啄木の知らない戦争|第四章 焦土
戦争が終わった翌朝、東京の空は澄んでいた。爆弾が降らない空がこれほど高いとは思わなかった。焼け跡の中を人が歩き、子供が走り、荷物を背負った老人がゆっくり歩き、家財道具を積んだリヤカーを引く男がどこから来てどこへ向かうのか自身も知らないように見えた。ただ引いていた。
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
道の端の黒く焦げた柱の根元に、花が一輪置かれていた。供えた者の名前はどこにもなかった。焼け跡は見渡す限り低く、戦前にここに何があったかを焼け跡の均一な低さは塗り消していた。その平らな上に、空だけが高く青く続いていた。数日後にはヤミ市が立ち、ジープが走り、チョコレートを投げた占領軍の兵士の後を子供たちがついて歩いた。焼け跡に板を打ち付けただけのバラックが広がっていき、雨風をしのぐことが先で美しくある必要はなかった。爆弾が降らない夜の静けさに、まだ慣れていない人間がこの街に大勢いた。
━━ 一 ━━
昭和二十年九月の初め、米内光政は及川古志郎と海軍省の一室で会った。三年ぶりだった。及川が部屋に入ってきた。背筋が伸びていた。歩き方が変わっていなかった。
「待たせた」と米内は言った。及川は椅子に座り、米内の顔を見た。
「お体は」「問題ない。お前は」「同じです」
しばらく沈黙があった。戦争が始まった経緯、三国同盟を飲んだ夜、開戦を止められなかったこと、終わらせるまでにかかった時間——それらをここで話しても、何も変わらなかった。
「手紙を受け取った」と米内は言った。「あの一行で十分だった」及川は口を開かなかった。「返事を出さなかった」「分かっています」「返事が必要な手紙ではなかった」及川はうなずいた。
「海軍がなくなります」と及川は言った。「占領軍の方針です。解体されます」米内は口を開かなかった。
「残るものがある」と米内は言った。「何が残りますか」「戦争を終わらせた、という事実だ」
及川はしばらく米内の顔を見た。「それで十分ですか」「十分かどうかは、俺が決めることではない」
また静けさがあった。及川が立ち上がった。「失礼します」「ああ」及川が出ていった。
米内は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。窓の外に東京の空があった。一ヶ月前、この空の下で戦争が終わった。その空が今日も、変わらず青かった。及川の手紙を引き出しに入れたまま戦争が終わった。その手紙は今も、引き出しの中にある。
米内光政が海軍省の大臣室を最後に出たのは、昭和二十年九月の末のことだった。ポツダム宣言の受諾から二週間、降伏文書の調印を経て、組織の解体というものをどうやって進めるかをこの男は昼も夜も考えていた。残る者が飢えないよう、残る書類が消えないよう、残る施設が暴力に流れないよう——終わらせ方の美醜が組織の格を決めると米内は思っていた。
引き出しの及川の手紙を折り直して上着の内ポケットに入れた。この部屋にはもう戻らない。副官に「この部屋の鍵は最後に返却記録に残せ、何が来ても残るように」と言い残して廊下に出た。翌日参内した米内に昭和天皇は「米内には随分と苦労を掛けたね、これは今さっきまで使っていた品だが今日の記念に持ち帰ってもらいたい」と言いながら、墨の濡れたままの硯箱——二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵の硯箱を直接手渡した。廊下に退出するなり米内は声を殺して泣き出したという。走る者も叫ぶ者もいない静かな廊下で、この男の最後の感情が溢れた。向こうから来た若い士官が直立して何か言おうとして口を開いたが言葉が出なかった。米内は歩いたまま軽く頷き、角を曲がった。外に出た東京の秋の空が、この組織の最後の誇りだと思った。秩序の中で終わった。
回想録も証言も求める声に応じなかった。書くべきことを書いた文書はすでに存在している、問題は読まれたかどうかではなく自分が書いたかどうかだった。昭和二十一年五月に海軍省が廃止され、同じ年に公職追放となった。
追放の通知が来た時、米内はしばらく書類を見てから「承知した」と言った。大臣室でも総理官邸でも閣議室でも「承知した」という言葉だけで多くのことを片付けてきたが、公職追放の通知への「承知した」は、それらと同じ言葉でありながら全く異なる重さを持っていた。これ以上の役割はない、という承知だった。
