啄木の知らない戦争|第一章 不来方の春
盛岡という町は、南部藩の城下である。北上川と中津川が合流するこの地に南部氏が城を構えたのは慶長年間のことで、不来方城と呼ばれたその城は明治になって廃城となり、石垣だけが残された。しかし城下町の気風は廃城になっても消えなかった。戊辰の役で朝敵の汚名を着せられた南部藩の人間には、薩長の世を見返してやるという意地が明治も半ばを過ぎてなお根強く残っており、その意地が岩手県尋常中学校のバンカラな校風を支えていた。冬になると岩手山から颪が吹き下ろし、底冷えのする盛岡の校庭を生徒たちは高下駄を鳴らしてマントを翻しながら歩いた。颪に顔をしかめながらも背筋だけは伸ばしていた。弱音を吐くことを恥とする空気がこの学校の廊下にも校庭にも染み込んでいたのは、南部の人間は寒さに負けないという誇りが代々の生徒の背骨を作ってきたからである。
この校舎から、同じ時代に、総理大臣が出た。陸と海の大臣が出た。国会の議長が出た。言葉で太平洋を渡り、言葉の届かぬ壁を知った男が出た。鉄と重工業で日本を動かした男が出た。言論を奪われても筆を置かなかった男が出た。消えゆく言葉を記録した男が出た。盛岡に残り、球を投げ続けた男もいた。そして歌を遺して二十六歳で死んだ男も出た。盛岡中学という一つの校舎が、同じ時代の陸と海と政と外交と産業と言論と学の、それぞれの極に人間を送り出した。
米内光政という人間を、同級生は持て余していた。のちに連合艦隊司令長官、海軍大臣を経て、開戦を避けようとした総理大臣になるこの男は、無口で感情を表に出さず、試験では常に上位にいながら剣道の稽古では後輩を丁寧に指導し、誰かが困っていれば黙って手を貸しながら礼を言われると居心地が悪そうな顔をした。なぜ海軍を志すのかと問われれば「陸より海の方が広い」と言うだけで、冗談なのか本気なのか周囲には判断がつかなかったが、この男が一度決めたことを翻したのを誰も見たことがなかった。海軍兵学校の受験準備を、米内は誰にも告げずに一人で進めていた。この学校でただ一人言葉が通じた同期がいた。八角三郎という男で、盛岡でも同学年だった。のちに八角は兵学校29期の同期として米内と並び、鈴木貫太郎内閣では内閣顧問として終戦工作に協力する。入校後、米内には兵学校で「グズ政」というあだ名がついたが、ひとつの問題に納得がいくまであらゆる角度からアプローチする独自の勉強法は詰め込み式教育の中で異質に映り、教官が目をかけ続けた。
板垣征四郎は仙台陸軍地方幼年学校への進学を志していた。小柄だが頑健で、南部藩士の家の出であることを人一倍意識し、疑うより先に信じ、信じたことに向かってまっすぐに走ることがこの男の生き方の核心になっていった。のちに満州事変の首謀者の一人となり、陸軍大臣を経てA級戦犯として裁かれることになるこの男の、それが強さであり、取り返しのつかない禍根となる資質でもあった。
及川古志郎は米内の三学年下で、この頃から米内の背中を追っていた。海軍という選択も米内に倣ったと言っていい。しかし及川の盛岡中学での時間は、海軍への道筋よりも別の記憶の方が濃かった。及川は文学好きで、野村長一や金田一京助ら一学年上の先輩に誘われて短歌の回覧誌に加わり、後輩の石川啄木に野村を紹介したのも及川だった。金田一京助という国語学者になる男が同じ校舎にいることを及川は知っており、「歌をやるなら金田一さんに紹介してもらえ」と啄木に言い、その金田一京助を通じて啄木が『明星』へと繋がっていく——及川は人と人の橋を架けることが得意な人間だった。しかし自分はその橋を渡って文学へ進むことはせず、海軍へ向かった。野村胡堂が後年「及川は何でも引き合わせてくれた、自分は動かないで」と書き残しているのは、そういう性質のことを言っている。及川という男は人と人を繋ぐことに喜びを感じたが、自分自身の言葉は少なかった。その性質が、海軍大臣として「総理一任」と言って判断を手放した夜にも、形を変えて現れていた。
