【第一部】僕は勇者の殺し方を知っている。 イッキ見【僕の作品の最高地点】
あらすじ(というか、ネタバレ)
平穏の終わりと復讐の幕開け
雪に覆われた辺境の村に暮らす17歳の少年エミール・ハーヴェストは、恋人のマーシャと共にささやかで平穏な日々を送っていた。ある日、世界を救う希望の象徴とされる伝説の勇者ラングルドが村を訪れる。その夜、エミールは村外れで最凶の存在である「魔王」と遭遇するが、己の中に眠っていた「千年に一度の真の英雄」の魂が一時的に覚醒し、これを退ける。
しかし平穏は長くは続かなかった。翌晩、勇者ラングルドが突如として村を襲撃し、エミールの両親を惨殺する。「絶望は一度希望を持たせてから叩き落とした方が美しい」と嘯く狂気の勇者を前にエミールも殺されかけるが、突如現れたラングルドの元師匠である老剣士に救出される。老剣士から「旧勇者パーティーの3人を倒せば真相に辿り着く」と告げられたエミールとマーシャは、勇者への復讐を誓い、過酷な逃避行へと旅立つ。
「調律者」の真実と迫り来る刺客
王都を目指す道中、二人は立ち寄った古文書院などで世界の真実に触れる。かつて勇者と共に戦った英雄たちが絶望により闇に染まる「堕天」という現象。そして、勇者の不老不死を支える対の存在「調律者」の伝承である。その記述に触れた瞬間、マーシャの記憶がフラッシュバックする。実は彼女は10年前、「調律者」として命を狙われ、初恋の少年ロイドを身代わりにして処刑された過去を持っていた。現在のマーシャは、強烈な未練から現世を彷徨う霊体だったのである。
その夜、二人が滞在する宿場町を、堕天した旧勇者パーティーの狙撃手ヘンリーが超遠距離から強襲する。エミールは神速の踏み込みでヘンリーを仕留めるが、それは残る刺客である銀髪の戦士マルスと黒髪の魔法使いナターシャをおびき出す罠だった。圧倒的な力を持つ二人の前に、エミールは右腕を根元から斬り飛ばされ、死の淵へと沈んでいく。
魔王との血契と異形の覚醒
肉体が崩壊し、生死の境を彷徨う夢の世界で、エミールは亡き両親の魂と再会する。彼は現実世界で傷ついたマーシャを守り抜くため安らかな死を拒絶し、父から提示された「魔王との契約」という禁忌の手段を選ぶ。夢の狭間で「いつか私を殺しに来て」と告げる幼いマーシャの幻影とすれ違いながら、エミールは魔王の領域へ至る。そして、残された寿命のすべて(猶予はわずか10日間)と右腕を代償に魔王と血の契約を交わし、漆黒の鱗と紫色の瘴気を放つ悪魔の右腕を持った「復讐の修羅」として現世に蘇生する。
虚無の勝利と悲劇の連鎖
新たな仲間である空間魔法使いエリオットに救助され、廃病院で身を隠していたマーシャたちの前に、再びマルスとナターシャが立ち塞がる。魔王の力を得たエミールでさえ、マルスの絶対防壁の前に苦戦を強いられる。エミールを救うため、マーシャは自らの身を削り、世界の理を書き換える禁忌の聖魔法「ロストエデン」を発動する。
絶対防壁を粉砕する光の奔流がマルスを襲うが、その瞬間、ナターシャが自ら肉の盾となり、彼を庇って絶命する。最愛の者を失った絶望と悲しみがショック療法となり、マルスを縛っていた勇者の洗脳(堕天の呪縛)が崩壊する。正気を取り戻したマルスは自らの罪を悔い、戦意を喪失する。しかし、復讐に燃えるエミールにはそれが隙にしか見えず、魔王の力を込めた刃でマルスの心臓を無慈悲に貫いてしまう。
マルスは悲劇の連鎖を断ち切る希望を少年に託し、安らかに息絶える。両親の仇を討ったエミールだったが、その胸に残ったのは達成感ではなく、ただ重く冷たい虚無感だけであった。残された10日間という寿命の中で、悪魔の力を宿したエミールは狂気の勇者へと肉薄していく。
第一話
アントニウス歴1765年12月。
吐く息すらも一瞬で凍りついてしまいそうな、白銀の世界。見渡す限り一面の雪に覆われた僕たちの村に、この世界を救うとされる「勇者」がやって来た。
「勇者様だ!!勇者様がやって来たぞ!!」
「勇者様!!どうか、どうか握手してください!!」
「俺も!!俺も握手をお願いします!!一生の宝にします!!」
「私も!!」
「僕も!!」
村の広場は、狂乱とも言える熱気に包まれていた。普段は寒さに身を縮めて静かに暮らしている村人たちが、まるで何かに憑かれたように声を枯らし、押し合いへし合いしながら一人の人物へと群がっている。分厚い防寒具を着込んだ人々の熱気で、そこだけ雪が溶け、白い湯気が立ち上っていた。
そんな喧騒を少し離れた場所から眺めながら、僕、エミール・ハーヴェストは、冷めた息を一つ吐き出した。
勇者に群がる群衆の多さと、夏の夜にランタンの火へ群がる羽虫の多さ。そこに見事なまでの共通点を見出していたのだ。
つまり、どちらも「光り輝いているように見える、なんか凄そうなもの」に向かって、思考を放棄して群がっているだけにすぎない。それが、17年の短い人生で培われた僕の人生哲学だった。
もちろん、実際のところはそんなに単純な話ではないと分かっている。魔物の脅威に怯えるこの世界において、「勇者」という存在がどれほどの希望であるか。彼らがすがるような思いで手を伸ばす気持ちも、理解できないわけではない。
だが、それでも。雪を踏み荒らし、我先にと群がる人々の姿は、僕の目にはただただむさ苦しく映った。
——くだらない。
そう心の中で毒づきながら、僕は広場に背を向けた。こんな冷やかしに時間を割いている暇はない。今日は冬祭りの日だ。家に帰って、屋台の準備を手伝わなければならない。
家に着くやいなや、休む間もなく親の怒声に似た歓声が飛んできた。
「エミール!遅いぞ、早く手伝ってくれ!」
我が家が冬祭りで出すのは、熱々のポテトフライの屋台だ。大量のジャガイモの皮を剥き、均等に切り分け、油の温度を調整する。単純だが重労働だ。
だが不思議と、嫌な感じはしなかった。冷え切った手に伝わる油の熱気や、香ばしい匂い、そして両親と交わす他愛のないやり取り。それらは、僕にとってかけがえのない平穏だったからだ。
それに、今のこの手伝いは、普段の生活に比べれば幾分か楽だった。1週間前まで、僕は片道10キロ弱離れた高等学校まで、毎日徒歩で通っていたのだ。雪に足を取られながら、魔物の脅威に怯えながらの通学に比べれば、暖かい火のそばでの作業など遊びのようなものだった。
夕方になり、ようやく屋台の設営と下準備が終わった。
「父さん、母さん。用事があるから、少し出かけてくるよ」
そう伝えると、両親は「祭りが始まる前には帰ってこいよ」と笑って送り出してくれた。
重い木製の扉を開け、再び外の白銀の世界へと足を踏み出す。
まず全身を襲ったのは、刺すような異常な寒さだ。吐く息は降りしきる雪に溶け込むように真っ白になり、背筋は当然のように凍りつく。まつ毛に付いた雪が瞬きをするたびに凍り、視界を白く縁取る。
まあ、慣れたことだ。
僕が生まれてこの方、ずっとこの寒々しい村で生きてきたのだから。
しかし、親の話によれば、どうやら25年前まではこれほど過酷な環境ではなかったらしい。むしろ、この王国の中でもかなり温暖な地域だったというのだ。今の刺すような吹雪を顔面に受けながらでは、到底信じられない話だった。王国全体が寒冷化しているという噂もあるが、真偽は定かではない。
ただ一つ確かなことは、こんな「寒さごとき」を気にしている弱者は、この世界では生きていけないということだ。
何故なら、人間の居住区である村を一歩でも出れば、そこは理不尽な暴力が支配する領域だからだ。
「ギュピィィィィィィィィィ!!!!!」
耳をつんざくような、不快な鳴き声。
村はずれの道を歩き、とある大切な人と待ち合わせている海辺の灯台へと向かっていた僕の前に、当然のようにそれは現れた。
体長は人間の大人ほどもある、巨大な鳥型の魔物。鋭い嘴と、血に飢えたように爛々と輝く赤い瞳。薄暗い雪景色の中で、その異形の姿はひどく浮いていた。
魔物は僕の姿を認めるなり、威勢だけは良く大声を上げて威嚇してきた。雪を巻き上げながら羽ばたく様は、一般人であれば腰を抜かすほどの迫力だろう。
しかし、僕は冷静だった。防寒着の奥、常に腰に帯びている剣の柄に静かに手をかける。
チャキッ、と鋭い金属音が鳴り、剣の切っ先を空に向けて軽く振るう。それだけで、僕が放った魔力と殺気に当てられたのか、鳥型の魔物は少し怖気づき、後ろにのけぞった。
「悪いけど、僕は今からデートに行くんだ」
僕は剣を構えたまま、氷のように冷たい声で魔物に語りかけた。
「それに、一日中屋台の設営をしていて疲れてる。悪いことは言わないから、邪魔しないでくれるかな…?」
「ギュピ……!」
一瞬怯んだ魔物だったが、すぐに本能が理性を上回ったらしい。
「ギュピィィィィィィィィィィィィ!!!!!!」
再び狂ったような鳴き声を上げ、猪突猛進の構えで僕の目の前に向かって一直線に突っ込んできた。
まあ、仕方ないか。
低級魔族ごときに、人間の言葉や事情が通じるわけがないのだ。
「じゃあ、死ね」
僕は低く呟き、雪を蹴った。
学校に通う道中で幾度となく繰り返してきた、慣れた手さばき。突っ込んでくる魔物の軌道を紙一重で躱し、すれ違いざまに剣を一閃させる。
刃は魔物の硬い羽毛を容易く切り裂き、その強靭な翼を根元から切断した。
「ギァァァァァッ!!?」
魔物は醜い悲鳴を上げ、バランスを崩して雪の上に転がった。片翼を失い、雪を鮮血で染めながら、無様に逃げようと足掻く。
だが、その隙を僕が見逃すはずがない。僕はタイミングを合わせ、空高く跳躍した。
「逃さねえよ」
重力に身を任せ、落下する勢いを利用して、魔物の脳天へと剣を真っ直ぐに突き立てた。
硬い頭蓋を砕く鈍い感触。魔物の巨体はビクンと一度大きく跳ね、そしてすぐに動かなくなった。雪の上に、黒どす黒い血が広がっていく。
僕は剣を引き抜き、雪で血の汚れを拭うと、何事もなかったかのように再び歩き出した。
その後は特に魔物に遭遇することもなく、僕は待ち合わせ場所である海辺の灯台へと辿り着いた。
そこは村から少し離れた高台にあり、夜空に揺らめくオーロラが最も美しく見える場所だった。
雪明かりと星明かりの中、既に人影が一つ、ポツンと立っていた。
分厚いコートに身を包んでいても分かる、華奢で柔らかなシルエット。僕の恋人であるマーシャだ。僕が声をかけるより早く、足音に気づいた彼女が振り返り、花が咲くような笑顔を見せた。
「あ。エミール!お疲れ様、待ってたよ!!」
「ごめん、待たせたね。マーシャ。……相変わらず、君は綺麗だね」
「もう、急に何言ってるの?……へへ、でも嬉しいな」
少し頬を赤らめて微笑むマーシャに、僕はからかうようにウインクをしてみせた。だが、寒さで顔の筋肉が強張っていたのか、そのウインクがどうにも不格好だったらしく、マーシャはこらえきれないように吹き出した。
「あはは!何それ、顔が引きつってるよ!」
彼女の澄んだ笑い声が、冷たい夜の空気に溶けていく。その笑顔を見るだけで、今日一日の疲れも、先ほどの魔物との殺伐とした戦闘も、すべてが浄化されていくような気がした。
僕らは灯台の壁を風よけにして並んで座り、夜空を見上げた。空には、緑や紫に淡く光るオーロラが、まるで天女の羽衣のように揺らめいている。
僕らは、他愛のないことから、少し真面目なことまで、たくさんのことを話した。
近いうちに開かれる冬祭りの催し物のこと。学校の成績のこと。
そして、もう少し先の未来のこと。
王国の兵士に志願して、華やかな首都へ行くべきか。それとも、この静かで厳しい村に残り、平穏な暮らしを営むべきか。
いつか、二人でどんな家庭を築くのか。
「私は、エミールと一緒ならどこでもいいよ」
マーシャは、僕の肩に頭をこてんと乗せて言った。
「でも、もし首都に行くなら、エミールがいっぱい美味しいものを食べさせてね」
「任せてよ。僕が最高の騎士になって、君を一番のお姫様にしてあげるから」
そんな冗談めかした約束を交わしながら、僕らは互いの体温を感じ合っていた。手袋越しの手が繋がり、冷たい風の音さえも遠くに聞こえる。こんな身を切るような寒さなんて、完全に忘れてしまうくらいに、僕らは語り合った。
そして、気づけば時間は深夜0時を回っていた。
「そろそろ帰ろうか。明日も早いし、両親が心配する」
「うん、そうだね」
僕らは立ち上がり、服についた雪を払って帰路についた。
行きよりも一層暗くなった雪道。暗闇の奥から突然襲いかかってくるであろう魔物に対する警戒を怠ることはできない。
僕もマーシャも、こんな危険な道を毎日通って、五体満足で学校に通学できている時点で、村の中ではダントツの実力者であることは確かだ。僕の剣術も、マーシャの魔法も、大人たちを凌駕している。
それでも、暗闇の恐ろしさは別格だ。どこから、どんな魔物が飛び出してくるか予測がつかない。だからこそ、常に全神経を研ぎ澄ませ、細心の注意を払わなければならない。
僕が前を歩き、マーシャを庇うようにして進んでいた、その時だった。
『やあ、英雄諸君。こんにちは。いや、今はこんばんは、だったかな』
——ビキッ。
空間にヒビが入るような、嫌な音がした。
どこからともなく、声が響いた。脳内に直接語りかけられているような、不思議で、ひどく不快な響き。
声の主を探して視線を巡らせた僕の目に、前方数十メートルの雪上に立つ「ソレ」が映った。
アレが……アレが声の主か?
一目見た瞬間、僕の全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。
ヤバい。
そんなチャチな言葉で表現できる次元じゃない。ヤバいどころの話ではないのだ。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。膝が笑い、身体の震えが止まらない。胃の奥からせり上がってくる強烈な吐き気。
それは、純粋な「死」の予感だった。これから数秒後、僕らがアレに無惨に殺されるという未来が、確信として脳裏に焼き付いた。
なんで。なんで、こんな村はずれの道に、あんなものがいるんだよ。
「エミール……あれ、何……?」
背後から、マーシャの震える声が聞こえた。彼女も、ソレの異常性に気づいている。
「まさか……なんでこんなとこにいるの?……あれ、低級魔族だよね……?」
……違う。
マーシャは、現実を直視できずにそう思い込もうとしている。だが、僕の本能は正確に敵の正体を把握していた。
あれは低級魔族なんかじゃない。上級魔族ですらない。
もっと恐ろしくて、もっと禍々しい……生命を根本から否定するような存在。
いや、奴はもはや、生命体と呼ぶことすらおこがましい。
アレは「恐怖」という概念そのものが、具現化してそこに立っているのだ。
何故なら、アレの正体は、この世界で最も強く、最も邪悪な存在……!
『魔王』以外にあり得ないからだ。
周囲の雪が、ソレの放つ瘴気で黒く変色していく。
魔王は、優雅にすら見える仕草で一歩前へ出ると、再び僕らに語りかけた。
『初めましてかな? そこの英雄の原石たる少年と、マーシャ・アドミニストレーター。僕はこの世界で、魔王をやらせてもらっている者だ』
楽しげな、舞台俳優のような仰々しい名乗り。
だが、その言葉には絶対的な王者の威圧感がこもっていた。
「やはり、魔王か……」
僕は乾いた唇を舐め、剣を抜いた。だが、剣を握る手は情けないほどに震えていた。
勝ち目はない。1秒足止めできれば奇跡だ。
僕は決断した。
「あんたは……。なら、マーシャ。僕を置いて、今すぐ全力で逃げろ」
僕は振り返らずに、背後のマーシャに命令した。
「嫌だ!!」
即座に、悲痛な拒絶が返ってくる。
「はやくしろ!!」
「エミールが死ぬなら……! 私も一緒……! ……に?」
マーシャの言葉が、不自然に途切れた。
——ごめん、マーシャ。
僕は、彼女が言い終わるよりも早く、左手で印を結び、魔力を練り上げていた。
『無詠唱・空間転移』。
僕が密かに習得していた、高等魔法。マーシャを包み込んだ淡い光は、次の瞬間には彼女の姿ごと、この空間から完全に消し去っていた。
……ふう。
なんとか、マーシャを村の近くの安全そうな場所へ逃がすことには成功した。
これで、僕が死んでも彼女は助かる。
それにしても。
僕は再び前を向き、魔王と対峙した。
……なんて圧だ。立っているだけで、魂が削られていくような感覚。
途端、僕の行った小細工に気づいた魔王の顔色が変わった。驚愕の表情だ。
『何ということだ。今、無詠唱の転移魔法で、マーシャ・アドミニストレーターを逃がしたというのか? あの短時間で、僕の空間掌握をすり抜けて……!?』
魔王は感嘆の声を漏らし、そして歪な笑みを浮かべた。
『素晴らしい! 素晴らしいよ、少年! やはり、君は僕の右腕となるべき逸材だ……!! どうだい、僕の部下にならないか?』
魔王は恍惚とした表情で、自らの狂気的な野望を語るように両手を広げた。
『勇者の命は、この俺の命に直結している。だからこそ、システム(世界)ごと壊さねばならんのだ。君の力があれば、それはずっと容易くなる』
「断る」
僕は震えを無理やり押し殺し、魔王を睨みつけた。
「魔王の部下なんて、ごめんだね。僕の夢は、平凡な騎士になって、愛する人を守ることなんでね。お前の狂った計画に付き合う気はない」
『……はあ。人間の情というやつか。言ってみるだけ無駄だったか。まあ、いい』
魔王はわざとらしく肩をすくめた。
途端、魔王の纏うオーラの質が、劇的に変容した。「興味」から「明確な殺意」へ。周囲の空気が重みを増し、呼吸することすら困難になる。
『ならば、君という厄介な原石はここで確実に消しておく。最高位の呪縛、血契夢境(けっけいむきょう)ALICEを使うとしよう』
『顕現せよ。わが瞳の中のALICE』
魔王がそう唱えた瞬間。
彼の右目から、ドクン、と黒い血が流れ始めた。
それと同時に、僕の視界がぐにゃりと歪む。重力が消失し、足元の雪原が崩れ落ち、魔王の右目から放たれる漆黒の渦が僕を飲み込む。
視界が完全に黒く塗り潰される。
重力も、温度も、時間すらも存在しない、絶対的な無の空間。
僕は、魔王の右目から放たれた漆黒の渦——血契夢境『ALICE』の深淵へと、真っ逆さまに落ちていった。
抗う術はない。手足は鉛のように重く、声帯は凍りついたように動かない。
意識だけが、薄皮一枚でこの世界に繋ぎ止められているような、ひどく不安定で絶望的な感覚。
(あ、あ……ここで、死ぬのか……?)
マーシャを逃がすことには成功した。でも、僕はここで終わる。
平凡な騎士になって、大切な人を守る。そんな僕のささやかな夢は、あまりにも理不尽で圧倒的な『魔』の力によって、あっさりと握り潰されようとしていた。
冷たい闇が、僕の魂を徐々に侵食し始める。
思考が溶け、自分という存在が消えかかった、その時だった。
『——まだだよ。君の物語は、ここで終わるべきじゃない』
暗闇の底で、声が響いた。
それは魔王の不快なノイズではない。どこまでも優しく、温かく、そして……ひどく悲しげな響きを持った大人の男の声。
「え……?」
僕は弾かれたように、声のした方向へと意識を向けた。
真っ暗だったはずの空間に、一筋の『光』が差し込んでいる。
その光は徐々に人の形を成していき、やがて僕の目の前に、一人の男が静かに降り立った。
金糸のように美しい髪。身に纏うのは、見たこともないほどに純白で、神聖なオーラを放つ甲冑。
その姿は、まるで神話に語られる『英雄』そのものだった。
「貴方は……?」
男は僕の問いには答えず、ただ穏やかな、黄金色の瞳で僕を見つめ返した。
その顔を見て、僕は息を呑んだ。
信じられない。いや、そんなはずはない。でも、目の前にいるこの男の顔立ちは……。
今日、村を熱狂の渦に巻き込んだあの『勇者ラングルド』と、瓜二つだったのだ。
だが、纏っている空気が決定的に違う。
ラングルドが完璧に計算された「偶像としての聖人」だとすれば、この男から溢れ出ているのは、不器用なまでに純粋な「他者を慈しむ愛」そのものだった。
『よく頑張ったね。怖い思いをさせて、本当にすまなかった』
男は、僕の頭にそっと手を置いた。
その掌から伝わる温もりが、僕の魂を侵食していた魔王の闇を、嘘のように浄化していく。
「貴方は、一体誰なんですか……? どうして、僕の心の中に……」
『僕の名前は、もう思い出せない。ただの、過去の亡霊さ』
男は自嘲気味に微笑んだ。
『でも、君の中に眠る“光”が、僕をここに呼び覚ました。……千年の時を超えて、僕の弟である君が僕の意志を継いでくれる器だというのなら。僕は、この残された最後の力を、君のために使おう』
男の身体から放たれる黄金の光が、さらに激しく、眩く輝き始めた。
空間が震え、魔王のALICEの暗闇が、その光に耐えきれずに悲鳴を上げているのが分かる。
『弟よ』
男は、僕の目を見て、静かに、けれど絶対的な力強さを持って告げた。
『——あとは僕に任せて。少しの間だけ、君の身体を借りるよ』
「あっ……!」
男の姿が光の粒子となり、僕の胸の奥……魂の核へと吸い込まれていく。
それと同時に、僕の意識は温かい光に包まれ、深い眠りへと落ちていった。
(…………………)
現実世界。
魔王は、自らの血契夢境『ALICE』に飲み込まれ、完全に意識を失ったエミールの肉体を見下ろし、醜悪な笑みを浮かべていた。
『さて。この原石の精神を完全に破壊し、僕の従順な人形に作り変えるとしようか。マーシャ・アドミニストレーターには逃げられたが、まあいい。彼女の絶望する顔は、また後でゆっくりと——』
魔王が漆黒の魔剣を振り上げ、エミールの心臓に呪いの楔を打ち込もうとした、その刹那だった。
ピキッ……!!
