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【創作大賞2026応募・第四幕】音域戦線〜下心ヒロインと、絶対音感な俺〜

【あらすじ】
日野翔太は、親に無理やり通わされているピアノ教室で、幼馴染である柏木桜の玉砕を見届けていた。桜は絶世の美女だが、玉の輿を狙う下心100%の残念な性格。さらに「テロ対策」と称して、常に重さ20キロの電子ピアノを背負い歩く奇人でもあった。
講師への告白に失敗し、傷心の桜を慰めるため、二人は行きつけの家系ラーメン屋へ向かう。しかし、そこで翔太の退屈な日常は崩壊する。「楽器」を改造した音響兵器を操り、不協和音の魔法を放つテロリスト集団が本当に襲撃してきたのだ。桜はケースから戦闘用ショルダーキーボードを取り出し、翔太を守るために立ち向かう。
かつて「世界を守るヒーロー」に憧れる中二病だったが、現実に絶望し、冷笑的なゲーマーとして生きてきた翔太。だが、必死に戦う桜を前に、彼は自分も戦うことを決意する。向かいの楽器店に駆け込み、最強の武器として「ソプラノリコーダー(プラスチック製)」を調達。魔法の覚醒を信じて吹き鳴らすも、出たのは情けない雑音だけで、テロリストに腹の底から嘲笑されてしまう。
だが、その屈辱で怒りが爆発した翔太は覚醒する。格闘ゲームで極めた「フレーム理論」と「動体視力」を駆使し、敵の不可視の魔法攻撃をミリ単位の間合い管理で完全回避。魔法攻撃に頼りきりで接近戦が隙だらけのテロリストたちを、強靭なリコーダーを用いた「純粋な物理打撃」で次々とぶん殴り、見事に制圧してしまった。
魔法の才能はゼロだが、圧倒的な物理(フィジカル)の才能で窮地を救った翔太。桜はその「フォルテシモ(物理)」の力を見込み、自身が所属する対音響兵器特務機関『協奏楽団(コンチェルト・オーケストラ)』への入隊を持ちかける。実は彼らが通うピアノ教室の地下こそが、その秘密基地だったのだ。
冷めた日常を捨て、ふざけたヒーローとして生きることを決めた翔太。下心と物理暴力が交錯する、前代未聞の音楽バトルラブコメディがここに幕を開ける。