田子一民は米内の一学年下で、父を早く亡くし家が貧しかった。苦学してこの校舎に通いながら、のちに衆議院議長になる。庶民の暮らしを政策に繋ぐことを仕事にした男で、石川啄木が同じ校庭の草の上に寝転んでいた頃、田子は図書館の隅で分厚い本を開いていた。二人は同じ風を受けて育ちながら、まるで違う方向へ歩いた。
出淵勝次は米内より二学年上で、のちに外務省に入り駐米大使になる。言葉を武器に生きた男だった。この校庭から出た人間の中で、国境の向こう側まで言葉を届けようとした者の一人だった。
郷古潔は米内の二学年下で、板垣より三歳年上だった。三菱重工業の社長になりのちにA級戦犯容疑をかけられることになるこの男は、この時期、学校で最も「現実的な」生徒として知られていた。文学の才でも野球の腕でも軍人への憧れでもなく、郷古が持っていたのは数字を読む目だった。工場がどう動き、金がどこへ流れ、物がどう作られるか——そういうことに子供の頃から自然な関心を持っていた。板垣が武士道を語り米内が黙って窓の外を見ているとき、郷古は別の窓から校舎の外を見ていた。どの窓からどちらを見るかだけが違うのに、見えるものがまるで違うことを、この男は少年の頃から知っていた。
この時、三鬼隆はまだ小学生だった。のちに盛岡中学へ進み日本製鐵の社長として「鉄は国家なり」を地で行く人間になるとは誰も知らなかったが、岩手山の颪を受けて育った人間にどこか共通した頑なさがある——曲げない、という頑なさである——ことを、後年この男の生き方が証明することになる。その頑なさは国を救う力にもなり、国を滅ぼす力にもなった。
━━ 一 ━━
在学中のある秋、盛岡出身の新渡戸稲造が盛岡中学の講堂で話したことがあったという。故郷への訪問の折に、中学の生徒たちの前で語った。米内光政も、その話を聞いた一人だったと伝えられている。
「君たちは南部の子だ。南部は戊辰の役で朝敵と呼ばれ、負けた。しかしそれは恥ではない。恥とは負けることではなく、信じたことを貫かずに勝った側に媚びることだ。南部の人間は信じたことのために戦った。その誇りを、次は正しい方向に使ってほしい」
最前列に座っていた米内光政は一語も聞き逃すまいとした。講演が終わった後、米内は新渡戸に近づいて一つだけ質問した。「正しい方向とは、どうすれば分かりますか」
「長い時間で考えることだ。今日の利益ではなく、百年後の日本を考えること。それが正しい方向を見つける唯一の方法だと、私は思っている」
米内はその言葉を手帳に書いた。後に「グズ政」と呼ばれた男が、この夜だけは速く動いた。
新渡戸は明治三十三年頃に体調を崩して盛岡を離れ、カリフォルニアへ療養に向かった。金田一京助と野村胡堂が盛岡中学に入ったのはその翌年で、二人は新渡戸の講演を直接聞いてはいなかった。しかし米内がたまに口にする「新渡戸先生がこう言っていた」という言葉が、廊下や校庭で後輩たちの耳に届いていた。
板垣征四郎が盛岡中学に入ったのは明治三十年で、新渡戸がすでに盛岡を去った後だった。板垣が新渡戸の言葉に触れたのは、三学年上の先輩・米内光政を通じてだった。「信じたことのために戦った」という言葉が、板垣の体の中で根を張った。この男の生涯がその根の上に築かれていくことを、板垣はまだ知らなかった。
石川啄木が盛岡中学に入ったのは明治三十一年、板垣が転校した翌年だった。啄木の耳に新渡戸の言葉が届いたのは講堂ではなく、盛岡中学に語り継がれていた言葉を通じてだった。信じたことのために戦う——その言葉は、自分は何を信じているのか、という問いを啄木の中に残した。啄木には答えがなかった。答えのない問いを持ったまま、この少年は言葉を書き続けた。
米内は直接聞き、板垣は先輩の廊下の言葉越しに聞き、啄木は校内に語り継がれた言葉として受け取った。同じ言葉が、三人の体に異なる根の張り方をした。