魔王の足元で、空間に巨大な亀裂が走った。
『……何?』
亀裂は一つではない。二つ、三つと増殖し、絶対不可侵であるはずのALICEの領域そのものが、内側からの異常な圧力によってミシミシと軋みを上げ始めたのだ。
『な、なんだこれは!? 僕のALICEが……内側から破られようとしているだと!?』
魔王の顔から、余裕が完全に消え失せる。
その次の瞬間。
魔王のALICEという概念そのものが、内側から爆発するように粉々に砕け散った。
現実の雪原へと強制的に引き戻された魔王は、信じられないものを見るような目で、前方を凝視した。
そこに立っていたのは、先ほどまで気絶していたはずの少年、エミール・ハーヴェスト。
だが、その様子は明らかにおかしい。
俯いたままのエミールの身体から、魔王の瘴気とは真逆の……触れるものすべてを浄化し、悪を焼き尽くすような『黄金の光』が、猛烈な勢いで立ち昇っていたのだ。
エミールが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、少年のものではない。千年の時を経て蘇った、魔を滅する『真の英雄』の黄金の瞳。
『お、前は……。馬鹿な、その光は……! その瞳は!!』
魔王は、本能的な恐怖に顔を歪め、一歩後退った。
「——退け。魔の眷属よ」
エミールの口から紡がれたのは、彼自身の声でありながら、彼のものではない、絶対的な王の威厳を持った重い声だった。
「この子供の魂は、お前のような邪悪が触れていいものではない」
『ふざけるなァッ!!』
魔王は恐怖を振り払うように咆哮し、巨大な黒鴉の刃をエミールに向けて振り下ろした。
空間を削り取るような、魔王の全力の一撃。
しかし、エミール(英雄)は、腰の大剣を抜くことすらしなかった。
ただ、右手を静かに前にかざしただけ。
——カァンッ!!!
甲高い金属音が雪原に響き渡る。
魔王の絶対的な一撃は、エミールの掌から放たれた薄い黄金の障壁に触れた瞬間、見えない壁に弾かれたように完全に停止した。
『なっ……!?』
「言ったはずだ。退け、と」
エミールが右手を軽く払う。
ただそれだけの動作。しかし、そこから放たれた黄金の魔力波は、魔王の巨体を軽々と吹き飛ばした。
『グァッ……アアアッ!?』
数十メートル後方まで吹き飛ばされ、雪原を派手に転がる魔王。
その漆黒の衣服は焼け焦げ、彼が纏っていた絶対的な瘴気が、黄金の光に触れた部分からシュゥゥゥッと音を立てて浄化(消滅)していく。
『ク、ソッ……! 1000年に一度の……英雄の魂が、まさかこんな子供の中に眠っていたというのか……!』
魔王は血を吐きながら立ち上がり、憎悪と恐怖が入り混じった目でエミールを睨みつけた。
『覚えておけ、英雄の器よ! 今日は退いてやるが、お前の命は必ずこの俺が——』
魔王は捨て台詞を吐きながら、空間を歪めて転移のポータルを開く。
だが、その背中は明らかに『逃亡』を急いでいた。
空間の歪みに魔王の姿が消え、雪原に再び静寂が戻る。
それを見届けたエミールの身体から、黄金の光がスゥッと引いていく。
「……よく、頑張ったね。あとは、ゆっくり休むといい」
最後にそんな優しい言葉を口の中で呟くと、エミールの瞳は完全に閉じられ、糸が切れたように雪の上へと倒れ込んだ。
(…………………)
どれくらいの時間が経っただろうか。
猛吹雪が止み、雲の隙間から冷たい月明かりが雪原を照らし出した頃。
サクッ、サクッ……。
誰もいないはずの雪道に、静かな足音が響いた。
足音の主は、純白の外套を纏った一人の男。
今日、この村を訪れた伝説の勇者——ラングルド・ハーヴェストであった。
「……おや?」
ラングルドは、倒れているエミールの前で立ち止まり、不思議そうに首を傾げた。
その黄金の瞳が、エミールの身体と、周囲の雪原を覆う異様な魔力の残滓を冷徹に分析する。
「ここは……。なるほど、信じられないほどの濃密な『魔』の気配。そして、それを圧倒するほどに神聖な『光』の残滓……」
ラングルドは、面白そうに口角を吊り上げた。
「こんな辺境の村に、魔王の幻影……いや、下手すれば本体が来ていたのか? そして、それを退けたのが、このただの子供だとでも言うのかい?」
ラングルドはしゃがみ込み、エミールの顔を覗き込む。
「エミール・ハーヴェスト……だったかな。村の歓迎の輪に入らず、僕を冷めた目で見ていた、少し変わった少年」
彼はエミールの寝顔を見つめながら、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「面白い。本当に面白いよ、君は。もしかしたら君は……僕の『新しい世界』の計画において、最高のイレギュラー(駒)になるかもしれないね」
ラングルドは、エミールを軽々と抱き上げると、村の方へと歩き出した。
その背中は、世界を救う勇者のものではなく、チェス盤の上で踊る駒を品定めする、冷酷な盤上支配者のそれであった。
(…………………)
「——起きたかい? 少年」
優しい声がした。
まるで春の陽だまりのように、全てを包み込むような、温かい大人の男の声。
その声に導かれるように、僕はゆっくりと重い目蓋を開けた。
白い天井が見えた。ふかふかのベッドに寝かされているらしい。
ここは……?
全身の感覚を確かめる。痛みはない。四肢も揃っている。
僕は、助かったのか? あの絶望的な状況から?
いや、そんなことはどうでも良い。
あの後、魔王はどうなった? マーシャは無事なのか?
そして、何より……僕の心の中で語りかけてきた、あの『ラングルドに似た男』は、一体誰だったんだ?
思考が追いつかず、混乱する僕の視界に、一人の男の姿が映った。
「貴方は……?」
僕は掠れた声で尋ねた。
その金糸の髪と、聖なるオーラ……。
心の中で見たあの男と全く同じ姿。だが、纏っている空気が決定的に違う。
男は立ち上がり、胸に手を当てて優雅に一礼した。
「僕の名前は、ラングルド・ハーヴェスト。この世界では『勇者』と呼ばれている者だよ」
今日、村を熱狂の渦に巻き込んだ張本人。伝説の勇者が、何故ここに。
「勇者様……! あの、魔王から助けていただき、本当にありがとうございます。僕が気を失っている間に、貴方が魔王を退けてくれたのですね」
僕はベッドの上で慌てて頭を下げようとした。
あの絶望的な状況を打破できたのは、この勇者様が駆けつけてくれたからに違いない、とそう思い込んだのだ。
しかし、勇者ラングルドは不思議そうに首を傾げた。
「魔王……?」
彼は、ぽつりと呟き、そして信じられないことを口にした。
「魔王なんて、どこにもいないだろ。君が見たのは、ただの幻影か悪い夢だよ。だって、本物の魔王は数年前に僕が殺したよ。あの魔王は、もうこの世には存在しないんだから」
「……え?」
窓の外では、夜が明けようとしていた。
僕の平穏な日常は、とっくに音を立てて崩れ去っていた。
そして、僕の中に眠る『正体不明の力』と、目の前で微笑む『狂った勇者』との、過酷で長すぎる因果の螺旋が、ここから幕を開けたのだ。
第二話
(…………………)
あんなにも禍々しく、魂を直接削り取られるような恐怖を味わったというのに、僕の体は疲労に抗えなかったらしい。
帰路につき、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ僕は、泥のような眠りにつき、次に目を覚ました時にはすでに午前10時を回っていた。
窓の隙間から差し込む、白銀の雪に反射した眩い朝の光。
僕はゆっくりと身を起こし、昨夜の出来事を反芻した。
魔王の圧倒的な威圧感、マーシャを逃がした瞬間の絶望、そして謎の空間に引きずり込まれた直後に聞こえた、あの男の声。
『魔王なんて、いないだろ。だって、数年前に僕が殺したよ』
伝説の勇者、ラングルド・ハーヴェストは確かにそう言った。
では、僕とマーシャが見たあの怪物は一体何だったのか。勇者の言う通り、魔王の残滓か、あるいはただの上級魔族の変異体に過ぎなかったのか。
考えれば考えるほど思考は泥沼に沈んでいく。
一階に降りると、食卓にはいつもより豪華な朝食が並んでいた。
焼きたての白パンに、厚切りにされたベーコン、そして野菜がたっぷり入った温かいスープ。湯気とともに漂う香ばしい匂いが、僕の胃袋を強烈に刺激する。
「おはよう、エミール。よく寝てたわね」
台所に立つ母さんが、鼻歌交じりに笑いかけてきた。
そうか、今日は昼から年に一度の「冬祭り」がある日だ。村人たちにとって最大の娯楽であり、今日ばかりはと各家庭でも財布の紐が緩む。この豪華な朝食も、祭りの高揚感がもたらしたものだろう。
温かいスープを胃に流し込みながら、僕はどこか現実離れした感覚に陥っていた。
昨夜の死の恐怖と、目の前にある温かなスープの味。この二つが同じ世界に存在していることが、ひどく奇妙に思えた。
(…………)
身支度を整え、軽く歯磨きをしていると、屋台の準備をあらかた終えたらしいお父さんが、雪を払いながら家に入ってきた。
顔は寒さで赤くなっているが、その表情はどこか晴れやかだった。
「エミール。昨日は本当に、大変な災難だったな」
お父さんは、僕の肩にポンと大きくて温かい手を置いた。
「ともあれ、エミールがこうして五体満足で家に帰ってきてくれて、俺は本当に嬉しいよ。生きていれば、それで十分だ」
僕は口をゆすぎ、タオルで顔を拭いてから頷いた。
「ありがとう、お父さん。心配かけてごめん」
「なあ、エミール」
お父さんは少しだけ声を潜め、真剣な眼差しで僕を見た。
「どうした? 父さん」
「お前、昨日……『魔王』に会ったってのは、本当に本当か?」
僕は一瞬だけ口ごもったが、まっすぐに父さんの目を見返した。
「ああ。本当だよ。信じられないかもしれないけど……」
お父さんは大きく息を吐き出し、顎をさすった。
「俺はてっきり、運悪く上級魔族辺りに遭遇して死にかけたのかと思ってたんだが……まさか、その上級魔族の中でも頂点たる魔王だったとはな。だが、勇者様が村に来ていて本当によかった。勇者様がいなけりゃ、今頃お前もマーシャちゃんも、どうなっていたか分からねえ」
お父さんは、僕が見たものを頭から否定しなかった。勇者が魔王は死んだと言ったことなど知らない彼は、息子の言葉をそのまま受け止めてくれたのだ。
「うん……。でも、信じてくれるんだね、父さん。僕やマーシャの突拍子もない話を」
「あったりめーよ」
お父さんは豪快に笑い、僕の頭をガシガシと撫で回した。
「俺の息子が、あんな真剣な顔で嘘をつくわけがねえ。お前は俺の自慢の息子だ」
「……ありがとう、父さん」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じた。
その時、外からドタバタと雪を蹴立てて走ってくる足音が聞こえ、続いて玄関の扉が勢いよく開いた。母さんが目を丸くして台所から顔を出す。
「エミール! あんた!! マーシャちゃんが、家の前に来てるよ! ものすごい顔して!」
「……今行く!」
僕はタオルを放り投げ、急いで玄関へと向かった。
(………………)
「エミール……エミールゥ!!」
扉を開けた瞬間、小さな体が弾丸のように僕の胸に飛び込んできた。
「うわっ……!」
受け止めた瞬間、分厚いコート越しでも分かるほど、彼女の体が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「愛してる……! 愛してる!! だから……死んでなくて良かったよおおおおっ!!」
マーシャは僕の胸に顔を埋め、まるで子供のように声を上げて激しく泣きじゃくった。
彼女の目から溢れ出る涙が滝のように僕の服を濡らし、僕の背中に回された腕の締め付ける力が、時間とともにどんどん強くなっていく。
昨夜、彼女は無理やり安全な場所へ転移させられた。残された僕が魔王に殺されたと思い込み、一晩中どれほどの絶望と恐怖の中で泣き明かしたのだろうか。その苦しみを想像すると、胸が張り裂けそうになった。
マーシャ……。僕も、君のことを心から愛している。
だから、もう二度とこんな思いはさせない。これからはずっと一緒だ。
僕は彼女の背中に腕を回し、凍えそうなほど冷え切った彼女の体を強く抱きしめ返した。
「ごめん、心配かけたね。僕も君を愛してるよ、マーシャ。これからも、ずっと一緒にいような?」
「ゔん……っ! ゔん……!!」
マーシャはしゃくりあげながら、何度も何度も強く頷いた。
(………………)
昼になり、雪がシトシトと舞い散る中、村の中心部で冬祭りが始まった。
僕は両親のポテトフライの屋台に立ち、揚げたての芋を紙袋に詰める作業に追われていた。祭りの熱気は最高潮で、行き交う人々の顔はどれも笑顔に満ちている。
そんな忙しい最中、お父さんとお母さんが突然僕の背中をドンと押した。
「エミール、ここはもう俺たちだけで大丈夫だ。ほら、ずっとお前のこと待ってるじゃないか。マーシャちゃんのところに行って、祭りを思い切り楽しんでこい!」
「でも、一番忙しい時間帯じゃ……」
「いいから行きなさい! 若い子がこんな油臭いところにずっといるもんじゃないわよ!」
僕は両親の優しさに申し訳なさと感謝を覚えつつ、エプロンを外して屋台を飛び出した。
少し離れたところで待っていたマーシャは、僕の姿を見るなりパッと顔を輝かせた。
降りしきる雪の中、僕らは手を繋ぎながら、立ち並ぶ屋台を見て回った。
まずは、的当ての屋台(射的)を見つけた。おもちゃの弓矢ではなく、火薬の力で弾を飛ばす鉄の筒――遠い極東の国から伝えられた異国の文化だという。
僕は日頃の剣術で培った動体視力を活かし、マーシャは魔法で培った集中力を発揮して、見事に三つもの景品(可愛らしい雪ウサギのぬいぐるみなど)を撃ち落とした。
両腕にぬいぐるみを抱えたマーシャは、この世の春が来たかのように嬉しそうに笑っていた。
その無邪気な笑顔を見ていると、僕まで幸せな気分になった。
それから僕らは、とろけるチーズがたっぷりかかった肉厚なフランクフルトを頬張り、温かい屋台の裏手で冷たいベリーのジェラートを分け合って食べた。
どちらもこの冬祭りで、年に一回しか食べられない特別な味だ。冷たさと温かさが口の中で混ざり合い、とびきり美味しかった。マーシャも口の周りにチーズをつけながら、とても満足そうな顔をしている。
その後も、ハズレばかりのくじ引きに一喜一憂したり、焼き立てのチーズタルトの匂いにつられて買い食いしたり、村の若者たちが腕を競う小規模な魔法選手権に飛び入り参加して喝采を浴びたりと、とにかく色んな楽しいことをした。
楽しくて、楽しくて、しょうがなかった。
この村で生まれ育ち、この先もずっとこの村で、この愛する少女と共に生きていく。そんなささやかで絶対的な未来が、約束されているような気がした。
あまりにも楽しくて、平和で……。
昨日、あんな恐ろしい魔王が何故、何の前触れもなく僕らの村の周辺に現れたのか。その根本的な疑問すら、頭の片隅から完全に締め出してしまうほどに。
祭りの喧騒に酔いしれているうちに、気づけばあたりはすっかり暗くなり、夜空には無数の星と、魔法ランプの柔らかな光が灯っていた。
(……………)
「じゃあね、エミール。今日は本当に楽しかった。また明日、学校でね!」
「うん。マーシャも、気を付けて帰ってね。バイバイ! またね」
祭りの終わりを告げる鐘の音が鳴り響く中、僕らは彼女の家の前で手を振り合った。
明日も、明後日も、こんな平和な日々が続くと信じて疑わなかった。
自分の家に帰り、冷え切った体を温かいお湯で拭うと、急激な眠気が襲ってきた。
両親はまだ屋台の片付けで遅くなるらしい。僕は一足先に部屋の魔法ランプの明かりを消し、毛布にくるまって深い眠りについた。
(…………………)
『……いつまで眠っている?』
(…………………)
『起きろ、エミール・ハーヴェスト。村が、襲撃されているぞ』
頭蓋骨の内側に直接響くような、不気味な声。
僕はベッドからバッと飛び起きた。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れている。
なんだ……? 今の声は。夢、か……?
心臓が早鐘のように打っている。窓の外を見ると、雪明かりのせいで白いはずの夜の闇が、赤く、禍々しく染まっていた。
焦げ臭い。木が、肉が、焼けるひどい悪臭が隙間風に乗って入り込んでくる。
「キャアアアアアッ!!!! 嫌っ、殺さないでぇ゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙ぇ゙!!!!!!」
「助けて! 誰か、勇者様ァァァァッ!!!」
外から聞こえてきたのは、祭りの歓声などではない。
肺の底から絞り出されたような、村人たちの断末魔の悲鳴だった。
なんだ、今の声は……。
それに……今、「勇者様」と助けを呼んだか?
魔物が村に侵入したというのか。あの、魔王を単独で討ち果たしたという伝説の勇者がこの村に滞在しているのに!?
僕はベッドから転げ落ちるようにして剣を掴み、防寒着も羽織らずに部屋を飛び出した。
一階へ続く階段を、転がるように駆け下りる。
(……………………)
「父さん! 母さん!!」
一階の居間に飛び込んだ僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
床一面に、どす黒い液体が広がっている。昨日の魔物の血などとは比べ物にならない、生々しい鉄の匂い。
その血溜まりの中心に、見慣れた二つの身体が、まるで壊れた人形のように不自然な方向に手足を曲げて転がっていた。
父さんと、母さんだ。
首から上が、ない。
「あ……」
喉から、ヒューという間抜けな音が漏れた。
思考が完全に停止する。ありえない。こんなこと、あっていいはずがない。
「やあ。一日ぶりだね。魔王の時の少年」
血の海の向こう側。部屋の奥の暗がりから、穏やかで優しい、あの春の陽だまりのような声が響いた。
コツ、コツと足音を立てて現れたのは、一滴の返り血すら浴びていない、純白の外套を羽織った男。
この世界の希望。英雄。伝説の勇者、ラングルド・ハーヴェスト。
彼は、首の無い僕の両親の死骸を見下ろし、まるで道端の石ころでも見るかのような冷たい瞳で微笑んでいた。
「たしか、君はエミールと言うそうじゃないか。悲しい出来事だね。でも、どうか恨むならマーシャというあの少女を恨んでくれ」
「……は??」
僕の口から出たのは、絞り出すような疑問符だった。
何を言っているんだ、この男は。
「マーシャ・アドミニストレーター。彼女の存在が、僕の『計画』には少し邪魔でね。さあ、彼女が今どこに隠れているのか、君の口から教えてもらおうか」
「なんで……なんで……」
僕は剣を握る手が震え、歯の根が合わなかった。
「なんで、今、こんなことを……! あんた、昨日村に入った時点で俺たちを殺そうと思えば殺せたんじゃないのか! なんで、父さんたちを……!」
勇者は小首を傾げ、心底不思議そうな顔をした。
「どうして昨日殺さなかったのかって? それはねえ……それじゃあ、『面白くない』じゃないか」
「……え?」
「絶望というものはね、希望というスパイスを十分に振りかけ、一度高く舞い上げてからどん底に叩き落とした方が、より深く、より美しい味がするんだ。昨日の今日で君たちがどれほど家族と愛を深め、未来を夢見たか。それを今、この瞬間に刈り取るからこそ……至高の悲劇が完成する」
「違……違う……俺が聞きたいのは、そんな狂った御託じゃない……!!」
僕は血走った目で勇者を睨みつけた。視界が真っ赤に染まる。
「お父さんと、お母さんは……。あんたが、お前が殺したのか……!?」
勇者はクスリと上品に笑った。
「ああ。僕以外に、誰がいると言うんだい?」
プツン、と。僕の中で何かが決定的に切れる音がした。
「この……ッ!!!」
理屈も、実力差も、恐怖も、すべてが吹き飛んだ。ただ純粋な、煮えたぎるような殺意だけが全身を支配する。
「ひと……ごろし……この……!!!」
床を蹴り破るほどの勢いで、僕は血溜まりを駆け抜けた。
「人殺しがァァァァァァァァァァァッ!!!!!!」
上段から振り下ろした渾身の一撃。だが、勇者は避ける素振りすら見せない。彼はただ指先一つを僕に向け、退屈そうに目を細めた。
ああ、死ぬ。
この絶対的な暴力の前に、僕は虫けらのように殺される。
だが、その瞬間だった。
我が家の壁が、外側から爆発したように木端微塵に吹き飛んだ。
吹き荒れる猛吹雪と、家を包み込み始めていた炎を真っ二つに裂いて、凄まじい質量の「オーラ」が室内に雪崩れ込んでくる。
その圧倒的な闘気に当てられ、僕の剣は空を切り、勇者の指先から放たれようとしていた魔法の光が掻き消された。
「……ほう」
勇者の表情から、初めて余裕の笑みが消えた。
粉塵が舞う中、崩れ落ちた壁の向こうに一人の人物が立っていた。
ボロボロの外套を羽織り、白髪を風に靡かせた、老齢の男。しかし、その体から放たれる威圧感は、昨夜の「魔王」に勝るとも劣らない、いや、それ以上に鋭く研ぎ澄まされた刃のような覇気だった。
勇者は、忌々しそうに顔を歪めてその老人を睨みつけた。
「……貴方は。わざわざ辺境まで、邪魔をしに来たのですか、師匠」
師匠……? この殺戮の化身のような勇者の、師匠だと?
