啄木の知らない戦争|第三章 鳴動
戦争が始まった最初の春は、どこか浮き立っていた。昭和十七年の桜は例年通りに咲いたが、花の下を歩く人間の顔は前の年とは違っていた。香港を攻略し、シンガポールを制圧し、フィリピンを占領した。南方が次々と日本のものになっていくラジオの勝報を聞くたびに、人々は顔を上げた。勝っているという感触は人間の背骨を変えるものだった。背筋が伸び、声が大きくなり、見知らぬ者同士でも電車の中でどこかで頷き合うような空気があった。しかしその熱さの底に、静かに冷えているものがあった。どの町にも、家の中で黙ってラジオを聞き、勝報を聞いて顔を上げず手を止めずに仕事を続けている者がいた。その沈黙が何を意味するか、沈黙している者自身にも言葉にできないまま、春が過ぎていった。
━━ 一 ━━
野村胡堂が銭形平次を書き始めたのは昭和六年で、以来、毎月の締切が一度も途切れることはなかった。戦争が始まり、紙が減り、誌面が薄くなっても、平次は神田明神下の路地を歩き続けた。銭が飛び、悪人が捕まり、義理と人情で町が収まる——その筋立ては開戦の前も後も変わらず、変わらないということが、この時代には一つの仕事になっていた。
戦地からも便りが届くようになった。南方の兵站から、内地の工場から、次の話を待っているという葉書が来た。野村は一通ずつ目を通してから、また次の回に取りかかった。現実の町がどれだけ姿を変えても、江戸の町は変わらずそこにある——その不動の町を毎月一つずつ組み立てることが、報知新聞の社会部長として号外の見出しを書いてきた男の、もう一つの持ち場だった。書き続ける限り、その持ち場は誰にも奪えなかった。
━━ 二 ━━
出淵勝次の帰国は、静かだった。
昭和十七年の初め、ワシントンの日本大使館員は一括して抑留され、スウェーデン船で太平洋を渡った。外交の言葉が尽きた後に残るのは、沈黙だった。出淵は甲板に立ち、アメリカの海岸線が遠ざかるのを見送った。空は晴れていた。太平洋の水は青く、波は穏やかだった。戦争が始まっているとは、どこにも書いていないような海だった。
しかしその海の下に、潜水艦がいた。
帰路の船では、誰もそのことを大声で言わなかった。しかし全員が知っていた。自国の艦隊がどこを通るかを、日本は教えてくれなかった。連絡がつかなかったのか、それとも意図して伝えなかったのか、出淵には判断する材料がなかった。外交官は、それを問い質す立場にもなかった。
波が船腹を叩いた。
出淵は手すりを握った。外交とは言葉の仕事だと、ずっと信じてきた。言葉を正確に選び、言葉を誠実に積み上げれば、国と国の間に道が開ける。新渡戸先生が説いた国際協調の理念を、自分は外交の言葉で実践しているつもりだった。
しかし出淵が積み上げた言葉の上に、今、太平洋が広がっている。
ハル国務長官と向き合った日々が、甲板の上で浮かんだ。あの男は誠実だったと、出淵は思う。言葉を聞こうとしていた。しかし聞こうとする者がいても、その背後で別の力が動いていれば、言葉は届かない。言葉が届く前に、別の何かが動いていた。関東軍の謀略が満州を変え、軍部の論理が政府を圧し、言論の締め付けが国民の目を塞いでいった。外交官がどれだけ正確な言葉を積んでも、それを受け取る側の耳が、別の方向を向いていた。
横浜港が近づいた。靄の向こうに、陸の影が見えた。出淵は長い息を吐いた。
船が減速した。港の施設が、靄の中からゆっくりと姿を現した。岸壁に人が見えた。出迎えの者たちだろう。白い手が振られていた。出淵にはそれが誰の手かを確かめる術がなかった。しかしその手が振られている場所に、自分が帰ってきた。
甲板に同僚たちが集まってきた。誰も大きな声を出さなかった。みな、静かに陸を見ていた。太平洋を渡って帰ってきた者たちの沈黙は、出航した時の沈黙とは少し違った。出航した時は、これから何が起きるかを分からないまま黙っていた。帰ってきた今は、何が起きたかを知った上で黙っていた。その違いが、甲板の空気にあった。
しかし戦時下の外務省に、彼が動ける場所は限られていた。対米交渉が終わった今、出淵の経験と人脈の多くが宙に浮いた。若い外交官たちが別の仕事を動かしていた。占領地域の行政に関わる者、中立国との接触を担う者。出淵は上席にいながら、どこかで傍観者だった。
━━ 三 ━━
郷古潔の計算は変わらなかった。三菱重工業の社長として生産の数字を見続け、戦争が始まる前から繰り返してきた計算の答えは、いつも同じだった。しかしその答えが現実に追いついてきた。空母を作れ艦載機を作れ輸送船を作れという命令は続いたが、資材が追いつかなかった。ある会議で軍の調達担当に「資材の手当てについて確認させてください」と言い、数字を要求したが担当は書類を出さずに「努力します」と言った。見込みがある時は見込みがあると言う、努力します、は見込みが立っていない時の言葉だった。要求したことは記録に残る。残った記録がいつか何かの意味を持つかもしれない——郷古はそのために、一度だけ数字を要求した。
会議が終わった後、郷古は一人で工場の床に立った。天井まで届く機械が並び、工員たちが動いていた。その動きを見ながら、今月この工場で作れる艦載機の数、来月その数がどう変わるか、鋼材の在庫が尽きる時期の見当、この工場のどの部分が戦後も使えるか——郷古の頭の中では常に二つの計算が同時に走っていた。今の計算と、その先の計算。仕事を続けながら記録を残す、その二つを同時にやることが、今自分にできる唯一のことだった。