退省した後、米内は北海道釧路の牧場経営に参加した。元秘書官たちが誘って作った北海道牧場株式会社で、米内は馬や牛を相手に時間を過ごした。組織も肩書きも命令系統もない場所で、動物を前に自分の体を使う時間が、この男の晩年には必要だった。牧場で働く元海軍の者たちは、大臣でも総理でもない米内という人間を初めて見た。彼らが見たのは、静かで寡黙で、馬の顔を見ながらプーシキンを読んでいる一人の老人だった。
釧路の牧場での朝は早く、米内は夜明けとともに起きた。外に出ると冬の空気が体を包んだ。ここには命令も報告も決裁書類もなかった。馬が柵の向こうに立っていた。米内は近づいて馬の鼻先に手を当てた。命令しなくてもいい、説明しなくてもいい、ただ手を当てるだけでいい——そういう生き物が隣にいる時間の重さを、この老人はこの牧場で初めて知った。元秘書官の一人が「閣下はなぜ牧場を選ばれたんですか」と聞いた時、米内は少し考えてから「面倒くさいからだ」と答えた。「東京にいると何かと面倒くさい」と言い足した。後年その秘書官は「今思えば、東京にいると終わった戦争について何かを問われる、牧場にいれば馬しか問わない——そういう意味だったのかもしれない」と書き残している。米内がプーシキンを読んでいたのは、大正四年にサンクトペテルブルクの街を歩いた若い武官が体に刻んだ言語が、北海道の牧場の朝に戻ってきたからかもしれなかった。
牧場から東京に引き上げたのは昭和二十二年の秋で、体の具合が優れないという知らせを受けた元副官が迎えに来た。米内はほとんど抵抗しなかった。東京にいると面倒くさいと言って釧路に来た男が、戻る時も荷物を黙って一つにまとめた。釧路で必要なものは全部受け取った——そういう顔だった。釧路を発つ前の朝、米内は最後に馬のそばに立った。馬の鼻先に手を当て、そのまましばらく動かなかった。馬の首が一度ゆっくりと動き、米内の手に触れた。それから米内は手を離し、振り返らずに歩いた。昭和二十三年の春、軽い脳溢血に肺炎を併発して入院した。病床の米内に、見舞いに来た者が「お体はいかがですか」と聞くと「もう少しここにいれば直る」と答えた。直らなかった。四月二十日、六十八歳で死んだ。
看取った者は少なかった。海軍省は消え、大臣の肩書も総理の肩書もなく、公職追放の身で、ただの老人として死んだ。しかし枕元にプーシキンの詩集があり、上着の内ポケットに古い手紙が入っていた。「待っておりました」という一行だけで、日付も差出人もなかった。米内がなぜこれを内ポケットに入れていたのか、答えられる人間が、もういなかった。釧路の牧場で一緒に馬の世話をした元秘書官が後年書いている。「閣下はあの手紙のことを一度も話されなかった。しかし内ポケットに入れたままにしていた——それだけで、あの手紙が何を意味するかは分かる気がします」と。
━━ 二 ━━
小野寺信がストックホルムを発ったのは昭和二十年の秋で、帰りの船のデッキに立ちながら打ち続けた電報の一通一通を順番に思い出した。ソ連の動向、ドイツの敗北、連合国の戦略——見えていたことを正確に書いて東京に打った、返電は来なかった、しかし打ち続けた。横浜に入港した時、波止場の空気が焼け跡の匂いを帯びていた。ストックホルムの石畳の上では感じなかった何かが日本の空気の中に残っており、小野寺は桟橋に立ちながらその匂いを受け取った。帰国してから参謀本部の跡を訪ねたが、建物は残っていても誰もいなかった。通路の奥で偶然に会った後輩が「武官室に残した書類はどうなりましたか」と聞いてきた。「残してある」と小野寺は答えた。「誰かが読みますか」「分からない。しかし残してある」——二人は短くそう確認し合った。後年、ストックホルムの武官室に残した書類が研究者によって発掘された。打ち続けた電報の記録が、そこに残っていた。届かなかった言葉が、時間を経て、別の形で読まれた。小野寺はその知らせを聞いた時、静かに頷いただけだったという。
━━ 三 ━━