文化祭編 第1話
 西園寺先生――いや、かつて隣のバイオリン科の講師であり、今は敵対組織『不協和音(ディスコード)』の幹部として立ち塞がったあの狂気の音楽家との死闘から、数日が経過していた。
 グランド・ミュージックスクールの地下深くに存在する、我らが対テロ組織『協奏楽団(コンチェルト・オーケストラ)』の総本部。
 無機質なコンクリート打ちっ放しの空間に、今日はとても穏やかで、どこか神秘的なピアノの旋律が響き渡っていた。
「……っ、痛っ」
「動かないでください、師匠。まだ細胞の結合(リジェネ)が完全に終わっていませんから」
 俺、日野翔太は、地下室の隅に置かれた簡易ベッドの上で、上半身裸のまま渋面を作っていた。
 西園寺の放った重力系旋律の余波は、俺の想像以上に身体を蝕んでいたらしい。打撲や切り傷といった表面的な外傷だけでなく、全身の筋肉繊維が悲鳴を上げている状態だった。あれだけの無茶をして、リコーダー一本で重力の壁を粉砕したのだ。代償がない方がおかしい。
 そんな俺の身体を癒してくれているのが、この楽団の心臓部にして後方支援係(バッファー)の結衣だ。
 彼女は、少し離れた場所に置かれた魔導ピアノを指先で優しく叩きながら、同時に俺のすぐ傍に寄り添い、直接ガーゼと湿布を患部に当ててくれている。ピアノから発せられる治癒のバフ効果を乗せた旋律が、淡い翠色の光となって俺の身体を包み込み、ジンジンとした痛みを嘘のように引かせていく。
「それにしても、結衣のバフはすげえな。さっきまで腕を上げるのもキツかったのに、もうゲーセンのレバーくらいなら余裕で回せそうだ」
「師匠の基礎体力(フィジカル)が異常なだけです。普通の人なら、あの重力波を掠っただけでも全治三ヶ月のデバフがかかります」
 結衣は無表情に近い顔つきだが、その声には確かな安堵と、少しの得意げな響きが混じっていた。
 あの防音室でのゲーム大会を経て、彼女はすっかり俺のことを「師匠」と呼ぶようになってしまった。対テロ組織の先輩に向かって格ゲーのフレーム理論を叩き込んだ結果がこれである。
「はい、包帯巻きますね。少し持ち上げます」
「お、おう……悪いな」
 結衣が身を乗り出し、俺の背中に腕を回して包帯を巻きつける。
 その瞬間、彼女のシャンプーの甘い香りと、小柄で華奢な身体の体温が至近距離から伝わってきた。
 長い前髪の隙間から見える、真剣な眼差し。普段はダボダボのパーカーを着て猫背でゲームばかりしている彼女だが、こうして至近距離で見ると、息を呑むほど整った顔立ちをしている。
(いやいや、落ち着け俺。相手は後輩で、弟子みたいなもんだろ)
 俺は視線を明後日の方向に逸らし、必死に平常心を保とうとした。
 俺はただの、ゲーセン通いのしがない高校生だ。こんな美少女に至近距離で看病されるなんていうラノベみたいなシチュエーション、耐性があるわけがない。
 その時だった。
 ガチャンッ!!
 地下室の入り口であるエレベーターの扉が開き、けたたましい足音が響き渡った。
「翔ちゃん! 結衣ちゃん! 聞いてよ、私ね、ついに新しい特注品の武器を――」
 元気よく飛び込んできたのは、俺の幼馴染であり、この楽団の前衛アタッカーである柏木桜だった。
 相変わらず背中には、彼女の体ほどもある巨大な電子ピアノのハードケースを背負っている。
 だが、桜の言葉は途中でピタリと止まった。
 彼女の大きな瞳が、ベッドの上にいる俺と、俺に覆い被さるような体勢で包帯を巻いている結衣の姿を捉えたのだ。
 客観的に見れば、ただ手当てをしているだけの光景だ。だが、結衣の顔が俺の胸元にかなり近い位置にあったこともあり、少しばかり……いや、かなり際どいアングルに見えなくもない。
「…………」
 桜の表情から、スッと感情が抜け落ちた。
 いつもなら「ちょっと翔ちゃん! 結衣ちゃんに何セクハラしてんのよ!」と大声で騒ぎ立てるか、「私も高年収のイケメンに看病されたい!」と的外れなことを叫ぶはずだ。
