【思わぬ大金を得た男の日記】 8話 「そのままにしておいたもの」
その封筒は、
郵便受けの一番奥に差し込まれていた。
チラシや公共料金の通知に紛れて、
白く、硬い。
差出人の名前を見た瞬間、
一拍だけ、呼吸が遅れる。
金融機関の名前だった。
具体的な用件は、
書かれていない。
ただ、印刷された住所と、機械的な文字。
急ぎ、
とも
重要、
とも
書いていない。
それなのに、
手に取った感触だけで、
これは後回しにできないものだとわかる。
封筒を持ったまま、
玄関に立ち尽くす。
家の中から、
子どもの声がする。
テレビの音がする。
いつも通りの夕方。
靴を脱ぎ、
何事もなかったように部屋へ入る。
妻がキッチンに立っている。
振り返り、
「おかえり」と言う。
その視線が、
一瞬だけ、
手元に落ちる。
「なにそれ?」
聞かれるとは思っていなかった。
隠すつもりも、
見せるつもりもなかった。
「銀行から」
自分でも、
それ以上を言う気になれなかった。
妻はそれ以上、
聞いてこなかった。
それが、ありがたいのか、怖いのか、
判断できない。
封筒は、
ダイニングテーブルの端に置かれる。
夕飯の準備が進む。
包丁の音。
鍋の音。
封筒は、
動かない。
食事中、
他愛のない話をする。
保育園のこと。
テレビで見たニュース。
週末の予定。
会話は、ちゃんと成立している。
それでも、視界の端に、白が残る。
妻が立ち上がり、
皿を下げる。
そのとき、封筒が少しだけ、妻の方へ寄る。
無意識の動き。
たぶん、
本当に、無意識。
「あとで見るの?」
何気ない声。
「うん、あとで」
即答だった。
その答えに、自分でも少し驚く。
夜、
いつも通りに子どもを寝かしつける。
暗い部屋で、
小さな寝息を聞きながら、思う。
この封筒の中身は、
この子の未来とは
何の関係もないはずだ。
なのに、
そう簡単には切り離せない気もする。
リビングに戻ると、
妻はソファでスマホを見ている。
テーブルの上の封筒は、そのままだ。
自分は、
それを手に取る。
重くない。
厚くもない。
紙の音だけが、やけに大きく響く。
開けようとして、やめる。
今じゃない、
と思う。
理由はない。
タイミングでもない。
ただ、
今ではない。
封筒を引き出しにしまう。
閉める音が、
少しだけ大きかった。
妻が顔を上げる。
「明日?」
「たぶん」
それ以上、
言葉は続かない。
寝室に入る。
電気を消す。
暗闇の中で、
封筒の位置を、
頭の中で確認している自分がいる。
引き出しの中。
右奥。
まだ、何も起きていない。
それなのに、今日という一日は、
昨日と同じではなかった。
目を閉じる。
眠りは、
すぐには来ない。
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