最強だから生き残ったわけじゃない―二十世紀梨に学ぶ困難を乗り越える強さとは【いいものインサイト #2】
地方にはまだ知られていない価値がある。
この価値を広く紹介していく記事を【いいものインサイト】としてシリーズ化していきます。
1回目の「大栄すいか」に引き続き、2回目となる今回は「二十世紀梨」。
前回の大栄すいかはこちらからご覧ください↓
(大変多くの方にご覧いただき、また「スキ」も押していただきまして、ありがとうございます!率直に嬉しいです)
大学のとき、農学部で学んでいましたが、そこで習ったことがあります。
「二十世紀梨は、千葉県で発見された突然変異から始まった」
その授業を聞いたとき、わたしの中に違和感が生まれました。
千葉県が発祥なのに、なぜ鳥取県が二十世紀梨の産地として有名なのか。
けれど、その「なぜ」は教科書には書かれていませんでした。心の中で少しひっかかったものの、特に質問等はしませんでした。時が経ち、やがて社会人になると、そのときの疑問のことは徐々に薄れていきました。
新卒でやってきたその年に
新卒1年目、縁もゆかりもない鳥取県へ、たまたま就職することになりました。本当にたまたまのIターン。
休日は鳥取の様々な場所を巡る中で、あるとき訪れたのが倉吉市にある二十世紀梨記念館「なしっこ館」でした。
ここは二十世紀梨の歴史から、梨の育て方や梨の試食まで、さまざまなことが学べる施設です。
ここにきてようやく、「千葉県が発祥なのに、なぜ鳥取県が二十世紀梨の産地として有名なのか」の答えが見つかることになります。
腑に落ちた瞬間
なしっこ館の中に、黒斑病との闘いに関する展示が詳細にされているコーナーがあります。
それは、100年以上前から鳥取の農家たちが直面していた困難についての説明でした。
二十世紀梨は、黒斑病に弱い。
大変な病気で、栽培が非常に難しい品種だったのです。
他の都道府県では、この黒斑病を克服することができず、二十世紀梨の栽培を諦めるしかなかったと聞きました。
けれど、鳥取は違いました。鳥取の農家たちは、その困難から目を背けませんでした。
試行錯誤を重ねました。独自の袋掛けの技術、剪定の方法の工夫・・・官民一体となって、黒斑病という困難に立ち向かったのです。
その長い長い努力の結果、黒斑病を克服することができた。
その時点で、わたしの中にあった違和感が、一気に晴れました。「ああ、そういうことか」大学時代に抱いた疑問が、新卒でやってきたその年に、ようやく解ける。
その時、わたしは心の底から感動しました。
「困難を乗り越えた先に生まれたブランド」
その事実が、これ以上ない説得力を持って、わたしの心に響きました。
大正時代:黒斑病との戦い—産学官の絆が生まれた時代
二十世紀梨が鳥取に導入されて約20年。明治37年に北脇永治氏が3本の親木を植えてから、少しずつ産地が広がっていました。
けれど、大正時代(1912~1926年)、産業は極めて深刻な危機に直面します。
大正8年から、黒斑病が全県下で大発生したのです。
感染した果実は黒変・落果してしまう。
愛媛県や岡山県は、この病気により二十世紀の栽培を諦めてしまいました。他県が二十世紀を放棄する中、鳥取の農家たちはどうしたのか。
二十世紀の普及を先導した北脇永治氏は、国や県に陳情を繰り返しました。その熱意により、大正15年(1926年)3月に農林省から病害専門家が来県し、専門家の派遣と研究体制の構築が実現したのです。
知事も即座に了承し、北脇氏は同年4月に「黒斑病防除組合」を組織して、防除指針の策定、薬剤の共同購入、試験地の設置を開始しました。同時に、県農業試験場にも病理部が設置されました。驚くべきスピード感です。