━━ 四 ━━
昭和十六年十二月二十四日、田子一民は衆議院議長に就任した。開戦から十六日後のことだった。議長席に初めて座った日の議場は静かだった。いつもの議論の声が薄く、戦況報告と承認の言葉だけが続いた。言葉の動く方向が一つしかない空間——この変化を田子は感じながら、何も言わずに議事を進めた。議長として言えることと言えないことの境界線が、この日から意識の前面に来た。
田子一民は衆議院議長室で、翼賛会から来た「指導要領」の書類を一度読んで机の端に置いた。調整という言葉が使われていた。統制とは言わなかったが意味は同じで、議会審議における発言の方向性を型にはめようとするものだった。田子が議長室から見ていた景色は、軍が戦場で動き工場が生産で動く世界とは少し違った。議会は言葉で動く。法律を作り予算を通し政府を監視する。その言葉の仕事が今の日本でどこへ向かっているか、田子にはよく見えていた。翼賛会の型に従えば議会の審議は型通りに進む。しかし形だけでも議会が残っているうちは、そこに何かを通せる可能性がある。田子はその可能性を、手放したくなかった。
啄木が盛岡中学の後輩だった、ということを、田子は時々思い出した。授業に出なかった啄木と図書館で本を読み続けた田子、二人は同じ教室にいながら全く違う速さで違う方向へ走っていた。啄木は二十六で死に、田子は今、議長室にいる。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」という歌が、謝恩会の夜以来頭から離れなかった。えらくなった友が今何をしているか、啄木は知らない。知らないまま死んだ。
委員会の時間を告げる秘書が来て、田子は立ち上がった。書類を引き出しに入れ、議長室の扉を開けると廊下に光が差していた。国会議事堂の廊下は広く天井が高かった。田子はその廊下を歩いた。足音が高く響いた。この廊下を、あと何回歩けるか——問いは持たないようにした。持てば、歩けなくなる。
━━ 五 ━━
出淵勝次は昭和十七年の東京に、貴族院議員としていた。ワシントンから帰国して八年が経っていた。開戦の報を聞いてから、この男は何かが体の中で変わったように、言葉数が減った。外交官として言葉を武器にしてきた人間が、言葉の届かない時代に入ったと感じていた。ワシントンで積み上げてきた六年間の仕事が今どこにあるかを問い返しながら、貴族院の廊下を歩き続けた。言葉が届かない場所でも言葉を置き続けることが、この男の仕事だった。
貴族院の廊下で同期の松田と行き合い、「まあ、いるだけでいい時期というものがある」と出淵は言った。松田は少し黙ってから「そうだな」と言って先に歩いて行った。戦争がどこかで交渉へ向かう時、その糸口はどこにあるか——今は答えが出ない、しかしいつか答えが必要になる、その時のために考えを積んでおく。待つとは止まることではなく、見続けることだった。
昭和十八年の春、松田と蕎麦屋で食事をした時、「スウェーデン経由で和平の糸口を探っている者がいる、非公式に」という話を松田は声を低くして話した。まだ形になっていないが、やろうとしている者がいる。出淵は箸を置いて「そういう者を、守れるか」と聞いた。「今は無理だ、しかしいずれ守れる立場になければならない」と松田は言い、「分かった」と出淵は言って食事が終わった。誰かが言葉を使って戦争を終わらせなければならない、その言葉を今から準備している者がいる——その事実だけで、その夜は十分だった。
━━ 六 ━━
金田一京助のアイヌ語辞典の第一稿が完成したのは、昭和十七年の秋だった。数千の言葉が収まった厚い束を両手で持った重さに、北海道に何度も通い老いた長老たちの口から消えかかる言葉を一つひとつ書き取った年月があった。しかし出版社は動かなかった。国策に沿った出版物が優先される今、アイヌ語の辞典は急ぐ理由がないと言われた。金田一は原稿の束を棚の上に置いた。いつか出版できる時が来る、来なければ誰かが続きをやる——急くことよりも確かなことを積み上げることを選んできた。啄木が死んだ夜、あの借金の山を引き受けた時もそうだった。なんとかなる、ではなく、なんとかする。その積み重ねで、今日まで来た。
学生の数が減っていた。研究室の前を急ぎ足で通り過ぎる学生たちは、みな時間に追われた顔をしていた。ある午後、アイヌ語の授業を取っていた三年の川上という男が来て、棚の上の原稿の束に触れた。「先生は、これを誰に残すつもりですか」「読みたい者に、だ」「読みたい者が、いなくなったら」「残しておけば、また現れる」——川上は何か言いたそうな顔のまま黙った。来月、出ます、と言い残した川上に金田一は口を閉じたまま返さず、しばらく二人で棚の上の原稿の束を見ていた。言葉の代わりに、その束が二人の間にあった。
川上が帰った後、金田一は次の仕事を始めた。アイヌの神謡の記録だった。辞典が完成したからといって、止まる理由はなかった。残す言葉は、まだある。川上が帰ってこなくても、川上の次の誰かが読む。その誰かのために、今夜も書く。
━━ 七 ━━
ミッドウェーの報は、日本国民には届かなかった。昭和十七年六月、空母四隻が沈み連合艦隊の精鋭が一日で失われたが、「海戦において敵に多大な損害を与えた」という発表が出て、日本側の損失は「空母一隻、巡洋艦一隻轟沈」と報じられた。政府の発表はその一行で完結していた。野村胡堂は編集局でその発表文を受け取り一度だけ読み、引き出しに入れた。その日の夕刊の紙面を組みながら野村も周囲の記者も黙って手を動かした。全員が発表文の通りに動いた。書ける事実と書けない事実の間で、今日の夕刊は組まれていた。
