【思わぬ大金を得た男の日記】 3話 「ちょうどいい場所」
朝、ベランダに出た。駅からは徒歩15分。
駅から通勤先の都心まで、
電車で40分ほどの郊外のマンション。
高級でもなければ、古すぎることもない。
不便ではないが、便利と言い切るほどでもない。
中級の静寂、
住みやすいと言えばそうなのだろう。
同じ高さの建物が、同じ間隔で並んでいる。
ベランダの向こうにも、
似たような生活があるはずだった。
下を見ると、
駐車場にミニバンが数台停まっている。
ああいう車じゃないと、
休日の買い出しは面倒になる。
ここを選んだ時、「ちょうどいい」と思った。
背伸びをしている感じはなく、
かといって、諦めたとも思わなかった。
その判断は間違っていないと信じていた。
少なくとも、数日前までは。
部屋に戻ると、キッチンから子どもの声がする。妻は、いつも通りの動きで朝の支度をしている。特別な空気はない。
食卓に並ぶメニューも、着ていく服も、
変わらない。
ただ、「変えられる」という選択肢が、
テーブルの下にひっそり置かれている気がした。
会社へ向かう途中、駅前の不動産屋の前を通る。ガラス越しに、築3年から40余年までの
物件が並んでいる。
すぐそこに建つマンションの
価格だけを見てみるが、すぐに目を逸らした。
買える。
理屈の上では。
ただ、買ってしまったら、
残額はほぼ半減し、余裕も萎む。
そして、もし引っ越したとして、自分や、
今の生活をしている家族が、
その先にちゃんと続いているかは
分からなかった。正直、不安だ。
昼休み、同僚が同じ部署仲間に
「知っての通り、俺の家、狭いだろ?
なのに、坊主が子ども部屋が欲しいとか
言い出しちゃって、
2LDKの我が家をどうしようかと、
嫁と頭抱えてるわ」と、
苦笑しながら話していた。
ローンの残り年数と、子どもの進学の話。
聞き慣れた会話だ。
今までは、何も引っかからなかった。
今日は、これまでと違った。
笑う瞬間が少しだけ遅れた。
午後、仕事に集中しようとしたが、
画面の文字が頭に入らない。
数字を見るたび、別の数字が浮かぶ。
あの桁は、仕事を道楽にする数字ではない。
ただ、考え直すには、
ちょうど重かった。
帰宅すると、マンションのエントランスで、
同じ階の住人とすれ違った。会釈をする。
それ以上の関係はない。
エレベーターの中、鏡に映る自分を見る。
スーツ姿。疲れてもいないし、
高揚もしていない。
「変わってないな」と感じた。
それが、良いことなのか、分からなかった。
部屋に入ると、子どもが駆け寄ってくる。
機嫌が良かったようで、今日の出来事を、
順番も気にせず話す。
その声を聞きながら、この場所を手放す未来と、守り続ける未来を、同時に想像していた。
どちらも、少し怖い。
夜、2人が寝静まった後、
リビングでひっそりと書類ケースを開く。
中の数字は、やはり動いていない。
ただ、この部屋の広さや、窓から見える景色が、さっきよりも具体的に見えた。
実感のない桁の数字が、生活に触れ始めている。
カーテンを閉め、電気を消す。
布団に入ってから、初めて思った。
この金は、
何かを手に入れるためというより、
何かを失わずに済むように、
そこにある気がした。
そう考えた瞬間、
少しだけ、息が詰まった。
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