老人は、手にした無骨な大剣をゆっくりと構え、地獄の底から響くような声で言い放った。
「堕ちたな、ラングルド。光を背負う資格なき、ただの狂獣よ」
老人の眼光が、勇者を射抜く。
「貴様がその足で踏みにじってきた無数の命の重さ……そして、正道を外れた愚かな弟子の罪。この老いぼれの剣で、貴様の魂の底まで刻み込んでやろう。ここが貴様の終着点だ!!」
「引導を渡す、と? 過去の遺物が笑わせる。僕は世界を統べる無敵の存在だ。やれるものなら、やってみなさい……!!」
勇者の全身から、禍々しい光が吹き上がった。老人の大剣にも、空間を歪めるほどの魔力が収束していく。
二つの絶対的な力が激突する――その直前。
「ぐっ……!?」
僕の視界が、唐突にぐらりと揺れた。
気がつけば、老人が僕の背後に回り込み、僕の首元に正確無比な手刀を叩き込んでいた。
「な、にを……」
崩れ落ちる僕の体を、老人は片手で軽々と抱え上げる。
「生き急ぐなよ、少年」
薄れゆく意識の中で、老人の静かな、しかし確かな意志を持った声が聞こえた。
「絶望に呑まれてここで犬死にするには、お前はまだ若すぎる。……生き延びて、本当の戦いに備えろ」
そう言って、老人は気を失っていく僕を担いだまま、勇者との衝突を避けるように、猛烈なスピードで夜の吹雪の中へと跳躍した。
第三話
(…………)
冷たい風が頬を撫でる感覚で、僕は意識を取り戻した。
重い瞼をゆっくりと開けると、見知らぬ木造の天井と、吹き込んでくる雪の白さが視界に飛び込んできた。
どうやら、どこかの家のベランダに寝かされているらしい。
ここは……どこだ? 僕はなんでこんな所に……。
体を起こそうとすると、首の裏側に鈍い痛みが走った。
視線を巡らせると、すぐ傍らで心配そうに僕を覗き込むマーシャの姿があった。その瞳は赤く腫れ上がり、彼女がどれほど泣き続けたのかを物語っていた。
そして、その奥には……猛吹雪の中で僕の命を救い、首元に手刀を叩き込んだ、あの老齢の剣士が腕を組んで壁にもたれかかっていた。
気を失う……前……?
そうだ。思い出した。
脳裏に、鮮烈な赤色がフラッシュバックする。
床一面に広がっていた、どす黒い血の海。
不自然な方向に手足を曲げて転がっていた、父さんと母さんの体。
首から上が無かった、あの凄惨な光景。
「あ……ぁ……」
喉の奥から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。
僕の両親は、殺されたんだ。
あの純白の外套を羽織った殺人鬼に。
この世界の希望であるはずの、勇者に。
「う、ああああああああっ!!!」
気がつけば、僕は喉が裂けんばかりの絶叫を上げていた。
悲しみ、絶望、そしてそれを遥かに凌駕するほどの、煮えたぎるような憎悪が全身の血液を沸騰させる。
「殺してやる……!! あの野郎……勇者ぁ……!!!!」
僕はベランダの床を拳で何度も、何度も叩きつけた。拳の皮が破れ、血が滲んでも痛みなど感じなかった。
「バラバラのグチャグチャにしてやる……!!! ぶち殺してやる!! だから……! 首を洗って待ってろォォォッ!!!」
叫びすぎた反動と、極限の精神的ストレスが胃を激しく収縮させた。
「ゲフッ……! ゲボァッ……!!」
僕は床に四つん這いになり、胃液を激しく嘔吐した。吐くものなど何も残っていないのに、何度も何度もえずき続ける。涙と鼻水と涎が混ざり合い、顔中がぐちゃぐちゃになっていた。
「エミール……。大丈夫、ゆっくり息をして……」
背中を優しく、一定のリズムで撫でる手のひらがあった。マーシャだった。
彼女は僕の汚れた口元を自分の袖で拭い、壊れ物を扱うように抱きしめてくれた。
情けない。本当に、僕は情けない。
マーシャの親だって、あの状況からして、恐らくすでに殺されているはずだ。彼女自身、心が粉々に砕け散りそうなほどの絶望の中にいるはずなのに。
それなのに、彼女は自分の悲しみを押し殺して、僕のことを第一に考えてくれている。
「僕……情けないなあ……」
掠れた声で、僕は呟いた。
「マーシャを僕が守るって……告白した時に、あんなに偉そうに約束したのに。いざって時は、何もできなくて……僕は、マーシャに守られてばっかりだ」
「そんなことないよ」
マーシャは、涙声でありながらも、はっきりとした強い口調で言った。
「私だって、エミールのことを守りたい。だから、もし君がピンチになった時は私が全力で助けるから、私がピンチになったら君が助ける……それで、お互い様。……ってことで良いよね?」
彼女の温かい涙が、僕の頬に落ちた。
「うん……!! うんっ!!」
僕は何度も頷いた。
「それに、私だって……お父さんやお母さん、それに村のみんなを惨殺したあの悪魔を、絶対に許すつもりはないから……。一緒に戦おう……ね?」
「ああ。二人で……必ず、あの勇者を倒そう」
僕たちは互いの体を支え合いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もはや先ほどの絶望の涙はなく、冷たく燃え盛る復讐の炎だけが宿っていた。
「……ゴホン。愛を確かめ合うのは結構だが、そろそろ良いかな?」
ずっと黙って僕らを見つめていた老剣士が、重々しい口を開いた。
その声には、一切の感情が排されたような冷徹な響きがあった。
「君たちに、最悪の知らせがある」
「これ以上、悪い知らせって……? 何だよ」
僕は血走った目で老人を睨み返した。
「私も、これ以上悪い知らせなんて、この世にないと思うけど……」
マーシャも身構えるように僕の腕を強く掴む。
「確かに、一般的に考えれば両親の死以上の悲劇はないかもしれない。だが、生存という観点から考えれば、現状は最悪だ」
老人は窓の外、吹き荒れる吹雪の闇を見つめながら、単刀直入に告げた。
「あの狂人が、ここに向かってきている。どうやら、この隠れ家の場所がすでに割れたらしい」
その情報は、今の僕らにとってあまりにも刺激が強すぎるものだった。
「来るっていうなら、好都合だ……! ここで殺してやる……!」
僕は反射的に剣の柄に手をかけた。
「私も戦う!!」
マーシャも即座に魔法の詠唱姿勢に入る。
「落ち着け。愚か者共」
老人の鋭い一喝が、凍てつく空気を通して僕らの肌を刺した。
その圧倒的な覇気に当てられ、僕らは息を呑んで動きを止めた。
「…………」
「…………」
「いいか、よく聞け。今の君たちでは、束になろうが奴の指一本にすら勝てない。犬死にするだけだ」
老人は僕らの目を交互に見据え、言葉を続けた。
説明をしている暇などない、と急き立てるような早口だった。
「だから、君たちはまず、生き延びて力をつけろ。手始めに……『旧勇者パーティー』の三人を倒すのだ」
「旧勇者パーティー……?」
「奴らは、ラングルドと共に旅をした英雄たちだ。だが、今は堕天し、世界に害をなす存在へと成り下がっている。あの狂人に付き従う、狂った手駒だ」
老人は荷物をまとめ、僕らに向かって素早く投げ渡した。中には数日分の保存食と、古びた地図が入っていた。
「残念だが、ここでゆっくりと過去の歴史を語って聞かせる暇はない。だが、一つだけ確かなことがある。あの堕天した旧勇者パーティーを追って倒していけば、自ずと力がつき、そして……なぜ君たちの村が襲撃されたのか、その『真相』に辿り着くはずだ」
「……わかりました」
僕は地図を握りしめ、深く頷いた。
マーシャも力強く頷き、僕の隣に並び立つ。
今の僕らが、あの勇者に勝てないことは痛いほど理解していた。あの圧倒的な力の差、指先一つで僕を殺そうとしたあの余裕。
だから、悔しいが、この老人の提案を呑んで逃げる以外の選択肢はなかった。死んでしまえば、復讐すら果たせないのだから。
「追っ手は私が引き受ける。それでは行け!! 真に勇気を持つ若き者たちよ!! さらばだ、また必ず会いに行くから、それまで決して死ぬな!!!」
老人の怒号のような激励を背に受け、僕らは振り返ることなく、猛吹雪の吹き荒れる白銀の闇の中へと全力で駆け出した。
(………………………)
——物語の視点は、冷たい雪山の頂から、華美で狂気的な空間へと移る。
「おい、ラングルド」
足音も立てずに背後から歩み寄ってきた男の声に、僕はゆっくりと振り返った。
「何だ? ヘンリー。君の方から僕に話しかけてくるなんて、随分と珍しいじゃないか。明日は雪でも降るのかな? ああ、ここは一年中雪だったね」
僕の名前は、ラングルド・ハーヴェスト。
この腐りきった世界を救済する、ただ一人の『勇者』だ。
僕に話しかけてきたのは、かつての仲間であり、今は僕の忠実な手駒の一人であるヘンリー・テイラー。無精髭を生やし、背に身の丈ほどもある巨大な長弓を背負った男だ。彼の瞳には、常に血に飢えた獣のような光が宿っている。
「くだらねえ冗談はよせ。単刀直入に言う」
ヘンリーは忌々しそうに舌打ちをし、低い声で唸った。
「俺に、あのマーシャ・アドミニストレーターって小娘を殺させてくれ」
その要求を聞いた瞬間、僕は少しだけ目を丸くし、やがて優雅に微笑んだ。
「……ふーん。良いよ」
「……あっさり譲るんだな。お前らしくない。あの小娘が、お前の『計画』の目障りなんだろう?」
拍子抜けしたのか、ヘンリーは胡乱な目を僕に向けてきた。
「まあね。でも、僕は彼女をただ単に殺すよりも、もっと、もーっと面白いことをしようと計画しているだけさ。その最初の舞台装置として、君の存在はピッタリだと思ってね」
僕はワイングラスを片手に、窓の外の猛吹雪を見下ろした。あの白雪の中に、必死で逃げ惑う哀れなネズミが二匹いるはずだ。
「……? ……まさか……! おいラングルド、お前! 俺があんな田舎者のガキどもに遅れをとるとでも思ってんのか……!!?」
ヘンリーの顔が、怒りで赤黒く染まる。己の腕に絶対の自信を持つ男特有の、激しいプライドの反発だ。
「まあ、その言葉の解釈は君の想像力に委ねるとするよ。ヘンリー・テイラー。地上最強の狙撃手たる君の弓の腕は、僕ももちろん信頼している。それだけは忘れないでくれ。……せいぜい、油断せずに楽しんでおいで」
「当たり前だ。あんなガキの眉間、何キロ離れていようがブチ抜いてやるよ」
ヘンリーは乱暴に踵を返し、足音荒く部屋から出ていった。
扉が閉まる音を確認し、僕は一人、静かにグラスの赤ワインを揺らした。
フフッ。
クククッ……!
正直な話……ヘンリーは、負けるな。
何故なら、マーシャの隣には……あのエミール・ハーヴェストという少年がいるからだ。
彼の剣技の才能は本物だ。荒削りだが、死線の中でこそ輝く原石。そして恐らく、今回の『両親の死』という極上の悲劇をスパイスにしたことで、彼の剣技は今までとは比べ物にならないほどの飛躍的な成長を遂げるだろう。
人間というのは、極限状態に追い込まれた時こそ、真の力を発揮する。
愛する者を失った悲しみ、愛する者を守りたいという切実な願い。
……フフッ。アハハハハッ!
全く……。「愛の力」というのは、実に恐ろしく、そして美しいものだ。
だからこそ……。
僕はその『愛と絶望』という名の試練を、平等に彼らに与えなくてはならない。
彼らが血反吐を吐きながら成長し、すべての旧勇者パーティーを打ち倒し、最高の希望と力に満ち溢れた状態で僕の元へ辿り着く。
その瞬間に、彼らの持つすべての希望を、この僕の手で完膚なきまでに叩き潰すのだ。
それこそが、至高の芸術。至高のエンターテインメントではないか。
焦るな……僕。
舞台の幕は、まだ上がったばかりだ。
僕が望む、この世界を絶望で塗り替える至高の"計画"が完遂される日は、そう遠くない。
第四話
吹き荒れる猛吹雪が、刃のように頬を切り裂く。
見渡す限り白一色に染まった世界の中で、僕——エミール・ハーヴェストは、重い雪を掻き分けながら一歩ずつ前へと進んでいた。
「エミール、大丈夫? 右腕、痛んでない?」
背後から、分厚い防寒具に身を包んだマーシャが、凍えるような声で気遣ってくれる。
「大丈夫だよ、マーシャ。これくらい、なんてことない」
僕は振り返り、努めて明るい声で答えた。だが、分厚いマントの下に隠された『魔王と契約した右腕』は、先ほどから警告音を鳴らすように、ドクン、ドクンと不気味な脈動を繰り返していた。
村を焼き払われたあの夜から、僕たちは王都を目指して過酷な旅を続けていた。
狂った勇者ラングルドを殺し、すべての元凶である魔王を討ち果たす。その途方もない目的を果たすため、僕たちは人目を避け、魔物が跋扈する険しい山越えのルートを選んだのだ。
「もう少しで、地図にあった廃村につくはずだ。そこで一晩やり過ごそう」
僕の言葉に、マーシャは小さく頷いた。
やがて、猛吹雪の向こう側に、黒ずんだ建造物の輪郭が浮かび上がってきた。
かつては栄えていたのだろうが、今や見る影もなく寂れ果てた廃村だった。屋根は崩れ落ち、窓ガラスは割れ、家々の柱は朽ち果てている。
その村の中心に、ひときわ大きく、威容を誇る石造りの建物がそびえ立っていた。
「あれは……教会、かな?」
マーシャが雪を払いながら見上げる。
「みたいだね。かなり古そうだけど、壁も屋根もしっかり残ってる。今日はあそこで休もう」
僕たちは、軋む重い木扉を押し開け、教会の中へと転がり込んだ。
外の狂ったような吹雪が嘘のように、教会の中は静まり返っていた。
ステンドグラスは大部分が割れていたが、かすかに差し込む青白い月光が、広大な身廊を照らし出している。空気がひんやりと澄んでおり、廃墟特有の淀みや魔物の気配は感じられない。
僕は手早く火を起こし、凍りついた体を温めた。
パチパチと爆ぜる焚き火の音が、張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれる。
「ふう……生き返るわね」
マーシャが両手を火にかざし、ほっと息をついた。その横顔を見て、僕は少しだけ胸が痛んだ。
彼女は僕の復讐に付き合って、こんな過酷な旅をしている。本来なら、温かい部屋で笑っていてほしいのに。
「……ごめんな、マーシャ。こんな旅に巻き込んで」
「またそれ? 言ったでしょ、私は私の意志で君についてきてるの。それに……君一人じゃ、すぐに無茶して死んじゃいそうだしね」
彼女は悪戯っぽく笑い、僕の肩を軽く小突いた。
その時、僕の右腕が再び、ズキリと鋭く痛んだ。
「っ……」
思わず顔をしかめ、右腕を押さえる。
魔王の瘴気で変異したこの腕は、ただの「武器」ではない。僕の寿命を削り、常に魂を黒く染め上げようと侵食してくる「呪い」そのものだ。
「……痛むの?」
マーシャの表情がサッと曇る。
「平気だ。ただ……この教会に入ってから、少し右腕の様子がおかしいんだ。まるで、この場所そのものに『拒絶』されているような……」
「拒絶?」
マーシャは不思議そうに周囲を見渡し、ふと、祭壇の奥にある巨大な石碑に目を留めた。
「エミール、見て。あそこ……」
彼女に促され、僕は立ち上がって祭壇へと近づいた。
そこには、神話の時代に彫られたような、精緻で荘厳なレリーフが壁一面に刻まれていた。
「これは……創世の神話?」
僕が呟くと、魔術の歴史に明るいマーシャが、壁面に刻まれた古代文字をなぞりながら読み解き始めた。
「違うわ。これは神話じゃなくて……『伝承』ね。かつて、魔王がこの世界を闇で覆い尽くそうとした時、それを退けた存在の記録……」
「勇者のことか?」
僕の脳裏に、村を焼いたあの純白の悪魔の姿がフラッシュバックし、無意識に声が険しくなる。
「……ううん。今の『勇者』というシステムができる、もっとずっと前の話みたい。文字の解読が正しければ……『千年に一度、星の意思が人の形をとって現れる。それを“真の英雄”と呼ぶ』……」
真の英雄。
その言葉の響きに、僕はなぜか胸の奥がざわつくのを感じた。
「『英雄は、魔を祓う黄金の瞳と、すべてを浄化する退魔の光を宿す。その力は神すらも凌駕し、魔王の深淵を打ち砕く』……凄い。おとぎ話で聞いたことはあったけど、こんな古い記録が残ってるなんて」
マーシャは感嘆の声を漏らし、祭壇の中央に安置されている「ある物」に気づいた。
それは、台座の上にぽつんと置かれた、手のひらサイズの水晶のような石だった。
だが、その石はただの鉱石ではない。内側に鈍い光を宿し、教会の冷たい空気の中で、そこだけが微かな温もりを放っているように見えた。
「『英雄の試金石』……って書いてあるわ。千年に一度の英雄の魂を持つ者が触れた時だけ、光り輝く聖なる遺物だって」
マーシャは興味深そうに石を覗き込んだ。
「英雄、か。僕たちには縁のない代物だな。僕の体には、魔王の呪いがこびりついてるんだから」
僕は自嘲気味に笑い、その場を離れようとした。
だが、その時だ。
——ズンッ!!
教会の重い木扉が、爆発したかのように吹き飛んだ。
「なっ!?」
木っ端微塵になった扉の向こう、吹き荒れる吹雪の中に、巨大な影が三つ、ゆっくりと姿を現した。
人間の倍はあろうかという巨体。全身を覆う漆黒の甲殻。そして、山羊のようにねじ曲がった角。
「魔族……しかも、下級じゃない! 上級に近い中級魔族よ!」
マーシャが即座に杖を構え、迎撃の態勢をとる。
「チッ……こんな吹雪の中を追ってきたのか!」
僕は背中の大剣を引き抜き、マーシャの前に立ち塞がった。
『ヒャハハハ! 見つけたぜェ、魔王様を裏切った汚え泥棒ネズミと、そのお仲間ァ!』
真ん中に立つ魔族が、耳障りな金切り声を上げた。
『ヘンリー様の部隊に合流する前に、手柄を立てさせてもらうぜ! お前ら、生きたまま皮を剥いでやる!』
ヘンリー。その名前に聞き覚えはなかったが、奴らが僕の命を狙う魔王の尖兵であることには違いない。
「やらせるか!」
僕は床を蹴り、先頭の魔族に向かって斬りかかった。
右腕の瘴気を解放し、大剣にどす黒い魔力を纏わせる。魔王の力を借りた一撃は、魔族の硬い甲殻を紙のように切り裂いた。
『ギャアアアアッ!』
「エミール、右から来るわ! 『氷槍(アイス・ランス)』!」
マーシャの援護魔法が、右側から迫っていた魔族の動きを止める。
だが、残る一体——リーダー格の魔族が、狡猾にも僕を無視し、後方にいるマーシャへと狙いを定めた。
『まずはその女からブチ殺してやる!』
魔族の口が大きく裂け、その奥でドロドロとした緑色の液体が沸騰し始めた。
「マーシャ、危ないッ!」
「……え?」
『喰らえ! “魂腐呪(こんぷじゅ)のブレス”!!』
吐き出されたのは、ただの毒液ではない。
触れた者の魂を直接腐らせ、一切の治療魔法を無効化する、上位魔族特有の極大の呪毒だった。
放射状に広がるその緑色の瘴気は、回避不可能な速度でマーシャへと迫る。
「マーシャ!!」
僕は思考を捨てた。
ただ、彼女を守らなければという本能だけで、限界を超えた速度で地面を蹴り、マーシャの前に飛び込んだ。
「エミール! 駄目ぇっ!!」
ドバァァァッ!!
緑色の呪毒が、僕の全身を容赦なく包み込んだ。
「が……あ、あ、ああああっ!!」
想像を絶する激痛が走る。皮膚が焼けるのではなく、内臓を通り越して「自分」という存在そのものが溶かされていくような、絶対的な死の感覚。
『ギャハハハハ! 馬鹿なガキだ! 魔王様の腕を持っていようと、その身体はただの人間! 俺様の呪毒をモロに浴びて、生きてられるわけが——』
魔族の嘲笑が、教会のドームに響き渡る。
僕の意識は、猛烈な吐き気と痛みの渦の中で急速に薄れていった。
(あ、あ……ここで、死ぬのか……?)