 だが、今の桜は、一言も発さなかった。
 ドスン、と。
 背負っていた巨大な電子ピアノケースを、わざとらしく床に落とす。重低音が地下室に響いた。
「あ、桜さん。お疲れ様です。今、師匠の手当てが完了したところです」
「……そ。お疲れ様」
 結衣が淡々と報告すると、桜は短く答え、ツカツカと無言で歩き出し、俺たちから一番遠いソファにドカッと腰を下ろした。
 そして、腕を組み、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「えっと……桜?」
 俺が恐る恐る声をかけると、桜はちらりとこちらを睨みつけた。
「なに」
「いや、なにって……なんか怒ってるか?」
「怒ってない。別に」
「でも、なんか機嫌悪そうじゃん。もしかして、あれか? 俺がこの前の戦いでリコーダー壊したから、また新しいの買わされるんじゃないかって警戒してるのか? 安心しろよ、次はダイソーで百円のやつ自分で買うから」
 俺が気を利かせたつもりで言うと、桜の眉間のシワがさらに深くなった。
「……そういう、翔ちゃんの人の気持ちが絶望的に分かってない鈍感なところ、昔から本当にイライラする」
 冷たい声。
 俺は思わず息を呑んだ。
 桜のあんな表情、見たことがなかった。
 ガキの頃から一緒にいて、泣いた顔も、笑った顔も、欲にまみれた浅ましい顔も散々見てきた。だが、今の彼女は、そのどれとも違った。
 唇を尖らせ、少し寂しそうに、それでいて明確な『嫉妬』のような感情を瞳に揺らしている。
 正直に言おう。
 いつもは残念な幼馴染が、そんな顔をした瞬間。不覚にも、俺の心臓はいつもと違うリズムで跳ねてしまった。
(いやいやいや、嫉妬って。誰に? 俺に? ないない)
 俺はすぐにその思考を脳内から打ち消した。
 相手はあの柏木桜だ。「年収一千万以上のイケメンじゃなきゃ恋愛対象外!」と豪語する女だ。俺みたいな、将来の展望ゼロのゲーマーにヤキモチを焼くなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
 たぶん、自分が怪我してないから結衣にチヤホヤされなくて拗ねてるか、今日のおやつのプリンを俺が先に食べたのを根に持っているかのどちらかだろう。
「ほら、翔ちゃん。早く服着なよ。みっともない」
「お、おう。悪かったな」
 桜が投げつけるように言った言葉に、俺は慌ててジャージを羽織った。
 結衣だけは、そんな俺と桜のやり取りを、どこか観察するような、静かで意味深な眼差しで見つめていた。
 こうして、西園寺戦の傷跡は癒えていった。
 俺たちはまだ知らない。
 この地下の秘密基地の中だけで完結していたはずの非日常が、俺の『日常』を、これほどまでに派手に侵食してくることになるとは。
       ***
 それから数日後。
 俺の通う『県立青海高等学校』は、一年で最も浮き足立つ時期を迎えていた。
 学園祭――通称『青海祭』まで、あと一ヶ月に迫っていたのだ。
「いいかお前ら! 今年の我が二年B組の出し物は、『お化け屋敷風メイド喫茶』に決定した! 衣装係と内装係、今日から放課後は残って作業だ!」
 ホームルームの時間。教壇に立つ熱血漢の担任が、黒板をバンバンと叩きながら叫ぶ。
 教室中が「おおーっ!」という歓声と、一部の男子の「メイド! メイド!」という野蛮な雄叫びに包まれる。
 俺は教室の一番後ろ、窓際の席で、頬杖をつきながらその狂騒を眺めていた。
 平和だ。
 つい先日まで、重力波で圧死させられそうになりながらプラスチックの笛でテロリストをぶん殴っていたのが嘘のようだ。
「なあなあ、日野。お前も聞いたか? あの噂」
 前の席のクラスメイト、田中の奴が、興奮した様子で身を乗り出してきた。
「噂?」