米内光政は海軍省からミッドウェーの詳報を受け取り、部屋で一人読んだ。アメリカが本気を出し始めている——サンフランシスコの港で及川に言った言葉が現実になった。制空権を失った後の戦争の形が、ミッドウェーで決まった。しかしそれを声に出す場所がなかった——今は口をつぐんでいる時であり、現実が自分より先に語るのを待つしかなかった。待つことは苦ではなかったが、知っていることを知らないふりで座り続ける重さが、毎日積み重なった。
野村胡堂はその日の夕刊を確認しながら煙草を一本吸った。ミッドウェーの記事は小さく地味だった。これを読んだ人間は日本が勝ったと思う——嘘ではない、しかし本当でもない。その隙間に今日の夕刊はある。この隙間がこれからも広がっていくことを野村は知っていた。広がった先に何があるかも分かっていた。しかしその先を書く場所が今はなかった。書ける時が来た時に、書く。それまで待つしかなかった。
━━ 八 ━━
野村胡堂はこの春、最も多く書いた。一月に三本、四本と銭形平次の話を書いた。江戸の市井を生きる人間たちの話を書いた。与力に追われる者、借金に追い詰められる者、恋と義理の間で身動きが取れなくなった者。平次はいつも、その隙間に現れた。手の届く範囲のことを、自分の手でなんとかした。大きな力には逆らわない。しかし目の前の人間から目を逸らさない。それが平次という男だった。
緒戦の連勝が続く中、新聞には書けることが増えていたが、それが「書いた」という感触にならなかった。どこかが決めた型に流し込んだだけだった。型を外れれば内閣情報局の担当者が来て丁寧な言葉で封筒を置いていく。だから平次を書いた——平次の世界では誰も封筒を持ってこず、悪は罰せられ弱い者は守られ人情が最後に勝つ。その世界を書き続けることが現実から目を逸らしているのか、それとも現実が失った何かを紙の上で守ることなのか、答えは出なかったが筆を止めることはできなかった。
ある夜、入社二年目の田中という記者が来て、戦果記事の見出しをもっと大きくすべきだという話をした。「読者が求めているものを与えることと、読者に必要なものを書くことは、同じじゃない」と野村は言い、翌朝また来た田中に「書けない時期に何をするかで、書ける時期に何が書けるかが決まる」と言った。田中は少し考えてから「書けない時期に何をするんですか」と聞き返した。野村は煙草の煙を見ながら「書こうとする。書こうとして書けない時間が、次に書ける時間の土台になる。書くのをやめた時が本当の終わりだ」と言った。田中はその言葉を手帳に書かなかった。体の中に入ってきた感触があり、手帳の言葉にすると別のものになると思ったからだった。あの年齢で問い返してくる男は多くない。田中がどこへ行くかは分からないが、二日の間にその中で何かが動いた。言葉は時間が経ってから効く。すぐ効く言葉は、だいたい毒か砂糖だ。
野村は原稿用紙を引き寄せた。今夜の平次は、深川の路地を歩いていた。提灯の灯りが石畳を照らしていた。平次は急いでいたが、走らなかった。急ぎながらも歩く速さを保つ。それが平次の流儀だった。
━━ 九 ━━
板垣征四郎がマレー半島にいた。第七方面軍司令官としてマレー、スマトラ方面の防衛を統括した板垣は、満州の地図とは全く違う現実の中にいた。満洲では陸続きの地図を信じて動けた。しかし南方は、島と海峡に分かれた地図だった。シンガポールも、スマトラも、ジャワも、海を渡らなければ繋がらない。その海が、連合軍の潜水艦と航空機に塞がれつつあった。参謀長の沢田から「制海権を失えば、各島の部隊は孤立します、本土からの補給が断たれれば現在の防衛計画の継続は」と言われるたびに「分かっている」と答えて地図を見た。
ある夜、前線からの報告書を読みながら、板垣は盛岡中学の校庭を思い出した。武道の基本は軸がぶれないことだと教わり、信じたことに向かってまっすぐに走ることが南部の人間の誇りだと教わった。その教えに従って四十年走り続けた。走った先に満州があり、中国大陸があり、今この南方がある。軸がぶれないことと、現実を見ることとが、同じことなのか違うことなのか——参謀たちが寝静まったシンガポールの司令部で一人、夜の雨の音を聞きながら、板垣は答えの出ない問いを持ち続けた。答えの出ない問いを持ったまま前進することが、この男の戦争のやり方だった。それが強さだったのか、それとも別の何かだったのかは、板垣自身には分からなかった。
参謀の一人が夕方に地図を持ってきて、本土と南方を結ぶ航路を指でなぞった。船団を組んでも、潜水艦と空襲で何隻が着くか読めなかった。「物資は海の上で沈んでいきます」と参謀は言った。板垣は地図の海の部分をしばらく見てから「分かった」と言った。分かった——その言葉だけが、この司令部では完結した答えだった。疑問の形をした言葉を誰も出さなかった。出したところで、塞がれた海が開くわけではなかった。
シンガポールの司令部での引き継ぎの会議で後任の司令官に状況を正確に説明し、「勝てますか」と問われると「前進できます」と言った。勝てる、とは言わなかった。前進できる、と言った。その違いを後任が聞き取ったかどうかは確かめようがなかった。信じて走ること以外の語り方を、この男は学んでいなかった。