視界が緑と黒に染まる。
後ろで、マーシャが悲痛な声を上げて泣き叫んでいるのが聞こえる。
駄目だ。僕が死んだら、マーシャが殺される。
立ち上がれ。剣を握れ。
だけど、魔王の右腕の力は、この呪毒の前に完全に沈黙していた。
同じ『魔』の力である以上、より高位で濃密な呪いには抗えないのだ。
(くそ……っ、動け……動けよ!! 僕は……マーシャを、守るんだ!!)
魂の底から、血を吐くような叫びを上げた。
その、刹那だった。
——ドクン。
僕の心臓が、今までとは全く違う、強く、清らかなリズムを刻んだ。
それは魔王の右腕の脈動ではない。僕の胸の奥底……クルーガーさんから受け継いだ心臓の奥、僕自身の魂の核から湧き上がってきた鼓動。
「……え?」
僕の身体を覆っていた緑色の呪毒が、突如として「蒸発」し始めたのだ。
シュゥゥゥゥッという音を立てて、毒の瘴気が浄化されていく。
『な、なんだァ!? どうなってやがる!!』
魔族が驚愕の声を上げる。
僕自身が一番驚いていた。
痛みが引いていく。代わりに、身体の奥底から、信じられないほど温かく、そして圧倒的な『力』が溢れ出してくるのを感じた。
ふと視線を下ろすと、僕の身体から、微かに「黄金の光」が漏れ出していた。
それは魔王の禍々しい紫色の瘴気とは真逆の、触れるものすべてを癒やし、そして邪悪を焼き尽くすような、神聖な光だった。
(この力は……なんだ……?)
考えるより先に、身体が動いた。
僕は大剣を握り直し、黄金の光をその刃に纏わせた。
驚くべきことに、魔王の右腕もその光に反発することなく、むしろ光を増幅させるように融合していく。
「消えろ……!!」
僕は床を蹴った。
先ほどまでの動きが児戯に思えるほどの、神速の踏み込み。
『ヒィッ——』
魔族が防御の姿勢をとる間もなかった。
一閃。
黄金の光が教会の闇を切り裂き、中級魔族の巨体を唐竹割りに両断した。
悲鳴を上げる暇もなく、魔族の身体は光に包まれ、文字通り「浄化」されて塵となって消え去った。
圧倒的な静寂が、教会に戻ってきた。
僕は荒い息を吐きながら、大剣を下ろした。身体から溢れていた黄金の光は、役目を終えたようにスーッと僕の体内へと収束して消えていった。
「エミール……! エミール!!」
マーシャが駆け寄り、僕の身体にすがりついてきた。
「ばか、ばか……! 死んじゃうかと思った……! 呪毒をモロに浴びたのに、どうして……!」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら、僕の顔や身体をペタペタと触って無事を確認する。
「ごめん、マーシャ。僕も、何が起きたのかよく分からないんだ」
僕は自分の両手を見つめた。
呪毒のダメージは一切ない。それどころか、先ほどまで感じていた長旅の疲労すら完全に消え去っていた。
「あの毒を無効化するなんて……。それに、さっきの光……」
マーシャは涙を拭い、僕の顔をじっと見つめた。
「エミール。君、魔王の呪いとは違う、何かとてつもない魔法を使った?」
「いや……何もしてない。ただ、君を守りたいって強く念じただけで……」
僕は首を振り、ふと、祭壇の方へ目を向けた。
「あっ……!」
マーシャも気づき、息を呑む。
祭壇の中央に置かれていた、あの『英雄の試金石』。
千年に一度の英雄の魂を持つ者が触れた時だけ光り輝くというその遺物が。
僕が触れてもいないのに、今、まるで太陽のように眩い「黄金の光」を放っていたのだ。
「試金石が……光ってる」
マーシャが震える声で呟く。
僕はゆっくりと祭壇に近づき、その光り輝く石を見つめた。
さっき僕の身体から溢れ出した光と、全く同じ色の輝き。
それはまるで、僕という存在に呼応して、千年もの眠りから目覚めたかのような反応だった。
「マーシャ……。もしかして、魔王の右腕の呪いが、この石の魔力に反応して暴走したのかな?」
僕は、信じられない現実から目を背けるように、そう仮説を立てた。僕が英雄などであるはずがない。僕はただの、大切なものを守れなかった、泥に塗れた復讐者なのだから。
マーシャはしばらく石と僕の顔を交互に見比べていたが、やがて小さく首を振った。
「……そうね。きっと、魔王の絶大な瘴気が、この聖なる遺物と反発して、あんな特異な現象を起こしたんだわ。君が毒を弾いたのも、魔王の呪いが君の命を勝手に守ろうとしたから……」
彼女の言葉には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
調律者である彼女の直感は、その光が「魔王のもの」ではなく、僕自身の魂から発せられたものであることに気づきかけていたのかもしれない。
だが、僕たちはあえて、その真実にこれ以上触れないことを選んだ。
「……とにかく、無事でよかった」
マーシャが微笑み、僕の手を優しく握る。
「ああ。これくらいで死んでたら、勇者も魔王も殺せないからな」
僕は彼女の手に力を込め、強く握り返した。
祭壇の試金石は、しばらくの間、僕たちを祝福するように静かに黄金の光を放ち続けていた。
この不可解な力の正体が何であれ、構わない。
僕の中に眠るこの力——どんな毒も退け、魔を浄化するこの光が、本当に『英雄』の力なのだとしたら。
僕はそのすべてを、マーシャを守り、この狂った世界を終わらせるために使い尽くしてやる。
吹雪の音は、いつの間にか止んでいた。
壊れた扉の向こう側には、これから待ち受ける過酷な運命を暗示するかのように、深く、冷たい闇が広がっていた。
僕たちはまだ知らない。
この先に、不死身の肉体を持つ狂気の射手・ヘンリーが待ち受けていることを。
そして、この日垣間見た「黄金の光」が、やがて神すらも凌駕する『1000年に一度の英雄』としての完全覚醒へと繋がる、最大の伏線であったことを。
****
吹き荒れる猛吹雪の廃村から逃れ、僕とマーシャが名もなき宿場町に辿り着いたのは、空が鉛色から深い藍色へと沈みかけ、凍てつくような夜の帳が下りようとしている頃だった。
「エミール、見て。明かりが見えるわ……!」
厚い防寒具越しでも震えているのがわかるマーシャの声に、僕は重い雪を掻き分ける足を止め、前方を凝視した。
猛吹雪の向こう側に、確かにオレンジ色の温かな灯りが幾つも滲んでいる。煙突から立ち昇る薪の匂いが、冷たい風に乗って微かに鼻腔をくすぐった。
「ああ、やっと着いたな。地図にあった中継ぎの宿場町だ」
僕たちは文字通り、這うようにしてその町へと滑り込んだ。
村を焼かれ、あの中級魔族の毒を浴びてからというもの、僕の身体は不思議なほどに軽い。あの廃教会で僕の身体から溢れ出した「黄金の光」が、疲労すらも浄化してしまったかのようだった。
だが、その代償のように、分厚いマントの下に隠された『魔王の右腕』は、人間の温もりを拒絶するかのように、時折ドクン、ドクンと不気味な脈動を打っている。
町外れの路地裏にある、古びた二階建ての安宿。
人の良さそうな女将さんに銀貨を握らせて部屋を確保した僕たちは、荷物を置くや否や、休む間もなく再び外へと出た。
温かいベッドに倒れ込みたい衝動を必死に堪え、向かったのは、女将さんに道順を聞き出した『町営の古文書院』だった。
「ごめんね、マーシャ。休みたいはずなのに」
「ううん、平気。それに……あの廃教会で見つけた『伝承』の続き、私も早く知りたいから」
マーシャは白く吐く息の中で、気丈に微笑んでみせた。
僕たちを助けてくれたあの老剣士は言った。『旧勇者パーティーの三人を倒せ。そうすれば自ずと力がつき、真相に辿り着く』と。
だが、ただ闇雲に追手を待つだけでは殺される。奴らはなぜ、かつての英雄でありながら勇者ラングルドの狂気の手駒に成り下がったのか。あの純白の悪魔を殺すための弱点は存在しないのか。
戦うための「情報」が、僕たちには決定的に不足していた。
カラン、と寂れた鐘の音を鳴らして古文書院の扉を開ける。
そこは、埃と古い羊皮紙の匂いが充満する、薄暗く広大な空間だった。老眼の進んだ管理人の老人は、僕たちが暖炉の火に当たることを条件に、閉館時間ギリギリまでの閲覧を許可してくれた。
「エミール、こっちよ。歴史や神話の分類は、この棚みたい」
マーシャが、小さな光の魔法(ライト)を指先に灯し、暗い書架の奥へと進んでいく。
僕たちは手分けして、王国歴の古い記録、魔王討伐に関する伝承、そして『勇者』という存在そのものの成り立ちに関する書物を手当たり次第に引き抜いては、ページをめくった。
数十分の静寂が続いた後。
「……エミール。これを見て」
分厚く、革の表紙がボロボロに崩れかけた古書を広げたまま、マーシャが震える声で僕を呼んだ。
駆け寄った僕の目に飛び込んできたのは、古代文字と王国語が入り混じった、ひどく難解な記述だった。
「これは……?」
「『聖なる加護の変質』について書かれた項目よ。エミール、あのお爺さんが言っていた言葉、覚えてる?」
老剣士の言葉。
――『奴らは、ラングルドと共に旅をした英雄たちだ。だが、今は堕天し、世界に害をなす存在へと成り下がっている』。
「『堕天』……」
「そう。この本には、その『堕天』という現象についての仮説が記されているわ」
マーシャは、指先の魔法の光を書面に近づけ、なぞるようにして読み解いていく。
「『神聖なる加護を受けし英雄の魂は、強靭であるがゆえに、一度その均衡が崩れれば深い闇へと反転する。これを堕天と呼ぶ』……」
「魂の、反転?」
「ええ。原因は大きく分けて二つあるみたい。一つは、上位の魔族やより強大な力を持つ者による『精神の直接的な操作』。強力な洗脳魔法のようなものね。そしてもう一つは……」
マーシャは言葉を区切り、辛そうに息を飲んだ。
「『己の心の傷、深い絶望、あるいは愛する者を失った喪失感によって、精神が完全に崩壊し、自らの意志で黒い心を持った怪物へと変貌すること』……って書いてあるわ」
絶望による、怪物への変貌。
その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
かつて、世界を救うために命を賭して戦った英雄たち。
彼らは今、勇者ラングルドの手駒として、僕たちのような何の罪もない村人を虐殺している。
もし、彼らが自ら望んで悪に染まったのではなく、ラングルドという底知れない悪魔によって『洗脳』されているのだとしたら。
あるいは、ラングルドの手によって、精神が崩壊するほどの『絶望』を人為的に与えられ、狂わされてしまったのだとしたら……。
「……ふざけるな」
僕の口から、低く、呪詛のような声が漏れた。
怒りで、視界が赤く染まる。右腕の脈動が、僕の殺意に呼応して激しく跳ねた。
「自分が世界を支配するために、かつて背中を預けた仲間たちの心すらも壊して、手駒にしたっていうのか。あの白亜のクソ野郎は……!!」
「エミール、落ち着いて。……右腕が、瘴気を放ってる」
マーシャの冷たく柔らかい手が、僕の右腕をそっと包み込んだ。
その温もりに触れ、僕はハッと我に返り、荒くなっていた呼吸を整えた。いけない、少しでも感情を乱せば、魔王の瘴気に意識を持っていかれそうになる。
「……ごめん。でも、これで敵の輪郭が少しだけ見えた。奴らはただの殺人鬼じゃない。心底狂っているか、操られている化け物だ。一切の情けをかける必要はない」
「うん。……でもね、エミール。もっと厄介な記述が、別の本にあったの」
マーシャは、隣に積まれていた、さらに古い——表紙のタイトルすら削れ落ちている一冊の黒い本を開いた。
その本は、先ほどの本以上に不気味な雰囲気を漂わせていた。ページを開いた瞬間、微かに古い血の匂いがしたような気がした。
「これは、魔王討伐の裏に隠された、もう一つの『システム』について書かれた異端の書のようね。……エミールは、『調律者』って言葉を聞いたことがある?」
「調律者……? いや、ないな」
聞いたことのない単語だった。
楽器の音を合わせる人間のことか? いや、文脈からしてそんな牧歌的な意味ではないだろう。
「……あの勇者が、なぜあんなにも絶対的で、不老不死に近い存在なのか。その秘密が、この『調律者』にあるかもしれないの」
マーシャは、古い羊皮紙に記されたかすれた文字を、まるで呪文を唱えるように静かに読み上げた。
「『勇者の命は、星の理(ことわり)と深く結びついている。だが、その強大すぎる力は、時に器たる人間を壊してしまう。ゆえに、神は勇者と対になる存在を世界に遣わした。それを“調律者”と呼ぶ』」
「勇者と対になる存在……」
「『調律者は、勇者の魂の均衡を保つための楔(くさび)である。勇者が受けた致命の傷は、調律者との繋がりがある限り、即座に星の力によって修復される。すなわち、調律者が生を全うする限り、勇者は決して死ぬことはない——』」
その残酷な一文が、埃っぽい書庫の空気に重く沈み込んだ。
エミールが何かを言おうとした、その瞬間だった。
「あ……ぁ、ぐっ……!」
突如、頭蓋骨を内側からハンマーで殴られたような、視界が真っ白に飛ぶほどの激痛が私を襲った。
手から黒い本が滑り落ち、床に鈍い音を立てて落ちる。
『調律者』。その単語を口にした瞬間、脳の奥底に何重にもかけていたはずの分厚い鍵が、無理やりこじ開けられるような感覚。
「マーシャ!? 大丈夫か!」
エミールの焦燥に満ちた声が、ひどく遠く聞こえる。
ごめんね、エミール。急に取り乱したりして。そう言おうとした私の意識は、そこでぷつりと途切れた。
冷たい石の床に倒れ込んだはずの私の身体は、底なしの暗闇へと真っ逆さまに落ちていき――。
やがて、眩しい光と、肌を焦がすような夏の熱気、そしてけたたましい蝉の声に包まれた。
(…………………………)
「あんたなんか大嫌い! もう絶交してやる!!」
「ふん、俺だってお前のことなんか嫌いだ! たかがプリンをちょっと食べただけで、ここまで怒るなんてな!!」
「カス……! カスぅ……! あんたなんか! あんたなんかァ! 絶対に覚えてろぉ!!」
けたたましい怒声が、平和な昼下がりの町に響き渡る。
私の名前は、マーシャ・アドミニストレーター。
当時、まだ七歳の女の子であり……この小さな町で一番恐れられている、札付きの「不良少女」だった。
土埃の舞う路地裏を抜け、優雅に町の大通りを闊歩する私を、誰も止めることはできない。大人たちでさえ、私の不機嫌な顔を見ると苦笑いして道を譲るほどだった。
そんな私が、さっきまで顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた相手。
それは、私が楽しみに取っておいた特製のカスタードプリンを、私の許可もなしに勝手に食べやがった憎きクソガキ――ロイド・アガルタだった。
「もう二度と口利かないんだから!」と捨て台詞を吐いて絶交を宣言したものの、私の怒りは一向に収まらなかった。あんなに楽しみにしていたのに。表面のカラメルが絶妙に焦げていて、とびきり美味しそうだったのに。
それにしても……まだあいつ、私の後ろをコソコソとつけてきている。しつこいわねえ、あのガキぃ。足音も隠しきれていないじゃないの。
私はピタリと足を止め、振り返らずに声を張り上げた。
「おい、ロイド・アガルタァ! そこの木箱の裏に隠れてないで、さっさと出てきなさい!!」
ビクッ、と木箱が揺れ、観念したようにロイド・アガルタが物陰から姿を現した。
服には土埃をつけ、頭には寝癖を跳ねさせた、同い年の生意気な男の子だ。
「クソっ、なんで分かったァ!! 完璧な尾行だったはずなのに!」
「あんたの荒い息遣いなんて、百メートル先からでも分かるわよ! それで、何が目的よ、このクソガキ!! まだ私から何か奪う気!?」
私が腰に手を当てて睨みつけると、ロイドはバツが悪そうに視線を泳がせ、やがてぽつりと呟いた。
「マーシャ……! その……悪かった。お前のプリン、勝手に食べて」
「……ふーん」
私は、少しだけ目を丸くした。
こいつ……ちゃんと自分から反省できるんだ。孤児院育ちで、いつもなら意地を張って絶対に謝らないのに、今日はやけに素直じゃないの。少しは感心してあげてもいいかもしれない。
「だから、今度から気をつける」
ロイドは、真剣な顔をして深く頷いた。
「何を? ……ま、私はあんたのこと許すなんて、まだ一言も言ってないけど!」
私が少しだけ態度を軟化させて腕を組むと、ロイドは胸を張って、堂々とこう言い放った。
「今度からは、お前にバレないように『こっそり』食べる……から!」
「…………ぁ゙ぁ゙?」
私のこめかみで、プツンと何かが切れる音がした。夏の暑さも相まって、頭に血が上るのが自分でもわかった。
「いや……! だから、お前が悲しまないように、完全犯罪で……!!」
「歯ぁ゙食いしばれ、ロイド」
「え……! ちょ、まっ……うわあぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!!」
私は、背中に提げていた愛用の木製の杖を引き抜くと、一切の容赦なく、全力でロイドの頭頂部に向かって振り下ろした。
ゴッ、という鈍い音と共に、ロイドの悲鳴が夏の青空に響き渡った。
(………………)
それから、私は自分の家に帰ってきた。
「マーシャ。またロイドくんのことをボコボコにしたの?」
夕食のシチューの準備をしていたお母さんが、呆れたような、それでいて少し怒ったような顔で私を叱りつけてきた。
窓の外からでも、ロイドの泣き叫ぶ声が聞こえていたのだろう。まあ、確かにあれは少しやりすぎたかな、と心の片隅で思いつつも、私はぷいっとそっぽを向いた。
「いや、ちょっと喧嘩しただけだし。それに、先に手を出したのはあっちよ。私のプリン食べたんだから」
「にしても、あれはやりすぎでしょ!? マーシャ!! ロイドくんの頭、すごく大きなタンコブができてたって、近所のおばさんが言ってたわよ!」
確かにそうだ。私の会心の一撃を食らったロイドの頭には、立派なタンコブがそびえ立っていた。
でも……ロイドだって、たいしたことやってないのかもしれないけど、放っておけばとんでもないトラブルを引き起こす問題児なのだ。
例えば、私のプリンを食べようとしたのは可愛いほうだ。
この前なんて、町の商人の金庫を指して「あそこからお金を取ってくれば、一生お菓子が食べ放題だぞ!」と言って本気で銀行強盗めいたことを企てようとしたから、私が必死に止めに入ったのだ。
他にも、町のお祭りの日に広場のど真ん中で大量の爆竹を爆発させようとして、私が身を挺して阻止したこともあった。
アイツは、私が目を光らせていないと、すぐにバカなことをする。
う〜ん。でも、やっぱり今日のプリンの恨みは深い。
あのバカなガキとは、しばらく絶交のままで良いだろう。やっぱ。
(………………)
これは、そんな他愛のない日常が、永遠に続くと思っていた、ある日のことだった。
「マーシャ! おはよう!!」
「おはよ〜! お母さん! ……あれ、お父さんは?」
いつものように起きてきて食卓についた私だったが、いつも窓辺で新聞を読んでいるはずのお父さんの姿が見当たらなかった。
「お父さんはね。今、お仕事で王都の王宮に行ってるところよ」
ふ〜ん。お父さんが王宮へ……か。
ただの地方役人だと思っていたけれど、お父さんはずいぶん出世したもんだ。私はそんなことを呑気に考えながら、焼きたてのパンにたっぷりとイチゴジャムを塗っていた。
すると、お母さんの表情が、ふっと険しいものに変わった。
今まで見たこともないような、ひどく冷たくて、切羽詰まったような顔だった。
「あと、マーシャ」
「なに? お母さん。急に怖い顔して……」
お母さんは、私の目を真っ直ぐに見据えて、冷徹な声で言い放った。
「ロイドくんには、もう絶対に、話しかけてはいけません」
「……え?」
パンを持った手が止まった。
この一言を聞いたとき、私は「ロイドに話しかけられないことの悲しさ」よりも、「なんでお母さんが、急にあいつのことをそんな風に言うんだろう?」という純粋な疑問が勝っていた。
いつもなら、「喧嘩ばかりしてないで仲良くしなさい」と笑って言うお母さんが、どうして。
しかし、その疑問がただの強がりであったことに、私はすぐに気づかされることになる。
その日の午後、お母さんが「少し遠く離れた町の知り合いのところへ行ってくる」と言って家を空けたあと。
誰もいなくなった静かな家の中で、一人ぼっちになった私の頬を、冷たいものが伝った。
ポロポロと、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
拭っても、拭っても、涙は止まらなかった。
――なんだろう。この気持ち。
私、なんでこんなに悲しくなっちゃってるんだろう。
あんなクソガキ、絶交したって清々するだけのはずなのに。どうして、胸の奥がこんなにギリギリと締め付けられて、涙が止まらなくなってるんだろう。
私は、誰もいない薄暗い部屋の中で、膝を抱えながら独り言を呟いた。
「……会いたいよ。ロイド」
思えば、あいつと出会って三年。
あいつと出会って、いっぱい話して、一緒に町を駆け回って、いっぱい喧嘩して。
お互いにバカなことを言い合いながら、いっぱい助け合っていくうちに……。
私は。
あいつのこと……ずっと前から、好きになってたのかもしれない。
彼が隣にいない日常なんて、考えられないくらいに。
(………………)
お母さんの言いつけなんて、もうどうでもよかった。
私は家を飛び出し、石畳の道を無我夢中で走った。ロイドがいつも暇を潰している、あの大広場へと向かって。
息を切らして広場に到着すると、案の定……木漏れ日の下、ベンチにちょこんと座って下を向いているロイドの姿を見つけた。
「ロイド! 会いにきたよ!」
私が期待に胸を膨らませて駆け寄ると、ロイドはゆっくりと顔を上げた。
「お前……」
「ロイド! 私……!」
謝ろうと思った。プリンのことなんてどうでもいい。絶交なんて嘘だと言いたかった。お母さんに止められたけど、私には関係ないって伝えたかった。
しかし、私を見つめるロイドの瞳は、これまでに見たことがないほど、氷のように冷酷なものだった。
「……なんで来た。マーシャ」
その低く冷たい声に、私の足はピタリと止まった。
「え……? ロイド……?」
ロイドは立ち上がり、私を汚いものでも見るかのような目で睨みつけた。
「俺は、お前のことが大嫌いだ。それは、これからもずっと同じだ」
胸を鋭い刃物でえぐられたような衝撃だった。
冗談を言っている顔じゃない。本気で、心の底から私を拒絶している顔だった。昨日まであんなにふざけ合っていたのに。
「とっとと失せろ。俺に血だらけになるまで殴られたく無かったらな!!」
「………………なによ」
悲しみが限界を超えると、人は怒りに変わるのだと、この時初めて知った。
涙で視界が滲むのを必死に堪えながら、私は全身を震わせて、彼への反撃の言葉を絞り出した。
私の不器用な初恋を粉々に踏みにじった彼に、一番突き刺さるであろう最悪の言葉を。
「私も……! あんたなんか……!」
言ってはいけないと分かっていた。
でも、もう止まらなかった。
「この世にいなければ良かった!! 死んでしまえ!!!」
私の絶叫が、広場に木霊した。
取り返しのつかない言葉。それを聞いたロイドは、一瞬だけ悲しそうに顔を歪めたように見えたが、すぐに元の冷たい表情に戻り、吐き捨てるように言った。
「ああ、それでいい! とっとと失せろ! 二度と俺の前に現れるんじゃねえ!! クソ女!!」
それが、私とロイドが交わした、最後から二番目の会話だった。
こうして、私とロイド・アガルタは、本当の意味で絶交することになった。
二人の間に横たわる、決して埋まることのない残酷な真実と、世界の運命など、この時の私には知る由もなかったのだ。
****
「死んでしまえ!」と叫んでしまった自分の声が、耳の奥で何度も何度も、呪いのように反響していた。
私は広場を飛び出し、入り組んだ裏路地を無我夢中で走った。
走って、走って、走り続けた。
まるで、ロイドに向けた最低な言葉から、そして自分自身の抱えきれない感情から逃げ出すように。
「なんで……っ!」
溢れてくる涙を乱暴に袖で拭うが、視界はすぐに滲んでしまう。
思い出しただけで、胸の奥が焼けるようにイライラする。あんな奴のことを、少しでも「好きだ」なんて思ってしまった私が馬鹿だった。私の初恋は、あんな冷酷なクソガキなんかじゃない。
あんな奴……!