「今日、うちのクラスに転校生が来るらしいんだよ! しかも二人! 両方とも女子で、超絶美少女らしいぜ!」
「へえ……」
 俺は気の抜けた返事をした。
 学園祭の直前に転校生ね。漫画やラノベならイベントの引き金になる定番の展開だが、現実の俺にとっては、作業の人数が二人増える程度の認識しかない。
「しかもだぞ!」田中はさらに声を潜める。「他校の奴からの情報なんだけど、その転校生たち、わざわざこの学校に転校してきた理由が、『この学校にいる、大好きな男の傍にいるため』らしいんだよ!」
 その言葉に、周囲の男子たちがワッと群がってきた。
「マジで!? 誰だよそのラッキーボーイ!」
「うちのクラスにそんな奴いたか?」
「少なくとも、日野じゃねえよな〜。毎日ゲーセン入り浸って、いつも眠そうな顔してるし」
「違いない。日野は二次元かゲームのキャラとしか恋愛できねえよな!」
 男子たちがゲラゲラと笑う。
 俺も「まあ、そうだな」と、全く気にする様子もなく苦笑いで頷いた。
 実際、俺には縁のない話だ。俺の脳内のリソースは、格ゲーのフレーム計算と、最近加わった「どうやって物理で魔法を殴り倒すか」という狂った思考で完全に埋まっている。恋愛だの何だのにうつつを抜かしている余裕はないのだ。
「となると、やっぱり……あいつしかいないよな」
 田中の視線が、教室の中心へと向けられた。
 そこには、男子数人と女子のグループに囲まれ、爽やかな笑顔で談笑している一人の男子生徒がいた。
 坂浦晴哉(さかうら はるや)。
 実家は県内有数の名家で太く、容姿はアイドルのように端麗。スポーツテストは常に学年トップで、テニス部の次期部長候補。おまけに性格も温厚で、誰に対しても分け隔てなく接する。
 神様がステータスを振り分ける際、明らかに彼にだけ贔屓して全ポイントをつぎ込んだとしか思えない、完全無欠のハイスペック男子だ。
「やっぱ坂浦か〜。あいつなら、他校の美少女が転校してまで追いかけてきても不思議じゃねえよな」
「くそっ、イケメン爆発しろ。でもあいつ良い奴だから憎みきれねえんだよな……」
 周囲の男子たちが悔しそうに呻く。
 俺も、窓の外の雲を見つめながら(坂浦ならあり得るな)と漫然と考えていた。
 あの幼馴染の柏木桜でさえ、もし坂浦の存在を知れば、間違いなくターゲット(狩りの対象)としてロックオンするだろう。「年収! 家柄! 顔面偏差値!」と叫びながら巨大なピアノケースを背負って突撃していく桜の姿が、容易に目に浮かぶ。
 俺とは住む世界が違う人間だ。
 ガラッ。
 教室のドアが開き、担任が再び入ってきた。
 教室が一瞬で静まり返る。
「よし、お前ら席につけ。さっきから騒がしいと思ったら、もう噂は回ってるようだな」
 担任が教卓に立ち、ニヤリと笑う。
「今日から、お前らの新しい仲間になる二人だ。入ってこい!」
 担任の合図とともに、ドアがゆっくりと開かれた。
 教室中の視線が、一斉にそこへ集中する。男子たちは息を呑み、女子たちは興味津々に目を輝かせている。
 俺も、暇つぶし程度に視線を向けた。
 そして。
 俺の心臓は、文字通り「ドクンッ!!」とありえない音を立てて跳ね上がった。
「え……」
 教室に入ってきたのは、確かに二人の女子生徒だった。
 青海高校の、見慣れた紺色のブレザーの制服に身を包んでいる。
 一人は、腰まで届く艶やかな黒髪を揺らし、モデルも裸足で逃げ出すような抜群のプロポーションを誇る、釣り目がちの美少女。
 もう一人は、長い前髪で目元を隠し気味にした、小柄でどこかミステリアスな雰囲気を漂わせる少女。
「うおおおおおおっ!!」
「マジで超絶美少女じゃん!!」
「あの黒髪の子、やばい! オーラが違う!」
「ちっちゃい子も守ってあげたくなるタイプで可愛い……!」
 教室が、今日一番の爆発的な歓声に包まれる。
 だが、俺の耳にはそんな歓声は全く入ってこなかった。
