啄木の知らない戦争|第二章 遠雷
━━ 一 ━━
啄木の死から一年余り後、妻の節子も死んだ。夫の死の床での看病を続けた疲労ともともと患っていた結核が重なり、大正二年五月、節子は函館で息を引き取った。二十五歳だった。死の前の数ヶ月、節子は啄木の遺稿の束を抱えて盛岡の実家を出て故郷の函館へ向かい、枕元には大正元年六月に出版されたばかりの『悲しき玩具』と原稿用紙の束が置かれていた。家族が何度か片付けようとしたが節子はそれを望まなかった。汚れて角が折れた原稿用紙を時々手に取り、しばらく眺めてから枕元に戻した。
節子の父は、娘がこの借金だらけで職の定まらない男と所帯を持つことを最後まで反対した。しかし節子は聞かなかった。その節子が今、夫の後を追うように死んでいく——正しいとか間違いとかいう言葉が、この事実の前に届かなくなっていた。東京で報を受けた金田一は、あの歌集を手元に置いて逝ったことを知りながら、節子のことを思った。借金と病気と貧困の中で、それでも啄木を信じ続けた女の生涯を。節子が啄木を愛したのは、才能への盲目的な傾倒ではなかった。あの男の言葉の中にある正直さを愛したのだと、金田一は思っていた。正直に書く、それだけを貫いた男の隣に、最後まで立っていた女だった。
一冊は世に出した。残された歌を世に残し続けることが、啄木への義務だと金田一は思ってきた。しかし今は違う気がした。節子への義務でもある——金田一は、まだ手元に残る遺稿の整理を続けた。
盛岡では、岩手山が変わらず北西の空に立っていた。秋の颪が、城下の屋根を渡っていた。
━━ 二 ━━
金田一が遺稿を整理して刊行にこぎ着けた『悲しき玩具』は、時代が明治から大正へ移る中で、少しずつ読者を広げていった。野村が報知新聞に書いた書評の「生前に十分に評価されなかったこの歌人の言葉が、今こそ読まれるべき時が来た」という言葉は、書きながら野村は少し照れくさかった。中津川沿いの道で金田一に言われた言葉を、自分が今、証明しようとしている。
歌集は売れた。工場で働く人間が読み、農村の教師が読み、軍の下士官が読んだ。
内務省の社会局で工場法の施行や労働問題の調査を担当していた田子一民が、二年前に出た『一握の砂』を手に取ったのも、その頃だった。啄木という名前は盛岡中学の後輩として知っていたが、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」という一首を読んだ時、田子はその場に立ち尽くした。自分が毎日机の上で眺めている貧困の数字の向こうに、この歌が書かれていた。貧困は統計ではない。一人の人間の、ぢつと手を見る、という身振りだった。田子は歌集を閉じて書類に向かったが、「ぢつと手を見る」という言葉がその夜も頭から離れなかった。
━━ 三 ━━
大正二年の夏、金田一京助はアイヌのユーカラ語り部のワカルパを北海道の紫雲古津から東京に招いた。盲目の老人で、「虎杖丸の曲」という長大な叙事詩を口承で語り継いでいた。旅費と滞在費は知人から借り、一ヶ月の滞在中に金田一はワカルパの語りを毎日筆録し続けた。
老人が語る時、部屋の空気が変わった。日本語でも中国語でもない、北の島で何百年も海と山の前で積み重ねられてきた言葉の音が、東京の借家の四畳半の空気を満たした。金田一は一文字も漏らすまいとローマ字で写し続けた。何時間も語り続けるワカルパの声には疲れがなかった。長老たちの声の中に積み重なってきたものが、この老人の体を通して流れ出ていた。消えかかっている言葉の最後の形を、この一ヶ月で写し取らなければならない——金田一は手首が痛んでも書き続けた。
一ヶ月の後、ワカルパは故郷に帰った。帰りの途中でチフスが発生したという知らせが届き、ワカルパは村人一人ひとりに祈祷を行った後に自らもチフスに倒れ、その年の十二月に死んだ。金田一がその知らせを受けたのは年が明けてからだった。机の上の写し取られた原稿——ローマ字で書かれた数千行の語りがそこにあり、語った者はもういない。言葉だけが残った。これが言葉の仕事の本質だと、金田一はこの冬に確かめた。言葉を残す、語った者がいなくなっても言葉は残る、残った言葉はいつか誰かに届く——その確信が、金田一の仕事の根拠になった。
━━ 四 ━━
啄木をめぐる時間が静かに流れていく一方で、同じ校庭から出た男たちは、それぞれの場所で時代の中へ歩み出していた。大正九年、郷古潔は三菱重工業の中堅幹部になっていた。工場の増設計画を立案し技術者の育成に取り組んでいたが、技術を持つ者が最終的に勝つという確信が仕事の基本にあった。三鬼隆はこの頃まだ東京帝国大学の学生で、大正十二年に卒業して田中鉱山に入った。最初の配属は室蘭製鉄所だった。力で抑えるのではなく、信頼で動かす——その原点は室蘭の現場で働く者たちと向き合う中で作られ、三鬼という人間の経営の核心となっていった。金田一はアイヌ語辞典の編纂を続け、啄木の歌集は少しずつ読まれていった。盛岡の書店で東京の書店で時々手に取られ、「はたらけど」の歌が疲れた人間の口の端に上った。啄木本人はもういなかったが、言葉は生きていた。
━━ 五 ━━
大正十年、新渡戸稲造はジュネーブにいた。国際連盟の事務次長として連盟の実務を担い、日本という国が世界の一員として信頼される道筋を自分が作るという、『武士道』を英語で書いた時から追い続けた夢の具体的な形の中にいた。
しかしジュネーブの執務室で書類を読みながら、新渡戸はしばしば窓の外のレマン湖を見た。湖面は季節によって色が変わった。夏は青く、秋は灰色がかり、冬は鉛色になった。その色の変化を見るたびに、新渡戸は盛岡の中津川を思った。湖と川という違いはあるが、水の動きが似ていた。水は黙って流れる。人間の都合など関係なく、ただ流れ続ける。新渡戸はその単純な事実に、時々慰められた。