板垣が盛岡中学に入った明治三十年、三学年上の米内はまだ最上級生として校舎にいた。ある朝、板垣征四郎は廊下で米内光政に声をかけた。「先輩は新渡戸先生の話をどう聞きましたか。正しい方向に誇りを使えと言っておられた——あの意味が、まだ自分には掴みきれていません」。米内は一呼吸おいてから、振り返りもせず短く答えた。「精神だけでは、弾は止まらん」——それだけ言うと廊下の向こうへ歩き去った。米内がそう言い切れた根拠は何だったか。この時の米内にも、おそらく言葉はなかった。理由を知る前に体が知っていた——それが、この男が生涯を通じて変えなかった感じ方だった。板垣はその背中を見送りながら反論の言葉を探したが、言葉よりも先に何かが喉の奥に引っかかって、形にならないまま沈んでいった。
━━ 二 ━━
校舎の裏手にある不来方城の石垣の下に、よく一人でいる生徒がいた。石川一という名で、のちに啄木という雅号で知られることになるこの少年は、明治三十一年に百二十八人中十番の成績で入学した時点では家族の期待に応えるつもりがあったかもしれないが、学年が上がるにつれて授業への出席は減り、城址の草の上で過ごす時間が増えていった。それを咎める教師は少なくなかったが、誰も強くは言えなかった。理由は単純で、この少年の書く短歌が異様に巧かったからである。
石川の父は岩手郡渋民村の宝徳寺という小さな寺の住職で、家は決して裕福ではなく、上級学校への進学は経済的に望めなかった。四年生の学年末試験での不正行為、五年生での欠席の激増、重ねての試験不正——これらが積み重なり、明治三十五年十月、石川は盛岡中学を退学した。本人が望んだ退学だったか学校側に促された退学だったかは今も定かではないが、この少年が教科書より歌集を選び授業より城址の草を選んだことが、怠惰ではなく言葉に憑かれた人間の必然的な行動だったということだけは確かだった。
同じ年、田子一民は卒業した。二人は仲が悪かったわけではないが、互いに相手の生き方を最後まで理解し合えなかった。田子には石川が才能の無駄遣いに見え、石川には田子が魂のない秀才に見えた。どちらの見方にも一分の真実があり、どちらにも一分の偏りがあった。石川が退学した翌月、田子は卒業証書を受け取った。同じ校庭から出た二人は、まるで違う方向へ歩いた。
石川が中学三年生の頃、周囲には海軍志望の生徒が多かった。軍人を志すことが珍しくない時代の高揚の中で、石川もその熱気に一時は引き込まれ、先輩の及川古志郎に兄事するようになった。及川は温厚で誰の話もよく聞く先輩で、石川が文学への傾斜を強めてからも見捨てなかった。及川が石川を野村長一に引き合わせたのもこの頃のことで、野村は石川の歌を読んでその才能に気づき、やがて俳句と短歌の手ほどきをするようになり、ともに校友会雑誌の編集を手がけた。石川にとって野村は、言葉の世界を共に歩く最初の仲間だった。
金田一京助が石川と初めて話したのも、城址の草の上だった。啄木の二学年上で言語というものへの関心が人一倍強く、のちにアイヌの言葉に生涯を捧げることになるこの男は、体が小柄で朝の柔道稽古にもっぱら出ていたが、同じく朝稽古に来ていた二年上の米内光政と組むことがあり、大柄な米内が小柄な金田一のかけた技に大きな音を立てて倒れるたびに金田一は恐縮した。言葉と格闘することと、人と格闘することとが、この男の中で自然に繋がっていた。風変わりという点では二人は似ていると思いながら草の上の少年に声をかけた。
「君が石川か」と金田一は言った。
「そうです」と石川は草の上から答えた。起き上がろうともしなかった。
「歌を見せてもらった。あれは本物だ」
石川はしばらく黙っていたが、やがて半身を起こした。顔を上げると、不来方城の石垣が秋の光を受けて白く光っていた。
「本物かどうかは、僕にはわかりません。ただ、書かずにいられないんです」