翌朝、板垣は前線の視察に出た。ジャングルの道は細く足元は泥だったが、板垣は黙って歩いた。前線の陣地に着くと兵たちが立ち上がった。疲れていた。痩せていた。しかし立っていた。板垣はその顔を見て「よくやっている」とだけ言った。兵たちは言葉よりも先に体が動き、持ち場に向かい、立ち続けることに戻っていった。
盛岡の校庭で、獅子内が白球を追っていた夕暮れは遠かった。あの白球の軌道は計算通りだった。計算された球を体で受け止める人間がいた。しかしここには、その球を受け止める場所が見当たらなかった。
会議が終わった夜、板垣は一人で司令部の窓辺に立った。シンガポールの夜の闇の向こうに、港の灯がにじんでいた。その灯を見ながら、米内が廊下で言った「精神だけでは弾は止まらん」という言葉を思い出した。弾だけでなく食料も薬も止まっている、その現実の前で何を信じて前進するかを、この男は問い返し続けた。答えは変わらなかった。前進することだけが、自分にできることだった。
柳条湖で夜の闇の中に爆薬を仕掛けた夜から、満洲の地図に赤鉛筆で印をつけた夜から、板垣征四郎という人間の中に積み重なってきたものが、南方の夜の雨音の中で静かに沈んでいった。盛岡の校庭と、ここは、同じ土の上にはない。しかし同じ空の下にある——そういう確かめ方を、この夜の板垣はしていた。
━━ 十 ━━
スターリングラードの報がストックホルムに届いたのは、昭和十八年の二月だった。ドイツ側の死傷者と捕虜が合わせて三十万人に迫るこの結果を、小野寺信は詳細な分析とともに東京に打電した。ドイツの攻勢は頂点を過ぎた、連合軍の戦略はドイツ包囲へ向かう、日本は単独でアメリカ・イギリス・ソ連・中国を相手にする局面が来る——返電は来なかった。返電が来ないことが返答だった。
夜、ひとりになった小野寺は窓の外のスウェーデンの暗い冬を見た。返電が来ないことに慣れてはいけない、しかし慣れていく、それが戦争の中で起きることだと思いながら、見えているものを正確に伝える、それが武官の仕事だという判断を動かさなかった。
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来たれり
武官室にいた若い補佐官が「返電は来ないのでしょうか」と言った。「打ち続けることが仕事だ」と小野寺は答えた。補佐官は黙った。武官室に、スウェーデンの冬の静けさが戻った。
スウェーデン陸軍の情報将校グスタフとある夜に食事をした時、「太平洋の制海権はもう日本にはない」と言われ、「分かっている」と小野寺は答えた。「東京は分かっているか」という問いには、沈黙で答えた。グスタフはそれを答えとして受け取り、「それでも続けるか」と聞いた。「続ける」と小野寺は言った。石畳の夜道を一人で歩きながら、見えているものを正確に書くことをやめないこと、受け取る側がどう動くかは自分が決めることではないという確信だけが、この武官室を支えていた。岩手山が、誰に見られているかに関係なく、そこに立っていたように。打ち続ける。それしかなかった。
━━ 十一 ━━
昭和十八年十月、学徒出陣の壮行会が行われた。雨の神宮外苑で七万七千人が整列した報をラジオで聞いた金田一京助は、研究室の窓を開けて秋の終わりの匂いの中に立ちながら、来月出ますと言って帰った川上の顔を思い出した。召集令状が来たと小声で言い残した者、来週には出ると言って来なくなった者、何も言わずにある日から来なくなった者——言葉は生き延びる、しかし言葉を読む人間が戦場から生きて戻ってくるかどうかは誰にも保証できないことだった。窓を閉めて、原稿に向かった。
言葉を学ぼうとした人間が武器を持って出ていく——そういう時代の中で辞典の原稿を書き続けることの意味を、金田一は問い返さなかった。問い返しても答えは変わらない。消えかかっている言葉を書き留める仕事は、今日も明日も続ける以外にない。ただ、戦場に出ていった川上たちが帰ってきた時に、この辞典がここにあるように——その一点だけを思いながら、金田一は一行を書いた。書いた行がいつか届く場所に、今夜出ていった若者たちが帰ってくることを、この男は信じていた。信じることしかできなかった。啄木が城址の草の上で感じていた衝動と、この夜の金田一が感じている衝動は、形が違っても同じ場所から来ていたかもしれなかった。書かずにいられない——その衝動が人間を動かし続ける限り、言葉は消えない。
━━ 十二 ━━
昭和十六年の春、獅子内謹一郎は盛岡の駅のホームで若者を見送った。
腰椎炎の体には杖が要る日が増えていたが、教えてきた球の仲間が召集で盛岡を去る日だった。若者は笑っていた。笑って、軍服のまま列車に乗った。獅子内は列車が見えなくなるまで、ホームに立っていた。
球を教えた。送り出した。また教えた。また送り出した。杖を持ちながらも、教えることをやめなかった。教えた相手が戻ってくるかどうかを、獅子内は考えないようにした。考えれば、教えられなくなる。
駅の売店で、獅子内はラムネを一本買った。ベンチに座って飲んだ。甘かった。かつて盛岡の選手たちが試合の後に飲んでいた飲み物だった。あの頃の声が、今はもう聞けない。
駅の改札の方で、小さな子どもの笑い声がした。獅子内は顔を上げた。若い母親が子を抱いて立っていた。子が何かを言い、母親が笑った。その笑い声だけが、プラットホームに残っていた。
獅子内は駅を出て、颪の中を歩いた。岩手山は雲の中にあって、その日は見えなかった。
この年の秋、獅子内謹一郎は盛岡で死んだ。
━━ 十三 ━━