占領期の東京で、金田一京助は国語審議会の委員として標準語制定の仕事に加わった。GHQが日本語をローマ字表記に変えるべきかどうかを検討しており、日本語の存続そのものが議論の対象になっていた。金田一は審議会で「言語は民族の骨格であり、骨格を取り換えることは人間を作り直すことと同じだ」と発言した。アイヌ語が消えかかっていく様子を何十年も見てきた人間の言葉だった。言語が消えた後に何が残るかを、金田一は具体的に知っていた。残るのは、その言語で語られていた世界の見方が消えた後の空白だった。空白は埋めようがない。だから今のうちに記録するしかない——その一念が、金田一を審議会の席でも動かしていた。GHQの担当者は金田一の発言に押されて、ローマ字化の方針を後退させた。言語の問題について、日本側にこれほど明確な立場を持つ人間がいると思っていなかったという。
昭和二十一年の春、金田一京助は棚の上に置いたままにしていたアイヌ語辞典の原稿の束を机の上に下ろした。埃が積もり紙の端が乾いて反っていたが、順番は狂っていなかった。戦争の間も原稿は棚の上でその順番を守っていた。
採集の旅は北海道と東北の各地に及び、老いた話者が死ねばその言葉が消えるという焦りの中で言葉を書き留め続けて四十年近くかかった仕事が、戦争の間も止まらなかった。空襲の夜も食料が乏しい時期も、言葉は待ってはくれない、話す者が死ねば消えるという一事だけがこの男を机の前に縛り付けていた。昭和二十三年、アイヌ語辞典が出版された。出版の朝、見本の重さを両手で持ちながら机の引き出しを開けた。引き出しの底に、古い紙があることを金田一は知っていた。今日は開けなかった。辞典の見本を机の上に置いて、次の仕事の資料を書架から取り出した。辞典が出たからといって、言葉の研究が終わるわけではなかった。引き出しの底には啄木が書き残した紙があった——金田一は今日も開けなかった。
病のごと思郷つのる今日この頃
汽車に乗りたく
汽車に乗りたく
汽車に乗りたい、もう一度あの場所へ行きたいという衝動が病のようにつのる——北海道への採集旅行を何十回と繰り返した金田一には、この歌の感触が分かった。啄木は盛岡への郷愁を書いたが、金田一には平取の村の入り口で老人を待っていた記憶があった。辞典が出た今も、その衝動は消えていなかった。
━━ 四 ━━
野村胡堂が戦後最初の銭形平次を書いたのは、昭和二十年の冬だった。玉音放送を編集局で聞き、今まで耳を塞いでいたものがなくなったという静けさを感じた後、引き出しを開けると書きかけの原稿があった。江戸の不義が昭和の不義と重なりすぎて書けなかった原稿が、積み重なっていた。書き出した一行を消し、また書いてまた消した。書けなかったのではなく、書いたものが世界に届くという実感を野村はこの時初めて持っており、届く言葉を書くことへの正当な怖れだった。
三日かけて一本書いた。江戸の市井で平次が歩き回る話で、時代設定も人物も戦前と変わらなかった。変わったのは書く自分の意識で、書いたものが今この時代に生きている人間に届くという感触が、戦前とは違う重さを持っていた。占領軍の兵士が街を歩き、ヤミ市の声が聞こえ、焼け跡の匂いが残る東京で、江戸の市井の物語が読まれていく——その奇妙な組み合わせの中に意味があると野村は思っていた。変わらない江戸があるから、変わった東京が見えやすくなる。どこへ向かっているかを知るには、どこから来たかが分かる場所が必要だった。
書き上げた原稿を出版社に持っていくと担当の編集者が「先生、久しぶりですね」と言った。その「久しぶり」の意味を二人は分かっていた。書ける状態に戻ってきた、それだけのことがこの時代には重かった。原稿用紙に向かう時間が、また始まった。焼け跡の街の上で言葉を書く者が読む者が少数ながら残っており、野村はその者たちのために書き続けた。
━━ 五 ━━
出淵勝次が終戦外交の周辺にいたのは、昭和二十年の夏のことだった。
帰国してから三年が経っていた。ワシントンの大使館を引き払い太平洋を渡って戻った日から、出淵は表の役職を持たなかった。しかし外務省の廊下に出淵の姿はあった。若い外交官が相談に来た。局長が意見を求めた。出淵は求められた時だけ話した。求められない時は、黙っていた。
昭和二十年の春、松田から連絡が来た。外務省の廊下で声を低くして話す男だった。ソ連を通じた和平交渉の打診、近衛文麿をモスクワへ特使として送る案が動いていた。「望みはあるか」と出淵は聞いた。松田は少し間を置いた。「薄い。しかしやらないよりはいい」「ソ連は動く」「分かっています」——二人は黙った。ヤルタで何が決まったか、スウェーデンからの電報も届いていた。ソ連が対日参戦することは時間の問題だった。「あなたが動ける場所はあるか」「ない。しかし知っておくことはできる」——松田は小さく頷いて、また先に歩いて行った。