金田一はその言葉を生涯忘れず、のちに書き残した回想録の中でこう記している。「彼の目は、常に遠くを見ていた。目の前の現実ではなく、言葉の向こうにある何かを見ていた。ただ確かなことは、あの目を持つ人間の言葉は、普通の人間の言葉とは違う密度を持っているということだった」
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
━━ 三 ━━
野村長一——のちに胡堂という筆名で『銭形平次捕物控』を書き国民的作家となる男——は、この時期、金田一の同級生だった。醸造業を営む商家の息子として帳簿と商いの言葉の中で育った野村が惹かれたのは帳簿の数字ではなく新聞の活字で、世の中で何が起きているかを誰よりも早く知り誰よりも正確に書くことが自分の仕事だと十代のうちから確信していた。野村が石川と知り合ったのは及川古志郎の紹介によるもので、教える側の野村と教わりながらもすでに教える側を超えていた石川という二人の関係は、最初からそういう非対称さを持っていた。
ある日の帰り道、野村は金田一に「あいつは授業に出ないぞ、いずれ放校になる」と言った。
「なるかもしれない」と金田一は言った。中津川沿いの道を二人は並んで歩き、川面が夕暮れの光を受けて赤く染まっていた。初冬の風が川上から吹いてきて二人のマントの裾を揺らし、橋の上を荷車が通って車輪の音が川面の向こうに遠ざかっていった。沈黙の後で、金田一がもう一度口を開いた。「だが、あいつが書いたものは、おれたちが書けないものだ」
野村は返事をしなかった。文学の価値は分かる、しかし食えなければ意味がないという現実的な考え方が当時の野村の基本にあった。しかし報知新聞の政治部記者になってから、野村はこの夕暮れの川沿いの道を何度も思い出すことになる。金田一の言葉が正しかったと知るのは、ずっと後のことだった。現実主義者でありながら最後まで文学を手放さなかった野村胡堂という人間の複雑さは、政治部記者として権力の中枢を取材しながら、もう一方の手で江戸の市井の人情話を書き続けたことの中にある。
━━ 四 ━━
校庭では、獅子内謹一郎が白球を追っていた。野球という競技が旧制中学に広まり始めたのはちょうどこの頃のことで、一高の野球部がアメリカチームを破ったという話が全国に伝わり、盛岡中学でも野球部が組織された。獅子内はその創成期からの部員で、渾身の力を込めて投げることだけを体が知っていた。球種も配球も二の次で、のちに「岩手野球の父」と呼ばれるようになるこの男の原点は、そうした単純な全力投球の中にあった。日が傾いても帰らなかった。乾いた音が夕暮れの校庭に響き、岩手山から吹き下ろす颪が砂埃を巻き上げても、球を追う目の色は変わらなかった。獅子内は石川啄木の一学年上だったが、一度落第して啄木と同級になったことがあり、二人は親しかった。落第の理由は単純で、勉強よりも球を投げることを選び続けた結果だった。当時の盛岡中学は成績に厳しく、落第そのものは珍しくなかったが、獅子内のそれは怠惰の結果ではなかった。野球の獅子内、言葉の啄木——そう色分けするのは表面だけの話で、獅子内という人間は実のところ多才だった。柔道は講道館二段、相撲は大相撲幕下と互角に渡り合い、早稲田に進んでからも球は投げ続けた。早稲田大学野球部が東京の学生野球をリードしていた時期に、獅子内はその投手として試合に立った。盛岡の颪の中で鍛えた剛速球が、東京の球場でも通じた。明治の終わりから大正にかけて、早稲田野球部はアメリカ遠征を敢行し、太平洋を渡って本場の野球と互角に渡り合う時代を作っていく——獅子内はその黎明期を担った一人だった。早稲田ではまた、競技かるたの全国選手権で優勝して横綱の番付を得ている。球を投げる腕が同じ男の中に、百人一首の上の句を聞き下の句を取る静かな集中力があった。言葉の世界と運動の世界を同時に生きていたこの男が机を並べた啄木にとって、その不思議な組み合わせが、啄木には別の何かを示しているように見えたかもしれない。啄木が盛岡を去る年に獅子内と最後に話した時、獅子内は「俺はずっとここで球を投げる」と言い、啄木は「俺はどこかへ行く」と言ったという話が残っている。