 俺の脳内では、警報(アラート)がガンガンと鳴り響いていた。
(嘘だろ!? なんで!? なんでお前らがここにいるんだよ!?)
 俺は、ガタッ! と音を立てて椅子から立ち上がりそうになるのを、机の端を強く握りしめることで必死に堪えた。
 教壇に並んで立ったのは。
 俺の幼馴染にして、物理攻撃特化の残念美少女、柏木桜。
 そして、対テロ組織の天才後方支援係(ゲーマー)、結衣。
 その二人だったのだ。
「自己紹介、頼むぞ」
 担任に促され、桜が一歩前に出た。
「初めまして。今日からこのクラスでお世話になります、柏木桜です」
 凛とした声。
 その完璧な美貌と相まって、男子たちのボルテージが最高潮に達する。
 黙っていれば深窓の令嬢。その第一印象の暴力的なまでの破壊力は、俺の通う高校でも健在だった。
 だが、桜は黒板の前に立ちながら、その大きな瞳で教室中をスッと見渡し――。
 一直線に、一番後ろの窓際に座る俺を捉えた。
 そして。
 彼女は、俺に向かって、ニッコリと。
 今まで見たこともないような、優しくて、それでいて獲物を絶対に逃さないような、底知れぬ凄みを帯びた微笑みを向けたのだ。
(ヒッ……!?)
 俺の背筋に、西園寺の重力波を喰らった時よりも冷たい悪寒が走った。
 なんだあの顔。あんな慈愛に満ちた(ように見える)柏木桜なんて、バグだ。完全にホラーだ。
「……結衣です。よろしくお願いします」
 続いて、結衣がボソリと短く自己紹介をした。
 彼女もまた、前髪の隙間から教室を覗き込み、俺の姿を見つけると、微かに頬を赤らめてペコリと頭を下げた。
「よし、それじゃあ二人の席だが……」
 担任が見回す。
「柏木は、後ろの窓際、日野の前の席が空いてるな。結衣は……その隣、田中の後ろの席だ」
(終わった……俺の平和な学園生活が、終わった……!)
 俺は心の中で頭を抱え、絶望の叫びを上げていた。
 桜が、優雅な足取りで俺の前の席へと歩いてくる。
 すれ違いざま、彼女は俺にだけ聞こえるような小さな声で、囁いた。
「驚いた? 翔ちゃん。私、言ったでしょ? 『護衛』は完璧にするって」
 テロリストから俺を守るため? いや、ただ単に俺を監視……あるいは、からかうために来たに決まっている。
 結衣も隣の席に座りながら、カバンの中からアーケードコントローラーのレバーの先端がチラリと見えているのを、俺は見逃さなかった。学校に何を持ったきているんだあいつは。
「おい日野! お前、超ラッキーじゃん! 美少女二人がすぐ近くの席だぞ!」
 前の席の田中が、興奮冷めやらぬ様子で振り返って肩を叩いてくる。
「あ、ああ……そうだな。超ラッキーだわ……」
 俺は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
 周囲の男子たちは、相変わらず「絶対、あの転校生たちが追ってきたのは坂浦だぜ」「だよな、日野に話しかけるわけないし」と的外れな噂話で盛り上がっている。
 俺と桜が幼馴染であることなど、誰も知らない。俺が彼女たちの動揺で顔面蒼白になっていることにも、この鈍感なモブの友人たちは全く気づいていなかった。
 だが。
 教室の中心。
 女子たちに囲まれながらも、その輪の隙間から。
 完全無欠の黄金のステータスを持つ男、坂浦晴哉だけが。
 その爽やかな笑顔の奥にある、鋭く、冷ややかな瞳で。
 俺と、桜と、結衣の三人の間に流れる『異質な空気』を、じっと観察していた。
「……日野翔太、か」
 誰も聞こえないほどの小さな声で、坂浦が俺の名前を呟いたのを。
 この時の俺は、知る由もなかった。
 テロリストとの死闘を終えたと思ったら、今度は学園祭を舞台にした、ラブコメと陰謀が入り交じるカオスな日常の幕開け。
 俺の握りしめた拳の中には、いつでも戦えるように、新しく買い直したヤマハ製の頑丈なアルトリコーダーが潜んでいた。