八月八日、ソ連は対日宣戦を布告した。小野寺がストックホルムから打ち続けた電報の内容が、現実になった日だった。出淵はその報を外務省の廊下で聞いた。言葉が届く前に、砲が動いた。外交が機能する余地は、この瞬間に閉じた。出淵が三十年積み上げてきた仕事の意味を問うことは、しなかった。問うても、答えは廊下には落ちていなかった。出淵は窓のある方へ歩いた。窓の外に、夏の空があった。青かった。その青さの下で、満州に砲声が響いていた。
出淵勝次が死んだのは昭和二十二年八月十九日、六十九歳だった。前の年、前々年と大きな開腹手術を受けており、体はすでに限界に近かった。それでも五月に行われた第一回参議院選挙に岩手県地方区から出馬すると決めた時、出淵の頭の中に何があったかを誰も正確には知らない。選挙前に友人の佐藤尚武が「それは大丈夫だろうか、体のことを考えると」と心配すると、出淵は少し笑ってから「いや君、男は年に一度ぐらい腹を切るものだよ」と言った。その言葉が出淵の本音だったのか、それとも自分自身を奮い立たせるための言葉だったのか、佐藤には判断がつかなかった。
当選した。岩手の地元紙が「元駐米大使・当選」と報じた。盛岡で生まれ盛岡中学を出て外交官になり、ワシントンで日米関係の修復に奔走し、満州事変の後始末を言葉でやろうとして失敗し、戦争の間は貴族院の廊下を歩き続けた男が、戦後の最初の参議院選挙で当選した——その事実の意味を、出淵は岩手の地方紙の記事を読みながら静かに受け取った。
━━ 六 ━━
三鬼隆が初めて炉の前に立ったのは、室蘭製鉄所での入社三年目の冬のことだった。夜勤の職人に「一度見ておいた方がいい」と言われてついて行った。炉口が開いた時の熱風と赤い光が体に入ってきた。溶けた鉄が流れていた。その光を見た瞬間に、この仕事が自分の仕事だと三鬼は分かった。説明もなく、その瞬間に分かった。そういう出会いがある——その確信が、のちに釜石の炉の前で二十年以上を過ごすことになった理由だった。
終戦直後の釜石では、製鉄所を本格稼働させるまでに二年近くかかった。砲撃で半壊した第二高炉の修復に使う資材が不足し、復員した工員が戻ってくるたびに仕事を割り振り、炉の修理と並行して占領軍の接収管理に応じなければならなかった。三鬼は毎日工場に来て、その日できることを一つずつ片付けた。大きな計画より今日の仕事を確実にやる、それが炉を前に育った人間の仕事の仕方だった。
昭和二十二年の秋、修理が終わった炉に火が入った時、工員の一人が「やっと動きましたね」と言い、三鬼は「ああ」と答えた。短い言葉だったが、二年近く炉の前で待っていた人間たちの時間が、その一言に入っていた。戦艦も飛行機も砲も作らなくていい、ならばこの鉄は何に使うのかという問いを、三鬼は釜石の復興作業の中で何度も持った。橋が必要だった、建物が必要だった、線路が必要だった。問いを持ちながら炉を燃やし続けることが、三鬼隆という人間の仕事だった。
昭和二十三年に日本製鐵の社長になった三鬼が最初にやったことの一つは、戦時中に釜石から召集されて戻ってきた元工員たちの受け入れ態勢を整えることだった。炉の前で働いたことがある人間を戻してくれ、炉の仕事は体が覚えている、今日からでも動ける——そう言って人事担当に指示した。その年の冬、元工員が釜石に戻ってきた時、三鬼は一人ひとりと短く話した。「どこにいた」「いつ戻った」「体は動くか」——それだけ聞いて、現場に送り出した。炉が動いている、それが三鬼の迎えの言葉だった。言葉よりも炉の光が、この男には雄弁だった。
━━ 七 ━━
郷古潔がGHQの尋問室に出頭したのは昭和二十一年の春だった。東條内閣の顧問として軍需産業の中枢にいたという立場が問われた。尋問室の椅子に座り、向かいに座った米軍の将校と通訳の顔を正面から見た。この将校は自分が何をしてきたかを知らない、しかし知ろうとしている——その事実を郷古は冷静に受け取った。感情を持ち込まないことがこの場所での唯一の方法だと思っていた。
何をどれだけ作ったか、誰の指示で作ったか、どこへ納品したか——問いに対して事実を事実として並べた。書類を一枚ずつ示しながら、数字で答えた。顧問という肩書きは決定権を持たない、計算を出す立場だったという区別を、郷古は通訳を介して正確に説明した。通訳の日本語が時に不正確だったが、数字は正確だった。数字は翻訳しなくても同じ意味を持つ、それが計算を専業としてきた人間の強みだった。