しかし大国のエゴが連盟の決定を歪め、アメリカは参加せず、日本と中国の間に摩擦の火種が育っていくのを、新渡戸は感じていた。それでも諦めなかった。諦めれば、ここへ来た意味がない。
大正十三年、アメリカで排日移民法が成立した。日本人の移民を事実上禁じるこの法律に国内で激しい反発が起きると、新渡戸はワシントンで一つの法律が二つの国のすべてを決めるわけではないと説いたが、聴衆の顔に以前のような柔らかさがなかった。自分が信じていることと、それを相手に信じさせることは違う。どれほど確信を込めて語っても、聞く側の心が閉じていれば言葉は届かない。新渡戸はその違いを、この年に初めて肌で感じた。
昭和四年、世界恐慌が来た。工場が閉まり、農村が疲弊し、失業者が街に溢れた。「はたらけど、なほわが生活楽にならざり」という啄木の歌が書かれたのは二十年前だったが、その言葉がそのまま昭和四年の日本の実情を言い表していた。困窮した人間たちは答えを求め、その答えを最も単純な形で与えたのは軍だった。
大正十年にジュネーブへ渡って以来、新渡戸稲造は日本とヨーロッパの間に橋をかけ続けた。盛岡の校庭で語った「誇りを正しい方向に使ってほしい」という言葉の延長線上に、この仕事はあった。言葉を積み上げれば国家と国家の間に道が開けるという確信を、新渡戸は六十代になっても持ち続けていた。
ジュネーブで、新渡戸は日本からの手紙を読んだ。金田一から来る手紙は、研究の近況と啄木の歌集がどう読まれているかを丁寧に書いてよこした。出淵から来る手紙は、簡潔で、しかし行間に焦りがあった。野村からは来なかった。野村胡堂という男は、手紙を書く人間ではなかった。
返事を書きながら、新渡戸は盛岡を思った。自分があの校庭で語った言葉が、後から来る少年たちの中に根を張っているはずだと。獅子内、板垣、米内——名前も顔も知らぬ後進たちが、いつかそれぞれの場所で仕事を始める。自分がここで積み上げていることが、いつかあの土地から出た者たちの仕事と繋がると、新渡戸は信じていた。信じることしか、この男にはできなかった。そしてその信念が、最後まで、この男の背骨だった。
━━ 六 ━━
大正十三年、田子一民は故郷の岩手から衆議院議員選挙に出馬した。
内務省の三重県知事を辞して政界に転じた。原敬が凶刃に倒れた後、盛岡の選挙区から原の遺志を継ぐ者として立った。しかし相手が悪かった。原の死後に政友会総裁となった高橋是清が、同じ選挙区から出馬してきた。大政党の総裁と、政界新人の元官僚の一騎討ちだった。
結果は四十七票差だった。田子の敗けだった。
残念会の席で、田子は言った。
「敗れた日は、勝つ日の第一日である」
誰かが笑った。笑いながら、その場にいた者は皆、田子の顔を見た。負け惜しみではなかった。この男は本気でそう思っている、と分かった。
盛岡の土地で、田子は育った。盛岡の士族の家に生まれ、父を早くに亡くし、苦学して東京へ出た。その土地が、高橋是清という大物を担いで、自分を落とした。しかし田子は盛岡を恨まなかった。盛岡は正直なのだ、と田子は思った。強い者を選んだだけだ。次は自分が強くなればいい。
金田一京助はこの報を東京で聞いた。田子という男の名前は、盛岡中学の時から知っていた。苦学して官界へ進み、今度は政界へ転じた。負けても「勝つ日の第一日」と言える男だった。啄木には、そういう強さがなかった。あるいは、そういう強さを必要としなかった。どちらが正しいかではない。ただ二人は、まるで別の生き方をした。同じ教室から、まるで別の方向へ歩いていった。
━━ 七 ━━
大正十五年の暮れ、大正天皇が崩御し昭和が始まった。その年、米内光政は海軍少将として、板垣征四郎は陸軍大佐として中国各地の情報収集に当たり、及川古志郎は海軍省の中枢に入り、野村胡堂は報知新聞の社会部で日本の政治の動きを毎日追い、出淵勝次は外務省の局長に、郷古潔は三菱重工業の重役に、三鬼隆は日本製鐵の幹部として鉄鋼業界の中枢に食い込み、金田一京助は大学教授として後進を育てながらアイヌ語辞典の編纂を続けていた。盛岡中学を出た者たちが、それぞれの場所で、それぞれの頂点に近づいていた。
その頂点から見える景色は、それぞれに違っていた。米内にはアメリカとの関係悪化が、板垣には満州という大地が、野村には言論の自由が少しずつ狭まっていく気配が、出淵には軍部の暴走を止める言葉がまだ届くかどうかという問いが、郷古と三鬼には軍の発注が増えていく数字が、金田一には言葉が消えていくことへの焦りが、それぞれに見えていた。同じ盛岡の校舎で育ちながら、彼らが見ている地平は完全に違っていた。昭和という時代が、静かに、しかし確実に、その歯車を動かし始めていた。
━━ 八 ━━
昭和二年、板垣征四郎は関東軍の参謀として満州に赴任した。奉天の駅に降り立った板垣は、大きく息を吸った。盛岡とも東京とも違う、乾いた広大な大陸の空気が肺に入った。満州は広かった。地平線まで続く平野、凍てつく冬の風、点在する集落——日本の本州が丸ごと入ってしまうような大地がここにあり、板垣はこの広さを見るたびに腹の底から何かが湧き上がるのを感じた。この大地を日本のものにしなければならないという確信は、欲望ではなく、板垣にとって疑いようのない使命だった。
しかし赴任して間もなく、満州の現実の複雑さが見えてきた。商人、農民、満鉄の社員が入り込み、中国人住民との軋轢があり、ソ連の影響力が北から迫り、張学良率いる中国軍が南から圧力をかけていた。板垣はこの複雑な状況を一つの方向に整理しようとした——日本が主導権を握る、それ以外の選択肢がこの男には見えなかった。石原莞爾という切れ者の参謀と組み、満州の地図を頭に叩き込みながら、どこに兵を置けば全体が制せられるか、どのタイミングで動くかという計画が具体化されていった。
