【思わぬ大金を得た男の日記】 5話 「迷わないところで」
朝は、いつも通りだった。
アラームが鳴る前に目が覚めたが、
それも、たまにあることだ。
隣を見ると、妻はまだ寝ている。
昨夜のことを思い出しかけて、やめた。
キッチンで、コーヒーを淹れる。
水の量を、少しだけ迷った。
濃さの問題ではない。
ただ、立ち止まった。
結局、いつも通りの分量でスイッチを入れる。
ポットの中で、湯が音を立て始める。
それを見ながら、理由のない安心を探している自分に気づく。
カップを棚から出す。
欠けもヒビもない、よくある白い陶器だ。
それを選んだ理由を、もう覚えていない。
朝のニュースで聞いた話題を、
思い出そうとしてやめる。
仕事の途中で言われた一言も、
頭の端に引っかかっているが、掴まない。
今日は、そういう日だと思うことにした。
ホームで電車を待ちながら、広告を見やる。
マンション、保険、資産運用。
前からそこにあったはずの文字が、
今日は、はっきり見えた。
目を逸らすほどではない。
ただ、視界に残る。
電車が来て、そのまま乗り込んだ。
帰り道、スーパーに寄る。
自動ドアが開く音に、少しだけ肩の力が抜けた。
カゴの中身は、いつもと同じだ。
牛乳。
卵。
特売の鶏むね肉。
値段を見て、
一瞬、計算しそうになって、やめた。
半額シールの貼られた惣菜が並んでいる。
目には入るが、足は止まらない。
必要かどうか、というより、
今日は選ばない日だと思った。
レジに並び、
前の人のカゴをぼんやり眺める。
知らない家庭の生活が、
一瞬だけ、こちらに触れて、
すぐに消える。
家までの道、光景は特に変わらない。
街灯の間隔も、
アスファルトのひび割れも。
ポケットの中で、スマートフォンが重たい。
取り出して、何かを書き留めることもできた。
でも、画面は見ないまま、歩く。
家に帰ると、
子どもが先に気づいて駆け寄ってくる。
小さな体がぶつかってきて、
勢いよく、抱きつかれる。
その勢いで、
一日の大半が、
どこかへ押し流される。
玄関の外に置いてきたものが、
流れていくのを、
追いかける気にはならなかった。
妻が奥から声をかける。
「おかえり」
「ただいま」と返す。
声は、思ったより普通だった。
靴を揃え、上着を脱ぎ、手を洗う。
それだけのことが、
今日は、ちゃんとできている。
ダイニングの椅子に座り、
子どもの話を聞く。
意味のまとまりきらない言葉が、
一生懸命、並べられていく。
相槌を打ちながら、
自分が今、ここにいることを確認する。
言おうと思えば、
何かは言えたのかもしれない。
でも、今日は、
ここまででいい気がした。
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