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啄木の知らない戦争|第五章 凪

 昭和二十四年の東京には、音があった。戦争が終わってから四年が経とうとしていた焼け跡の平らな地面に、木の骨格が立ち始め、板が張られ、屋根が乗り、その隣でまた次の基礎が掘られた。鶴嘴が地面を割る音、セメントをかき混ぜる音、材木を組む音が東京の街を満たし、夜になれば止まり、朝になるとまた始まった。昭和二十年の八月に見渡す限り低く均された焼け跡の土の上に空だけがあったその場所に、完成を待たずに人が入り商いを始め子供が走り回った。計画があって人が動くのではなく、人が動いた後から計画が追いかける——焼け跡に立てば誰に言われなくても建てた、そういう人間の性質が瓦礫の上に街を戻した。

━━ 一 ━━

 野村胡堂は夜に書く男だった。昼の仕事を終え夕食を済ませてから机に向かう順番は、戦争の前も間も後も変わらなかった。昭和二十四年の秋、書きかけの銭形平次の話があった。深川の材木問屋で火事があり放火の疑いが出た、平次が入ることになる——書き出しの一行は決まっていたが、二行目から先が進まなかった。材木の匂いを書こうとするたびに、三月十日の夜が来た。B29が来た夜、北の空が橙と黒に染まり電話口から本所、深川、浅草という地名が届くたびに地図の印が増えたあの夜だった。

 煙草を吸い終えてから、野村はもう一度筆を取った。三月十日の夜は書かない、しかし深川の材木問屋は書く——平次はあの下町の路地と、そこに生きる人間の生き方を知っている、火事があれば平次は走る、それだけを書けばいい。三月十日の夜は平次の世界には来ない、来てはならなかった。壊れた平次を書く力が、野村にはまだなかった。あるいは永遠にないかもしれなかった。しかしそれでいい、と野村は思っていた。壊れない江戸を書くことが、この男の仕事だった。しかし書きながら野村は、材木の匂いを書く時にあの夜の匂いが混じり川の音を書く時にあの夜の電話口の声が混じることを感じていた。書かないようにしながら、書いている。見えない形で入っているからこそ、この話には密度があるのかもしれなかった。書かなかったことが書いたことの後ろにある——朝方まで書き、窓の外が白んだ時に野村は原稿を揃えた。今夜書いたものがいつか読まれる時、三月十日の夜が見えない形で入っていることに、読んだ者は気づかないだろう。気づかなくていい。書いた者だけが知っている。そういうものが言葉の底にはある——啄木が草の上で感じていたものと、この夜の野村が感じているものは、そういう意味では同じ場所に根を持っていた。言葉の底にあるもの——それは書いた者が持ち込んだものであり、読んだ者が自分の中から取り出したものでもある。啄木の言葉が今も人の中で生きているのは、そういう仕組みがあるからだった。書かずにいられない衝動が言葉を作り、言葉が人を超えて流れ続ける。その流れの中に、盛岡の土から出た人間たちの仕事も、形を変えながら入っている。

━━ 二 ━━

 昭和二十五年の六月、朝鮮で戦争が始まり、野村は書斎でラジオを通じてその報を聞きながら「また戦争か」という言葉を声に出さなかった。焼け跡から街が立ち上がり辞典が出版されグラウンドに球が戻ってきた、その同じ時間に朝鮮半島では戦争の準備が整っていたことになる。原稿用紙に向かい事実を書き続けた。戦中とは違い、野村が書いた言葉がそのまま載った。書ける言葉の輪郭が戻っていた。

 仕事が一段落した深夜、窓の外の光の増えた東京の夜を見ながら、野村は遠くで何が起きても人間は今いる場所で呼吸を続けるという単純な事実が言葉にならない重さで在ることを感じていた。記者の「日本はどうなりますかね」という問いに「分からない」とだけ答えた。分からないことを分からないと言うことが、この夜の野村には大切だった。戦争中、分かっていることを書けなかった。分からないことを分かったように書かせられた。その経験が、野村に言葉への慎重さを与えていた。分からないことは分からないと言う。書けないことは書かない。それが今の野村の書き方だった。家へ帰って深川の材木問屋の話の続きを書いた。犯人には貧しさという事情があった、しかし火を点けた事実は消えない、平次はそれを知った上で向き合う、その向き合い方の中に人間というものがある。朝方まで書いた。

