年収280万の同調圧力と、定時退社を貫いたわたし【NY回想録 #2】
マンハッタンのバーナードの家を追い出されて、友達に居候させてもらった後住んだのは、ブルックリンにある、2人のルームメイトとシェアする3ベッドルームのアパート。
決して広くはなかったけれど、とりあえずおかしな住民も居なく、ささやかで平穏な私の城でした。
でも、家を失うことよりも、異国で生きる私にとってリアルに首を絞めてくる問題がありました。
それは、「お金」と「ビザ」の現実です。
当時、大学の卒業を控えていた私は、本格的な就職活動を始めていました。
アメリカの大企業も含めていくつか面接のチャンスがありましたが、その度に、私はある問題に神経をすり減らしていました。
「私は外国人であり、ここで働くにはビザのサポートが必要である」という事実を、一体どのタイミングで切り出すべきか。
世界中から人が集まるニューヨークです。英語が拙くてもアメリカ市民権やグリーンカードを持っている人なんて五万といます。だから、現地の企業は「外国人のステータス」に対して無頓着なところが多かったです。
せっかく面接が良い雰囲気で進んでも、最後にビザの話をした瞬間に、微妙~な空気になるあの感じ。そんな経験を、何度も繰り返しました。不採用の通知が届くたび、ビザサポートが必要なせいなのか、それとも単に自分の実力不足なのかもわからずモヤモヤしていました。
もっと人にグイグイ行って、先生や同級生のツテを頼れていれば、違った未来があったのかもしれません。日本に比べて圧倒的に「知り合いのツテ」が最強カードとなるこの街で、元々大人しくて消極的な私の性格は少しずつ不利なカードになっていました。
そんな時、まずは正社員雇用と将来のビザサポートを視野に入れた「インターン」として、私を拾ってくれた会社がありました。
マンハッタンにある、日本人経営のWEBデザイン・マーケティング会社「T社」です。
やっと仕事が決まった嬉しさの反面、提示された給料は、NYの生活水準から見れば目を疑うほどに低いものでした。普通ならエントリーレベルでも年収400万円ほどが相場の業界で、提示されたのは280万円スタート。
けれど、選択肢のない私には、その安月給にすがるしか道はありませんでした。「ここで耐えれば、いつか本物のビザを出してもらえるかもしれないから」と。
こうしてJ-1ビザを使ってT社での生活が始まりましたが、現実は想像以上にカツカツでした。家賃を払い、地下鉄の定期を買い、最低限の食費を払えば、手元には何も残らない。
しかも、その会社は、自由な国アメリカにあるとは思えないほど、日本国内以上に古い「昭和の価値観」が息づいている奇妙な空間でした。
「新人は、先輩よりも早く来て席に座っているものだよ」
入社してすぐ、社長からやんわりとそう告げられました。
40名ほどのオフィスで、その時の新人は私ともう一人、S君。多くの社員は始業の9時ギリギリにしか出社しないのに、私たちは毎朝8時半にはデスクに座っていました。
最初のうちは、任される仕事も極端に少なかったのです。
システム内にある過去の資料や参考サイトを漁る日々。何もすることがない、生産性のない時間が、ただ机の前で過ぎていく。それはそれで、一種の地獄のような時間でした。
「いい加減、この会社の過去の成果物はすべて研究し尽くしたな。。」
入社してしばらく経ったある日、私は出来心でそう思ってしまいました。手元には、デザインの修行と生活費の足しになればと思って受けていた、バナー制作の副業案件がありました。締め切りが、すぐそこに迫っている。
「こんなに暇なら、今ここで進めちゃってもバレないかも。。?」
パーテーションがあるとはいえ、後ろからは丸見えのデスクです。今思えば、よくあんな大胆なことができたなと冷や汗が出ますが、当時の私はおそるおそる、オフィスのパソコンでこっそり副業の作業を始めてしまいました。
一度「バレない」と味を占めると、行動はだんだんエスカレートし、就職時間内にかなりの時間をその作業に費やすようになっていきました。
当然、そんな甘い話が長く続くはずもありません。
3日後、私は副社長に背後からしっかりと画面を見られ、別室に呼び出されました。
「今度同じことをやったら、即クビだからね」