文化祭編 第2話

 放課後のチャイムが、どこか浮き足立った校舎に鳴り響いた。

 学園祭まであと一ヶ月。ホームルームが終わるや否や、教室は一気に喧騒に包まれた。「お化け屋敷風メイド喫茶」の段ボール集めに走る者、衣装の買い出しの相談をする女子たち。黒板には当番表がデカデカと書き出され、誰もが非日常のイベントに向けて熱気を帯びている。

 そんな中、俺、日野翔太は、さっさとスクールバッグを肩に引っかけ、教室の裏口からひっそりと離脱しようとしていた。

「おーい翔太! 逃がさねえぞ!」

「今日こそは付き合ってもらうからな!」

 俺の背中を、けたたましい声と、両腕に絡みつく重い感触が引き止めた。

 振り返ると、そこにいたのは俺のゲーセン仲間であり、クラスでも屈指の騒がしさを誇る悪友二人――滝沢蓮斗(たきざわ れんと)と、廣崎千尋(ひろさき ちひろ)だった。

 滝沢はスポーツ刈りの日に焼けた肌をした、体力だけが取り柄の男。廣崎は少し猫背で、スマホゲームの周回をしながら器用に歩く男だ。二人とも、俺が「冷笑系無気力ゲーマー」だった頃からの、数少ない気の置けない友人たちである。

「お前、最近付き合い悪すぎだろ! 駅前のゲーセンに新しい格ゲーの筐体が入ったんだよ! 今日こそ俺の持ちキャラでお前をボコボコにしてやるからな!」

 滝沢が俺の右腕をがっちりとホールドしながら鼻息を荒くする。

「まあ、どうせまた翔太の1フレーム単位のキモい間合い管理で、蓮斗のパなした大技を透かされて確定反撃(確反)もらうオチだけどな。俺は横でそれ見て笑う係やるわ」

 廣崎がニヤニヤしながら俺の左腕を掴んだ。

 いつもなら「いいぜ、百円玉の準備はしとけよ」と応じて、夕飯の時間まで入り浸るのが俺たちの日常だった。

 だが、今の俺には、彼らの誘いに乗るわけにはいかない「裏の日常」があった。

「……わりぃ。今日はマジでパスだ。用事がある」

 俺はため息をつきながら、二人の腕を振り解こうとした。

 なんで? と二人が声を揃えて聞いてくる。

 言えるわけがない。

 今から、ついさっき転校してきたばかりの超絶美少女二人(※中身は下心全開の幼馴染と、重度のネトゲ廃人)と合流して、上品なピアノ教室の地下に隠された秘密基地に行くなんて。

 そこで、楽器を改造した音響兵器でテロを起こす狂気の音楽家集団『不協和音(ディスコード)』から世界を守るため、対策会議をする予定があるなんて。

 そんなことを口走ったら、間違いなく「ついに日野の脳が中二病の末期症状を引き起こした」と保健室に連行されるのがオチだ。

「用事ってなんだよ! 彼女でもできたってのか!?」

「まさか日野に限ってそれはない。どうせ家で一人で積みゲー崩すんだろ?」

「いや、だから……家の手伝いとか、色々あんだよ」

 俺はまともな理由を捻り出すのを放棄し、適当に誤魔化してその場から逃げようとした。

 しかし、悪友二人はしぶとかった。

「誤魔化すな! 最近放課後すぐ消えるし、なんかつまんねえぞ!」

「そうだそうだ! 遊ぼーぜ〜!! なあ〜!!」

 滝沢と廣崎が、俺の両腕に全体重をかけてぶら下がってくる。高校生の男三人で教室の後ろでワチャワチャと揉み合う姿は、はたから見ればただのじゃれ合いだが、今の俺にとっては一刻も早く抜け出したい拘束具だった。