━━ 三 ━━

 昭和二十五年の春、金田一京助は七十歳になっていた。アイヌ語辞典が世に出てから二年が経っていたが、啄木全集の編纂、アイヌの神謡の続き、後進の指導と、この男の机には仕事が来た。言葉を残す仕事に終わりはなかった。

 その春、啄木の歌について話を聞きたいという卒業論文の学生が来た。「はたらけど、の歌を高校の教科書で読んだ、働いているのに生活が楽にならないという感覚が今の時代にもあって、自分のことを書いた歌だと思いました」と言った学生に、金田一は「啄木という人間を少し話してもいいですか」と言った。「難しい人間でした。借金をして嘘もついた。しかしあの男は一度も自分の言葉に嘘をつかなかった。どんな状況でも感じたことを感じたままに書いた、それがあの男の言葉の力の根拠だった」「先生は啄木を直接知っておられたんですか」「同じ学校にいた。直接、城址の草の上で話した」——「城址の草の上で」と繰り返した学生が手帳を閉じた。書き留めることではないと思ったのかもしれない。

「戦争の間も啄木の歌は読まれていたんですか」という問いに金田一は「読まれていた。戦地から手紙に書き写してきた者がいた。あの歌を銃を持った兵士が読んだ。あの男は知らなかった、自分の歌があんな場所まで届くとは」と言ってから、「書いた人間の知らない場所まで届いていく、届いた先で書いた人間の知らない意味を持つ、その連鎖が言葉を生かし続けるのだと、私は思っています」と言った。

 学生が帰った後、棚から啄木の第一歌集『一握の砂』の古い版を引き抜いた。最初の頁を開いた。この字を今日来た学生は教科書で読んだ、自分は城址の草の上で本物の声を聞いた。どちらが啄木に近いかという問いは意味がなく、届いた先で届いた形でそれぞれの啄木があることが言葉というものだった。

  頬につたふ
  なみだのごはず
  一握の砂を示しし人を忘れず

━━ 四 ━━

 朝鮮特需の波は釜石にも届き、製鉄所の稼働率は戦前の水準を超えた。三鬼隆は炉の前に立ち、炉口から漏れる赤い光に目を細めた。戦争があっても空襲があっても占領があっても炉の中の摂氏千五百度は変わらなかった。注文書の内容が変わっていた——戦艦用の装甲板から橋梁用の鋼材へ、砲の砲身からビルの骨格へ。鉄が使われる場所が破壊から建設に変わったことを、三鬼は単純に良いことだと思った。鉄は生きるために使われるべきだという確信を、この男は若い頃から持っていた。しかし朝鮮で戦争が続いている限り釜石の鉄もその輪の中にある、橋を作る鉄が補給路を支え補給路が戦場を支える。問いに答えは来なかった。しかし問いを持ちながら炉の前に立つことが、人間というものだとこの男は思っていた。

 その年の春が近づいていた。大阪での役員会議の後、室蘭の製鉄所を見てから釜石に帰る数日の旅程が決まっていた。旅程を書き出しながら三鬼は頭の中で釜石の炉を確かめた。この炉は自分がいなくても燃え続ける、それが分かっているから出かけられた。出発前の夜、工場に立ち寄り炉の光が建物の窓から漏れているのを外から見た。「外から見ればいい」と工場長に言って、赤い光をもう一度見てから工場を後にした。数字を整理し工程表を作った報告書の後ろに、炉の熱の記憶が入っていた。この数字が表しているのはここで何人が働き炉がどれだけ燃えているかだ——数字と現場が繋がっていた。それが三鬼の仕事の中に、郷古の仕事とは異なる何かを作っていた。