あんな奴なんて……!
「大嫌いだ……っ」
嗚咽と共に漏れたその言葉は、誰よりも私自身の心を鋭くえぐっていた。
「――見つけたぞ、嬢ちゃん」
不意に。
前方を塞ぐように、低く冷たい男の声が降ってきた。
「……え?」
私は急ブレーキをかけ、石畳の上でつんのめりそうになりながら足を止めた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、この辺境の町には全く似つかわしくない、磨き上げられた純白の甲冑に身を包んだ屈強な男たちだった。
胸元に刻まれた紋章。間違いない、王国騎士団の兵士だ。
なんで……王都のエリート騎士が、こんな田舎町に?
「捕らえろ。絶対に殺すなよ。生け捕りだ」
リーダー格の男が顎でしゃくった瞬間、背後に回っていた別の気配が動いた。
逃げようと足に力を入れた時には、もう遅かった。
ゴッ!!
「あ……」
後頭部に、硬く重い衝撃が走る。
痛みを認識するよりも先に、私の意識は急激に暗転し、石畳の冷たさを頬に感じながら、完全な暗闇へと落ちていった。
(………………)
暗闇の中で、私は酷くうなされていた。
これからの漠然とした不安、後頭部の鈍い痛み、そして何より……ロイドにひどい言葉をぶつけてしまったことへの、どうしようもない後悔。
「ごめんなさい」という言葉が喉の奥でつっかえたまま、私は重い瞼をゆっくりとこじ開けた。
「……ん」
霞む視界が徐々に焦点を結ぶ。
肌を刺すような冷たい風。ざわざわという無数の人の気配。
自分が今、町の広場の中心にある噴水の前……普段は子供たちが集まって遊ぶ場所にいることに気がついた。
だが、状況は絶望的だった。
私は、広場の中心に立てられた太い木の柱に、背中合わせで縛り付けられていた。麻縄が手首や胴体にきつく食い込み、身動き一つ取れない。
七歳の子供の力では、到底振りほどけるものではなかった。魔法の知識も力も、今の私にはない。
「だれか……」
助けを呼ぼうと声を出しかけて、私は息を呑んだ。
広場を埋め尽くすように、ぐるりと私を取り囲んでいる群衆。それは、昨日まで気さくに挨拶を交わしていた、町じゅうの人達だった。
しかし、その顔に浮かんでいるのは、見知った温かな表情ではなかった。
恐ろしいほどの『怨念』と『憎悪』。
パン屋のおじさんも、花屋のおばさんも、一緒に遊んだ子供たちでさえもが、まるで汚らわしい化け物を見るような、氷のように冷たい目線で私を睨みつけていたのだ。
みんな……私の敵なの?
これは、何かの悪い夢?
私は、ただの悪戯好きの子供で……殺されるような悪いことなんて、何もしていないのに。
恐怖で全身がガタガタと震え出した。
神様。いるなら……お願い、私を早く助けて!
お父さん! お母さん! どこにいるの!?
「お父さん!! お母さぁん!! 私をっ……助けてよぉ!!」
半狂乱になって叫ぶ私の声は、冷え切った広場の空気に虚しく吸い込まれるだけだった。
「無駄だ。お前のお父さんとお母さんなら、こうなることを予測して、遠くの町へ行くように儂らが仕向けたわい」
群衆が海が割れるように道を開け、そこから、豪奢な衣装と重厚な王冠を身につけた初老の男が進み出てきた。
その背後には、先ほど私を気絶させた騎士たちが恭しく付き従っている。
え……?
なんで……一国の頂点である『国王陛下』が、自らこんな辺境の地に?
国王は、私の目の前まで歩み寄ると、虫けらを見下ろすような目で私を睨み据えた。
「マーシャ・アドミニストレーター。お前は……生まれるべきでは無かったのだ」
「……なんで」
震える声で聞き返すのが精一杯だった。
「お前が、我が王国の最も邪魔となる『絶対的な危険存在』だからだ」
「だから……なんで! 私はただの……!」
「お前は、神が無作為に選んだ、生まれつきの権力者だ。……もしかしてお前、自分が何者なのか、親から何も聞かされていないのか?」
国王の言葉に、私は息を詰まらせた。
私自身が、何者か?
「私は……誰……なの?」
「なら、冥土の土産に望むとおり教えてやろう」
国王は、広場に響き渡るよく通る声で、死刑宣告のように告げた。
「お前の正体は……この世界の真の頂点にして、王国の最も危険な反乱分子。世界の理を書き換える力を持つ――『調律者』である」
(………………)
「ちょう……りつしゃ……?」
聞いたこともない言葉だった。
それが何を意味するのか、七歳の私には全く理解できなかった。ただ、それが「世界中から命を狙われるほどの大罪」の証なのだということだけは、肌で感じ取れた。
「そうだ。お前は儂らにとっての悪魔の子だ。だから、お前をここで殺す。そしてまた次の調律者が現れれば、それを殺す。我々はその繰り返しで、この国の平和を維持してきたのだ」
「いや……だ。死にたくない……」
「恨むなら、こんな残酷な運命をお前に背負わせた、この世界の神々を恨むのだな」
国王は無慈悲に宣告し、冷酷に右手を振り上げた。
「何故なら……調律者は、この世界に不要なのだからな! やれ、お前ら」
「ハッ!!」
周囲を囲んでいた騎士たちが一斉に槍を構え、じりじりと距離を詰めてくる。
鋭く尖った無数の刃先が、私に向けられていた。
そっか。
本当に、私……ここで殺されるんだ。
ロイドに謝ることもできないまま。
「やれ! どうした……早くやらんか!!」
国王が声を荒げた。
騎士たちの動きが、何故かピタリと止まっていたのだ。彼らは戸惑ったように顔を見合わせ、広場の入り口の方へと視線を向けている。
嘘。
どうして……君が、ここにいるの??
「何をやっておる! お前ら、早くその忌まわしいガキを串刺しにせんか!!」
「で、ですが国王陛下……! 先日、偶然にも王族の血の繋がりが見つかって、次期国王(皇太子)として迎え入れられたばかりの『あの坊ちゃん』が……」
「ああ!? あいつがどうしたというのだ!!」
「後ろで、何か……武器を構えて立ち塞がっております!!」
群衆がどよめき、道が開いた。
そこに立っていたのは、私の大嫌いで、大好きな、一人の少年。
「ロイド……逃げて……っ」
私の掠れた声を掻き消すように、ロイド・アガルタは両手を大きく広げ、騎士たちと私の間に立ちはだかった。
その手には、どこから拾ってきたのか、古びた鉄の剣が握られている。
「やめろ、お前ら!! こいつは……この俺、”次期国王”ロイド・アガルタ様の大切な人だ!! 絶対に手を出させるもんかよ!!」
「ロイド……!」
ボロボロになりながらも私を庇うその背中を見て、私は涙が溢れるのを止められなかった。
しかし、その光景を見た国王は、呆れたようにため息をついた後、腹を抱えて爆笑し始めた。
「ハハハハッ! 貴様に、何ができるというのだ!! 貴様は確かに血筋としてはこの国の未来ではあるが、今はただの路地裏で育った薄汚い子供に過ぎない!! 人の上に立つ『覚悟』など、欠片も持ち合わせておらんだろう!!」
「くっ……!!」
国王の圧倒的な威圧感に、ロイドは歯を食いしばりのけぞった。
「もし……もしだ!」
国王は、悪趣味なゲームを思いついたように口角を吊り上げた。
「もし貴様が、その命を賭してでも覚悟を示せたなら、この小娘の命を見逃してやろう! さあ、どうする!? 次期国王、ロイド・アガルタよ!!」
ロイドの肩が、ピクリと震えた。
彼は逃げない。このままでは、彼は国王の凶刃に倒れてしまう。
(ロイド……)
助けに来てくれて、本当に嬉しい。
君が私を「大切な人」と呼んでくれただけで、私の胸は張り裂けそうなくらい温かくなった。
でも、私ね。
やっぱり、あなたのことが……大好きだから。
世界中の誰よりも、愛しているから。
あなたに危険な目に遭ってほしくない。
この先、私なんかと一緒にいて、不幸になってほしくない。
次期国王として、安全な場所で、これからもずっと幸せに生きてほしい。
だから。
今から、とびきりの嘘をつくね。
だからお願い、ロイド。
私のことを、心の底から嫌いになって?
私のことなんか、忘れて生きて?
「ロイド……!」
私が声を振り絞ると、ロイドは焦ったように振り返った。
「マーシャ、大丈夫だ! 俺はお前を助けに……!!」
「私は、お前のことが大嫌いだ!! ずっと!! これからも!!!」
ロイドの顔から、血の気が引くのが分かった。
「マーシャ……?」
「私は、広場であんたに『嫌い』って言われたけど!! 私のほうが、あんたのこと大嫌いだ!! 大嫌い……!! 大嫌いなのよ!!」
「マーシャ……」
心が、千切れるように痛かった。
声が震えないように必死だったのに、気づけば私の顔は、ボロボロと溢れ出る涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「だから……っ!」
早く、私を見捨てて。
「はやく……! 私のことなんか、忘れてよ!!」
――それが、私の心から漏れてしまった、痛切な本音だった。
「時間切れだ」
国王の冷酷な声が、私の悲鳴を断ち切った。
「兵士たちよ。構わん、次期国王ごと、槍でその女を突き刺せ」
「御意!!」
殺意を宿した号令。
重い甲冑の擦れる音と、複数の足音が、地響きのようにこちらへ迫ってくる。
ああっ……逃げて、ロイド!!
私は、恐怖と絶望で強くまぶたを閉じた。
死ぬ。
今度こそ、間違いなく死ぬんだ。
しかし……。
一秒、二秒、五秒。
どれだけ時が経っても、私の体に鋭い痛みが訪れることはなかった。
代わりに聞こえたのは、生温かい液体が地面に滴り落ちる音と、人々の息を呑む声。
私は、恐る恐るまぶたを開けた。
「ロイド……?」
目の前には、私をすっぽりと隠すようにして立つ、見慣れた背中があった。
「やりやがったな! せっかく苦労して跡継ぎを見つけたところを!! 貴様ら、ロイド・アガルタになんてことを!!」
錯乱したように叫ぶ国王の声。
「ひぃっ! 陛下が『ごと刺せ』と仰ったから……!」
戸惑い、後退りする兵士たちの声。
群衆のざわざわとした悲鳴。
すべてが、水底で聞いているように遠く、非現実的だった。
私は、もう一度、ゆっくりと視線を下へ向けた。
すると……
そこにあったのは。
私を庇うように両腕を広げたまま……
背中から胸へ向けて、何本もの鋭い鉄の槍で、身体のあちこちを完全に貫かれた、ロイド・アガルタの血まみれの姿だった。
(あの時、ロイドは……勇者ラングルドの悪辣な罠に嵌められ、私を救うために「嫌いだ」と嘘をつかされていたのだと、私が知ったのはずっと後のことだった。)
ボタボタと、彼の口から吐き出された血が、石畳を赤く染めていく。
全部……私のせいで。
私なんかが、この世界にいなければ。調律者なんていう呪われた存在に生まれてこなければ。
ロイドは、こんな冷たい槍に貫かれることはなかった。次期国王として、温かいベッドで、美味しいものをたくさん食べて、幸せに生きられたはずなのに!
「ロイド……? なんで……」
全身の血の気が引き、私の喉からヒューヒューと掠れた音だけが漏れる。
「私のこと……嫌いじゃないの……? ねえ! ロイドォ!! なんで……!!」
「私なんかのために!! ロイドの本当の気持ちも知らずに、あんなひどいことを言った、私なんかのために……!!!」
縛られたままの私の顔は、とめどなく溢れる涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
ロイドは、口の端から血を流しながら、激痛に顔を歪め、それでも私を振り返って、笑おうとした。
「マーシャ……」
「ロイド……ッ!」
「……愛してる!!」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
「ロイ……ド……?」
「あー……わりぃ。今の、やっぱ無しで。お前は俺のことなんか忘れて、どっかで勝手に幸せに生き……」
「マーシャ……? 何を……」
私は、顔を真っ赤にして照れ隠しをしようとする彼の言葉を遮るように、拘束された状態から必死に身を乗り出し――
涙をポロポロとこぼしているロイドの血まみれの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
抑え込もうとしても滝のように溢れる涙が、ロイドの頬を伝い落ちる。
血の味と、涙のしょっぱさが混じり合った、ロイドと私の、最初にして最後の熱いキスだった。
「ロイド……」
「マーシャ、俺……」
「良いの。私と一緒に……逝こ?」
「ごめん! ごめん!! 俺……!! 俺ェ……!!」
ロイドの悲痛な嗚咽が響く中、背後の国王が忌々しそうに怒号を上げた。
「ええい、今だ!! 兵士たちよ!! 謀反人ロイド・アガルタごと、その悪魔を刺し殺してしまえぇ!!!」
「ロイド……」
「私も、愛してるよ」
その瞬間、ロイドは……痛みを忘れたかのように、出会った頃と同じ、無邪気で優しい表情で微笑んだ。
「マーシャ。……幸せにしてやれなくて、ごめんな」
それが、彼の最後の言葉だった。
直後、無数の槍がロイドの身体を深々と貫き、その後ろにいた私の身体をも容赦なく貫通した。
焼けるような激痛。ごぼりと喉に湧き上がる鮮血。
今思えば、あの「幸せにしてやれなくてごめんな」という最後の言葉こそが、ロイドと私が交わした、たったひとつの『約束』だったのかもしれない。
――こうして、私、マーシャ・アドミニストレーターは死んだ。
(………………)
だが、私は世界からその存在を完全に忘れ去られるその瞬間まで、「マーシャ」として確かに存在していた。
私が処刑の槍に貫かれて命を落としたのは、今から十年も前のことだ。
なのに……何故か、私はこの世界を彷徨い続けていた。
それは、私がこの世に強烈な『未練』を抱えたまま死んだ、霊体(ゴースト)だったからだ。
私が死の淵から霊体として再びこの世界の空気を吸い、目を開けたとき……私はすぐに気づいた。
今の私に足りないもの。それは、私を置いて遠くの町へ行かされていた「お父さんとお母さん」だと。
処刑の混乱の後、町を逃げ出した両親と再会を果たした私は、再び彼らの娘として共に暮らし始めた。
お父さんとお母さんは、生き返った(ように見えた)私を抱きしめ、涙を流して愛してくれた。私が死の境界を超えた『霊体』であることに、彼らが気づくことは決してなかった。
だけど……やがて残酷な現実を思い知ることになる。
移住先の村長が放った「マーシャ・アドミニストレーターは世界を滅ぼす悪魔である。惨殺せよ」という言葉。
それから、私達の地獄の逃亡生活が始まった。
私のせいで、大好きなお父さんとお母さんが、ボロボロになっていく。
何度も、何度も、私は自分で自分の首にナイフを突き立て、自殺しようとした。
でも、私はすでに死んでいる霊体だった。刃物は喉をすり抜け、絶対に『死ねない』。
私は、夜が来るたびに泣いた。
私は、生きる価値なんてないのに。本当は、とうの昔にロイドと一緒に死んでいるのに。
やがて、果てしない逃亡の末に、私達は雪深き北の辺境の村へと辿り着いた。
その村では、ちょうど『冬祭り』が行われていた。
その、白銀の雪が舞う冬祭りの夜に。
私は、エミール・ハーヴェストという名の、不器用で優しい瞳をした少年と出会ったのだ。
(………………)
「……ハッ!!」
大きく息を吸い込み、私は跳ね起きた。
額にはべっとりと冷や汗が張り付き、肩で激しく息をしている。
「マーシャ! 大丈夫か!? 気を失ってたんだぞ!」
視界が鮮明になると、そこにはランプの淡い光と、私を心配そうに覗き込むエミールの顔があった。
彼の大きな手が、私の冷え切った手をしっかりと握りしめている。
ここは、あの雪降る村じゃない。王都を目指す過酷な旅の途中で立ち寄った、薄暗い『古文書院』の床の上だ。
私は、息を整えながら、自分の顔を覆った。
頬は濡れていた。
ロイド。私の、最初の愛しい人。私を守るために嘘をつき、その命を散らした彼。
私が霊体としてこの世界に縛り付けられ、絶望の中で逃げ惑い続けていたあの日々。
あの夢……いや、忌まわしくも愛おしい『過去の記憶』が、あの黒い本を読んだことで強制的にフラッシュバックしたのだ。
「エミール……」
「無理するな。あの本に触れて、何か強い呪いでも当てられたんだろ。もう読まなくていい」
エミールは私の背中を優しくさすってくれた。その手の温もりが、冷え切った霊体であるはずの私の魂の奥まで、じんわりと染み渡っていくのが分かった。
ロイドは、私を守って死んだ。
「幸せにしてやれなくてごめんな」と言い残して。
もし、彼が今の私を見たら、どう思うだろう。
自分のせいで両親を逃亡生活に巻き込み、死ぬこともできず、ただ絶望に泣き濡れていた私を見て、彼は安心してくれるだろうか。
……ううん。違う。
ロイドが命を賭けて繋いでくれたこの魂を、私は決して無駄にはしない。
私は顔を上げ、エミールの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
エミール。冬祭りの夜、私に「俺が君を守る」と誓い、あんな理不尽な魔王の呪いをその身に宿してまで、私の隣に立ち続けてくれている人。
ロイドが教えてくれた「愛することの尊さ」を、私は今度こそ、絶対に手放さない。
もう、誰も私の目の前で死なせない。
私が、今度こそ大切な人を守り抜く。
「エミール。私、もう大丈夫。……ありがとう」
私は、震えの止まった手で、彼の手を強く握り返した。
その手は、氷のように冷たい私の手とは違い、力強く、確かな命の鼓動を刻んでいた。
ロイドの犠牲があったからこそ、私はこの温もりの意味を知ることができたのだ。過去の悲しみは、決して私の足を引っ張る鎖じゃない。今、目の前にいるエミールを守り抜くための、最も強靭な盾になるのだと。
私は、確かな決意を胸に、古文書院の薄暗い天井を見上げた。
勇者ラングルド。そして、私を呪われた運命へと引きずり込んだこの世界の理。
そのすべてを打ち砕き、エミールと共に生きる未来を掴み取るために。私は、私自身のすべてを懸けて戦う覚悟を、ここに完了させたのだ。
外に出ると、猛吹雪は少しだけ弱まっていたが、冷え込みはさらに厳しくなっていた。
僕たちは肩を寄せ合いながら、路地裏の安宿へと戻った。
一階の食堂では、女将さんが約束通り、野菜がたっぷり入った温かいスープと、焼きたての黒パンを用意して待ってくれていた。
「おかえりなさい。若いのに、こんな雪の中を熱心に調べ物なんて偉いわね。さあ、冷めないうちに食べて」
湯気を立てるスープの匂いに、張り詰めていた神経が少しだけ解けていくのがわかった。
一口飲むと、野菜の甘みと塩気が、冷え切った内臓にじんわりと染み渡る。
「……美味しい」
「ふふっ、本当。すごく温まるね」
マーシャの頬にも、ようやく血の気が戻ってきた。
その笑顔を見て、僕は心から安堵した。
彼女が誰であろうと、どんな運命を背負っていようと関係ない。
僕が守ると誓ったんだ。あの狂った勇者からも、旧勇者パーティーの刺客からも、魔王の呪いからも。すべてを僕が切り裂いて、この笑顔を守り抜く。
スープの温もりが、僕の心の中に静かな決意の炎を灯した。
部屋に戻り、冷え切った身体を休めるためにベッドに潜り込む。
「おやすみ、エミール。今日も……ありがとう」
「おやすみ、マーシャ」
隣のベッドで、マーシャが規則正しい寝息を立て始める。
僕は、ほんの少しだけ開けた窓の隙間から、舞い散る雪を眺めていた。
この静寂が、永遠に続けばいいのに。
だが、僕たちの運命は、すでに理不尽な暴力の射程圏内に捉えられていた。
この安宿から遥か数キロメートル離れた雪山の頂で。
『堕天』した地上最強の狙撃手、ヘンリー・テイラーが、絶対的な死の弓を引き絞っていることなど、この時の僕は知る由もなかったのだ。
そして、夢の中で亡き父の声が警告を告げる、あの中途半端な眠りの底へと、僕は静かに沈んでいった——。
第五話
『目を覚ませ。危機が近づいている』
頭蓋骨の裏側を直接撫でられるような、冷たくて不気味な声だった。
その正体不明の囁きが脳裏に反響し、僕はハッと息を呑んで目を覚ました。
シーツを握りしめる手には、じっとりと冷や汗が滲んでいた。浅い呼吸を繰り返し、暗闇の中で激しく打つ心臓の音を落ち着かせようと努める。
危機……?