冷たい声でそう言い渡された時、私は言い訳する気にもなりませんでした。「そりゃそうだ、自分が100%悪い」と素直に思い、必死に謝り倒して、その場は何とかクビを繋ぎ止めました。
でも、そこからがまた別の地獄でした。
副業という逃げ道を失い、再びオフィスに「何もすることがない、暇で生産性のない時間」だけが戻ってきたのです。
それに追い打ちをかけるように、会社の居心地はどんどん悪くなっていきました。
ある日の全体会議の最中、私は上司からみんなの前で、突然強い口調で叱責されました。
「会議中に足を組むな!」
一瞬、頭の中が真っ白になりました。渡米して数年が経ち、現地のアメリカ企業のインターンもいくつか経験してきた私にとって、それはあまりにも衝撃的な言葉でした。現地のアメリカ人たちは、上司と話す時も、会議の時も、普通に足を組み、時にはガムを噛みながらフランクに話しています。業界的にもそれが当たり前の世界にいた私は、一瞬、自分がどこの国にいるのか分からなくなりました。
「日系企業って、なんて息苦しいんだ?いや、この会社がおかしいのか?」
オフィスには私たち新人には意地悪な態度の先輩も多く、みんなが社長と副社長の顔色を伺って媚を売っているように見えました。
さらに、私ともう一人の新人S君が、やることもないのに定時の18時に帰ろうとすると、ある先輩が嫌味っぽく声をかけてきました。
「定時に帰るなんて、新人なのにやる気あるのかな?って思っちゃうよ」
日本にある会社以上に、日本の古い悪習を煮詰めたような同調圧力。
S君はその注意に怯え、翌日から、やることもないのにただ席に「いるだけ」の無意味な残業を始めるようになりました。毎日、夜の8時近くまで、みんなと同じように帰らない。そんなスタイルに自分を染めていったのです。
でも、私には違いました。
アメリカ生活も長くなってきて、変なプライドと、自分なりの正義が芽生え始めてたのかもしれません。どんなに冷ややかな視線を浴びても、私は「やることが終わったら定時で帰る」という姿勢を、最後まで頑なに貫き通したのです。S君に聞いたところによると、社長と社員が数人で「トモさんは新人なのに早く帰る」と、陰口を言っていたそうです。私は理不尽なハウスルールに怯えて、震えながら「No」としか言えなかったあの頃の私から、魔都市ニューヨークの荒波に揉まれて、少しずつ、図太く逞しく心が育ち始めていたのかもしれません。
ですがその結果は、残酷でした。
会社の空気を読み、無意味な残業を受け入れたS君は、後に激安の給料のままではありましたが、正社員雇用の座をを勝ち取りました。もちろんビザのサポートつきです。雇用日ビザであるH1ビザもシステム上確実にとれるわけではありませんが、サポートしてくれる会社がいるというのは第一歩としてとても大事なことなのです。
一方、理不尽に抗って定時退社を貫いた私を待っていたのは、インターンビザであるJ-1の期限が近づいてきた頃の上層部からの、冷徹な一言でした。
「ビザも切れるし、あなたの契約もそろそろ終わりにしましょうか」
将来のビザサポートという淡い期待を持たせ、安月給で使い潰した挙げ句の、あっけない「お払い箱」。
「あの会社にしがみついて、何年もビザ奴隷になるくらいならクビでよかった」
当時はそう自分に言い聞かせ、前を向こうとしていました。でも、その後に待ち受けていた、暗く危うい不法滞在者としての生活の中で、何度も、何度も、あの時の選択が頭をよぎることになります。
『あの時、プライド捨てて私も8時まで残業して媚びていれば、こんなに怖い思いをせずに済んだのだろうか』
辛い局面を迎えるたびに、チラリと顔を出すその後悔が、私の心を激しく締め付けました。誰のせいでもない、自分が選んだ道だからこそ、その選択の重さに潰されそうになる夜が、これから何度も訪れるのです。
こうして私は、NYに居残るための最後の合法的手段であった「雇用主」を失いました。
残された時間は、あとわずか。
この街にしがみつくために、私は「もうひとつの選択肢」に望みをかけました。それが、私の人生がまともなレールから完全に脱落していく、あのカウントダウンの始まりでした。
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