━━ 五 ━━

 三鬼隆が大阪へ出張する前の夜、郷古潔は電話で話した。役員会の内容について短く確認し合い、電話を切る直前に三鬼が「室蘭を見てから帰ろうと思う」と言った。郷古は「北は寒いぞ」と言い、三鬼は「この時期は大丈夫だ」と言った。郷古はその夜、電話を切った後しばらく机の前にいた。三鬼と話す時の声の調子が、いつもと変わらなかったことを後から思い返した。変わらない声で変わらない仕事の話をして、変わらない言葉で別れた。翌日、三鬼は飛行機に乗った。

 昭和二十七年四月九日、大阪発千歳行きの日航機もく星号が、大島上空で山腹に消えた。

 釜石にその報が届いたのは夕方で、夕刊の片隅の小さな記事だった。工場では炉が燃え、従業員が動き、鉄が流れていた。三鬼がいなくなっても炉は止まらなかった。夜遅く幹部が集まり、東京との連絡・遺族への対応・翌日の工場の指揮を話し合った。その間も炉は燃えていた。炉は燃え続けることしかしないのだから、誰も炉に問いかけなかった。会議が終わった後、工場長が一人で工場の外に出た。前日の夜も社長はこの煙を見てから大阪へ向かった——その夜と同じ炉の光が、今夜も夜の空に溶けていた。

 郷古潔は東京で受話器を置いてから、炉の前に立ち続けた三鬼隆がもういないという事実の前に座っていた。この夜は遅くまで会社にいたが仕事をしていなかった。東京の夜の光の中に釜石の炉の赤い光があるはずはなかったが、しかしあると思った。三鬼がいなくなっても炉は止まらない——その事実が、この夜の郷古に何か確かなものを与えていた。

 数日後に届いた三鬼の遺品の中に、出発前の夜に書き終えた増産計画の報告書があった。整然とした数字の並んだ報告書の末尾に、一行だけ手書きで「炉の補修は来月中に」と書き添えてあった。郷古はその写しを受け取り、しばらく末尾の一行を見てから引き出しに入れた。計算の言葉が並んでいたが、この一行だけが計算ではなかった。炉への思いが、報告書の末尾に一行だけ顔を出していた。三鬼という人間が何に動かされて生きたかが、この一行に凝縮されていると郷古は思った。盛岡中学の校庭で鉄に引き寄せられた少年の続きが、六十一歳まで炉の前に立ち続けた男の報告書の末尾にあった。

━━ 六 ━━

 小野寺信は昭和二十七年の春を東京で迎えていた。陸上自衛隊の発足に向けた準備業務に関わりながら、ストックホルムから帰国してから七年が経っていた。組織の名前が変わり制服の形が変わり使う言葉が変わっても、見ているものを正確に記録して伝えるという行為は変わらなかった。独立回復の式典の夜、窓から東京の夜景を見た。戦前より光が増えていた。武官室で暗号電報を打っていた夜を思いながら、自分の仕事は正確に書くことで受け取る側がどう動くかは関与できなかった、それがストックホルムの時間が教えたことだったと確かめた。届かなかった言葉が今夜の光に直接繋がっているとは思わなかった。しかし人間の仕事は見えない場所で繋がっていることがある——そう思うことが、この男の支えだった。小野寺が陸上自衛隊の発足に関わりながら東京で過ごしたその春は、何かが始まる季節だった。占領が終わり、日本が自分で決める部分が少しずつ増えていった。

━━ 七 ━━

 昭和二十七年の秋、金田一京助は啄木全集の校正を続けていた。第一巻の最後の確認を一頁ずつ終えた夜、研究室に一人でいた。啄木が死んでから四十年、七十二歳になっていた。辞典を出した、全集を出す、啄木の言葉を世に残すためにやってきたことが形になっていたが、まだやり残しているという感覚があった。啄木のことが言い切れていない、城址の草の上の記憶をあの学生の頭の中に移すことが、本や論文よりも近かった気がした。