暗い部屋の中を見回したが、そこには静寂しかなかった。
前にも、これと似たような警告の声が夢の中で聞こえたことがある。
そう、昨日の夜だ。僕の生まれ育った村が、伝説の勇者ラングルド・ハーヴェストによって無惨に焼き払われ、両親が惨殺された、あの悪夢のような夜に。
僕とマーシャは、あの猛吹雪の夜から死に物狂いで逃げ延びていた。
僕たちを救ってくれた謎の老剣士の言葉に従い、まずは勇者に付き従う「旧勇者パーティー」の三人を討ち取るため、そして彼らのアジトを探るための旅を続けている。
すべては、僕のすべてを奪ったあの白亜の悪魔――勇者を殺すために。
その情報収集と休息を兼ねて、僕らは村から遠く離れたこの小さな宿場町に立ち寄り、目立たない路地裏にある古びた宿屋の一室を借りていた。
一階では人の良さそうな女将さんが温かいスープを振る舞ってくれ、久しぶりに「普通の人間」の温もりに触れた気がした。
僕はベッドの上で身を起こし、隣のベッドで規則正しい寝息を立てているマーシャに目を向けた。
彼女もまた、心と体に深い傷を負っている。両親を失った悲しみを胸の奥底に押し込め、僕を支えるために無理をして笑ってくれているのを、僕は知っている。
彼女の安らかな寝顔を見るだけで、僕の心に渦巻く復讐の炎が、ほんの少しだけ和らぐような気がした。
僕は毛布を肩にかけ、ベッドを抜け出して窓辺へと向かった。
部屋が寒くならないよう、ほんの少しだけ窓の隙間を開け、そこから外の景色を眺める。
空からは、村にいた時と同じように、シトシトと静かに雪が降り続いていた。白銀の世界は月の光を反射し、どこまでも美しく、そして残酷なほどに静まり返っていた。
明日の旅は、今日よりもさらに過酷になるだろう。
旧勇者パーティーの足跡を追うことは、常に死と隣り合わせであることを意味する。
だから、今は余計なことは考えず、少しでも早く体を休めなければならない。窓の隙間から舞い込んでくる冷たい雪の粒を数え、無理やりにでも眠りにつこうとした。
それにしても……。
さっきの夢の声は、何だったのだろうか。
危機が近づいている、と。
あの老剣士のテレパシーか何かだろうか。それとも、極限状態のストレスが見せた単なる幻聴か。
……まさかな。
こんな吹雪の夜に、しかも身分を隠して泊まっているこの安宿まで、追手がすぐに辿り着くはずがない。
僕はそう自分に言い聞かせ、窓を閉めようと手を伸ばした。
(………………………)
『気をつけろ。すでに攻撃されている』
(………………………)
……!?
何だ……今の声は……!?
僕が目を見開いた、その瞬間だった。
ヒュッ、という、空気を極限まで切り裂くような鋭い音が耳に届いたのは、ほぼ同時のことだった。
眠気など、とうの昔に吹き飛んでいた。
何故なら、僕がほんの数センチだけ開けていた窓の隙間を縫うようにして、漆黒の凶器が突如として部屋の中に侵入してきたからだ。
「え……?」
理解するよりも早く、肉が裂け、骨が軋む鈍い音が部屋に響いた。
「ぐああああああッッ!!!!」
遅れてやってきた凄まじい激痛に、僕は思わず喉が裂けんばかりの絶叫を上げていた。
僕の左腕の上腕部を、太く長い「矢」が完全に貫通し、背後の壁に深々と突き刺さっていたのだ。
鮮血が壁に飛び散り、傷口からどくどくと温かい血が流れ落ちていく。
痛い……!! クソッ!!
なんだこれは!? どこから撃たれた!?
「どうしたの!!? エミール!!! ……あっ……腕が!!」
僕の叫び声で跳ね起きたマーシャが、血まみれの僕を見て悲鳴を上げた。
彼女は咄嗟に魔法の杖を手に取り、治癒魔法をかけようとこちらへ駆け寄ってくる。
「マーシャ、来るな!!」
僕は痛みを堪えながら、右手で彼女を制止した。
「敵は……敵はすぐ近くにはいない! 遥か遠くから狙撃されてる!!」
窓の外には、怪しい人影など一つも見えない。ただ雪が降っているだけだ。
だとすれば、敵はこの悪天候の中、人間の視力では到底捉えきれない超遠距離から、窓のわずかな隙間というピンポイントを狙い澄ましてこの矢を放ったということになる。
常軌を逸している。こんなことができる人間は、この世界にそう何人もいない。
「……そして!!」
僕の全身の産毛が逆立った。
先ほどの矢とは比べ物にならない、途方もなく巨大で禍々しい魔力の奔流が、遥か彼方からこちらに向かって一直線に収束してくるのを感じ取ったからだ。
「この異常な魔力の出力……! また来る!! マーシャ、伏せろ!! 物陰に隠れろ!!!」
「うんっ!!」
僕らは這いずるようにして、部屋の隅にあった頑丈そうなオーク材の本棚の後ろに転がり込んだ。
左腕の傷が激しく痛み、意識が遠のきそうになるのを必死に歯を食いしばって堪える。
一方その頃――。
宿場町から遥か一キロメートル以上離れた、猛吹雪が吹き荒れる切り立った雪山の断崖絶壁。
そこに、一人の男が立っていた。
「逃さねえよ。哀れなネズミども」
旧勇者パーティーの一員にして、地上最強の狙撃手たるヘンリー・テイラーは、獲物のあまりの滑稽な動きを遥か彼方から視認し、歪な口角を吊り上げた。
彼の手に握られているのは、身の丈を優に超える巨大な長弓。
先ほど放った第一の矢は、目標の肉体を物理的に貫通するための『一点集中型』の徹甲矢であった。あの猛吹雪と暗闇の中、一キロ先の窓の隙間を通して腕を貫くなど、神業以外の何物でもない。
しかし、これから放つ第二の矢は、全く性質の異なるものだった。
「さて、とっとと終わらせて酒でも飲みに行くか。……顕現せよ」
ヘンリーが呟くと、長弓に番えられた矢の先端に、周囲の空間が歪むほどの超高密度の魔力が集まり始めた。
それは、純粋な破壊のエネルギーを圧縮した『広範囲殲滅型』の爆弾矢。
その威力は、着弾点である宿屋はおろか、その周辺一帯の建物を跡形もなく消し飛ばすほどの絶対的な破壊力を持っていた。
「……宿の連中は、ツイてなかったな」
ヘンリーは、弓を引き絞りながら冷酷に呟いた。
「この俺の手を煩わせる脱走者二人が、たまたまあの安宿に転がり込まなければ、こんな無惨な死に方をすることはなかったのにな。恨むなら、あのガキどもを恨んで死ぬんだな」
狙撃手にとって、標的の周囲にいる一般人の命など、路傍の石ころと同義であった。
ヘンリーは一切の躊躇なく、魔力で眩く輝く矢を放った。
「吹き飛べ」
(………………)
——ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
世界が、白に染まった。
次いで、圧倒的な光と、鼓膜を破るような轟音が、僕らの隠れていた宿屋を根底から蹂躙した。
本棚の裏に身を隠していた僕の体は、床下から突き上げるような凄まじい衝撃波によって、紙切れのように宙に舞い上げられた。
「がはっ……!!」
全身の骨が軋み、肺から空気が強制的に絞り出される。
業火が周囲を舐め回し、頑丈だった木造の宿屋が、まるで積み木が崩れるように一瞬にして倒壊していく。
天井の太い梁が焼け落ち、床が抜け、僕とマーシャは瓦礫と炎の奔流と共に、下の階へと真っ逆さまに落下していった。
……どれくらいの時間が経ったのだろうか。
意識が途切れ途切れになる中、僕は顔を覆っていた瓦礫をなんとか押し退け、煤と血にまみれた顔を上げた。
「……あ……」
僕の目の前に広がっていたのは、地獄だった。
ほんの数分前まで、人々が安らかな眠りについていたはずの静かな宿場町。
それが今や、視界の及ぶ限りすべてが紅蓮の炎に包まれ、黒焦げの瓦礫の山と化していたのだ。
パチパチと木材が爆ぜる音。
そして、その炎の向こう側から聞こえてくる、人々の悲鳴と泣き叫ぶ声。
「助けて……! 熱い、熱いっ!!」
「誰か、子供が下敷きに……!!」
なんで。
なんで、こんなことになっている。
勇者の村への襲撃の時と同じだ。いや、今回は明確な標的が「僕たち」だった。
僕とマーシャが、この町の、この宿に泊まったせいで。
温かいスープを振る舞ってくれたあの笑顔の女将さんも、たまたま同じ屋根の下に居合わせただけの旅人たちも。
僕たちという「疫病神」がいたせいで、すべてを奪われ、炎の中で焼かれようとしている。
ああ!!
僕は……!! 僕は、何てことを……!!!
強烈な罪悪感と自責の念が、左腕の激痛を上回る勢いで僕の精神を苛んでいく。
「クソッッ!!! クソオオオオッッ!!!」
僕は瓦礫の山に拳を叩きつけ、血を吐くような声で叫んだ。
その時、ハッと我に返った。
「マーシャ……!! マーシャは無事か!?」
僕は炎の熱さと煙に咽せながら、必死に周囲を見回した。
「エミール……」
瓦礫の隙間から、弱々しい声が聞こえた。
「マーシャ……!!」
僕は転がるようにしてその場所へ向かい、重い木材を跳ね除けた。
そこにいたマーシャの姿を見て、僕は息を呑んだ。
「エミール……逃げて。早く……追撃が、来る……」
マーシャは、崩れ落ちてきた巨大な梁の下敷きになり、全身を強く打ち据えられていた。
額からは大量の血が流れ出し、美しい顔を赤く染めている。魔法の障壁で直撃は免れたようだが、それでも僕の左腕の貫通傷なんかよりも、ずっとずっと酷い重傷だった。
マーシャ……。
クソッ、クソッ、クソッ!!!
僕が守ると誓ったのに。一番近くにいたのに、また傷つけてしまった。
しかも、今回は僕らの存在そのものが、この町の人々を巻き込んでしまったのだ。
絶望のどん底に突き落とされた僕の耳に、炎の爆ぜる音に混じって、魔力通信による薄汚い男の嘲笑が響き渡った。
『じゃあな。村の脱走者のマーシャ一行。お前たちは、この地上最強の狙撃手ヘンリー・テイラーが討ち取った!!! 泥を舐めて死に絶えろ!!!』
圧倒的な力と、理不尽な暴力。
僕らがどれだけ足掻こうとも、運命は容赦なくすべてを奪っていく。
燃え盛る炎の中で、僕はただ無力に、マーシャの血まみれの手を握りしめることしかできなかった。
****
燃え盛る宿場町の残骸。鼻をつく焦げた肉の匂いと、絶望の悲鳴。
全身を打ち据えられ、瓦礫の下で血に染まる愛しい少女。
脳内に直接響く、薄汚い男の嘲笑。
僕の心は、深い自責の念と絶望の泥沼に沈みかけていた。
僕らがこの町に立ち寄らなければ。僕らがもっと上手く立ち回っていれば。
こんな罪のない人々を巻き込むことはなかったのだ。僕のせいで、また人が死んだ。
——いや! 違う!!!
僕は、血の味が広がる唇を強く噛み締めた。
今は、自らの犯した罪に苛まれている場合ではない。
罪の意識に囚われるな! 敵の理不尽な暴力に怯えるな! 己の無力さを嘆いてうろたえるな!
後悔も、懺悔も、悲しみも、すべては後だ。今やるべきことは、そんな感傷に浸ることではない。
今はまず、目の前で息も絶え絶えになっているマーシャを守り抜くこと。
この残酷な世界で、彼女と共に生きていきたいと願うなら……!!
「覚悟を示せ……! エミール・ハーヴェスト!!」
僕は自らを鼓舞するように、喉の奥から獣のような唸り声を上げた。
僕がマーシャを守る。その誓いだけが、今の僕を突き動かす唯一の原動力だった。
左腕の貫通傷から流れる血を止めることすら忘れ、僕は右手に握りしめた剣の柄に、全身の怒りと魔力を注ぎ込んだ。
遠く離れた猛吹雪の雪山。
そこから、再び先ほど宿を吹き飛ばしたのと同じ、いや、それ以上に巨大で破滅的な魔力が膨れ上がっていくのを感じた。
『顕現せよ。我が矢に宿れ。"閃光の不死鳥(フレア・フェニックス)"』
遠くの空が、夜明けのように赤く染まる。
炎を纏った巨大な鳥の幻影が、吹雪を溶かしながら崖の上に顕現しようとしていた。
「……させない!!!」
僕は、研ぎ澄ませた魔力探知を頼りに、奴の放つ圧倒的な魔力の光源へ向けて、雪を蹴り上げた。
目標は、高低差を除いて直線距離でおよそ一キロメートル先の断崖絶壁。
普通に考えれば、致命傷を負った人間が間に合う距離ではない。
だが、関係ない。
『無駄だ!! 悪あがきはやめろ!!』
嘲笑うかのようなヘンリーの通信が響く。
『俺の究極魔法"閃光の不死鳥"のチャージ時間は、たったの30秒間! そしてあの宿の残骸から、今俺がいるこの崖までの距離は一キロメートルだ!! 貴様は俺には絶対に勝てない!! 貴様は俺には届かない!!! チェックメイトだぁ!! ガキどもがぁ!!!』
僕は言葉を返さなかった。
ただひたすらに、己の肉体の限界を超えて魔力を巡らせた。
足元の雪が爆発するように吹き飛び、僕の体は文字通り「弾丸」となって暗闇を切り裂いた。
呼吸を忘れ、痛みを忘れ、ただ前だけを見る。
風の抵抗すら魔力で切り裂き、燃え盛る町を抜け、凍てつく雪の斜面を、重力に逆らうように一直線に駆け上がる。
……20秒。
……10秒。
『終わりだ、ネズミども……! 灰に還れ!』
崖の上で、ヘンリーが巨大な光の矢を僕らの町へ向けて放とうと、弓の弦から指を離しかけた、その瞬間。
「——それが、お前の遺言か……?」
ヘンリーの耳元、その真後ろから、氷のように冷たい声が囁いた。
「……は……!?」
ヘンリーは目を剥き、全身を硬直させた。
「こんなこと……あるはずが、ない……!!」
彼は信じられないものを見る目で、ゆっくりと背後を振り返った。
そこには、全身から殺気という名のどす黒いオーラを立ち昇らせ、左腕を血まみれにした僕が立っていた。
一キロメートルの距離を、魔法のチャージが完了するよりも早く、完全に走破したのだ。
「殺してやる……!! エミール・ハーヴェストォォォッ!!!!」
ヘンリーは恐怖と混乱で顔を歪めながら、弓を放り捨て、腰に帯びていた短剣を引き抜いて僕に向けて振り下ろそうとした。
しかし、そんな素人のような近接攻撃が、僕に当たるはずもない。
短剣が僕に届くよりも遥かに早く。
チャキッ、という冷たい金属音と共に、僕の剣の刃が、ヘンリーの頸動脈にピタリと押し当てられていた。
「動くな。少しでも魔力を練れば、その首を刎ねる」
僕が低くドスを効かせた声で告げると、ヘンリーは持っていた短剣を取り落とした。
カラン、と虚しい音が雪原に響く。
「くそ……なんでだ。なんで……」
ヘンリーは、血の気が引いた顔でうつむき、震える声で呟いた。
「まあ、俺は昔から走るのは速い方だし……」
僕は剣を押し当てたまま、無機質に答えた。
「お前が隠れてる場所も、さっきから数回派手に巨大な魔力を放出していたからな。まるで『ここにいます』って狼煙を上げているようなものだった。それで、隠れている場所が正確にわかった。……これで、理由は十分か?」
「……フフッ。……フハハハハハハハ!!!」
突然、ヘンリーは狂ったように天を仰いで高笑いをした。
そして、彼自身の象徴でもある巨大な長弓を、崖の下へと遠くに蹴り落とした。
戦うのを諦めたのか……?
それとも、まだ何か奥の手を隠し持っているのか?
いや、それはないだろう。
何故なら、今のこいつからは、先ほどまでの傲慢な覇気も、人を殺すための殺気も、完全に消え失せていたからだ。そこにあるのは、絶対的な力を見せつけられ、心が折れた敗北者の姿だけだった。
遠距離からの狙撃に特化した彼が、僕の剣の間合いに入られ、完全に制圧された。これはもはや、覆しようのない「詰み」だ。
……さて。
ここからは、命の対価として情報を吐いてもらおうか。
「面白い……!! 確かに、お前は特別だ!! エミール・ハーヴェスト!!!」
ヘンリーは首に刃を当てられたまま、どこか清々しいような表情で僕を見た。
「お前は、我らが勇者ラングルドと同じように、理不尽な天才の部類なのかもしれないな!! あの化物が、直々に『計画』の駒として認めるわけだ!!」
「……喚きたいことはそれだけか?」
僕は剣を持つ手にわずかに力を込めた。刃が皮膚に食い込み、一筋の血が流れる。
「特にもう、何も言うことなんてねェよ。殺すならはやく殺せ」
ヘンリーは自嘲気味に笑った。
「俺はこの戦いで勝つことを完全に諦めた。お前みたいな近接戦闘の化物相手に、自分の最も苦手な間合いで戦おうとするなんて、この世で一番のアホのやることだ。しかも、急所を完全に押さえられてるしな」
「………………」
僕は無言で彼を睨みつけた。
「ああ、一つ言い忘れてた」
ヘンリーは、僕の冷たい視線を正面から受け止めながら言った。
「お前は確かに異常に強い。だから、多分旧勇者パーティーの残り二人……あのイカれた連中も倒すことができるだろう。だがな。……『勇者』には、あいつだけには絶対に勝てない」
「そうか。それはやってみないと分からないな。それに、調律者とやらも殺さないといけない」
「そうか……それを知ってるのか。……やっぱりお前は、ただの村のガキじゃない、特別だな」
ヘンリーは少しだけ驚いた顔をした。
「御託は良いから、さっさと話を続けろ」
僕は焦燥感を隠し、低く冷たい声で促した。早く情報を聞き出し、マーシャの元へ戻らなければならない。
「悪い悪い。そんじゃ話を続けるわ……なんだ? 俺の話が不満か?」
ヘンリーは、少しため息をついて、探るような目で僕を見た。
ヘンリーの目が、微かに細められた。
その瞬間、僕は彼の放つ空気が、ほんのわずかに変質したのを感じ取った。
「そんで、次の質問だ」
僕は剣の刃をさらに彼の首に押し付けた。
「なんだ……?」
「お前……さては、何か隠しているな?」
僕がそう指摘した途端、戦いを諦め、完全に心が折れていたはずのヘンリーの表情が、一変した。
「ああ、そうだ。それはなァ……」
奴の顔に、獲物を罠に嵌めたような、邪悪で醜悪な笑みがニヤァと、浮かんだ。
「——お前の、後ろだ」
第六話
その邪悪な笑みと共に放たれた言葉が、凍てつく雪山の空気に溶けるよりも早く。
僕の身体は、極限状態の中で研ぎ澄まされた生存本能に従って、半ば自動的に動いていた。
「ッ……!!」
声なき気合いと共に、手首を返す。
ヘンリーの首筋に押し当てていた剣の刃を、躊躇うことなく真横に一閃させた。
骨を断ち、神経を完全に切り裂く、生々しくも確かな感触が腕に伝わる。
振り返りざまに視界の端で捉えたヘンリーの首からは、鮮血が噴水のように吹き出し、その巨体は糸の切れた傀儡のように雪原へと崩れ落ちていった。
奴は死んだ。確実に殺せた。
だが、安堵する暇など、一瞬たりとも与えられなかった。
ヘンリーの言葉は、決してハッタリなどではなかったのだ。
僕が振り返ったその背後、猛吹雪の向こう側から、音もなく二つの影が立ち現れていた。
一人は、月明かりを反射して冷たく輝く銀髪を持った、長身の男の戦士。その手には、禍々しい紫色のオーラを纏った身の丈ほどもある大剣が握られている。
もう一人は、漆黒のローブに身を包んだ、黒髪の女の魔法使い。彼女の周囲には、すでに詠唱を終えた無数の炎と氷の槍が、僕に狙いを定めて宙に浮遊していた。
旧勇者パーティーの、残り二人。
ヘンリーは、自分の命を囮にしてでも、僕をこの絶好のキル・ゾーンに釘付けにするための「捨て駒」に過ぎなかったのだ。
「これで終わりだ! エミール・ハーヴェスト!!」
銀髪の戦士が、獣のような咆哮と共に地を蹴った。
同時に、黒髪の女魔法使いが冷酷に杖を振り下ろす。
「ッ……! まずい!!」
視界のすべてが、極彩色の魔法の光と、大剣の放つ斬撃の軌跡によって完全に覆い尽くされた。
回避する隙も、防御魔法を展開する時間も、剣で弾き返す余裕すらもない。
圧倒的な「死」の壁が、僕の全身に迫り来る。
死ぬ……!!!