そしてもう一つ、極めて重要な技術革新が生まれました。技師の高田豊四郎が、薬剤防除直後にパラフィン紙(蝋引き紙)の果実袋を掛けると被害が防げることを奈良で学びました。仕入れ先が不明だったため、なんとキャラメルの包み紙を見てひらめき、業者を特定したという話です。この知見は、独占されることなく、試験場・防除組合の連携試験に取り入れられ、高い効果を示しました。
電報指示による県下一斉防除も開始され、黒斑病は徐々に鎮静化していきました。
ここで生まれた「産学官の絆」は、その後の鳥取の梨産業を支え続ける力となるのです。
昭和初期~戦前:「贈答品」の代表格へ—そして戦中の苦難
大正15年から昭和初期にかけて、鳥取の二十世紀梨は、新たなステージへと上ります。
昭和初期、日本は人口爆発期に達していました。関東大震災からの復興が進む東京は、人口が10年で200万人も増加し、サラリーマン世帯が急増していたのです。この新たな「中流層」を中心に、「昭和モダン」という大衆文化が花開いていました。
そのシンボルがデパート。東京や大阪では豪華な店舗が登場し、全国でも約120店が開店していたのです。鳥取の梨生産者は「果物同業組合」を組織し、この大都市圏での販売を強力に推進しました。
革新的な戦略を取ったのです。
全国に先駆けて、出荷ケース中の果実の重さとグレードを県下で統一・保証する作戦。昭和8年には八橋(現琴浦町内)を皮切りに各地に共同選果場を作り、供給量を安定させました。
二十世紀梨の生産をビジネスとして成立させたのです。
販売宣伝の対象を、中流層が急増する東京に絞って展開しました。飛行機からのビラや電車吊り広告といった、大手企業が始めたばかりの斬新な手法もいち早く取り入れています。昭和前期の二十世紀梨は、デパートで扱われる「贈答品」の代表格となり、八百屋に並ぶ他品種の3倍の価格で取引されるようになったのです。
けれど、この輝きは短かった。
日中戦争(昭和12年)の長期化で状況は一変します。
「国家総動員法」により、ナシも統制品とされ、公定価格は生産原価ギリギリとなってしまったのです。第二次大戦の参戦後には、県果実同業組合は解散に追い込まれ、共同選果場も全て閉鎖され、一部は軍用にされました。兵役と軍需工場徴用により、全国で200万人もの農業従事者不足が生じます。
人手のかかるナシ産業は、極めて深い苦境に陥ったのです。
資材不足も深刻でした。
果実袋の留め金や出荷木箱のくぎなど金属類、肥料・農薬が姿を消したのです。昭和44年には棚の鉄線供出さえ強制されました。
同時に、ナシを伐採して水田やイモ畑にするノルマまで課せられたのです。静岡県のような主産地では、ほぼ水田に戻されてしまいました。
けれど、鳥取の二十世紀農家は知恵の限りを尽くして園を守りました。留め金の代用にイグサを栽培し、労力不足解消に小型で棚下でも働ける琉球馬を移入。伐採ノルマに対しては、代わりに桑畑をつぶしてイモを供出するなど、代替策を講じたのです。
戦後復興から昭和40年代:「うまい梨作り」の哲学が生まれた時代
昭和20年8月15日、日本は無条件降伏しました。
ナシ園のみならず家族まで失った人も多く、絶望の中での敗戦となったのです。
けれど、人は食べなければならない。
ある篤農家は「戦時中、ナシ作りは後ろめたかったが、終戦後すぐに竹で棚を補修し、元の姿に戻そうと懸命に働いた」と振り返っています。
生産販売組織の復活も早かったのです。
昭和21年には県果実協会が組織され、再開された市場販売の調整に加え、肥料、農薬などの確保や果実袋の生産まで行い、生産者を援助しました。
翌22年には、堀江真澄氏が中心となり機関紙「因伯之果樹」が創刊されました。京都大学の菊池秋雄名誉教授など一流の執筆陣を迎えた誌面からは、産地復興を志す熱意と、抑圧から解放され自由にナシづくりができる喜びが伝わってきたといいます。知的な面から産地を導いたのです。