 引き出しを開けた。啄木が死んだ年に金田一に送ってきた手書きの短歌の紙が、四十年後も文字を残していた。辞典の見本とその古い紙を並べて置いた。どちらも言葉だった、形は違うが同じ場所から来ていた、城址の草の上から来ていた。それから立ち上がって外套を羽織い、机の上の原稿を揃え、電灯を消して廊下に出ると東京の夜の光が差し込んでいた。その光の中を、七十二歳の足で歩いた。明治三十九年に初めて北海道へ渡った時の体とは違う体だったが、書かなければならないものがある、記録しなければ消えるものがあるという感触は同じだった。七十二歳も二十四歳も、その感触に動かされている点では変わらなかった。廊下の先に夜の校庭が見えた。どこの校庭でも秋の夜は静かだった。盛岡の校庭もこんなふうに静かだったはずだと、金田一は思いながら歩いた。
 昭和二十九年、七十二歳の金田一京助に文化勲章が贈られた。授章の式典から帰宅した夜、金田一は研究室に一人でいた。文化勲章という名誉が何を意味するのかを、金田一はこの夜あまり長く考えなかった。それより手元に残っていたアイヌ語の神謡の続きを書き終えることの方が先にあった。長老たちが語ってくれた言葉の一つひとつが、まだ完全に翻訳されていなかった。消えかかっている言葉を残す、その仕事はまだ終わっていなかった。手を伸ばして、いつもの『一握の砂』を取った。頁を繰ると、不来方のお城の草に寝ころびて、という歌が目に入った。金田一はそれを声に出さずに読んだ。空に吸はれし、十五の心——この歌を書いた少年が今の自分の年齢まで生きていれば何を書いていたかという問いを、金田一はこれまで何度も持ちながら、答えを出すことをいつもやめてきた。啄木の言葉を残すことが自分の仕事だった。残った言葉がどう届くかを決めるのは、届いた先の人間だった。

━━ 八 ━━

 同年の秋、盛岡では颪が戻ってきた。岩手山はすでに初冠雪を見せ、城址の石垣の草が色を変えながら揺れていた。

 田子一民は農林大臣として昭和二十八年から二十九年にかけて、農地改革後の農村を歩いた。岩手の農村にも何度か入った。盛岡から車で一時間ほどの農村で、かつて小作人だった男が自分の土地を耕している光景を見た時、田子はしばらくその場に立った。農地改革が正しかったかどうかという評価は後世がするとして、この男が今日自分の土地に立っているという事実だけは、明確に見えた。

 その男と少し話した。北上川の水量のことを話した後、男は「去年は豊作でした」と言い、田子は「今年はどうでしょう」と聞いた。男は空を見て「まあまあじゃないですかね」と言った。空を見て答えを出す人間の目に、田子は内務省の官僚になってから触れてこなかった確かさを見た。天気と土と種と水——この男の仕事は数字ではなく体で読むものだった。法律で農地を分配することはできる、しかしこの男が土を読む目は法律では作れない。啄木が手の痛みを詠んだ時代から四十年以上が経ち、働く場所が変わった。しかしこの目は変わっていない。働く場所が変わることが人間の尊厳にどう関係するかを、田子は内務省の官僚として、衆議院議員として、農林大臣として、それぞれの立場から考え続けてきた。啄木の歌が問い続けた問いへの答えが、農村の土の上にあるかもしれないと思いながら、田子は次の農村へ向かう車に乗った。

 三鬼が死んだ報が届いたのは夕刊の片隅で、もく星号墜落・三十七名全員死亡という記事の中に三鬼隆の名前があった。六十一歳だった。盛岡中学の校庭でまだ少年だった頃の顔しか出てこなかった。その少年が釜石の鉄に引き寄せられ、炉の前に立ち続けて六十一歳まで生き、飛行機の中で死んだ。

