった私が、自分を理不尽に追い出したバーナードに対して行った、精一杯の「仕返し」でした。
1日で住みかを追い出された私。
でも、ニューヨークでの本当の試練は、ここからが本番でした。
次に私を待ち受けていたのは、異国の地で生き残るための「仕事(ビザ)」を巡る、日系企業の冷酷な現実。大人しくて世間知らずだった私が、少しずつ「したたかなサバイバー」へと変わっていくきっかけとなった、次なるお話です。
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