石川啄木は城址の石垣の上から獅子内の練習をぼんやり眺めることがあった。白球の音が秋の夕暮れの校庭に響くたびに覚えるのは、羨ましいというのとも憧れとも微妙に異なる、自分にはああいう場所がないという静かな確認に近い感情だった。石川はノートを開いた。言葉を刻む時だけ、この少年は自分が何者であるかを確かに感じた。
板垣征四郎もまた獅子内の練習を時折眺めたが、板垣の目は白球ではなく獅子内の姿勢に向いていた。全力で投げるために腰を低く落として踏ん張るその構えに板垣は武道の基本と同じものを見、どんな場面でも軸がぶれないその強さが人間の行動の質を決めると思っていた。米内が口にした「精神だけでは弾は止まらん」という言葉を、この時の板垣はまだ咀嚼し切れていなかった。精神と現実は矛盾しないと、板垣は信じていた。
━━ 五 ━━
明治三十一年、米内光政は海軍兵学校に入校した。兵学校を卒業したのは明治三十四年、百二十五人中六十八番の成績だった。
明治三十四年に江田島を卒業した米内は、少尉候補生として艦隊に配属された。閉じた艦の中で長期間生活を共にすることで誰が有能で誰が信頼できるかが隠しようなく見えるという環境は、無口で公正で、軽々に動かないが決断はぶれず、部下に対して感情的にならない米内に予想以上に合っていた。米内が最初に意識したのは海軍と陸軍の根本的な違いで、領土で考える陸軍に対して、航路で考える海軍には世界の動きを知るための広い視野が必要だった。米内は艦上で外国の新聞を読み始め、英語のちにロシア語も学んだ。一年遅れて配属された及川古志郎は優秀だったが艦の上では米内ほど際立てず、米内という人間の傍にいると自分の限界が見えてくることを、不快なことではなくむしろ必要なことだと思っていた。
━━ 六 ━━
堀合節子が盛岡女学校に入学したのは、石川啄木が中学を去る少し前のことだった。
節子は盛岡の名家の娘だった。父は岩手郡役所に勤める士族で、家には書物が多く、節子は幼い頃から本を読む環境にあった。盛岡女学校の生徒として、文学に関心を持つ知的な娘だった。
石川一という名の中学生のことは、盛岡の学生社会では広く知られていた。授業に出ない、借金をする、しかし歌だけは天才的だという噂が、女学校にも届いていた。節子が石川と初めて会ったのは、知人の集まりの席だったと言われる。
石川は節子を見た瞬間、何かを決めたように見えた、と後に金田一が書き残している。
砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
二人の関係は、やがて盛岡の学生社会で話題になった。石川の傍若無人な行動と借金癖を知る者は、この縁組みを心配した。しかし節子は、石川という人間の才能を、誰よりも深く信じていた。それが、この女の誤りだったとは言い切れない。信じることは、最後まで間違いではなかった。ただ、信じることの代償が、あまりにも大きかった。
━━ 七 ━━
明治三十五年、石川啄木は盛岡中学を去った。試験の不正と欠席が重なり、退学の話が持ち上がった。石川は動じなかった。むしろどこかで待っていたような顔をした。
去る前夜、金田一京助が城址の石垣の下で石川と向き合った。
「東京へ行くのか」
「行きます。文学で立ちます」
「食えるか」
「食えなくても書きます」
金田一は返す言葉がなかった。止める理由が見つからなかった。この男を止めることは川の流れを手で止めるようなことだと知っていた。
「何かあれば、連絡してこい」
「お金を借りに行きます」と石川は笑って言った。
「分かった」と金田一は言った。その声に笑いはなかった。
その夜、石川は一首書いた。
われは今こころざしある身となりぬ
ふるさとびとよ
目に見えぬとも
志のある身となった、と少年は書いた。その志が何であるかは、誰にも——石川本人にも——分からなかった。