米内光政が木戸幸一と会ったのは、昭和十八年の晩秋だった。目立たない場所で、木戸は率直だった。「終わらせることを、考えなければならない時期が来ている」「来ている」「誰が動けるか」「今すぐ動ける者はいない。しかし動ける立場に近い者はいる。その者が立場を得た時に動けるよう、今から繋がりを切らないことだ」——それだけ言って、夕暮れ時に二人は別れた。今日の話が実を結ぶかどうか米内には見通せなかったが、言葉を交わした事実は消えない。その事実が、いつかの土台になる。
━━ 十四 ━━
釜石の製鉄所が本格的な戦時体制に入ったのは、昭和十六年の暮れからだった。開戦の翌日、三鬼隆は工場を回った。炉の前に立つ人間の顔が変わっていた。戦争が始まったことを誰もが知っており、知った上でそれぞれの顔で炉の前に立っていた。
最初の召集令状が来たのは開戦から三ヶ月後だった。二十四歳の炉前作業の中核だった男に、三鬼は「体に気をつけろ」とだけ言った。それ以上のことは言えなかった。その男は翌年の秋、南方で死んだ。二十五歳だった。その後も召集は続いた。一人が消え、また一人が消えた。昭和十九年になると、壮年の男が減り、老人と少年が増えた。ある夜、七十近い元職人が炉の前で倒れた。意識が戻ると起き上がろうとする老人の肩を押さえて「俺が見る」と言い、三鬼はその夜、老人の持ち場に立った。炉の熱が顔に当たった。何のための鉄か、という問いが、その夜初めて形を持った。
翌朝、老人は自分で工場に来た。三鬼に向かって頭を下げ「昨夜はすみませんでした」と言った。三鬼は「明日から来るな」と言った。老人の顔が変わった。「辞めろということですか」「違う。三日休んで来い、それだけだ」——老人は黙ってから「そうします」と言い、三日後に戻ってきた。その後も老人は炉の前に立ち続けた。何十年も立ち続けてきた場所から離れることができない人間というものが、三鬼には分かっていた。自分もそういう人間だった。炉から引き離すことよりも炉の前で倒れることを選ぶ人間に、それはやめろとは言えなかった。
━━ 十五 ━━
昭和十九年七月、サイパンが陥落した。本土への爆撃が始まる——東条内閣が倒れ、米内光政に海軍大臣への就任要請が来た。断る理由がなかった。断るためにここまで待ったのではなかった。この役目を引き受けるために開戦の夜から今日まで動き続けていた。
就任の夜、米内は部屋で一人静かにしていた。及川古志郎の顔が浮かんだ。三国同盟を飲んだ日の、あの重い顔が。あの時の及川には踏みとどまれるだけの力がなかった。力だけの問題ではなかった。組織と時代が、踏みとどまることを許さなかった。米内にも、あの時代に本当に踏みとどまれたかどうか、今となっては確かめる方法がなかった。
戦争を終わらせる、どこかで誰かがその言葉を言わなければならない、言える立場に立つためにここまで来た。部屋の窓から夜の東京が見えた。灯火管制で街は暗く、しかし空には星があった。かつて太平洋の真ん中で見た星より小さかったが同じ星だった。あの夜、甲板で啄木の歌を思い出した。故郷の川を遠く離れた場所から思い出した男の歌を。
及川古志郎の「待っておりました」という一行だけの手紙が来た。米内はそれを読んでから、机の引き出しに入れた。
感傷に時間をかける必要はなかった。今夜の残りを、どう使うか。明日の朝、誰に会うか。そこから始まる——米内はその星を見ながら、やるべきことを整理した。
及川はこの手紙を書きながら、盛岡中学の廊下で野村胡堂と短歌を回し合っていた頃のことを思い出していた。あの頃は人と人をつなぐことが自分の得意なことだと思っていた。昭和十五年の秋に三国同盟の調印文書に署名した夜も、つなぐべき橋がどこへ向かっているのかを測り切れないまま判を押した。測り切れないまま動いた——それが及川古志郎という人間の、あの夜の正直さだった。また、野村胡堂に石川啄木を引き合わせた日のことも思い出した。石川は二十六で死に、野村は今も銭形平次を書いており、自分は四年前の夜に踏みとどまれなかったが、まだできることがある——「待っておりました」という一行を書き、封をして使いに持たせた。石川が書き残した言葉が今も人の胸に届くように、自分が今日書いた言葉も、どこかへ届く。
━━ 十六 ━━
戦争が始まってから、雑誌の読者は増えていた。娯楽の場が減り、外に出る機会が減り、人間は家の中で活字を求めた。銭形平次の読者もその中にいた。野村は毎月、原稿を書いた。江戸の市井は変わらなかった。平次は今月も路地を歩き、誰かを助けた。
読者の手紙が来ることがあった。
平次の話が好きです、という手紙だった。ほとんどが女の読者からだった。夫が出征している、息子が出征している、という書き出しで始まることが多かった。平次を読んでいると、少しの間だけ、今いる場所を忘れられます。そう書いてあった。野村はその手紙を一通ずつ読んだ。読んで、机の引き出しに入れた。返事は書けなかった。書く言葉が出てこなかった。
平次を書くことが何かの支えになっているなら、書き続けなければならない、と野村は思った。それは義務ではなかった。しかし責任に近いものだった。
ある夏の夜、野村は書き終えた原稿を読み返していた。
今月の話は、見知らぬ町からやってきた女を平次が助ける話だった。女は訳ありだった。故郷に帰れない理由があった。平次はその事情を聞いて、女が自分で決めるための時間を作ってやった。答えを出してやるのではなく、答えを出せる場所に連れて行く。それが平次の流儀だった。