「お前ら、重いって! 離せ!」

「離さねえ! 行くって言うまで絶対離さねえからな!」

 完全に意地になっている二人。

 俺が力ずくで振り払おうとした、その時だった。

「――人に己の願望をせがみ続けるのは、端から見てなんと情けない」

 凛とした、それでいてどこか絶対的な冷たさを帯びた声が、教室の空気を一瞬にして凍らせた。

 俺たち三人の動きがピタリと止まる。

 声の主は、教室の中心で学園祭の打ち合わせをしていたはずの男だった。

 坂浦晴哉(さかうら はるや)。

 完全無欠の容姿、圧倒的な家柄、そして誰に対しても分け隔てのない人当りの良さで、この青海高校の頂点に君臨する男。

 彼が、いつも周囲を取り囲んでいる女子たちの輪から抜け出し、冷ややかな視線を滝沢と廣崎に向けて立っていた。

「きゃー、晴哉くん、カッコいい……!」

「あんなバカ共放っておけばいいのに、態々注意しに行くなんて優しい……!」

 教室に残っていた女子たちから、黄色いざわめき声とため息が漏れる。

 晴哉は、優雅な足取りで俺たちの前まで来ると、軽蔑の入り混じった瞳で滝沢たちを見下ろした。

「他者の都合を顧みず、ただ自分の欲求だけを押し付ける。……これだから君達二人は、女子からモテないんだ」

 身も蓋もない、ストレートすぎる正論の暴力。

 滝沢と廣崎の顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤になった。図星を突かれたことへの羞恥と、学校のアイドル的存在から見下されたことへの反発。

「な……なんだよ!」

 滝沢が、俺の腕から手を離し、噛みつくように反論した。

「俺たちがモテないのは認めるけどな! でも、実家が太くて顔も良くて、生まれつき全てを持ってるお前だけには言われたくねえよ!」

 その言葉に、教室の空気がさらにピリついた。

 だが、滝沢の口は止まらない。彼は焦りからか、隣にいる俺を指差した。

「それに……それは、翔太だって同じだろ! 俺たちと同類じゃねえか!」

 巻き込まれ事故である。

 確かに俺もモテないし、ゲーセン入り浸りの無気力野郎だが、今この状況で俺をスケープゴートにするのは卑怯だぞ、蓮斗。

 俺がジト目で滝沢を見ようとした瞬間。

「……まさか」

 晴哉の声が、地を這うような低いトーンに変わった。

「蓮斗。貴様、友達をけなす気か? 己の保身のために」

 ゾクッ。

 晴哉の放った威圧感に、俺は思わず息を呑んだ。

 ただの高校生が発していいプレッシャーではない。西園寺が重力波を放つ直前に見せたような、絶対的な強者のオーラ。

 滝沢は、蛇に睨まれた蛙のように完全に硬直し、唇を震わせた。

「いや、ちが……俺はそういうつもりじゃ……」

「違わない」

 晴哉は冷酷に言い放つと、ふっといつもの爽やかな微笑みを取り戻し、俺へと視線を向けた。

「無理に引き留めるのはやめてやれ。まあ、今夜は、奴は家族と焼肉の食べ放題に行く予定があるそうだ」

「……は?」

 滝沢と廣崎がポカンと口を開ける。俺も内心、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていたはずだ。