━━ 九 ━━
昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外の柳条湖で爆発が起きた。満州鉄道の線路が吹き飛び、関東軍はこれを中国軍の仕業と断定して直ちに軍事行動を開始した。しかし爆発を仕掛けたのは関東軍自身で、板垣征四郎と石原莞爾が綿密に計画した謀略——これが満州事変の始まりだった。
板垣はこの夜、奉天の司令部で地図に向かい、部下から報告が入るたびに赤鉛筆で印をつけた。計画通りに動いていた。計画の一つひとつを板垣は何ヶ月もかけて積み上げてきた。しかし計画が現実に変わる瞬間の、あの静かな確認の感触——それは積み上げてきたすべてが正しかったという確認ではなく、後戻りできない一点を超えたという確認だった。盛岡の校庭を出てから三十年以上、信じることと走ることを一つにしてきたこの男が、この夜の地図の赤鉛筆の動きの中に自分の全生涯を賭けていた。正しかったかどうかは歴史が決める——しかしその言葉を口にする前に、この夜の赤鉛筆は動いていた。関東軍は独断で動いており、東京の陸軍中央も政府も知らなかったが、板垣はそれを承知の上で動いた。やるかやらないか——決断の本質はその二択に還元され、正しいかどうかを考える時間はなかった。地図の上ではすべてが計算通りだった。しかし地図の外で何が起きているか——奉天市街の民間人がどこへ逃げているか、中国軍の将兵が何を思いながら銃を持っているか——そこまでは、地図には描かれていなかった。夜の満州に、砲声が響いた。
板垣は地図を見たまま、盛岡の校庭を思ったかどうか、分からない。獅子内が白球を追っていた夕暮れの校庭を。米内が窓の外を見ていた廊下を。城址の草の上で歌を書いていた石川啄木を。
分からない。しかし、砲声は止まらなかった。
━━ 十 ━━
東京では、野村胡堂が報知新聞の社会部長として号外の準備をしていた。関東軍が動いたという報が入ると編集局は沸いたが、野村は冷静でいた。冷静でいることが、この時の野村には精一杯だった。「満州に正義の鉄槌」という見出しを「関東軍、奉天を制圧」に直すと記者が不満そうな顔をし、翌朝の朝刊にはまた別の見出しがついていた。上が変えた。野村はその朝刊を手に取ってしばらく見てから机の引き出しに入れた。
書いてよいことと、書いてはならないことの境界線を野村はこの日から意識し続けることになる。嘘ではない、しかし本当でもない、その隙間に今日の朝刊はある——その隙間が、これから広がっていくのか、それとも自分の気にしすぎなのか。引き出しに入れた朝刊を、その後取り出すことはなかった。
━━ 十一 ━━
ジュネーブでは、新渡戸稲造が満州事変の電報を読んで翌朝から各国外交官の問い合わせに答え続けた。日本政府は事態を拡大しないと声明を出していたが現地では関東軍が独走しており、その乖離を新渡戸も各国の外交官も知っていた。かつて盛岡中学の講堂で語った、誇りを正しい方向に——その言葉が今、どういう形で使われているかを思いながら、新渡戸はレマン湖が朝の光の中で色を取り戻していくのを執務室の窓から見た。この湖畔に来るたびに、盛岡の北上川のことを思い出した。川は流れ続ける、流れることで川は川でいられる。橋をかけ続けることで自分は自分でいられる——そういう確かめ方を、新渡戸はジュネーブの朝ごとにしていた。外套を羽織って湖畔を歩こうと廊下に出たが、秘書が十二件の面会要請を告げた。「一時間後から始める」と言って、湖畔を歩く時間は消えた。湖畔を歩く代わりに面会を重ね、面会を重ねるたびに日本とヨーロッパの間の溝が一ミリずつ深くなっていく速さを体で測った。測りながらも橋をかけようとする——それがこの男の仕事であり続けた。溝の深さを正確に測ることが橋をかける最初の一歩だと、新渡戸は信じていた。盛岡の校庭で語った言葉の続きを、ジュネーブの冬の中で毎朝確かめていた。
━━ 十二 ━━
米内光政はこの時期、海軍中将として満州事変の地図を広げ、ソ連との国境線と海軍の作戦計画を確認した後、最も深刻に考えたのは別のことだった。関東軍が独断で動き、政府の意思を無視したことが通ってしまえば次は何が起きるか。軍が政府を無視して動く前例ができた。その前例は取り返しのつかないものだった。「陸軍はやりすぎた」と海軍省の廊下で同僚に言うと、「権益を守ることと独断で戦争を始めることは違う」という米内の言葉に相手は黙り、米内もそれ以上言わなかった。言っても無駄だと思ったのではなく、自分の考えを正確に伝える言葉をまだ持っていないと思ったからだった。
廊下を歩きながら、米内はサンフランシスコの港を思った。若い頃、及川と並んで甲板に立ち、あの国の大きさを見た。あの国は、まだ本気を出していない、と言った。今、関東軍が満州で動いた。アメリカはその報をどう聞いているか。驚いていないだろう、と米内は思った。驚く必要がない。自分たちが動く前に、相手が動いてくれた。そう見ているかもしれなかった。
精神だけでは、弾は止まらん。板垣に言った言葉が、今も自分の中にあった。しかし今、弾を止める精神がある者が、弾を止める場所にいない。それが、この時代の問題だった。
出淵勝次は外務省で頭角を現した外交官で、言葉で国と国の間を渡り歩くことを仕事にしてきた男だった。昭和五年から八年まで、駐米特命全権大使として在ワシントン日本大使館の長を務めた。大使着任の時、ポトマック川の朝の光を窓から見ながら、外交とは言葉の仕事だと思った。その確信はワシントンの六年間を通じて変わらなかったが、言葉が届く条件というものがあることを、この六年間で出淵は深く学んだ。相手が言葉を聞く気持ちがある時に初めて言葉は届く、その気持ちを作り出すことが外交官の仕事の半分だった。排日移民法への対応では、法律は変えられなかったが、少なくとも法律の背後にある感情を少しだけ変えることに努めた。日本への偏見が一つひとつの人間の偏見の積み重ねでできているなら、一人ひとりと話し続けることが唯一の方法だった。出淵はワシントンの社交の場で多くのアメリカ人と話した。政治家、官僚、学者、新聞記者——誰と話しても日本について誤解があり、出淵はその都度丁寧に正確に説明した。その積み重ねが外交だった。
