【思わぬ大金を得た男の日記】 7話 「数えなくなったこと」
朝、目が覚めると、自分の呼吸だけが聞こえた。
一瞬、寝坊したかと思い、
枕元の時計に目をやる。
いつもより、少しだけ早い。
隣では、妻が背中を向けたまま眠っている。
規則正しい呼吸。
安心していいはずの光景なのに、
今日はなぜか、距離を測っている自分がいた。
静かに布団を抜ける。
床の冷たさで、少しだけ目が覚める。
狭いキッチンに立つ。
コーヒーを淹れる。
水の量は、もう迷わない。
迷うほどの理由も、今日は見当たらなかった。
湯が落ちる音を聞きながら、
昨日のことを思い出そうとして、やめる。
特別なことは、何も起きていない。
宝くじの当選を知ってから、
何日が経ったのか。
もう、正確には数えていない。
数えなくなったことに、少し驚く。
以前は、一日単位で気持ちが揺れていた。
今は、揺れているのか、
それとも、慣れただけなのか、区別がつかない。
コーヒーを一口飲む。
熱い。
しっかりと、熱い。
それだけで、少し安心する。
通勤電車は、いつも通り混んでいる。
吊り革につかまりながら、他人の背中を見る。
誰も、自分のことなんて見ていない。
それが、ありがたい。
会社に着き、デスクに座る。
パソコンを立ち上げる。
メールを開く。
「お世話になっております」
「表題の件」
「ご確認お願いします」
いつもと同じ文面。
いつもと同じ順番。
画面の中に、
当選金のことは、どこにも書いていない。
それなのに、自分の中では、
ずっとどこかに表示されている。
数字としてではなく、重さとして。
昼休み、コンビニで弁当を選ぶ。
値段を見る。
一瞬、何も考えない。
そのあと、
自分が「何も考えなかった」ことに気づき、
少しだけ動揺する。
高い弁当を選んだわけでもない。
安いものを探したわけでもない。
ただ、手に取った。
レジで会計を済ませながら、
この感覚が、良いのか悪いのか、判断できない。
午後、会議室で上司の話を聞く。
資料をめくる。
頷く。
自分の声で、「はい」と言う。
その声が、
少しだけ他人のものみたいに聞こえた。
帰り道、駅前の宝くじ売り場の前を通る。
人が並んでいる。
数人。
多くもない。
これまでなら、視線を逸らしていた。
今日は、一瞬だけ、立ち止まる。
並ばない。
買わない。
ただ、売り場を眺める。
ここで、人生が変わった。
そう言い切れるほど、
何かが変わった実感は、まだない。
それでも、確かに戻れない場所が、
一つ増えた気はしている。
家に帰る。
玄関で靴を脱ぐ。
子どもの声がする。
テレビの音がする。
鍋の匂いがする。
生活は、ちゃんと続いている。
夕飯の席で、妻が今日あったことを話す。
子どもが、保育園の話をする。
自分も、会社の話を少しする。
当選のことは、話さない。
話さないことが、隠しているのか、
守っているのか、まだ決められない。
夜、子どもを寝かしつける。
暗い部屋で、寝息を聞きながら、思う。
この子は、何も知らない。
それでいい。
寝室に戻ると、妻はもう布団に入っている。
電気を消し、横になり、天井を見る。
何か大きな決断をしなければならない気もする。何もしないままでいい気もする。
そのどちらも、今は選べない。
目を閉じる。
眠れるかどうかは、わからない。
高額当選と聞けば、
高揚とか、興奮とか、
そういう言葉が浮かぶ。
いまの自分は、
どれにもきれいには当てはまらなかった。
それでも、明日はまた来る。
それだけは、確かだった。
8話はこちら↓↓