翌朝、石川啄木は盛岡を去った。颪はもう止んでいた。空が高く青く、校庭では獅子内が今日も白球を追っており、その白さが秋の光の中でしばらく輝いた。汽車が盛岡を離れ、渋民村の方角へ流れる車窓を石川は見ていた。
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
東京に着いた石川が節子に送る手紙には、いつも新しい歌と金の無心が書いてあった。節子は読むたびに、盛岡の実家でひとり、何かを堪えた。
うつうつと病む日なりけり机辺に
ひそかに咲ける
勿忘草かな
啄木が節子に宛てた手紙の中に書かれていた歌である。病気がちで、金もなく、しかし言葉だけは豊かにあった。節子はその言葉を、愛した。その言葉の裏にある現実の貧しさも、すべて含めて、愛した。
━━ 八 ━━
明治三十九年、金田一京助は伯父から旅費七十円を出してもらい、初めて北海道に渡った。東京帝国大学の上田万年教授から「アイヌ語研究は日本の学者の使命だ」と言われてから一年が経っており、まだ誰も系統的に調査していないこの言語を記録することが自分の仕事だという確信は持っていたが、どこへ行けばいいか、誰に話しかければいいかも分からないまま小樽に上陸した。アイヌの人々が集まっているという平取町の方角へ向かい、道中の宿で地元の人間に聞き込みをして、紫雲古津の村に辿り着いた。
村の入り口で、金田一は笑われた。和人がアイヌの言葉を学びに来た——その事実が村人たちには解せなかった。何のためにそんなことをするのか、採集した言葉をどこへ持っていくのか、その説明が言葉を通じなければできないという矛盾の中で、金田一は手帳と鉛筆を出して一人で書き続けた。聞こえた音をローマ字で写し、意味の分かったものに日本語を添え、分からないものは空欄のままにした。子供たちが珍しがって近寄ってきた時、金田一は手帳を開いて「これは何と言うか」と指で示した。子供たちが答えると金田一は書いた。書かれた自分たちの言葉を見た子供たちが次の言葉を差し出し、その夜には老人たちも集まってきた。
その調査で金田一は研究に自信をつけた。翌明治四十年にはサハリンに渡り、樺太アイヌ語を採集した。北海道とは別の系統を持つ言語が島の南部に残っており、老いた語り手が今もユーカラという叙事詩を口承で伝えていた。金田一はオチョポッカという村で、アイヌの子供たちを通じて樺太アイヌ語の単語を教わるという方法を取った——先に子供と仲良くなり、覚えた単語を大人の前で使うと、大人たちが喜んで次の言葉を教えてくれた。四十日の滞在で文法と四千の語彙の採集に成功し、金田一は帰りの船の上で、消えかかっている言語を書き留めることに自分の生涯を使うと決めた。それは決意というより、引き受けることの確認だった。
明治四十二年、金田一京助は東京帝国大学の大学院でアイヌ語の研究を本格的に始めていた。北海道の開拓が進むにつれてアイヌの人々が土地を失い言語を失い固有の文化を失いつつある中で、その消えかかっている言語を記録することを自分の使命だと考えていた。言語が消えればその言語で語られてきた世界の見方が消え、世界の見方が消えれば人間の多様性が失われる。それは取り返しのつかない喪失だった。
その頃、石川啄木は東京の安下宿で、また借金をしていた。妻の節子を盛岡に残して上京し、新聞社の校正係をしながら歌を書いたが歌は売れず原稿料は雀の涙で、金を借りては返せず返せないままさらに借りた。借金の相手は主に金田一だった。金田一は断れなかった。この男の才能が本物だと知っていたからだけでなく、石川という人間そのものを愛していたから、傍若無人で金にだらしなく約束を守らないこの男を見捨てることができなかった。