駐米大使として満州事変への対応に当たっていた出淵勝次は、ワシントンで連日アメリカ側の抗議を受けながら、関東軍の独断行動を外交の言葉でどう説明するかという不可能に近い仕事をしていた。言葉を積み上げれば道は開けると信じてきたが、現地の軍が無視すればその言葉は宙に浮く——その現実を、この満州事変で初めて肌で知った。
━━ 十三 ━━
昭和八年二月、前年に出されたリットン調査団の報告書をもとに、国際連盟総会が満州国の建国を不当と認め日本の撤兵を求める勧告案を採択した。賛成四十二、反対一——反対したのは日本だけで、松岡洋右全権代表が演説台を降りて会議場を出た後、廊下で新渡戸と行き合った松岡は「先生、日本は孤立しました」と言い、新渡戸は「孤立したのではない、自ら出て行ったのだ」と答えた。松岡は口を結んだまま新渡戸の横を歩き、廊下に二人の足音だけが響いた。その夜新渡戸は日記に書いた。「我々の世代がなすべきことは、もはや残っていないかもしれない。しかし言葉を残すことは、できる」
その年の秋、新渡戸稲造はカナダへ渡った。太平洋問題調査会の会議に出席するためで、七十一歳の体には長距離の旅が重かったが、日本と欧米の間に橋をかける仕事はまだ終わっていないという確信がこの男を動かし続けていた。ビクトリアの会議場で演説した新渡戸は、日本と中国と欧米の間には理解の回路が必要だと述べ、その回路を作ることを自分の生涯の使命として語った。盛岡の校庭で自分の話を聞いていた少年たちが今それぞれの場所に立っている——その少年たちが動かしている世界の動向を、この演説台から新渡戸は遠く見渡した。しかし会議場の顔には、以前のような柔らかさがなかった。日本が連盟を脱退した後の空気の中では、橋を架けようとする言葉よりも橋を壊そうとする力の方が強かった。
十月十五日、ビクトリアの病院で新渡戸稲造は息を引き取った。臨終の言葉は「日本のために祈る」だったと伝えられている。七十一歳だった。カナダで死んだ時、新渡戸の手元にあったのは、盛岡の石を一つと、ボロボロになった『武士道』の原稿だった。
訃報が東京に届いた日、金田一京助は大学の研究室でアイヌ語辞典の原稿を机の上に広げた。啄木が死に節子が死に今度は新渡戸先生が死んだ——言葉を大切にした人間が一人ずつ消えていく、そういう時代が来ているのかもしれないと思いながら、消えかかっている言葉を記録する仕事を続けた。新渡戸先生が残した言葉があるように、アイヌの言葉も残さなければならない。金田一は机に向かい、また一語を書き取った。野村胡堂は報知新聞の夕刊で訃報を読み、新渡戸先生が盛岡で語った言葉が今もどこかに生きているかどうかを考えた。あの講堂で聞いた者たちの中に生きている——そう思いながら、野村は記事を書き終えた後、長い時間、窓の外を見ていた。自分は今、何をしているか。信じたことを貫いているか。勝った側に媚びていないか。答えは、出なかった。ワシントンで駐米大使を務めていた出淵勝次は、新渡戸先生が三十年かけて築いたものが音を立てて崩れていくと感じ、自分にできることは何かという問いをこの日から毎朝自分に向けるようになった。
━━ 十四 ━━
この頃、盛岡では宮沢賢治がすでに死んでいた。
昭和八年、賢治は三十七歳で死んだ。啄木より十一年長く生きたが、やはり若すぎる死だった。岩手という土地は、天才を早く召す。盛岡の人間は、そう言い合った。
金田一京助は賢治の死を、複雑な気持ちで聞いた。
啄木と賢治。同じ岩手から生まれた二人の天才が、どちらも若くして世を去った。啄木は国家の熱狂とは無縁に、一人の人間の哀しさを書いた。賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と書いた。どちらも、時代の流れとは違う方向を向いていた。
金田一は、二人の違いをよく考えた。
啄木は都市にいた。東京の貧困の中で、借金をして、食えなくて、それでも歌を書いた。賢治は農村にいた。花巻の土の上で、肥料の研究をして、農民を助けようとして、病気になった。どちらも自分の場所で、自分の言葉で、正直に生きた。しかし二人が向いていた場所は、全く違っていた。啄木は「私」に向かい、賢治は「世界」に向かった。
どちらが正しかったか、という問いを金田一は自分に向けなかった。その問いに意味がないことは分かっていた。しかし二人が早く死に、自分がまだ生きていることの意味は、考えずにいられなかった。
時代の流れとは違う方向を向いている人間が、早く死んでいく。金田一はそう思った。そして自分はまだ生きている。なぜ自分が生き残っているのか。その問いに、金田一は答えを持っていなかった。
ただ仕事を続けた。アイヌ語辞典の原稿を書き続けた。言葉を残すことが、自分にできる唯一のことだった。
こころみに秋にむかひて目を閉ぢむ
見ゆるものなし
寂しきのみかな
啄木が書いたこの歌を、金田一は時々口ずさんだ。秋に向かって目を閉じると、何も見えない。ただ寂しいだけだ。しかし目を閉じても、啄木の言葉は残っている。言葉だけが、時代を超えて残る。金田一はそう信じていた。その信念が、この男を支えていた。
━━ 十五 ━━
昭和十一年二月二十六日、東京に雪が降った。未明から降り始めた雪の中を、陸軍の青年将校たちが部隊を率いて動いた。首相官邸、陸軍省、警視庁、国会議事堂周辺が次々と占拠され、高橋是清蔵相と斎藤実内大臣が殺された。青年将校たちはこれを「昭和維新」と信じており、純粋だった——純粋であるほど、人は残酷になれる。