 焼肉? 食べ放題? なんの話だ。

 俺の家は確かに今夜は親父が帰ってくるが、そんな予定は一言も聞いていない。

 だが、晴哉は一切の動揺を見せずに、悪友二人に言い放った。

「僕の言葉が信じられないのか? ……坂浦家の情報網を、舐めるなよ」

 どんだけ暇な情報網だよ。

 県内有数の名家である坂浦グループの諜報部隊が、日野家の今夜の夕食メニューをマークしているというのか。シュールすぎるだろ。

 だが、その堂々たるハッタリ(?)の前に、滝沢と廣崎は完全に気圧されていた。

「そ、そうなのか……? 翔太」

「焼肉なら、しょうがねえな……」

 二人が後ずさる。

 俺は、この絶好の逃走経路を逃す手はないと判断した。

「そういうわけだから、ごめんな。また今度、絶対奢るからさ」

 俺は二人に短く言い残し、晴哉に向かって小さく一礼した。

「……助かった。サンキュ」

 彼がなぜ俺を助けるような嘘をついたのかは分からないが、恩に着るのは確かだ。

 俺が踵を返し、教室の裏口から出ようとした。

 その時だった。

「日野翔太、聞け」

 背後から、晴哉の声がした。

 周囲の女子たちには聞こえないような、低く、押し殺したような声。

「な……なんだよ」

 俺が振り返ると、晴哉は窓辺に立ち、逆光の中でひどく冷たい瞳をして俺を見据えていた。

「お前も、俺も、いずれ……報いを受ける時が来る」

 報い。

 その単語が、呪いのように耳にこびりつく。

「それまで、己の美学や欲望の為に、生きていこうではないか」

「お…おう」

 俺は曖昧に頷くことしかできなかった。

 今日の晴哉は、いつもと雰囲気が違っていた。ただの完璧な優等生ではない。何か深く、暗いものを抱え込んでいるような……いや、同じ『裏の世界』を知っている者のような、得体の知れない気配。

 西園寺が言っていた、『不協和音(ディスコード)』の『あの方』。

 まさか。

 いや、考えるのはやめよう。今はただの考えすぎだ。

 俺は逃げるように教室を出て、人気のない旧校舎へと続く渡り廊下へと向かった。

       ***

「遅いよ、翔ちゃん」

「待ちくたびれました、師匠」

 夕日が差し込む渡り廊下の角。

 そこには、巨大な電子ピアノケースを背負って壁にもたれかかる桜と、スマホで器用に格ゲーのコンボ練習をしている結衣が待っていた。

 校内ではあんなに騒がれていた「絶世の転校生」たちも、今は俺のただの仲間だ。

「わりぃ、ちょっとクラスの奴らに絡まれててな」

 俺は頭を掻きながら、さっきの晴哉の言葉を頭の中で反芻していた。

 『いずれ、報いを受ける時が来る』。

 報い。俺が過去に犯した罪。あるいは、俺が蓋をしてきた現実。

 テロリストの妄想をして、自分はヒーローになれると信じていたあの頃。

 でも、現実は違った。

 俺は、周囲から馬鹿にされた。

 だから俺は、心に蓋をして、冷笑系無気力ゲーマーとして生きてきた。熱くなることをやめ、失う痛みに怯えながら、退屈な日常に縋り付いていた。

 でも。

「……翔ちゃん? どうしたの、難しい顔して。まさか本当は焼肉行きたかったの?」

 桜が、俺の顔を覗き込みながら、いつもの調子でからかってくる。

「師匠。もし疲れているなら、私が『精神疲労回復(マインド・ヒール)』のバフをかけましょうか?」

 結衣が心配そうに、俺の袖を軽く引いた。

 その二人の姿を見て、俺は小さく息を吐き出した。

 人は、いずれ死ぬ。

 理不尽に、突然に、終わる時が来る。俺の妹が、そうだったように。
 妹は、ある日、突然冷たくなった。
 その体温は、もう戻らなかった。
だからこそ。
晴哉の言う「報い」が何なのかは分からないが、終わりが来るのなら。

それまで、俺は、後悔なく、大好きな人達と生きていたい。

俺の右腕には、今は頑丈なヤマハのアルトリコーダーが握られている。魔法なんてなくても、物理

で殴り飛ばせる力がある。

もう、後悔はしたくない。

目の前で笑っているこいつらの日常を、俺は俺のやり方で守り抜く。

それだけだ。

「なんでもねえよ。焼肉はまた今度、お前らの金で奢らせてやる」

「はあ!? なんで私が奢る前提なのよ!」

俺は、怒る桜と、不思議そうに首を傾げる結衣に向かって、心底晴れやかな気持ちで微笑みかけた。

「行こうぜ。世界を救う会議の時間だ」

 夕焼けに染まる廊下を、俺たちは三人で歩き出す。

 文化祭の準備で騒がしい校舎の裏側で、俺たちのカオスで騒がしい戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。



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