 米内光政が昭和二十三年に死に、板垣征四郎が同じ年に処刑された。獅子内謹一郎は昭和十六年に、三鬼は今年消えた——盛岡という同じ土から出た人間が、それぞれの場所で消えていった。グラウンドには今も球が投じられ、土は誰かに均され続けている。盛岡中学の校庭で全力で球を投げ続けた獅子内は戦争が始まる前に死んだが、そのグラウンドは残った。残ったグラウンドに春になれば球が投じられる——それが続き方であり、いなくなった者の続き方が残ったものの中に入っていた。

━━ 九 ━━

 その年の暮れ、野村胡堂のもとに一通の手紙が届いた。差出人の名前はなく、消印は兵庫だった。夫を朝鮮に送り出した、「銭形平次を読んでいると夫がそばにいる気がします、平次が悪者を捕まえると世界にまだ正しいことが残っている気がします、夫が帰ってくる気がします」と一字ずつ丁寧に書いた字だった。

 野村はしばらく机の前に座っていた。平次は江戸にいる、夫は朝鮮にいる、その距離をこの女の読み方が越えた。なぜ越えるのか分からなかったが、越えていた。煙草を吸いながら、書くことが何かを信じることと繋がっているというこれまで言葉にしてこなかった感覚を、この夜静かに確かめた。啄木の歌が戦地で読まれたことを啄木は知らなかった、平次の話が兵庫の女の支えになっていることを野村は知らなかった、知らなかったが届いていた、その連鎖が言葉を書く理由だと思った。手紙を机の引き出しに入れた。戦争中に書けなかった言葉が積み重なっていた場所に、今は書いた言葉が届いた先からの声が積み重なっていた。

 その夜、新しい話を書き始めた。

  こころよく我にはたらく仕事あれ
  それを仕遂げて
  死なむと思ふ

 啄木が書き残したこの歌を、野村はこの夜思い出した。心から打ち込める仕事を、それを仕遂げて死にたい——占領が終わり、書けなかった言葉が戻ってきた夜、その歌の意味が野村の体の中で改めて動いた。朝方まで筆を動かし続けた。

━━ 十 ━━

 三鬼が死んだ後も、釜石の炉は止まらなかった。三鬼がいなくなっても炉は動く——その無関心さを、三鬼は生前どこかで受け入れていたのかもしれない。自分がいなくても炉は燃える、だから今日も炉の前に立てるという逆説が、三十年以上この男の仕事を支えていたかもしれなかった。数日後の会議で三鬼が出発前に仕上げた増産計画の報告書が配られた。整然とした数字の後ろに炉の熱の記憶があることを、古い従業員たちは知っていた。社長が書いた数字は現場から来た数字だった。釜石の夜、炉が低く持続する音を鳴らしていた。釜石に生まれた人間にとって炉の音は夜の一部だった、目を覚ます人間はいなかった。三鬼が最初に釜石に来た日からずっとあったこの音の中で、何のための鉄かを問い続けながら炉の前に立ち続けた。問いに答えは来なかった。しかし炉は燃え続けた。

 昭和二十七年四月、占領が終わった。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。野村胡堂はその朝刊を自宅で手に取り確認した。自分が関わった見出しがそのまま載っていた。かつて関東軍の満州進出を「正義の鉄槌」と書いた原稿を事実の記述に直し続けた日々があり、翌朝の新聞には別の見出しがついていた、机の引き出しにしまったものが積み重なった——その積み重なりが今、なくなっていた。書ける言葉が戻ってきたことの実感が、独立というものの実感だったかもしれない。

 その夜、新しい話の書き出しを書いた。「その年の春、江戸は静かだった」という一文から始めた。占領中には書けなかった静けさが、この夜の紙の上にあった。外から決められた言葉ではなく自分の言葉が書ける夜だった。朝方まで書き続け、書き終えた時には窓の外が白んでおり、独立回復の翌朝、どこかで工事が始まる音がした。