号外を出すために夜明け前に呼び出された野村胡堂は、編集局の窓から外を見た。雪はまだ降り、道に人影はなく、東京がしんと静まり返っていた。三十年前に盛岡の校庭で白球を追っていた少年たちが今や権力の中枢にいる、その権力が今夜暴走した——新聞記者として書けることと書けないことがあり、書けないことの方が真実に近かった。郷古潔は自宅で、財閥という言葉が自分に刺さるのを感情的になることなく現実として受け取りながら、夜が明ければ工場は動くと計算し、計算しながら眠れなかった。東京の本社にいた三鬼隆は夜の執務室でこの報を聞いた。昭和十三年に釜石製鉄所の所長として赴任するまでの三鬼は東京本社の労務課長として勤務していたが、かつて室蘭の現場で労働者と直接向き合った年月があった。炉の前に立つ者たちを知っていたから、東京がひっくり返るほどの夜であっても、釜石の炉は今夜も止まらずにいるはずだと、三鬼は思った。現場を知っている者だけが持てる信頼だった。
━━ 十六 ━━
米内光政は二・二六事件の報を受けると、海軍の動向を確認してから東京湾に艦船を集結させ砲口を陸に向けよという命令を出した。脅しだった。やるかやらないか——米内という人間は、言葉よりも先に体で動く。体が正しいと知っているなら、それ以上の根拠を必要としなかった。四日間、反乱部隊は首相官邸周辺を占拠したまま動かなかったが、東京湾の艦船の砲口の向きは変わらなかった。その事実が陸軍内部に「海軍は本気だ」という認識を広げ、四日後に反乱は鎮圧された。
この事件で米内は一つのことを確信した。陸軍の中に暴走を止める力がない、外から止めるしかない。そしてその外とは、海軍であり政府であり最終的には天皇だった。いつかまた陸軍が暴走する、その時のために今から準備しておかなければならない。海軍省の廊下で立ち止まった及川古志郎は、あの命令を自分は出せたかと問いながら、臆病なのか慎重なのか組織の均衡を壊すことへの恐れなのか、分からないことが多すぎた。
━━ 十七 ━━
二・二六事件のあと、陸軍の発言力はいっそう強まり、言論への締め付けが厳しくなった。新聞社に軍の担当者が来て記事の内容について「要望」を伝えるようになった。要望という名の命令だった。野村胡堂は報知新聞の編集局相談役になっていた。
若い記者が陸軍の大陸政策を批判する原稿を持ってきた。筋は通っており事実だったが、野村は「直せ」と言った。書き直されて批判の部分が消え軍の方針を「やむを得ない判断」と評価する一文が入った原稿を受け取り、「出せ」とだけ言った。若い記者が出て行った後、野村は窓の外を見た。満州事変から五年、日本の新聞の空が少しずつ低くなっていた。
野村はデスクの引き出しから原稿用紙を出し、銭形平次の話を書き始めた。政治も軍も関係ない江戸の庶民の世界を書いた。書きながら、現実の圧力が届かない場所を作っているのかそれとも現実から逃げているのか、その問いへの答えは出なかった。答えを出すことより、書き続けることの方が先にあった。
━━ 十八 ━━
昭和十四年六月三日、赤坂の料亭に、盛岡中学の教え子たちが集まった。冨田小一郎という数学の教師を囲む謝恩会で、八十一歳になった老教師の周りに海軍大臣・米内光政、陸軍大臣・板垣征四郎、衆議院副議長・田子一民、国語学者・金田一京助、三菱重工業社長・郷古潔、作家・野村胡堂が並んだ。翌朝の新聞が「陸海両相らが日本一の謝恩会、啄木を叱った翁、入京」と伝えたのは、三国同盟を巡って水面下で激しく対立していた陸軍大臣と海軍大臣が同じ座敷で笑顔で並んでいたからだった。
座敷の入り口で米内と板垣が顔を合わせた時、板垣が先に「光っつぁん」と呼んだ。米内は「征っこさん」と答えた。盛岡で先輩後輩として過ごした二人が、閣議室では言葉を選びながら向き合い、この座敷では旧来の呼び名で話した。政治的立場も思想も異なる二人が、同郷の先輩後輩という紐帯だけで繋がっていた。その紐帯は細かったが、切れなかった。
老教師の冨田は白い髭をたくわえ、盛岡から汽車で上京してきた。八十一歳の体には長旅が重かったが、教え子たちが呼んだなら行かなければならないと思っていた。座敷に入った時、かつての少年たちの顔がそれぞれの年齢を纏って並んでいた。米内は五十九歳、板垣は五十四歳、金田一も五十七歳になっていた。盛岡の校庭で叱り飛ばしていた少年たちが、今日は大臣であり学者であり作家だった。それでも冨田の目には、あの頃の顔が重なって見えた。
冨田という教師は生徒を厳しく叱ることで知られ、その髭が山羊に似ているというので「山羊先生」と呼ばれていた。金田一が啄木の歌を口にした。
よく叱る師ありき
髭の似たるより山羊と名づけて
口真似もしき
笑いが起き、板垣も笑い、米内も珍しく顔をほころばせた。野村胡堂が「啄木は先生に何度叱られたか分からん、しかし先生のことをちゃんと歌にしていた」と言い、冨田老師は「あの子は困った生徒だったが、言葉だけは誰より鋭かった」と答えた。盛岡の校庭にいた少年たちが、この夜だけそれぞれの肩書きを脱いだ。
料理が続く中で、冨田老師が静かに言った。「お前たちは皆、盛岡の土から出た。どこへ行っても、その土は体の中にある。それを忘れるな」——その言葉が座敷に落ちた後、しばらく誰も口を開かなかった。米内は盃を持ったまま動かなかった。板垣は箸を置いた。金田一は老師の顔を見ていた。郷古は数字を頭から追い出して、盛岡の土の色を思い出そうとした。野村は翌日書く記事のことを考えていたが、この言葉だけは手帳に書かないことにした。
しかし笑いが収まると座敷の空気はすぐに変わった。翌朝になればまた国策を巡る攻防に戻る二人が、同じ部屋にいながら別の世界にいた。この夜が最後かもしれないという感触を、座敷にいた全員がどこかで持っていた。最後とは言わなかった。言わないまま、それぞれ帰路についた。