その瞬間、僕の脳裏をよぎったのは、自分自身の命への執着ではなく、燃え盛る宿屋の瓦礫の下で血に染まっていた、愛しい少女の姿だった。
マーシャ……!!
ダメだ、ここで僕が死んだら、マーシャは……!
あんな重傷を負って、たった一人でこの狂った刺客たちから逃げ切れるはずがない。
僕が、僕が彼女を守らないといけないのに……!!
「くそぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
僕はありったけの魔力を全身から放出し、少しでも致命傷を避けようと身体を捻った。
だが、限界を超えて一キロを駆け抜けた肉体は、悲鳴を上げて僕の意志を裏切った。
——ドゴォォォォォォォンッ!!!!
魔法の豪雨が僕の身体を容赦なく吹き飛ばし、その爆炎を切り裂くようにして、銀髪の戦士の大剣が僕の右半身を捉えた。
「ああああああっ!?」
熱鉄を骨の髄まで叩き込まれたような、これまでの人生で味わったことのない次元の激痛。
視界が赤と黒に明滅し、平衡感覚が完全に消失する。
自分の右腕が、肩の付け根から無惨に斬り飛ばされ、空を舞うのがスローモーションのように見えた。
鮮血が猛吹雪の中に散華する。
雪原に叩きつけられた僕の身体は、もはや指一本動かすことすらできなかった。
激痛すらも次第に遠のき、急速に体温が奪われていく。
まずい。視界が……真っ暗に、消えていく。
マーシャ、ごめん。僕が弱かったばかりに。
約束、守れそうにない……。
深い、深い闇の底へ。
僕の意識は、冷たい雪と同化するようにして、完全に途絶えた。
(………………………)
——パチパチ、と。
遠くの方で、何かがはぜるような、心地よい音が聞こえた。
……あれ?
ここは、どこだ……?
僕はどれくらいの間、気を失っていたのだろうか。
暗闇に沈んでいた意識が、ゆっくりと水面へと浮上してくる。
不思議なことに、全身を苛んでいたあの狂おしいほどの激痛は、すっかり消え去っていた。右腕の付け根から血が吹き出していたはずの感覚も、凍てつくような雪山の寒さも、微塵も感じない。
代わりに僕の身体を包み込んでいたのは、まるで春の陽だまりのような、ひどく懐かしくて暖かい空気だった。
どこかで嗅いだことのある匂いがする。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、野菜がたっぷり入った温かいスープの匂い。
そして、暖炉の中で薪がパチパチと燃える、あの優しくて安心する音。
そんな、とても暖かい部屋の中にいるような感覚。
「——起きて! エミール、学校に遅刻するわよ!!」
不意に、階下から明るくハリのある声が響いた。
なんだ……この懐かしい声は……?
僕は、さっきまで猛吹雪の雪山にいたはずだ。
右腕を斬り落とされ、敵の魔法を全身に浴びて、間違いなく死んだはずじゃなかったのか。
ここは、天国というやつなのだろうか。
僕は重い瞼を、ゆっくりと開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井だった。
そして、顔の横を向いて下を見る。
ベッドの下には、長年の生活で少しだけ傷がついた、温かい色の木でできた床が広がっていた。窓からは、眩しいほどの朝の日差しが差し込んでいる。
まるで、少し前まで僕が毎日当たり前のように見ていた、僕の部屋の光景そのものだった。
いや、そんなはずはない。
だって、この家は。僕の村は。
あの勇者と名乗る悪魔の手によって、村人たちごと跡形もなく焼き払われてしまったはずだ。
きっと、死ぬ間際に見ている走馬灯か、僕の都合の良い幻覚(気のせい)だろう。
そう思いながら、僕は重い身体を起こし、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
足の裏に伝わる木の床の感触が、あまりにもリアルだった。
一歩、また一歩と、部屋を出て階段へと向かう。
階段を下りるたびに、台所から漂ってくるスープの匂いが強くなっていく。
一階の居間へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
「あら、やっと起きてきた。もう、毎朝毎朝お寝坊さんなんだから」
台所に立ち、エプロン姿でスープの鍋をかき混ぜていたその人が、振り返って僕を見た。
「え……?」
僕の足が、床に縫い付けられたようにピタリと止まった。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、喉がヒューヒューと鳴る。
視界が急激に歪み、目の奥から熱い塊が込み上げてきた。
すると……
僕の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
拭っても拭っても、後から後からとめどなく溢れ、止まることはなかった。
「おかあ……さん……?」
震える声で、僕はその人の名前を呼んだ。
なぜなら、僕の目の前で優しく微笑んでいるのは、あの惨劇の夜、無惨にも首を刎ねられて死んだはずの、僕の大好きな「お母さん」だったからだ。
「どうしたの、エミール? そんなにボロボロ泣いて。どこか痛いの?」
お母さんは驚いたように目を丸くし、お玉を置いて僕の方へと駆け寄ってきた。
「おかあ……さん……? おかあさんっ!!!」
幻覚でもなんでもいい。
僕は子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、お母さんの胸に思い切り抱きついた。
温かい。柔らかい。エプロンから微かに香る、洗剤とスープの匂い。
あの夜、冷たくなり、血の海に沈んでいた母さんじゃない。生きている、本物のお母さんだ。
「うわぁぁぁぁぁぁっ……!! ああぁぁぁぁっ……!!」
僕はなりふり構わず、顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽した。
これまでの恐怖、絶望、己の無力さに対する怒り、そして孤独。張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、すべての感情が涙となって決壊した。
お母さんは僕の突然の錯乱に戸惑いながらも、昔から僕が泣いた時によくしてくれたように、優しく、一定のリズムで僕の背中と肩を撫でてくれた。
「よしよし……。お母さんには、急にどうしたのか全部はわかってやれないけど……。きっと貴方は、夢の中でとても辛くて、苦しい冒険をしてきたのね」
夢の中で。
その言葉が、僕の心に不思議な安堵をもたらした。
そうか。そうだったんだ。
あの勇者の襲撃も、村の全滅も、宿場町の惨劇も、腕を切り落とされた痛みも。
すべては、僕が見ていた途方もなく長くて、リアルな「悪い夢」だったんだ。
今、この温かい腕の中にいる現実こそが、本物なんだ。
僕は、お母さんのエプロンをきつく握りしめながら、何度も何度も、強く頷いた。
(………………)
それから数分後。
お母さんの温もりに包まれ、背中を撫でられ続けているうちに、僕の激しい嗚咽は次第に落ち着いていった。
涙で濡れた顔を拭い、大きく深呼吸をする。
多分、今日僕がこんなにも取り乱してたくさん泣いたのは、きっと、あのあまりにも生々しい変な夢を見たせいだ。
「勇者」というこの世界の希望であるはずの存在が、狂った笑みを浮かべながら僕らの村を滅ぼす夢。
マーシャが瓦礫の下で血まみれになる夢。
そして、僕自身が絶望の中で腕を斬り落とされる夢。
あんな非現実的なこと、実際に起こるわけがない。正夢になるわけがないじゃないか。
そう自分に言い聞かせるほどに、心の中にこびりついた暗い靄が晴れていくような気がした。
だけど……何がそんなに悲しいんだろう。
何がこんなにも、僕の胸の奥底をギリギリと締め付けるのだろう。
完全には拭い去れない奇妙な喪失感を抱えながら、僕は顔を上げた。
「また悲しい顔してるけど、もう大丈夫? エミール」
お母さんは、僕の顔を覗き込み、心底心配そうに僕を見つめてくれていた。その目尻に刻まれた優しい皺が、僕の心をさらに解きほぐしていく。
——やっぱり、僕のお母さんは、世界で一番優しいな。
そう思った僕は、今度は僕の方から、安心させるようにそんなお母さんの肩をポンポンと軽く叩いた。
そして、まだ少し目が赤いかもしれないけれど、精一杯の笑顔を作って微笑み返した。
「うん。もう大丈夫だよ、お母さん。ごめんね、朝から変なことして。きっと、すごくリアルで悪い夢を見ただけなんだと思う」
「そう。それなら良かったわ」
お母さんはホッと胸を撫で下ろし、いつもの明るい笑顔に戻った。
「さあ、冷めないうちにスープを飲んで。学校に遅れちゃうわよ」
僕は温かいスープを急いで飲み干し、制服のジャケットを羽織った。
そして、玄関の扉を開ける前、お母さんに向かって、いつもの日常と全く同じように声をかけた。
「行ってきます!」
そしたら、お母さんはまた、太陽のように温かい笑顔で僕に手を振ってくれた。
「いってらっしゃい! エミール!! 気をつけてね!」
(………………)
家を出て学校に向かう前、僕は庭を回って、家の裏手にある木造のベランダへと向かった。
そこは、お父さんが朝の仕事の前に、よく一人で日向ぼっこをしているお気に入りの場所だった。
角を曲がると、案の定、そこには見慣れた背中があった。
分厚い胸板、ごつごつとした大きな手。お父さんはいつものように、そこにちょこんと座り、腕を組みながら空の雪雲を眺めていた。
「あの……お父さん……」
僕が背後から声をかけると、お父さんはゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間、またしても僕の目頭が熱くなった。夢の中とはいえ、首の無いあの無惨な姿が脳裏に焼き付いていたからだ。
僕は、涙をお父さんに見せまいとして、ギュッと唇を噛み、少し下を向いた。
お父さんは僕の様子に気づいたのか、少し驚いたような顔をした後、ふっと目元を和らげた。
そして、あの太くて低い、安心感のある声で言った。
「どうした、エミール。……お前は、俺の自慢の息子だぞ」
脈絡のない、けれど真っ直ぐな愛情の言葉。
それは、昨日の朝、僕が「魔王に会った」と言った時に彼がかけてくれた言葉と全く同じだった。
堪えきれず、一筋の涙が頬を伝って地面に落ちた。
「お父さん……。本当に、ありがとう。僕ね、お父さんとお母さんの息子として生まれてこられて、本当に良かったって、心からそう思ってるんだ」
僕は顔を上げ、涙ぐみながらも真っ直ぐに父さんの目を見て伝えた。
照れくさくて、普段なら絶対に言えないような言葉。でも、あの悪夢を見た今の僕には、どうしても伝えておかなければならない気がしたのだ。
「……そうか」
お父さんは一瞬だけ言葉に詰まり、それから、横から見ていてもハッキリとわかるぐらい、嬉しそうに目尻を下げて笑った。
「ありがとう。やっぱりお前は、昔から本当に優しい子だな。俺の方こそ、お前が息子で誇らしいよ」
冬の冷たい空気の中、僕と父さんの間には、確かな愛情と温かな時間が流れていた。
この穏やかな日常が、ずっと、永遠に続けばいいのに。
僕は心底そう願った。
でも。
それから少し経つと——。
周囲の空気が、まるで真冬の湖に突き落とされたように、突如として一変した。
今まで優しく微笑んでいたお父さんの顔から、一切の感情が抜け落ちたのだ。
「エミール」
低く、冷徹な声。
「お前に、大切な話がある」
第七話
冬の透き通るような冷たい空気の中、僕と父さんの間には、確かに穏やかで温かな時間が流れていた。
このまま、このベランダでいつまでも他愛のない会話を続けていたい。今日学校で何があるか、明日の夕飯は何がいいか。そんな、かつては当たり前だった日常のピースを、一つひとつ拾い集めるように。
だが、そんな僕のささやかな願いをへし折るように、周囲の空気が一変した。
まるで、今まで僕たちを包み込んでいた春のような陽だまりが、見えない巨大な手によって強引に剥ぎ取られたかのように。
「エミール」
鼓膜を打つ声は、今まで聞いたことがないほど低く、そして冷徹だった。
僕はおそるおそる顔を上げた。
そこに座っていたのは、先ほどまで目尻を下げて優しく微笑んでいた「お父さん」ではなかった。
いや、姿形は間違いなく僕の父さんだ。しかし、その顔からは一切の感情が抜け落ち、まるで古い彫像のように硬く、底知れない悲哀だけが瞳の奥に沈殿していた。
ゴクリ、と。僕は無意識に生唾を飲み込んだ。
「……どうしたの? お父さん」
声が震えた。聞きたくない。何故だかわからないけれど、今から父さんの口から紡がれる言葉を、僕の本能が強烈に拒絶していた。両耳を塞いで、この場から逃げ出したかった。
お父さんは、僕のその怯えた視線を真っ直ぐに受け止め、ゆっくりと、ひどく重々しい口を開いた。
「お前にこれを言うのは、俺としても本当に辛いが……。だが、言わなければならない」
お父さんの大きな手が、膝の上で強く握りしめられていた。
「いいか、エミール。よく聞け。……お前のお父さんとお母さんは、すでに死んでいる」
「……え?」
時が、止まった。
風の音も、遠くで聞こえていたはずの小鳥のさえずりも、すべてがパタリと途絶えた。
脳が、その言葉の意味を理解することを拒否している。
お父さんとお母さんが、死んでいる……?
何を言っているんだ。
「なんで……。だって」
僕は引きつった笑いを浮かべながら、目の前に座る分厚い胸板を指差した。
「目の前にいるじゃん。さっき、母さんだって台所で温かいスープを作ってくれた。お父さんだって、こうして僕と話してるじゃないか。変な冗談はやめてよ」
そう、冗談だ。たちの悪い冗談に決まっている。
しかし、お父さんの表情はピクリとも動かなかった。その瞳の奥にある悲哀の色が、さらに深く、濃くなっただけだった。
「良いか、エミール。ここは現実ではない。これは、敵の致命的な攻撃を喰らったお前自身の脳が、自己防衛のために見せている『夢』にすぎないんだ」
夢。
先ほど、お母さんの胸で泣きじゃくっていた時に僕自身が口にした言葉が、今度は全く別の、恐ろしい刃となって僕の心臓に突き立てられた。
「なんだよ……それ……」
「思い出せ。お前は、旧勇者パーティーの残党……銀髪の戦士と黒髪の女魔法使いの二人に襲われたはずだ。その圧倒的な力の前に敗れ、今は生死の境を彷徨っている。肉体は完全に破壊され、当分目を覚ますことはないだろう」
『終わりだ! エミール・ハーヴェスト!!』
お父さんの言葉が引き金となり、僕の脳裏に、鍵をかけて押し込めていたはずの記憶が奔流となってなだれ込んできた。
極彩色の魔法の豪雨。
猛吹雪を切り裂いて迫り来る、禍々しい大剣。
そして――熱鉄を叩き込まれたような激痛と共に、肩の付け根から宙を舞った、僕自身の右腕。
「あ……ああ……」
幻肢痛というべきか、すでに失われたはずの右腕の付け根が、炎で焼かれるように熱く痛み始めた。
それだけではない。
焼け落ちた宿屋。瓦礫の下で血まみれになっていたマーシャ。
そして、あの忌まわしい勇者の手によって首を刎ねられ、血の海に沈んでいた両親の姿。
「あああああっ!!!」
僕は頭を抱え、その場にうずくまった。
すべて思い出した。
ここは現実じゃない。僕の心が作り出した、都合の良い、甘くて残酷な幻影(揺り籠)だ。
「だから……この世界が、お母さんもお父さんも……全部、ただの夢だって言うのか……?」
僕は血走った目で、お父さんを睨みつけた。
「ああ。そうだ」
お父さんは、残酷なまでに淡々と肯定した。
ふざけてる。
ふざけるな。
あんな地獄のような現実。愛する人たちが次々と理不尽に殺され、残された僕の腕すらも無惨に奪われるような、あんな狂った世界。
「あんな世界、俺は認めない……!!!」
僕は床を叩き、喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
「僕は!! あんな狂った世界なんて絶対に認めない……!!! お父さん!! お母さん!! 勝手に死ぬなよぉっ!!! 置いていかないでよ!!! くそぉっ……!!!」
怒りと絶望が入り混じった涙が、ボロボロとこぼれ落ちる。
夢の中の木の床を、爪が剥がれるほど強く掻き毟った。
「エミール……」
お父さんが、悲痛な声で僕の名前を呼ぶ。
「僕は、結局……!!」
僕は自分の不甲斐なさを、無力さを、これでもかと呪った。
「お父さんも、お母さんも……!! 村人のみんなも!! 宿屋の女将さんも!! 誰一人として、何も守れなかった!!! 何も!! 何も守れなかったじゃないか!!!」
僕は本当に情けない。
偉そうに剣を振り回し、マーシャを守ると誓いながら、その実、いつも彼女に庇われ、敵の圧倒的な力の前にひれ伏すことしかできなかった。
叫びながら、嗚咽して、胃の中身を吐き出しそうになる。
本当にみっともない。哀れで、惨めで、滑稽な男だ。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、僕は自分の存在そのものを消し去ってしまいたかった。
「お父さん……思い出したよ。僕は、あの村の人達を……! 誰一人救えなかった!! 僕は……!! 無力だ!! 勇者になんて、勝てるわけがないんだ!!」
僕の心が完全に折れ、深い闇の底へと沈み込もうとした、その時だった。
「——いや、それは違うぞ」
お父さんの、太く、そして確かな力強さを持った声が、僕の絶望を断ち切るように響いた。
お父さんは立ち上がり、うずくまる僕の目の前で片膝をついた。そして、僕の顔を両手でしっかりと挟み込み、無理やり上を向かせた。
「お父、さん……?」
「いいか、エミール。よく自分の胸に手を当てて考えてみろ。お前は、決して無力なんかじゃない」
お父さんの瞳には、先ほどの悲哀に代わって、揺るぎない信頼と誇りの炎が灯っていた。
「お前は、あの吹雪の中でたった一人で魔物を討伐できる実力を持っている。ヘンリーとかいう狙撃手の裏をかき、追い詰めたのもお前自身の力だ。お前は村一……いや、この王国一の天才剣士だ」
「でも……! 腕も無くして……!」
「腕の一本や二本、なんだと言うんだ。お前の剣の才能は、腕に宿っているんじゃない。その折れない心と、誰かを守りたいと強く願う魂に宿っているんだ」
お父さんは、僕の言葉を真っ向から否定し、力強く断言した。
「あの狂った勇者や、はびこる魔王を倒せるのは……この世界で、お前だけだ」
「お父さん……!! 僕は……! 僕は!!」
「泣くな。お前の涙は、今日ここで全部置いていけ。現実世界では、もう二度と泣く必要がないようにな」
お父さんの言葉が、干からびてひび割れた僕の心に、熱いお湯のように染み渡っていく。
そうだ。僕がここで心を折らしてしまったら、現実の世界で血を流して倒れているマーシャは、誰が守るんだ。
あの勇者は、誰が殺すんだ。
「……今はゆっくり休め。お前が、あの瀕死の状態から肉体を修復し、目を覚ますには、かなりの時間がかかるだろうからな。それまでは、この夢の中で、俺たちと一緒に過ごせばいい」
お父さんは、僕の頭を優しく撫でた。
「うん……! そうするよ。ありがとう……お父さん」
僕は、袖で乱暴に涙を拭った。泣くのは、これで最後だ。
「落ち着いたか? 息子よ」
「うん。ありがとう、お父さん。……あのね、お父さん」
「どうした?」
僕は、もう迷いのない、澄み切った瞳でお父さんを見つめ返した。
「僕ね……マーシャを、絶対に守るよ」
それは、誰に言わされるでもない、僕自身の魂からの誓いだった。
「マーシャの命や幸せを、何よりも一番に考える。もうこれ以上、僕の目の前で誰も殺させない。僕の大切な人は、この僕が必ず守り抜く!! 勇者も、魔王も、全部僕が斬り捨てる!!」
その言葉を聞いた瞬間。
お父さんは、破顔した。あの、僕が世界で一番大好きな、豪快で温かい笑顔だった。
「よく言った!!」
ドンッ!! と、お父さんの大きな手が、僕の肩を思い切り強く叩いた。
「いっ……!! 痛いよ、お父さん」
強烈な痛みに、僕は思わず顔をしかめた。夢の中だというのに、妙にリアルな痛みだった。
「はっはっは! そこは『ありがとう』……だろ?」
お父さんは悪びれもせず、ガハハと笑った。
「うん。……ありがとう」
「大丈夫だ。お前なら、絶対にできる」
お父さんは、僕の肩を掴んだまま、静かに、しかし絶対の確信を持って言った。
「何故なら、お前は……この俺と母さんの、自慢の息子だからな!!」
その時、背後のスライド扉が静かに開く音がした。
「本当に、お父さんの言う通りよ」
振り返ると、そこにはエプロンを外したお母さんが立っていた。
お母さんの目にも涙が光っていたが、その表情はとても穏やかで、慈愛に満ちていた。