ある夜、石川は金田一の下宿を深夜に訪ねてきた。顔の肉が削げて痩せており、目だけが異様に光っていた。「また迷惑をかけに来ました」「上がれ」——二人は夜明けまで話した。文学のことを話し、言葉のことを話し、アイヌ語のことも話した。石川は金田一の研究に心から興味を持ち、消えかけた言語を記録する仕事の意味を直感で理解した。
「金田一さん、あなたのやっていることは、僕の歌と同じです。消えていくものを、形にして残す。そういうことでしょう」
金田一は静かに「そうかもしれない」と言った。夜明けの光が障子を白く染め始めていた。
新しき明日の来ることを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなかりき
信じていた——啄木は本当に信じていた。貧しさの中でも、届かない夢の前でも、新しい明日が来ると信じることに嘘はなかった。その信念が二十六歳で断たれることを、この夜の啄木はまだ知らなかった。夜明けの光が広がり、啄木は帰り支度を始めた。
━━ 九 ━━
明治四十一年、米内光政は練習艦隊の航海に参加していた。太平洋を横断してアメリカ西海岸に寄港したサンフランシスコで、甲板に立って街を眺めた米内は、埠頭に積み上げられた物資の量、港を行き交う船の数、街の向こうまで続く建物の列という日本とは比べ物にならない規模の光景の中に立っていた。同じ航海に参加していた及川古志郎が「大きいですね」と言うと、米内は間を置いて答えた。「大きいだけじゃない。あの国は、まだ本気を出していない」。日露戦争でロシアが負けた時アメリカは驚かなかった、自分たちより強い国が現れたとは思わなかったからだ——米内はそう言って、港の向こうで大型の蒸気船が警笛を鳴らし白い煙が青空に溶けていく光景を見ながら続けた。「戦わないことだ」。及川はその言葉の重さをこの時には計りきれなかったが、このサンフランシスコの港での会話が長く残った。米内という人間が、単なる無口な上官ではなく、遠くを見ている人間だということを、及川はこの日に知った。
帰路、艦は太平洋を西へ向かった。ある夜、米内は甲板に一人で出た。太平洋の真ん中では星の数が違い、盛岡の夜空よりも多く大きく見えた。その星空を見ながら米内は、城址の草に寝転んで空を見ていた石川啄木という少年のことを思い、当時はほとんど読まなかったが一首だけ記憶に残っている歌があることに気づいた。やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ、泣けとごとくに——北上川の岸の柳が青く萌える春の景色が、涙を誘うように目に浮かぶという歌だった。太平洋の真ん中で故郷の川を思う——米内は盛岡の出ではなかったが、この歌の感触は分かった。故郷から遠く離れて初めて、その故郷が胸に迫る——その感触だった。艦が波を切って進み、甲板に夜の風が吹いた。
━━ 十 ━━
明治四十三年、歌集『一握の砂』が出版された。金田一の奔走によって東雲堂書店から刊行されたこの歌集は五百五十一首を収めており、前夜、石川は金田一に言った。「これが売れなければ、僕はもう歌をやめます」「売れる」と金田一は迷いなく言った。「なぜそう言い切れるんですか」金田一は、収められた一首を思い浮かべた。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
「お前の歌は、読んだ人間の手の痛みを思い出させる。そういう歌は残る」——石川はしばらく黙ってから少し笑い、「手の痛み、か」とだけ言った。
歌集はゆっくりと、しかし確実に読まれていった。野村胡堂が報知新聞に短い文章を書き、「これは単なる歌集ではない。明治という時代を生きる一人の人間の、正直な記録だ」——この文章を書きながら野村は中津川沿いの夕暮れの道を思い出し、金田一の言葉が正しかったと知った。しかし歌集が読まれ始めた頃、石川の体はすでに限界に近かった。
━━ 十一 ━━