野村胡堂はその夜の様子を、後に短く書き残している。「恩師の前では皆、少年に戻った。しかし少年のままでいられる時間は、短かった」
金田一は帰り道、啄木の一首を思い出した。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
えらくなることと、正しくあることは、別のことだ——この夜の座敷にいた者たちは皆それを知っていた。しかし知っていても、時代の流れは止まらなかった。
歩きながら、金田一の思いは座敷の光景に戻った。盛岡を出た人間たちが、それぞれの場所でそれぞれの仕事をしている。海軍大臣と陸軍大臣が同じ座敷で「光っつぁん」「征っこさん」と呼び合い、老教師の前で少年の顔になる——その光景が金田一には、盛岡の校庭の颪が東京の夜風の中に混じり込んだように感じられた。どれほど遠くへ行っても、根の部分は動かない。根があるから遠くへ行ける、遠くへ行くから根の深さが分かる——啄木が城址の草の上に寝転んで空を見ていた少年だったことを、この夜の金田一は改めて思い出した。あの少年が書いた歌が今も人の口に上るということと、この夜の座敷で笑いが起きたこととは、同じ根から来ていると感じた。盛岡の土が育てたものは、形を変えながら生き続けている。
野村胡堂は人力車の中で煙草を一本吸った。報知新聞に長く勤めた人間として、今夜のような席は記事にならないが記録には残すべきことが多いと感じていた。同郷の先輩後輩が大臣の座敷で旧名で呼び合い、老師の言葉に沈黙する——その沈黙の意味を書けるかどうかは別として、あの沈黙があったという事実は、自分の胸の中に残しておくことにした。
━━ 十九 ━━
昭和十四年、ヨーロッパで戦争が始まった。ドイツがポーランドに侵攻して電撃戦でフランスを制圧すると、日本の陸軍は今がチャンスだと色めき立った。ドイツと同盟を結べ、東南アジアの英仏植民地を手に入れろ、石油を確保してアメリカを牽制しろ。前陸軍大臣の板垣征四郎はこの動きを強く後押しした。ドイツが勝てば日本はドイツと組んで世界を二分できる、今動かなければ後悔する——その論理に陸軍の多くが乗った。
海軍大臣として正面から反対した米内光政は五相会議の席上で言った。「ドイツが最終的に勝つという保証はなく、アメリカが参戦した場合はドイツが負ける可能性が高い、その時日本はどうなるか」と米内は言った。陸軍側の大臣が「アメリカは参戦しません、国内の孤立主義が強すぎる」と言うと、米内は「今は、そうかもしれない」とだけ言って黙った。「今は」という二文字が誰の耳にも引っかかったが、誰もその先を言わなかった。
野村胡堂は社会部長として五相会議の動きを取材し、政府と陸軍の対立が激化して米内海相が三国同盟に反対していることを把握しながら、新聞にどこまで書けるかという線引きと毎日格闘していた。ある夜、一人残った編集局の窓から夜の東京を見ながら、野村は啄木という男の正直さを強く意識した。書かずにいられないんです、と言った少年——今、その少年と自分をつないだ及川が、三国同盟へと傾いていこうとしている。盛岡の校庭から引き継がれてきた長い時間の糸が、この夜の東京の編集局まで繋がっていた。
━━ 二十 ━━
昭和十五年一月、米内光政に組閣の大命が下り、海軍大臣を務めたこの男が今度は総理大臣となった。天皇の信任は厚かったが、陸軍は当初から非協力の姿勢で臨んだ。
昭和十五年七月、米内内閣は総辞職した。陸軍が陸相を引き上げ後任を出さないという憲法の抜け穴を使った内閣潰しだった。辞表を提出した後に執務室に一人残った米内は、盛岡の夏に似た入道雲の湧く夏の空を見た。精神だけでは、弾は止まらん——自分で言った言葉が自分に返ってきたが、終わったとは思わなかった。陸軍はまた動く、その時に備えなければならない。
同じ月、及川古志郎が海軍大臣に就任し、前任の米内が頑として拒み続けた三国同盟を最終的に飲んだ。陸軍の圧力は限界を超えており海軍単独で抗い続ければ組織が壊れるという判断だったが、それは言い訳だったかもしれなかった。組織の連続性を守ることが長い目で見れば国を守ることだという確信からきていたのか臆病だったのか、及川自身にもその判断の根拠を言葉にする方法が見つからなかった。
昭和十五年九月、日独伊三国同盟が調印された。
いのちなき砂のかなしさよさらさらと
握れば指のあひだより落づ
啄木がこの歌を書いたのは三十年前のことだったが、三国同盟が調印されたこの秋、盛岡の校舎から出た者たちの胸にこの歌の空気が漂っていた。この時代の空気が、誰の指の間からも零れ落ちていた。
━━ 二十一 ━━
昭和十六年、内閣情報局が設置された。新聞、ラジオ、映画、出版——すべての情報を一元的に管理するこの組織は「指導」という言葉を使い、検閲とは言わなかったが意味は同じだった。野村胡堂のもとにやってきた若い官僚は丁寧な言葉遣いで、しかし目の奥が笑っていなかった。封筒に入った「お願い」には、戦況の批判的な報道を控えること、軍の人事に関する憶測記事を書かないこと、政府の方針と相反する見解を掲載しないことと書いてあった。要するに、本当のことを書くな、ということだった。
野村はその紙を引き出しにしまって原稿用紙を取り出し、銭形平次の話——江戸の市井を生きる人間の話を書き続けた。本当のことを書けない時代に、書けることだけを書く。江戸を舞台にした物語の中では誰も封筒を持ってこなかった。それが野村にとっての抵抗の形だった。抵抗と呼ぶには静かすぎたかもしれないが、書き続けることをやめないという一点だけは、この男の中で動かなかった。
地図の上朝鮮国にくろぐろと
墨を塗りつつ
秋風を聴く
━━ 二十二 ━━