野村は原稿を机に置いた。
この話の中で、女の故郷は出てこない。江戸の話だから、東北の山里は背景に過ぎない。しかし野村が書きながら頭にあったのは、盛岡から出てきた者が東京で生きることの話だった。故郷を出た者の孤独。出た先で何かを守ろうとすることの難しさ。それを直接書けないから、江戸の路地に置いた。
田中が翌朝また来た。今度は原稿の感想を言いに来た。「平次はなぜいつも、答えを出してやらないんですか」と聞いた。
野村は少し間を置いた。「答えを出してやった人間は、次に迷った時にまた誰かに頼る。自分で出した答えは、自分のものになる」
田中は頷いた。今度はすぐ頷いた。前回より早かった。
野村はその頷き方を見て、この男はこの先どこかで、自分の答えを出す場面に立つだろうと思った。その時にこの話を思い出すかどうかは分からない。思い出さなくても構わない。言葉はそういうものだった。
━━ 十七 ━━
米内光政は、副官が下がって一人になった大臣室で、机の上に積まれた戦況報告、兵器生産の数字、燃料の備蓄量を前にしていた。数字の意味は手に取る前から分かっていた——問題は数字そのものではなく、それを誰にどう伝えるかだった。引き出しを開けると、及川からのあの一行——「待っておりました」——がそこにあった。米内はもう一度それに目を落としてから、静かに戻した。
窓の外の東京の夏の空は高く青かったが、やがてこの空に敵の爆撃機が飛ぶようになる、そうなる前に終わらせなければならない。どこで、誰と、何を使って——開戦の夜から考え続けてきたことが、今日からようやく実行の段階に入る。しかし道具が揃っていなかった。スウェーデンか、スイスか、別の中立国か、貴族院の出淵はまだ動けるか、小野寺の電報はまだ届いているか。覚書を書いて鍵のかかる引き出しに入れた。
八月、木戸幸一と内大臣室で会った。「海軍として、終戦にどう関与できますか」という問いに、米内は「本土決戦を主張する陸軍の声が実行に移らないよう働きかけることはできます。しかし和平の交渉窓口を開くことは、外務省と陛下の周辺の方々がやるべきことです」と答えた。「最後は陛下のご決断に委ねるしかない」「そうです」「その時、海軍は」「動きません」——米内は言い切った。戦争を終わらせるために戦うのではなく、終わらせる動きを妨げない、その消極的な貢献が今できる仕事だった。感傷に時間をかける必要はなかった。
━━ 十八 ━━
三月十日の夜、野村胡堂は編集局にいた。
午前零時を過ぎた頃、空襲警報が鳴った。B29が来る、という声が編集局を走った。しかしその夜の警報は、これまでと違った。機数が違った。編集局の窓から北の空を見た記者が、声を上げた。
「燃えてる」
野村は窓へ行った。
空が赤かった。赤というより、橙と黒が混じった色だった。下町の方角が、その色で染まっていた。炎の輪郭が、夜の空に揺れていた。風が南から吹いていた。強い風だった。
編集局が動き始めた。カメラマンが飛び出した。記者が外套を摑んで走った。電話が鳴り始めた。どこどこが燃えている、という声が次々に入った。本所、深川、浅草。下町の地名が、電話口から届くたびに、炎の範囲が広がった。
野村はデスクに戻った。
原稿用紙が机の上にあった。銭形平次の話の続きだった。昨夜書きかけたまま、置いてあった。江戸の春の場面だった。平次が神田の路地を歩いている場面だった。
野村はその原稿を、引き出しの中にしまった。
電話を取った。被害状況の確認を始めた。数字を書き留めた。どの町が、どの範囲で、何が燃えているか。記者からの報告が入るたびに、地図に印をつけた。印が増えた。増え続けた。
夜明け近くまで、電話は鳴り続けた。
朝になって、最初の報告が出揃った。死者の数が、まだ確認できていなかった。しかし焼失した家屋の数と、燃えた範囲を地図で見れば、規模は分かった。野村は地図を見たまま、しばらく動かなかった。
編集局の若い記者が、野村のそばに来た。興奮した顔をしていた。現場から戻ったばかりだった。
「デスク、すごいことになってます。一面で行けます」
野村は地図から目を上げた。記者の顔を見た。
「何を書く」
「被害の規模です。これだけの空襲は初めてです。読者が——」
「読者に何を伝える」
記者は少し黙った。
「事実を、です」
「どの事実だ」
記者は黙った。野村が問おうとしているものの輪郭を、記者はまだ掴みきれていなかった。
野村は地図を机の端に寄せた。
「書ける事実と、書けない事実がある。書ける事実だけ書いても、伝わらない事実がある。そのことを、お前は今夜初めて知った。それだけ覚えておけ」
記者は何も言わずに戻っていった。
野村は原稿用紙を取り出した。朝刊に入れる記事を書き始めた。「敵機の大編隊が帝都を空襲した」という書き出しで始めた。被害の規模は書いた。しかし死者の数は書けなかった。まだ確認が取れていなかったからではなかった。書いていい数字と、書いてはいけない数字があった。その境界線を、内閣情報局が引いていた。
書き終えた。
原稿を持って輪転機の担当に渡した。渡す前に、もう一度読んだ。
正確だった。しかし本当ではなかった。
その感触を、野村は今夜も引き出しにしまった。引き出しの中には、これまでしまい続けてきたものが、積み重なっていた。
編集局の外では、東京の空が白み始めていた。下町の方角から、まだ煙が上がっていた。煙は黒く、風に流されて、東の空へ消えていった。
━━ 十九 ━━