三時間の尋問が終わり、郷古は廊下に出た。A級戦犯として起訴されるかどうか、その判断を待つ時間が始まった。待つ間、郷古は工場の現状を頭の中で整理していた。釜石の高炉の修復に必要な資材の見積もり、民需転換のための設備変更にかかるコスト、戦後の鉄鋼需要の予測——計算するものがある限り、この男は計算する。それが不安を抑える方法でもあり、自分が何者かを確認する方法でもあった。
不起訴の通知を受けた日、部下が三人待っていた会議室に戻り「始めよう」と言って工場の稼働率の資料を受け取った。軍需から民需への転換で最初に取り組んだのは輸送船の計算だった。日本は島国だ、物を運ぶ船は戦争が終わっても要る、戦争中に沈められた分を作り直せばいい、需要はある——計算すれば方向は見えると、郷古は部下に言った。「会長、どこからそんなに方向が見えるんですか」と若い担当者が聞いた時、郷古は「盛岡で育ったからだ」と答えた。その答えの意味を担当者は理解しなかったが、郷古は説明しなかった。説明できることとできないことがある、それが盛岡から来た人間の持つものだった。作るものが変わっても計算するという仕事は変わらなかった。郷古という人間は、感情を処理する前に次の仕事に向かう。しかしこの日の夜だけは、会議室を最後に出る前に、手の中に自分のペンを握り締めてから、机の上に置いた。
━━ 八 ━━
田子一民は公職追放を受けた後、岩手の実家に戻った。戦前に衆議院議長を務め、戦中は翼賛会の型と向き合い続けた男が、戦後の最初の時間を故郷の土の上で過ごした。盛岡の実家の縁側に座り、北上川の方角を見ながら、自分がやってきたことの意味を問い直す時間が続いた。
盛岡は、田子が中学を出て東京に移ってから、選挙のときだけ戻る街になっていた。帰ってみると街の形は変わっていたが、北上川の流れ方と岩手山の立ち方は変わっていなかった。この変わらないものがある、という事実が、公職追放という処分を受けた田子にとって奇妙な支えになっていた。東京では自分は追放された人間だった。しかし盛岡では、田子家の息子が戻ってきた、という事実だけがあった。追放という言葉の重さが、北上川の前では少しだけ軽かった。
岩手で過ごす時間に、田子は農村を歩いた。議員として選挙区を回るためではなく、ただ歩いた。戦争で息子を失った農家、空襲で蔵を焼かれた商家、引揚者が増えて人口が変わった町——その一つひとつを田子は歩きながら、自分がその変化に対して何をしたかと問い返した。内務省の官僚として、衆議院議員として、議長として、田子一民という人間が議会と官庁の場で積み重ねてきたことが、この農家の息子の死と繋がっているかどうか——答えは出なかったが、田子は問い返すことをやめなかった。
議会は言葉で動く、その言葉の仕事が今の日本でどこへ向かうか——田子は翼賛会の型と向き合いながらそれを問い続けてきた。戦後になってGHQの担当者が「貴方は翼賛選挙の推薦候補として当選しているから公職追放の対象になる」と通知してきた時、田子は間を置いてから「承知した」とだけ答えた。議員であり続けることで守ろうとしていたものが何だったかを、この「承知した」という四文字の後に問い返した。答えは、出なかった。
━━ 九 ━━
板垣征四郎が巣鴨拘置所に収監されたのは昭和二十年九月で、抵抗せず指定された時刻に自分で来たということだけが書き残されている。弁護人の記録に「被告板垣は常に冷静だった、感情を押し込めているのではなく感情の置き場所を知っているように見えた」とある。
巣鴨の独房で板垣は日記を書いた。独房の机の上に置かれた紙に、毎日決まった時間に書き続けた。朝の点呼が終わった後、三十分から一時間、その日考えたことを書いた。書くことは習慣だった。参謀として、司令官として、大臣として、板垣征四郎という人間は常に書く人間だった。書くことで考えが整理され、整理された考えが次の行動の根拠になる——その習慣が、獄中でも変わらなかった。
独房の隣には同じくA級戦犯として収監された者たちがおり、廊下を挟んで時折声が届いた。板垣は自分の房の中で書き続けた。外の音に引っ張られないように、書くことに集中した。書く内容は満洲事変の経緯、中国大陸での判断、東南アジアでの戦局——それらを自分の言葉で整理することが、法廷での証言の準備でもあり、自分自身への問いかけでもあった。