金田一京助のところにも、人が来た。
大学の研究室を訪ねてきたのは、文部省の役人だった。アイヌ語の研究について、「お話を聞かせてほしい」と言った。丁寧な来訪だった。しかし金田一には、その丁寧さが何を意味するか、すぐに分かった。
役人は言った。内地の言葉の普及が国策として重要になっている。内地語、つまり日本語を、植民地や占領地に広めることが求められている。アイヌ語の研究者として、その方向での協力をお願いできないか。
金田一はしばらく黙っていた。
研究室の窓から、大学の構内が見えた。学生が数人、急ぎ足で歩いていた。木々の葉が秋の色に変わりかけていた。
「私の仕事は、消えかかっている言葉を記録することです」と金田一は言った。「広めることではありません」
役人は笑顔のまま言った。
「しかし先生、消えゆく言葉に執着することが、国の大きな方針と合うかどうか、ご再考いただければと思います」
その「ご再考」という言葉の重さを、金田一は受け取った。
役人が帰った後、金田一はしばらく窓の外を見ていた。大学の構内では、学生たちがもう見えなかった。葉が落ちかけた木々が、薄い光の中に立っていた。
役人の問いを、金田一は裏返した。国の方針が、消えゆく言葉と合うかどうか。答えは明らかだった。合わない。日本語を広めることが国策なら、アイヌ語を記録することはその逆方向を向いている。役人はそれを、丁寧な言葉で言いに来た。
しかし金田一には、止める理由がなかった。
アイヌ語辞典は、半分以上できていた。ここで止めれば、残りの言葉は誰も記録しない。老いたアイヌの長老たちは、あと何年生きられるか分からない。長老が死ねば、その言葉も死ぬ。死んだ言葉は、二度と戻らない。
金田一はアイヌ語辞典の原稿を机の上に広げた。もう話す人間のいない言葉が、そこにあった。
金田一は原稿に向かった。書き続けた。
それだけが、この男にできることだった。
━━ 二十三 ━━
帰国後、出淵は貴族院議員として国内から外交の推移を見ていた。昭和十六年の秋、日米交渉が最後の局面に入った頃、出淵は貴族院の委員会で発言した。ワシントンで六年間積み上げてきた経験から、アメリカという国家が本気で戦争に踏み込んだ場合の国力差を、できる限り正確に説明した。聞いている者の顔が変わらなかった。聞こえているが動けないという顔だった。言葉は届いた、しかし届いた先で何も動かなかった——それが出淵の知っている外交の限界と同じ形をしていた。
委員会の帰り道、出淵は廊下を歩きながら、盛岡の校庭を思った。新渡戸先生が言っていた。信じたことを貫かずに、勝った側に媚びることが恥だ、と。自分は今、何をしているか。言葉を積み上げることが信念か。それとも、すでに不可能と分かっていることに言葉を重ねているだけか。答えは出なかったが、出淵は翌日も委員会に出た。発言を続けた。聞く者の顔は変わらなかったが、それでも、言葉を置き続けることしか、この男にはできなかった。
その日、開戦の報をラジオで聞いた出淵は、かつて自分が積み上げた言葉の一つひとつが今日この砲声の中に消えていくのを感じた。言葉が消えても言葉を積み重ね続けた者がいたという事実は消えない——出淵はそれだけを確かめてから、ラジオの前を離れた。
━━ 二十四 ━━
米内らと同じ岩手の出である陸軍少将・小野寺信がストックホルムの武官室にいたのは、この頃だった。中立国スウェーデンは東西の情報が交差する場所で、小野寺はその情報の流れの中に立ちドイツの実態とソ連の動向と連合国の意図を読み取ろうとしていた。昭和十六年の夏にドイツがソ連に侵攻すると、小野寺は二正面作戦のドイツはいずれ連合国側に立つソ連に敗れアメリカの参戦は時間の問題でそうなれば三国同盟を結んだ日本は世界中を相手に戦うことになると判断し、詳細な電報を東京に打ったが返電はなかった。返電がないことが、返答だった。見えているものを正確に書くことをやめずに電報を打ち続けながら、受け取る側がどう動くかは自分が決めることではなかった。ストックホルムの白樺の葉が少しずつ黄色くなり始める秋の空の下で、この空の向こうでヨーロッパ中が燃えているという現実と、自分が打つ電報が誰にも届かないという事実が、小野寺の中で重なっていた。
━━ 二十五 ━━
米内光政は表の役職から離れた後も、開戦を避けるために動ける人間に会い言葉を尽くしたが、その言葉が届く場所が月を追うごとに狭くなっていった。同年十月に東条英機が首相になった日、米内はこれで開戦は避けられないと知り、しかし知った上で、戦争を止められなかったが戦争を終わらせることはまだ誰かがやらなければならないという役目を、静かに引き受けた。
三国同盟を飲んだことへの悔恨を抱えて第一線から退いていた及川古志郎は、米内に短い手紙を書いた。近況と読んだ本のことを書き、政治のことは書かなかった。書けなかったのではなく、書く必要がないと思った——米内には書かなくても分かることがあり、この男はいつも短く簡潔な返事をよこした。その簡潔さの中に、待っている、ということがあった。戦争が始まった後に誰かが終わらせなければならない、その時のために今は力を蓄えている——及川にはそれが分かった。分かるということが、この時期の及川の唯一の慰めだった。
━━ 二十六 ━━
大正八年に満洲から帰国した獅子内は、大正十年に盛岡中学の野球指導者に迎えられ、同校を甲子園のベスト8まで導いた。その後は国鉄に転じ、仙台、そして盛岡の運輸保線事務所で野球部の監督を務め、山田線の上盛岡駅長として着任してからも構内の花壇にダリアを植え続けた。駅のホームに季節ごとにダリアが咲くため、地元の人たちは獅子内を「ダリア駅長」と呼んだ。球を投げる男が、晩年は花を育てる男になった。競技かるたの全国選手権で横綱の番付を得た繊細さが、ダリアの色の選び方に出ていたかもしれない。