ドイツが降伏したのは昭和二十年五月八日で、ストックホルムではその報がラジオで流れた。小野寺信は武官室で打ちかけの電報の草稿の続きを書いた。ソ連の対日参戦がドイツ降伏から三ヶ月以内に定められていることはすでに把握しており、つまり八月までにソ連は動くという内容を数字と事実だけで書いた。打ち終えて草稿を見た後、この電報が東京に届き、誰かが読み、その後どうするか——正確には、見えていた。何もしない、あるいはすでに知っている。これまで一度も返電がなかったという事実が、すでに答えだった。それでも打つ。見ているものを正確に伝えさえすれば、その先で誰がどう動くかは、もはや自分の手を離れている——その一点だけが、夜ごとの打鍵を支えていた。
グスタフと最後に会った時、「あなたはまだ電報を打っているのか」「打っている」「届いているか」「分からない」「変わらないな」「変える理由がない」——その後ストックホルムの石畳を一人で歩きながら、何年経っても故郷の岩手の冬を思わせるこの街の冷たさの中で、見えているものを正確に書くことをやめないという姿勢だけが、この男の仕事だった。
━━ 二十 ━━
釜石の製鉄所は、開戦以来、休みなく鉄を作り続けてきた。その釜石に艦砲射撃が来たのは、昭和二十年七月十四日の夜明け前だった。沖合に現れたアメリカの艦隊が製鉄所に向けて砲を撃ち始めた。三鬼は外へ出た。海が光っていた。艦の砲口が火を噴くたびに暗い海面が一瞬白くなり、数秒遅れて音が来た。構内に砲弾が落ち、第二高炉の方角から炎が上がった。三鬼は動かなかった。逃げる方向を考えていたのではなく、頭の中の製鉄所の地図で何がどこにあるかを確認していた。三十年近くこの製鉄所と生きてきた人間の地図だった。構内の人間を声を上げて誘導しながら走り回った。
夜明けが来て砲撃が止んだ。第一高炉は生きていたが第二高炉と周辺建屋が半壊し、コークス炉の一部がまだ燃えていた。三鬼は砲弾の穴のそばに立って下を見た。岩手の土から出た鉄で作った炉が、同じ鉄で作られた砲弾で壊された。その事実を言葉にしなかった。言葉にする必要がなかった。従業員の安否確認が始まる声を聞きながら、三鬼は第一高炉の確認に歩いた。炉はまだ熱を持っていた。止まっていなかった。炉の前に立つと熱が顔に当たった。この熱を三十年近く知っていた。何のための鉄か——問いに今夜も答えは来なかった。しかし炉は燃えていた。答えが来ないまま、燃え続けていた。
━━ 二十一 ━━
昭和二十年八月十五日、正午。
東京は焼けていた。三月からの空襲で下町は焼け野原になり、瓦礫の照り返す熱の中で、人々は玉音放送を聞いた。役所の前で、工場の構内で、焼け残った家の濡れ縁で、雑音の多いラジオに耳を寄せ、聞き取れない言葉の意味を、誰もが声の調子から察した。終わった、と。泣く者がいた。膝をつく者がいた。何も言わずに立ち去る者がいた。焦土の上に、八月の日が容赦なく照っていた。
同じ正午、盛岡では岩手山が北西の空に立っていた。城下の町に大きな建物の焼け跡はなく、北上川は変わらず流れ、中津川の瀬の音も変わらなかった。町の人間は、それぞれの場所でその報を聞いた。畑の手を止めた者も、家の中でうつむいた者もいたが、岩手山だけは、戦争の前も、戦争の間も、終わったその日も、同じ形で同じ場所に立っていた。颪は夏の間、止んでいた。
東京で焼かれ、盛岡で静まり返ったこの一日を、同じ校庭から出ていった男たちは、それぞれの場所で迎えていた。
━━ 二十二 ━━
板垣征四郎が終戦の報を聞いたのは、昭和二十年八月十五日、シンガポールの司令部だった。玉音を聞いて将校たちが顔を見合わせ誰も声を出さない中で、板垣は「解散」と言って一人になった。残った一人の中佐に「閣下は、我々が信じたことが間違っていたのかどうか、それを聞きたかった」と言われ、「間違っていたかどうか、俺には分からん。正しいと信じてやった。しかしこうなった。正しかったかどうかは、俺が決めることではない」「では誰が」「歴史だ」——将校が出ていった後、板垣は机の上に置かれたマレー半島の地図を折り畳んで引き出しに入れ、武装解除の手順、捕虜としての扱い、兵への伝達事項を書き始めた。几帳面で読みやすく命令の体裁を保った字が、信じたことが終わった後も仕事の形だけは崩さないこの男の姿を表していた。
━━ 二十三 ━━
金田一のもとに、教え子の川上から便りが来たのは、昭和十九年の春だった。
消印は南方の基地の名だった。便箋一枚、短い手紙だった。先生、元気でやっています。こちらは暑いですが、体は丈夫です。辞典はいつか読みます。そう書いてあった。
金田一は手紙を二度読んだ。
川上が生きている。南方のどこかで、暑さの中で立っている。辞典はいつか読みます、という一文が、金田一の胸に残った。いつか、という言葉の重さを、川上は分かっているだろうか。分かった上で書いているだろうか。分からずに書いているだろうか。どちらでもよかった。いつか読む、と書いた。その一言が、金田一の手を動かし続けるには十分な言葉だった。
返事を書いた。
辞典は棚にある。待っている。それだけ書いた。あとは近況を少し。大学のこと、アイヌ神謡の記録が進んでいること。戦況のことは書かなかった。書くことがなかったのではない。書いてはならないことが多すぎた。その代わり、最後にこう書いた。言葉は残る。
封をして、郵便に出した。
届くかどうかは、金田一には知る術がなかった。南方の戦況が、この春から悪化していることを、金田一は知っていた。しかし書いた。書かなければ、届く可能性がゼロになる。書けば、届く可能性が残る。書くことだけが、金田一に残された手段だった。