━━ 十一 ━━

 昭和三十二年、野村胡堂は銭形平次捕物控の連載を終えた。昭和六年に始まってから二十六年、三百八十三編に及ぶ連載だった。最後の一編を書き始める前、野村はしばらく原稿用紙を前にして動かなかった。最後の話を書くことは、平次とのお別れを書くことではなく、自分が「書き続けた」という事実をその一編で締めくくることだと思っていた。始まりがあって続きがあって、今日で終わりになる——終わることへの怖れより、始まった時の確かさへの感謝の方が大きかった。

 最後の一文を書き、句点を打ち、ペンを置いて、しばらくその一文を見ていた。平次はここに生きている、この一文の中に、二十六年分の江戸の市井が入っている——そういう感触があった。最後の一編を書き終えた夜、野村は長く一人でいた。平次がいなくなった、という感覚ではなかった。書き続けることが自分の仕事だったという感覚が、最後の一字を書き終えた後も変わらなかった。

 書けない時代に書き続けたことと、書ける時代に書き続けたことは、同じ行為の二つの形だと野村はこの夜思った。どちらの時代も平次は江戸にいた。官憲が来ても平次は動じなかった、戦争が始まっても平次は江戸の路地を歩いた、焼け跡が広がっても平次は神田明神の境内に座っていた。平次が動じなかったのは野村が動じないことにしたからで、野村が動じないことにできたのは江戸という過去が変わらないからだった。変わらない場所が一つあると、そこから現在を見ることができる。それが二十六年間の平次の仕事だったと、最後の夜に野村は確かめた。

 準備会議で若い担当官が「ストックホルムでの情報収集について教えてほしい」と言ってきた時、小野寺は少し考えてから「見えているものを正確に書くことだ」と答えた。「当たり前のことに聞こえますが」「当たり前のことが一番難しい。見えていても書けないことがある、書いても届かないことがある、それが情報の仕事の本質だ」——担当官はノートに書き留めたが、小野寺は書き留めることより体で覚えることが大事だと思い、それは言わなかった。言葉を尽くして伝えられることには限界がある、残りは体が動く時に伝わる——武官室の七年が、小野寺にそれを教えていた。

━━ 十二 ━━

 昭和三十三年五月九日、及川古志郎が死んだ。享年七十五だった。葬儀は吉祥寺の自宅で執り行われ、盛岡中学の一学年上で三菱重工業の社長を務めた郷古潔が弔辞を読んだ。

 郷古は弔辞の草稿を前の夜に書いた。三菱重工業の書類を書く時とは違う手の動き方があることを、郷古はこの夜に感じていた。計算では表せない何かを書こうとしている、その感触だった。草稿に「及川古志郎は温厚篤実の君子だった」と書き、一度止まって消した。温厚篤実では伝わらない、この男はもっと複雑だったと思った。書き直した言葉は「及川古志郎は、静かに難しい判断を下し続けた人間だった」というものだった。それでも不十分だと感じたが、他の言葉が見つからなかった。人間を言葉で括ることの限界を、郷古はこの夜に改めて感じた。

 葬儀の後、郷古は一人で吉祥寺から盛岡の方角を思った。同じ盛岡中学の校庭で育ち、同じ時代を生き、及川は海軍で郷古は三菱で、それぞれの場所で戦争を引き受け戦後を引き受けた。三国同盟を飲んだ夜の及川の判断が正しかったかどうか、郷古には判断する立場がない。しかし及川という人間が盛岡の校庭から始まって今日まで真剣に生きたことは分かっていた。郷古はそう確かめてから、弔辞の草稿を閉じた。

 昭和三十年代、野村胡堂は自宅の書斎でレコードをかけながら原稿を書いた。若い頃から音楽評論を「あらえびす」の名で書き続けてきた野村は、七十を超えてからも音楽を聴くことをやめなかった。ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト——レコードの針が落ちる音と、それに続く音楽の始まりが、一日の書き仕事の始まりの合図だった。盛岡の農家の次男として生まれ、父が死んで学資が続かず東京帝大を中退してから半世紀以上が経ち、野村長一という人間の仕事は報知新聞の記事と銭形平次の話と音楽評論の三本の柱で成り立っていた。どの仕事も、書くことを支えていた。