昭和十三年、腰椎炎に罹り、以後は床につきがちになった。昭和十六年の春、盛岡中学の野球部から召集される者が出始めた頃、獅子内はすでにグラウンドに出られない日が増えていた。それでも体の動く日は杖を持って球場の端まで歩き、練習の様子を遠くから見ていた。ある日の夕方、練習を終えた三年の選手が「先生、試合を見に来てください」と言いに来た。獅子内は「行く」と言ったが、行くことはできなかった。
その年の十月二十九日、獅子内謹一郎は盛岡で死んだ。五十七歳だった。太平洋戦争の開戦まで、あと四十三日だった。盛岡の野球を育てた男は、戦争が始まる前に死んだ。「俺はずっとここで球を投げる」と言った少年が、最後まで盛岡にいた。
━━ 二十七 ━━
昭和十六年十二月八日、日本はアメリカに宣戦した。ハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋に戦争が始まった。盛岡の街に号外が配られたその朝、上盛岡の駅構内にはダリアの枯れた茎が残っていた。開戦の熱狂を、獅子内謹一郎は見ずに済んだ。
その朝、野村胡堂は早朝の電話で叩き起こされた。真珠湾、という言葉が電話口から来た。編集局に着いた時には号外の準備が始まっており、活字を組む音が早く、足音が速く、電話を切る音が鋭かった。野村は外套を脱がずに机に座り、届く原稿を整理しながら、今日から何かが変わったという感触を静かに受け取っていた。始まった、ではなく、変わった——日本の戦争が太平洋に出た、その意味の大きさを測りながら、しかし測れないものが残ることを感じていた。
野村胡堂は編集局で号外を出した。真珠湾、マレー沖、フィリピン——連戦連勝の報が次々に入り編集局が沸く中で、野村は声を上げなかった。勝っている間は書けることが増える、しかしいつか勝てなくなる時が来る、その時自分は何を書くか——その問いを自分の中にしまって、今夜の号外の輪転機が回るのを見た。金田一京助は大学の研究室でラジオを聞いてから机に戻り、アイヌ語辞典の原稿に向かった。
盛岡では岩手山が変わらず北西の空に立ち、颪が吹いて不来方城の石垣の下の草は冬の中で枯れており、かつてそこに寝転んでいた少年はもう三十年いなかった。しかしその少年の言葉は、この国のどこかで、まだ誰かの口の端に上っていた。ふるさとの山に向ひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな——その少年はそう詠んでいた。
板垣征四郎が、その夜どこにいたか、記録は残っていない。満州で、中国で、南方で、板垣はこの戦争の様々な戦場に立つことになる。しかしこの歌を思い出したかどうか、分からない。板垣は、盛岡の山を懐かしんで立ち止まる人間ではなかった。
米内光政は、その夜も動いていた。戦争が始まった。しかし米内の頭の中では、すでに次のことが動き始めていた。この戦争を、どう終わらせるか。始まった戦争の出口を、米内は開戦の夜から探し始めていた。それを誰かに言う必要はなかった。ただ仕事をするだけだった。
秋風よ情けあらば伝えてよ
男ありて
今日も仕事はせしと
啄木が書き残したこの歌を米内が知っていたかどうか、記録がない。しかし開戦の夜に灯りの下で一人仕事を続けたこの男の姿は、この歌が言っていることと同じ形をしていた。功績を語らない。ただ今日も仕事をした——それだけを秋風に伝えてほしいという啄木の歌が、この夜の米内の執務室に似合った。
━━ 二十八 ━━
郷古潔と三鬼隆は、この時期、別の場所で別の現実を見ていた。三菱重工業の社長だった郷古は、昭和十八年に東條内閣の顧問に就任した際、総帥・岩崎小彌太に無断で決めたとして社長を解任され閑職の会長に降格されていたが、その立場のままで空母を作れ戦闘機を作れ潜水艦を作れという軍からの命令に近い発注を受け続けており、現在の生産能力と資源の備蓄で何ヶ月戦争を続けられるかという計算を何度も繰り返し、答えは毎回同じだった。しかしその計算を口に出さなかった。口に出すことで失うものの方が失わないものよりはるかに多いこの時代に、見えているものを言葉にする場所がなかった。日本製鐵の幹部として釜石の製鉄所から出る鉄が艦船になり砲弾になり戦車になる流れを知りながら、鉄は国家なりという言葉の意味が重くなっていくのを感じていた三鬼隆は、何のための鉄かを問い続けながら炉を止めなかった。郷古と三鬼が盛岡の土から出た同窓として会う機会は多くなかったが、会うたびに二人は数字の話をした。郷古が経営の数字を出し、三鬼が生産の数字を出し、二人でその整合性を確かめた。感情の交換は少なく数字の交換が多かったが、それが二人の盛岡からの続き方だった。同じ土から出た同窓が今それぞれの場所で同じ時代を生きているという事実が二人の仕事の底に流れており、それを言葉にする必要はなかった。盛岡の颪は今も吹いている——二人はそれだけを確かめ合えば、他の言葉はいらなかった。
(第二章 了)
第三章 鳴動
https://note.com/long_dietes7789/n/na06dfebf248d
【連載小説】啄木の知らない戦争
本シリーズはマガジンにまとめています。
全五章+終章です。
次週土曜日20:00更新予定です。
フォローしていただけると更新を追えます。
よろしければフォローしてご覧ください。
https://note.com/long_dietes7789/m/mc8c90ca2ec70
他の作品
【短編連作】華と修羅が日常 — PRパーソンの告白
https://note.com/long_dietes7789/m/med124fa32fff
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