研究室に戻って、アイヌ神謡の原稿に向かった。川上がいつか読む辞典の隣に、今書いているこの神謡が並ぶ日を、金田一は思い描いた。遠い日だとしても、描くことをやめなかった。
━━ 二十四 ━━
大学の研究室で、金田一京助はアイヌの神謡の記録作業を続けていた。八月十五日の正午、ラジオから流れた聞き慣れない声が雑音に混じり断片的に届いた言葉——堪え難きを堪え、忍び難きを忍び——が、放送の終わりとともに静寂の中に落ちた。
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
助手が出ていった後、金田一は棚のアイヌ語辞典の原稿の束を見た。戦争の間じゅう出版の目途が立たなかったが消えなかった、この部屋でずっとここにあった。啄木が死んでから三十三年が経っていた。城址の草の上で「書かずにいられないんです」と言った少年と別れてから、金田一が引き受け続けてきたのは、消えかかっている言葉を残すという仕事だった。啄木の言葉は歌集に残った、アイヌの言葉は辞典の原稿に残った、長老の声は金田一の手帳に残った。燃料が不足し船の便が減って長老たちへの連絡が途絶えた戦争の間も、手元の記録を整理し言葉を並べ直し文法の体系を組み立て索引を作り続けた。棚の原稿は消えなかった。消えなければ、いつか届く——今日から、その「いつか」が動き始めた。金田一は神謡の原稿に向かい、放送の前と同じ字で同じ速さで書き続けた。
━━ 二十五 ━━
三菱重工業本社の会議室は、役員も社員も廊下まで溢れていた。八月十五日の正午、玉音放送が終わり、泣く者、頭を垂れる者がいる中で、郷古潔は椅子に座ったまま動かなかった。計算が終わった、と思った。計算の答えは戦争が始まった日から変わっていなかった。変わったのは、その答えを口にできる場所が完全に消えたことだった。怒りはなかった。嘆きもなかった。計算通りの結果が来た時、熱狂しない男には、熱狂しない結末があった。廊下を歩きながら、工場をどう止めるか、接収に備えて何を準備するか——次の計算が、もう始まっていた。
━━ 二十六 ━━
及川古志郎は自宅の縁側にいた。ラジオを縁側の近くに出してもらい、庭を向いたまま放送を待った。真夏の陽光が庭石に照り返し、蝉の声が途切れなかった。正午の時報が鳴り、雑音の混じった声が流れ始めた。堪え難きを堪え、忍び難きを忍び——聞き慣れない声が言葉を刻んでいくたびに、庭の光の中で何かが固まっていくのを及川は感じた。
放送が終わって静寂が来た時、及川は長く息を吐いた。三国同盟を飲んだあの夜のことが、この静寂の中で形を変えて戻ってきた。飲まなければよかったとは言えなかった。組織の連続性を守ることが国を守ることだという判断の中で動いた、その判断が正しかったかどうかは、今もって答えが出ない。しかしあの夜の決断が今日この日に繋がっているという事実は、夏の庭の光の中に動かなくあった。
米内がこの音を聞いているはずだと思った。海軍省の大臣室で、あるいは別の場所で、同じ声を聞いているはずだった。四年前の秋、「待っておりました」という一行の手紙を書いて送った。返事は来なかったが、届いたことは分かっていた——米内という男のことを及川は知っていた。あの一行が届いた先に、今日この日がある。遅すぎた。しかしそれが人間というものだった。蝉の声が止んだ。庭に風が来た。夏の光だけが変わらなかった。
━━ 二十七 ━━
八月十五日の未明、陸軍大臣・阿南惟幾が「米内を斬れ」と言い残して自決した。終戦に反対し続けた陸軍大臣が最後に名指しした男は、その朝も海軍省の大臣室にいた。米内光政はその報を聞いても、顔色を変えなかった。斬ると言われるだけのことを、自分はしてきた——その自覚が、この男にはあった。
正午、米内は大臣室で玉音放送を聞いた。雑音の多い放送を、最後まで立って聞いた。終わった。海軍大臣として、総理大臣として、戦争へ傾いていく流れの中に何度も立った。そのたびに、押し返そうとした。押し返しきれなかった。止めようとし続けた者だけが知る、止められなかったことの重さが、この男の中にあった。
放送が終わり、窓の外に夏の空があった。爆撃機の来ない空だった。この空のために、どれだけの時間がかかり、どれだけの人間が失われたか。米内は数えなかった。数えれば足が止まる。足を止めることを、この男は自分に許さなかった。
米内は机に戻った。海軍という組織を畳む手順を、紙に書き始めた。戦争を止められなかった男に残された仕事は、終わった後の始末を、最後まで責任をもってつけることだった。それが、止めようとして果たせなかった者にできる、ただ一つのことだった。
(第三章 了)
第四章 焦土
https://note.com/long_dietes7789/n/n141ee5051e17
【連載小説】啄木の知らない戦争
本シリーズはマガジンにまとめています。
全五章+終章です。
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他の作品
【短編連作】華と修羅が日常 — PRパーソンの告白
https://note.com/long_dietes7789/m/med124fa32fff
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