ある日の日記に「盛岡のことを夢に見た」と書いている。沼宮内の山と、岩手山の颪と、盛岡中学の校庭の土の匂いが夢に出てきた、と書いた。その後に「不思議なことだ。四十年以上前のことなのに、昨日のことのように体が覚えている」と続けている。信じたことに向かって走り続けた人間が、走ることを終えた場所で最初に戻ったのが、走り始めた場所の記憶だった。走り始めた場所には、岩手山から吹き下ろす颪があった。その颪の感触を、板垣は独房の小窓から吹き込む東京の夜風の中に探した。同じ空の下に今も盛岡の颪はある——それだけで、この男には十分だった。信じて走り続けた人間の最後に残るのが、故郷の颪の感触であることが、この男の生涯の結論かもしれなかった。盛岡中学の校庭から出て、満洲に走り、法廷に立ち、この独房に来るまでの時間の重さが、夜風の一吹きの中に入っていた。
独房の静かさの中で、新渡戸先生が遺したと伝え聞いた言葉、米内が廊下で言った「精神だけでは弾は止まらん」という言葉、地図を前に石原莞爾と話した夜の言葉——それらが層を成して積み重なっていた。正しかったかどうかは俺が決めることではない、歴史が決める——シンガポールの司令部で中佐に言ったその言葉が、独房の中でも動かなかった。
東京裁判の法廷で、弁護人が「満州でのことを後悔しているか」と問うと、板垣は通訳を待って答えた。「当時の判断としては正しかったと今も思います。しかし結果については、別に答える必要があります」——この二つの文は矛盾しない、矛盾しないことがこの男にとっての誠実だった。満州事変の動機を問われると、日本が生き残るためには大陸の資源が不可欠であり、ソ連の南下を防ぐためには満州の権益確保が必然だったと、地図を広げながら説明するように言葉を選んだ。検察側の尋問では、柳条湖の爆破が関東軍の謀略だったという証人の証言に対し、板垣は否定も肯定もせず「当時の判断には多くの要素がありました」とだけ言った。傍聴席に見え隠れする同胞の顔を見ながら、この法廷で何かを守ろうとしているのか、それとも何かを明らかにしようとしているのか、板垣自身の中で二つの方向が引き合っていた。
証人台に立った数時間の後、法廷の廊下を戻りながら板垣は盛岡の校庭を思った。南部の人間は信じたことのために戦う、と新渡戸先生が言った。信じた、確かに信じた。しかし新渡戸先生がその言葉で伝えようとしたことと、自分がやったこととが、同じだったのかどうかについては、板垣はもはや確認する手段を持たなかった。法廷の言葉と、信じていた言葉と、起きてしまったことの間に、埋められない距離があった。それを距離として認識できるようになったことが、この男の晩年の静けさの正体だった。
昭和二十三年十二月二十三日、処刑の朝に書き残した辞世の句には自分が信じた道への疑いはなかった。巣鴨の空は、その朝も暗かった。
ふるさとの山に向ひて言ふことなし
ふるさとの山は ありがたきかな
板垣がこの歌を知っていたかどうか、記録がない。しかし「言ふことなし」が最後の時間にあったとしても不思議ではない——言うべきことは言った、という意味でも、言葉にならなかった、という意味でも。
処刑の前夜、板垣は教誨師の花山信勝に語っている。「自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である」という言葉の後に、板垣は盛岡のことを話した。沼宮内の山と、岩手山の颪と、尋常中学の校庭を。教誨師は後年「板垣閣下は故郷の話をする時だけ、少し顔が緩んだ」と書き残している。信じたことに向かって走り続けた生涯の果てに、盛岡の颪が戻ってきた。走ることを始めた場所が、終わりの場所にも顔を出していた。
(第四章 了)
第五章 凪
https://note.com/long_dietes7789/n/n623e88445b82
【連載小説】啄木の知らない戦争
本シリーズはマガジンにまとめています。
全五章+終章です。
次週土曜日20:00更新予定です。
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他の作品
【短編連作】華と修羅が日常 — PRパーソンの告白
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