 晩年の野村がよく口にした言葉に「書かないと死ぬ」という言葉がある。大袈裟に言ったのか本気だったのか、聞いた者には判断がつかなかった。しかし七十を過ぎて体が弱っても机に向かい続けた様子を見れば、本気だったのかもしれない。書くことが息をすることと同じくらい自然なことになっていた人間が、原稿用紙を手放さなかった——それは意志ではなく習慣だった。戦後の日本が急速に変わっていく中で、野村は報知新聞との縁を保ちながら変化を記録し続けた。書くことが止まらない限り、自分はここにいられる——それが野村という人間の生存の方法だった。占領期の制度改革、講和独立、高度経済成長の始まり——世の中が変わるたびに新聞の言葉が変わり、野村はその変化の速さを測りながら書き続けた。平次の連載が終わってから、野村はあの二十六年の往復を時々思い返した。江戸の市井は変わらず、平次は変わらず神田明神の境内を歩いていた。変わる現在と変わらない江戸の間を、野村は毎日往復した——その往復が野村という人間を七十代まで生かし続けた。意志が折れても習慣は続く、習慣が続く限り書くことが続く。野村という人間がそういう習慣を作ったのは、盛岡中学の校庭で言葉の仕事を選んだ日からだった。七十年かけて作った習慣が、最後の日まで野村を机の前に連れて行った。

 昭和三十八年四月十四日、野村胡堂は東京都杉並区の自宅で肺炎のために死んだ。八十歳で、死の直前まで原稿用紙を手放さなかったという。銭形平次の最後の話を書き終えてから六年が経っていた。江戸の町人の義理と人情を書き続けた二十六年間は、野村にとって記者として積み重ねてきた現実の裏に、現実が壊しようのない場所として守り続けた世界だった。その二つが今日まで一人の人間の中に並んで存在していた。

 葬儀に参列した金田一京助は、野村の顔を見ながら同じ校庭の空気を吸っていた同窓の人間がまた一人いなくなったということを、八十一歳の自分の体でゆっくりと受け取った。及川古志郎が死んで五年が経っていた。三鬼も板垣も米内も出淵も、それぞれの場所で去っていた。盛岡の校庭から出た人間たちが一人ずつ消えていき、今もここに残っている金田一には、残っている理由があるのだと思うことにしていた。アイヌ語の仕事はまだ終わっていない。消えかかっている言葉がまだある。その言葉を次の人間に渡すまでは、自分はここにいなければならない。

 野村の棺の前で金田一は、啄木の歌を一首だけ思い出した。

  息すれば胸の中にて鳴る音あり
  凩よりも
  哀れなるかな

 声には出なかった。息をするたびに胸の中で何かが鳴る——そういう悲しみが、棺の前に立つ金田一の内側にあった。野村胡堂は盛岡の訛りを持ち続けた男で、権力の言葉を書きながら平次の口を借りて江戸の町人の言葉を書き続けた。どちらも野村という人間の声だった。その声が今日で途絶えた。しかし書かれた言葉は残る、と金田一は思い、棺の前で長く立ち続けた。

 田子一民は昭和三十八年八月十五日、八十一歳で死んだ。終戦記念日に逝ったことを誰かが後から気づき、岩手の新聞が小さく伝えた。盛岡中学を出て東京帝国大学を卒業し内務省に入り、戦前に衆議院議長を務め、戦後は公職追放を経て農林大臣になった人間の生涯を、八月十五日という日付が静かに包んだ。岩手の北上川は、その夏も変わらず流れていた。

(第五章 了)



終章 城址の草
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【連載小説】啄木の知らない戦争
本シリーズはマガジンにまとめています。
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【短編連作】華と修羅が日常 — PRパーソンの告白
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