明治四十五年四月十三日の朝、石川啄木は危篤になった。節子の呼びで金田一京助が早朝に駆けつけた時、啄木は意識を回復して会話もした。その時の会話が何だったかを金田一は後年記録していない。しかし啄木の目に意識があった、言葉が出た、それだけが残っている。大丈夫だと判断した金田一は國學院に出勤した。しかしその後容態が急変し、午前九時半ごろに啄木は死んだ。二十六歳だった。東京の借家で妻の節子と母カツに看取られた。
急報を受けて駆けつけた金田一は、石川がすでに冷たくなっているのを知り、しばらく動けなかった。この男が泣くのを傍にいた者は初めて見た。アイヌ語の研究者として名を上げ始めていた金田一が、石川一という男の前では、いつまでも盛岡中学の先輩という感触は消えなかった。城址の草の上で半身を起こして「書かずにいられないんです」と言った少年の顔が目の裏に浮かび、その顔が冷たくなった顔と重なった。米内光政はこの年すでに海軍の将校として艦上にいた。訃報を聞いて口を閉じた。それから「そうか」と言った。石川の歌を読んでいたかどうかは分からないが、盛岡で過ごした少年時代に城址の石垣の下に寝転んでいた同窓の少年のことは、記憶の隅にあっただろう。板垣征四郎はこの年、陸軍の将校として中国大陸への赴任準備をしており、訃報が届いたかどうか記録にない。
郷古潔は三菱重工業の工場でこの日も図面を広げていた。夕方、同僚が新聞を持ってきた。盛岡中学の後輩が死んだ、二十六歳、肺結核——郷古は記事を読んでから図面に視線を戻したが、城址の草に寝転んで空を見ていたあの生意気な少年のことは覚えていた。自分はこれから何十年も働く、しかしあの男は二十六歳で終わった——どちらが正しい生き方かは、答えの出ない問いだった。ただ確かなのは、あの男の書いたものは残り、自分の図面は実現されれば消えるということだと、郷古は工場の外で鳴る汽笛を聞きながら外套を羽織った。
盛岡では、岩手山が変わらず北西の空に立っていた。颪が吹き、不来方城の石垣の下の草が春の光の中で青く揺れた。かつてそこに寝転んでいた少年は、もういなかった。
しんと寝て居れば、障子の向ふより
はるかの空に
鳴る雷かな
啄木が最晩年に書いた歌で、病床に伏したまま障子の向こうの空を聞いていたこの男の最後の世界は、見えない空の音だけだった。
━━ 十二 ━━
野村長一は報知新聞の社会部でこの訃報を受け取り、一度だけ目を閉じてから原稿用紙を出して短い記事を書いた。書きながら、及川が「面白い後輩がいる」と言って連れてきた日のことを思い出した。最初の瞬間から石川啄木という少年は生意気で先輩に対する遠慮というものがなかったが、言葉への執着だけは本物で、野村はすぐにそれを見抜いていた。
記事を書き終えて窓の外を見ると、東京の春の空が明るかった。あの生意気な少年がもういないという事実と、その明るさが不釣り合いだった。及川は今ごろ艦上でこの報を聞いたか——金田一はかつて、歌は残ると言っていた。その歌を残し続けるのは、書いた本人がいなくなった今、生きている者の役目だと野村は思った。
啄木の葬儀は質素だった。金田一が費用を工面し東京での文学仲間が数人集まったが、盛岡からは誰も来られなかった。棺を前にして弔辞を頼まれた金田一は書けなかった。書き始めるたびに言葉が嘘くさく感じられた——この男の前では飾った言葉が通じない、生きている時からそうだったし死んでも変わらなかった。金田一は最終的に、弔辞の代わりに啄木の歌を一首だけ読んだ。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
読み終えて、金田一は頭を深く長く下げた。
(第一章 了)
第二章 遠雷
https://note.com/long_dietes7789/n/nb610327f17af
【連載小説】啄木の知らない戦争
本シリーズはマガジンにまとめています。
全五章+終章です。
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