【思わぬ大金を得た男の日記】 2話 「抱えたまま、歩く」
朝は、子どもの声で目が覚めた。
目覚ましより先に聞こえるそれは、
ここ数年変わらない。
隣を見ると、妻はもう起きていた。
布団の温度だけが残っている。
それを気にするほどでもなく、体を起こした。
キッチンから、食器の触れる音がする。
テレビはついていない。
朝はそういう家だった。
顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。
四十代前半。
疲れているわけでも、特段元気なわけでもない。
ちょうど中間の顔だった。
テーブルには、いつも通りの朝食。
子どもは先に食べ終え、
落ち着きなく椅子を揺らしている。
「今日、保育園」
それだけ言われて、うなずいた。
何時に迎えに行くかは、妻が知っている。
会話はそれ以上、広がらなかった。
不仲というわけではない。
確認し合うほどの新しい情報もない。
家を出る前、無意識に書類ケースを確認した。
中にあるのは、見慣れた封筒。
残高証明。
振込通知。
数字の桁が、未だに現実味を持たない。
減ってはいない。
増えてもいない。
そこにある、という事実だけが続いている。
玄関で靴を履きながら、
「数日で慣れるものだな」と思った。
億単位の金額に、ではない。
それを抱えたまま、普通の朝をやることにだ。
会社では、特別扱いされることはない。
業績や人望に喝采や拍手はないが、席はある。
でも、この件は誰も知らない。
知られてはいけない。
仕事は、相変わらずの内容だった。
責任が増えたわけでも、減ったわけでもない。
金額と立場は、何も関係しない。
昼休み、スマホを見る。
家族のグループには、写真が一枚届いていた。
子どもの落書き。
それを見て、
安心したのか、不安になったのかは分からない。
「この生活を、守るべきなんだよな」
そう思ったのは確かだった。
午後、ふと考える。
この金を、何に使うべきなのか。
あるいは、使わないままで良いのか。
答えは、いつも同じところで止まる。
考えすぎるほどではない。
今すぐ決める必要もない。
帰宅すると、子どもが先に玄関に来た。
今日あったことを、細かく説明しても
わからないので、ネクタイも緩める間もなく
愛しさを抱き上げ、
「ただいま!元気だった?」
と、最低限のコミュニケーションを取る。
ただ、これが今日の最高の瞬間でもあった。
妻はキッチンから、それを聞いている。
こちらを見ることはない。
夕食は、昨日と似た献立だった。
昨日と違う点を探すほどでもない。
風呂に入り、
子どもを先に寝かせ、
リビングに戻る。
テーブルの上に、また書類ケースがある。
朝、確かにしまったはずだった。
そっと開いて、中を見る。
数字は変わっていない。
なのに、
少しだけ距離が近づいた気がした。
金が、ではない。
この生活に、入り込んでくる気配がだ。
カーテンを閉め忘れたまま、
部屋に夕方の名残が残っている。
床に伸びる影を見て、
昨日と同じだ、と思った。
思っただけだった。
あとから思えば、
この日から、
「守るべきもの」と「持ってしまったもの」が、
静かに同じ重さになり始めていた。
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