昭和27年から5年間で、梨の栽培面積と栽培戸数は約4倍に急増し、2千ヘクタール・1万戸となりました。
第二次大戦後、希少品だった二十世紀は高値で売れていきます。
そして、昭和42年からは「うまい梨作り運動」を全県的に展開し、啓発に努めました。
生産者側も、規定の糖度に達しない場合は収穫・出荷を延期する、糖度が高い農家に奨励金を出すなど、自律的な仕組みで応じたのです。この運動は即効性を持ちませんでしたが、産地に消費者目線を根付かせることができたのです。そして、昭和50年代には全国に先駆けた糖度センサー利用につながりました。
全果の糖度を検査し、「うまい梨」のみ商品にする画期的な方法が運動30年後に確立されていきます。
昭和50年代~:国際化と産地の底力—そして新たな困難への対応
昭和35~70年代にかけて、鳥取県は梨栽培面積を大幅に拡大します。
農業構造改善事業により、3700ヘクタールの大産地が出来上がり、病害防除から販売に至るまで県下統一的に実施する類をみないシステムが構築されました。
昭和44年にはハワイへの輸出が始まり、昭和55年代にはアメリカ本土、欧州への輸出も実現しました。二十世紀梨の日持ちの良さという特性が、世界へ羽ばたくことになったのです。
現在:なしっこ館と子どもとの時間
今、わたしはどのように二十世紀梨と関わっているのか。
それは、なしっこ館での子どもとの時間の中に、あります。
新卒で鳥取に来て、その後結婚をし、出産。休日は、子どもを連れて、なしっこ館を訪れることが多くなりました。遊具のコーナーやクイズのコーナーで子どもは夢中になって遊びます。試食のコーナーも大変おすすめです。年中3品種の梨の試食ができ、子どもと一緒に味や食感の違いを堪能しています。
けれど、わたしは時々、別のコーナーへ足を運びます。
それは、黒斑病資料のコーナー。
新卒でやってきたその年に感じた、あの衝撃。
「困難を乗り越えた先に生まれたブランド」
その感動を、決して忘れないようにしたいと願う自分がいます。
本質的な強さ—ブランドが生まれた理由
二十世紀梨の歴史を辿ると、黒斑病や社会情勢等、困難との闘いの連続であると改めて思い知らされます。
しかし決して孤独の中で戦ってきたわけではなく、
人と人とのコラボレーション
そこから生まれるイノベーション
協力関係で推進されるスピード感
――現代のビジネスにも通じる本質的な強さがそこにはありました。
「二十世紀梨といえば鳥取県」というのは、こうした歴史の上に成り立っているのです。
二十世紀梨だって最初から最強だったわけじゃなかった。
困難に直面しているあなたへ
今、わたしがこの記事を書いているのは、もちろん鳥取のいいものを知ってほしいという気持ちもありますが、困難に直面している人たちへ、エールになったらいいなという思いもあります。
困難に負けそうになっている人。これ以上は進めないと感じている人。そのような人たちが、二十世紀梨の歴史を知ったら、明日への活力になるのではないか。そう感じています。
100年以上前、鳥取の農家たちは、黒斑病という困難に直面していました。それは、栽培を諦めてもおかしくないレベルの困難。実際、他の都道府県は、栽培を諦めたところもあります。
けれど、鳥取は違いました。
困難の先を見つめました。「この梨をなんとか栽培したい」という想いを持ち続けました。試行錯誤を重ねました。官民一体となって、問題に取り組みました。
その結果が、今の二十世紀梨なのです。
100年以上の時を経て、なお愛され続ける梨。世界にも輸出される梨。
それは、困難を乗り越えた先に、確固たる資産が生まれることを、何よりも雄弁に物語っています。