「お母さんも、ずっとずっと、エミールのこと応援しているからね。どんなに離れていても、私たちの心はいつも、貴方と共にあるわ」
お母さんはゆっくりと歩み寄り、お父さんの隣に膝をついた。
僕の胸の奥で、もう二度と会えないはずの二人への愛おしさが、爆発するように膨れ上がった。
「お父さん……! お母さん……っ!!」
僕は、二人に向かって両手を広げ、思い切り飛び込んだ。
お父さんの分厚くて逞しい胸と、お母さんの柔らかくて温かい腕。二人の体温が、僕の身体をすっぽりと包み込んでくれた。
夢だとわかっている。これが、僕の脳が作り出した幻影に過ぎないことも、頭では理解している。
それでも、この温もりだけは、僕にとって何よりも確かな「真実」だった。
「ありがとう……ありがとう……。僕、絶対に強くなるから。絶対に、諦めないから」
「ああ。わかっているとも」
「エミール、愛しているわ。ずっと、いつまでも」
僕は、二人の匂いを、その感触を、魂の底にまで刻み込むように、強く、強く抱きしめ返した。
この理不尽で残酷な世界を生き抜き、そして終わらせるための、最後のエネルギーを充電するように。
こうして、僕は現実世界での激しい修復の時間を稼ぐため、しばらくの間、この温かくも切ない夢の揺り籠にとどまることになった。
彼らとの別れの時が来る、その瞬間まで。
第八話
(…………………)
清潔で、どこか冷たい匂いがした。
薬品と、血の匂いを誤魔化すために焚かれた香草の入り混じったような、酷く無機質な空気。
私は今、薄暗い病室のパイプ椅子に座り、ただひたすらに目の前の光景を見つめていた。
いや、見つめることしかできなかったのだ。
シーツの上に横たわる私の愛する人は、まるで蝋人形のように青ざめていた。
普段の、あの自信に満ちた少し生意気な笑顔も、私を安心させてくれる優しい声も、今はどこにもない。ただ、微かな胸の上下動だけが、彼が辛うじてこの世界に留まっていることを示していた。
「エミール……!! エミール……!!!」
私は、乾ききった唇から何度も、何度も彼の名前を呼んだ。
すがりつくように彼の手を握りしめ、私の体温を分け与えようと必死に祈った。
だけど、何の反応もない。ぴくりとも動かない。
彼の意識は、私には手の届かない深い深い闇の底へと沈み込んでしまっていた。
エミールが負った傷は、あまりにも深く、そして致命的だった。
宿屋を吹き飛ばされた爆発の衝撃、全身の打撲、そして魔法による無数の裂傷。
だが、その中でも一際私の心を抉り、絶望の淵へと突き落としたのは……彼の『右腕』だった。
シーツから覗く、彼の右肩。
そこから先にあるはずのものが、ない。
真っ白な包帯が何重にも、痛々しく巻きつけられているその付け根から先が、ぽっかりと空間を空けているのだ。
あの猛吹雪の雪山。
私を守るために、己の限界を超えて敵の元へ駆け出したエミール。
だが、彼の背後に音もなく現れたあの銀髪の戦士の禍々しい大剣が、無慈悲に振り下ろされた瞬間を、私は遠く離れた瓦礫の中から確かに見てしまった。
エミールの右腕が、鮮血を散らしながら、肩の付け根から無惨に斬り飛ばされたあの悪夢のような光景を。
もう、エミールの右腕は戻らない。
私を優しく抱きしめてくれたあの腕も、私のために剣を振るってくれたあの手も、永遠に失われてしまったのだ。
「ああ……っ、うぅ……っ」
私は、彼の失われてしまった右腕の付け根を見つめながら、耐えきれずに嗚咽を漏らした。
ポロポロと、大粒の涙がシーツを濡らしていく。
確かに、私もあの時の敵の魔法の余波や宿屋の崩落で、全身にそれなりの傷を負った。今でも動くたびに身体中が軋むように痛む。額には包帯が巻かれている。
だけど、エミールが受けた致命的な痛みに比べれば、こんなもの……かすり傷以下の、大したことのない痛みだ。
どうして、いつもこうなるのだろう。
彼は「僕がマーシャを守る」と言ってくれた。その約束通り、彼はいつでも自分の命を盾にして私を庇い、血を流す。
私が弱すぎるからだ。私がもっと強ければ、足手まといにならなければ、彼にこんな取り返しのつかない傷を負わせることはなかったのに。
激しい自責の念が、刃となって私の心をズタズタに引き裂いていく。
「……自分を責めるな。お前が泣いても、彼の腕は戻らないし、傷が癒えるわけでもない」
不意に、背後から静かで、どこか達観したような声がかけられた。
同時に、私の震える肩をポンポンと軽く叩く、見知らぬ手のひらの感触。
涙で霞む視線を上げ、振り返る。
そこに立っていたのは、くすんだ緑色の髪をした、私やエミールと同年代くらいの少年だった。
落ち着いた、というよりも、あらゆる感情を削ぎ落としたような冷ややかな瞳。その身に纏う空気は、静かでありながらも、底知れぬ魔力の深さを感じさせた。
彼の名前は、エリオット・テンペスト。
今回、私たちを確実な「死」から救い出してくれた命の恩人であり、そして……同じ目的を持つ「新たな仲間」だ。
あの絶望的な雪山での戦闘の最中。
銀髪の戦士と黒髪の魔法使いによってエミールが斬り伏せられ、次なる刃が彼に、そして遠くにいた私にまで迫ろうとしたその刹那。
突如として空間が歪み、緑色の雷光と共に現れたのが彼だった。
彼は、常人には到底不可能な速度と精度で高度な空間転移魔法を展開し、意識を失ったエミールと、瓦礫の下で身動きが取れなかった私を同時に回収。敵の虚を完璧に突き、追撃を許すことなく、はるか遠く離れたこの中立の町の病院へと私たちを逃してくれたのだ。
冷静に考えれば、私たちは本当にツイている。
村を襲撃された夜は、あの得体の知れない強さを持つ老剣士に命を救われ。
そして今回は、このエリオットという凄腕の魔法使いに救われた。
絶望のどん底で、二度も命の恩人に出会えたのだから。
私は袖で乱暴に涙を拭い、彼に向かって深く頭を下げた。
「エリオット……。本当に、何から何までありがとう。あなたが来てくれなかったら、私たち……」
「礼なんかいらないよ」
エリオットは、少しだけ目を伏せ、淡々と首を横に振った。
「俺が君たちを助けたのは、ただの気まぐれじゃない。俺の目的と、君たちの目的が一致していたからだ。……俺も、あの『勇者』とその取り巻きどもに、消しても消しきれないほどの深い恨みがあるからね」
その言葉の奥底に一瞬だけ閃いた、氷のような殺意。
彼もまた、勇者によって何か大切なものを奪われた人間なのだと、言葉以上のものが伝わってきた。
「うん……。ありがとう、エリオット。でも、私……! 私!! エミールのことが、心配でたまらなくて……!! 彼、ずっと目を覚まさないの……っ!」
再び堪えきれずにこぼれ落ちた私の悲痛な叫びに、エリオットは静かに目を閉じ、そして落ち着かせるように言った。
「焦る気持ちはわかる。だが、ここは王国でも有数の施設だ。さっきまで、一流の回復術士たちが総出で彼の手術に当たっていた。失われた腕の再生は不可能でも、命に関わる傷はすべて塞いだし、魔力回路の修復も行ったと聞いている。……いずれ、目覚めるはずだ。きっと」
「……うん。だよね。きっと……そうだよね」
私は、自分自身に言い聞かせるように、震える声で何度も頷いた。
そうだ。エミールは強い。あんな田舎の村で、誰よりも剣の才能に溢れ、誰よりも優しい心を持っていた彼が、こんなところで簡単に死ぬはずがない。
「それに、だ」
エリオットは、病室の窓の外……遠くの空を見つめながら、声のトーンを一段階落とした。
「彼が目覚めるのをただ泣いて待っているだけでは、また同じことの繰り返しになる。それより今は、次に向けてどう動くべきか……あの勇者の刺客二人とどうやって戦うのかを、冷静に考えよう。奴らは必ず、俺たちの痕跡を追ってくる」
彼の言う通りだった。
泣いている暇なんてない。悲しんでいる暇もない。
あの悪魔たちは、私たちが生きている限り、どこまでも執拗に追いかけてくるだろう。
エミールが目を覚ました時、私がまた彼に守られるだけの足手まといでいるわけにはいかない。私自身が強くなり、共に戦う覚悟を持たなければ。
私はギュッと拳を握りしめ、濡れた瞳でエリオットを真っ直ぐに見据えて、力強く頷いた。
「……わかった。私、戦う。エミールを守るために」
(………………………)
しかし。
現実は、私たちのそんな微かな希望すらも、根こそぎ奪い去っていくほどに残酷だった。
その次の日の、昼下がりのことだった。
病室でエミールの手を握り続けていた私と、壁際で魔力鍛錬をしていたエリオットは、突然慌ただしくやって来た看護師によって、別室へと呼び出された。
案内されたのは、重厚な扉の奥にある、冷たい空気の漂うカンファレンスルームのような場所だった。
中には、昨日エミールの手術を担当してくれた主任の回復術士をはじめ、数名の医師たちが円卓を囲むようにして深刻な顔で座っていた。
「お座りください」
促されるまま、私とエリオットは彼らの対面に席に座った。
座った瞬間、部屋の空気が異常なほどに重いことに気がついた。
誰も私と目を合わせようとしない。医師たちは皆、手元のカルテに視線を落としたまま、苦渋に満ちた表情を浮かべている。
……何か、あったのかな?
嫌な予感が、背筋を這い上がってくる。
それから、数十秒……いや、数分に感じられるほどの、息が詰まるような重たい沈黙が続いた。
部屋の隅に置かれた魔道時計の秒針の音だけが、やけに大きく、カチ、カチ、と無機質に響いている。
私の心臓は早鐘のように打ち、胸がギリギリと締め付けられる思いで、誰かがその沈黙を破るのを待った。
やがて。
中央に座っていた主任の回復術士が、深く、ひどく重い深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「マーシャさん。そして、エリオットさん」
その声は、どこか震えているように聞こえた。
「……はい」
私は、無意識に自分の膝の上で両手を強く握りしめていた。
回復術士は、ついに私の目を真っ直ぐに見た。
その瞳には、隠しきれない同情と、絶望的な事実を告げることへの躊躇いが色濃く浮かんでいた。
「大変、申し上げにくいのですが……」
お願い。
やめて。
それ以上、言わないで。
私の心の奥底での絶叫など届くはずもなく、回復術士の口から、この世界のすべてを終わらせるような、残酷すぎる宣告が紡がれた。
「……エミール・ハーヴェストさんは……」
「もう、すでに死んでいます」
時計の秒針の音が、ピタリと止まったような気がした。
第九話
時計の秒針の音が、ピタリと止まったような気がした。
「……え?」
私の口から漏れたのは、ひどく間の抜けた、かすれた音だった。
回復術士の口の動きが、ひどくスローモーションに見える。部屋の空気が急激に冷え込み、真空になったかのように呼吸の仕方がわからなくなった。
「何をおっしゃっているのか、わかりません……。だって、さっきまで手術をしてくれて……命に別状はないって、そうおっしゃっていたじゃないですか……」
私は、震える唇を無理やり動かして、そう反論した。隣に座るエリオットも、目を見開いて回復術士を睨みつけている。
「……申し訳ありません。我々も、手を尽くしたのです。物理的な外傷や、破壊された魔力回路は確かに修復しました。ですが……彼の『魂』が、肉体に戻ってこないのです。魔法による生命維持も、すでに限界を迎えました。彼自身の生命力そのものが、完全に尽き果ててしまったのです」
「そんな……」
「いくら謝っても、この事実をなくせないことはわかっています。無力な我々を、どうか恨んでもらって構わないです。本当に……申し訳ありませんでした」
医師たちは一斉に頭を下げた。
……え??
エミールが……。
死んだ……??
頭の中で、その言葉が何度も何度も木霊する。
嘘だ。あんなに私を守ると言ってくれたのに。あんなに優しく笑ってくれたのに。
彼はいつも、絶対に約束を守ってくれる人だった。だから、今回だって。
「エミールは、死んでない……! 私が行く! 私が声をかければ、きっと……!!」
私が椅子から立ち上がり、半狂乱になって病室へ向かおうとした、まさにその瞬間だった。
カンファレンスルームの分厚い壁が、外側から巨大な質量をぶつけられたように、突如として爆砕された。
粉々になったコンクリートの破片と粉塵が室内に吹き荒れ、医師たちの悲鳴が上がる。
「きゃあああっ!?」
「前を見ろ!! 何だあれは!!?」
「うわあああっ!! 逃げろぉぉっ!!!」
巻き上がる土煙の向こう側、大きく開いた壁の穴から、冷たい外気が一気に流れ込んできた。
そして、その外気の向こうから、ゆっくりと、靴音を響かせて二つの人影が歩み出てきた。
「……見ィつけた。マーシャ・アドミニストレーター。そして、ネズミを逃した小賢しい空間魔法使い」
耳を塞ぎたくなるような、底冷えする声。
現れたのは、月明かりを背に受けた二人の男女。
一人は、身の丈ほどもある禍々しい紫色のオーラを纏った大剣を肩に担ぐ、銀髪の長身の戦士。
もう一人は、漆黒のローブに身を包み、妖艶な笑みを浮かべる黒髪の女魔法使い。
間違いない。昨日、猛吹雪の雪山でエミールの右腕を斬り飛ばし、私たちを殺そうとした勇者からの刺客、旧勇者パーティーの残り二人だ。
銀髪の戦士マルス・エマーソンと、黒髪の魔法使いナターシャ・メイデイ。
「どうやら、あの生意気なガキは一足先に地獄へ逝ったようだな。手間が省けた」
マルスは、大剣を無造作に床に突き立て、私を見下ろして冷酷に笑った。
「お前の旅は、ここで終わる」
「安心して。私達が、何の苦しみも感じないように、一瞬で楽に殺してあげるから」
ナターシャが、まるで慈悲深い女神のような口調で、残虐な宣告を下す。
殺す……?
私が、殺される?
いや、それよりも。
今、こいつらはなんと言った?
エミールが一足先に地獄へ逝った?
死んだ……?
エミールは、本当に死んだ……??
死……。
私の頭の中で、張り詰めていた一本の太い糸が、ブツン、と音を立てて千切れた。
そっか。
分かった。
エミールは、本当に死んだんだ。私を庇って、こいつらに無惨に腕を斬り飛ばされ、そのせいで命を落としたんだ。
私の、すべてだったのに。私の、世界そのものだったのに。
「……殺してやる」
私の中から、悲しみも、絶望も、恐怖も、すべてがすっぽりと抜け落ちた。
後に残ったのは、ただ純粋で、どす黒く、煮えたぎるような『殺意』だけだった。
「………………」
「殺してやる……!」
私は、フラフラとした足取りで、瓦礫を踏み越えて二人へと歩み寄った。
「殺してやる殺してやる殺してやる……!!」
手にした魔法の杖が、私の膨大な怒りの魔力に呼応して、かつてないほど激しく明滅し始める。
「お前ら……全員……皆殺しだ……!!!」
マルスが目を細め、大剣を構え直した。
「……構えろ、ナターシャ。狂犬が来るぞ」
「ぶっ殺してやる!!! エミールを!!! 返せええええええええええっ!!!!」
私は喉が裂けんばかりの絶叫と共に、自身の持つ最大火力の錬金魔法の構築を一瞬で完了させた。
杖の先端から、周囲の空間を歪めるほどの圧倒的な魔力が放出される。
「敵を貫けェェ!!! 錬金魔法!! "ダイヤモンド・スピン"!!!!」
大気中の鉱物成分を極限まで圧縮・硬化させ、絶対的な硬度を誇る巨大なダイヤモンドの槍を無数に生成する。さらにそれに超高速の回転を加え、あらゆる防御を粉砕する必殺の魔法。
無数の輝く槍が、竜巻のような轟音を立てながら、真っ直ぐに二人の刺客めがけて撃ち出された。
凄まじい衝撃波が病院の建物を揺らし、マルスとナターシャのいた場所が、さらに大きく吹き飛んだ。
二人の姿は、爆炎とダイヤモンドの破片の雨の中に完全に呑み込まれ、そのまま崩れ落ちた壁の外、遙か下の地面へと真っ逆さまに落ちていった。
荒い息を吐きながら、私は杖を下ろした。
周囲はもうもうと立ち込める煙に覆われている。
「やった……の……?」
私の怒りの一撃が、奴らを粉砕したのだろうか。
エミールの仇を、討てたのだろうか。
だが。
そんな私の淡い期待は、すぐに絶望的な現実によって打ち砕かれた。
「ふむ……その程度か。これでは、期待外れもいいところだ」
煙が晴れた穴の縁に、マルス・エマーソンが悠然と立っていた。
その衣服には焦げ跡一つなく、銀髪に埃すら被っていない。彼の周囲には、透明な六角形の魔法障壁が展開されており、私の"ダイヤモンド・スピン"を傷一つなく完全に弾き返していたのだ。
嘘……。
あんな、私の命を削るような渾身の一撃が、全く通用しないなんて。
「こんなのじゃ、私達の命には到底届かないわよ。村娘のお遊びね」
背後から、ナターシャが軽蔑に満ちた笑い声を上げた。彼女もまた、無傷であった。
殺せてない……!!!
力の次元が、あまりにも違いすぎる。彼らは、人間という枠組みを超越した、本当の化物だ。
「だが、少しは痛かった。そこは褒めてやる」
マルスが、大剣をずるずると引きずりながら、私に向かって一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
「……じゃあ、約束通り、俺が一瞬で殺してやる」
大剣から立ち昇る紫色のオーラが、死の気配となって私の首を締め付ける。
嫌だ。
死にたくない。
私は!
私はまだ、エミールの仇を討っていないのに!!
「死ね」
マルスが跳躍し、大剣を高く振りかぶった。
「やめろぉっ!! 転移魔法……!!」
横からエリオットが叫び、私を助けようと緑色の雷光を手に集めた。
だが。
「させないわ。私が口を覆っておくから」
いつの間にかエリオットの背後に回り込んでいたナターシャが、彼の口元に冷たい手を当て、その魔力の流れを強制的に遮断した。
「……それとも、今ここで舌を抜かれたい? エリオット・テンペスト」
「くそ……っ! 逃げろ……!! マーシャ!!」
エリオットが拘束されながらも、必死に私に叫ぶ。
逃げろ。
そう言われても。頭では理解していても。
私の身体は、極限の恐怖と、圧倒的な力の差を見せつけられた絶望によって、ガタガタと激しく震え、床に縫い付けられたように一歩も動かなくなっていた。
なんで!!
動け!!
私の足!!
私の前にいるこいつらは!! 私の大好きな人を殺した、絶対に許してはいけない復讐相手なはずなのに!!!
なら!! 動け!!
動けえ!!!
「この剣で終わらせてやる。自己流剣技"ミカヅキ"」
マルスが無慈悲に告げ、紫色の魔力を帯びた大剣が、三日月の軌跡を描いて私の脳天めがけて振り下ろされた。
動けえええええええ!!!!
私の心の絶叫とは裏腹に、身体は一切の抵抗を放棄していた。
逃げることも、防御魔法を張ることもできない。
刃が空気を裂く風圧が、私の前髪を揺らす。
——死ぬ。
その次の刹那、私の目の前に、死神の鎌とも言うべき剣が完全に振り下ろされた。
私はギュッと目を閉じ、身体を切り裂かれる激痛を覚悟した。
………………。
だが。
痛みは、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに聞こえたのは、肉を断つ音ではなく。
鼓膜を破るような、鋼と得体の知れない何かが激突する、凄まじい金属音だった。
そして、それに伴って発生した衝撃波が、私の身体を後ろへと吹き飛ばした。
「な……生きていたのか!!? 貴様ァ!!!」
マルスの、驚愕と混乱の入り混じった叫び声が響く。
生きていた……???
尻餅をついた私が、恐る恐る目を開け、前を見ると。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
私とマルスの間に割って入り、あの必殺の大剣を「たった片腕」で完全に受け止めている、一つの背中があった。
見間違えるはずがない。私が世界で一番愛した、あの少し癖のある髪と、頼もしい背中。
そこにいたのは……エミールだった。
「エミー……ル?」
私は、自分の目を疑った。
だって、たった数分前、一流の回復術士から「完全に死んだ」と宣告されたばかりなのだ。
心臓も止まり、魂も消滅したと。死んだって、思っていたから。
「……待たせたね。マーシャ」
背中越しに、彼が静かに答えた。
その声は、私の知っているエミールの声だった。だけど、どこか地鳴りのように低く、そして二重にエコーがかかっているかのような、人間離れした響きを帯びていた。
「エミール……!! エミールっ!! 生きてたの!? よかった、本当に……!!」
私は歓喜の涙を流し、立ち上がろうとした。
しかし、彼の「姿」をはっきりと視界に収めた瞬間、私の全身からスーッと血の気が引いていくのを感じた。
「な……なるほど。お前……右腕と自分の命を、『禁忌の術』で復活させたな」
マルスが、大剣を押し返されながら、忌々しそうに、そしてどこか嫌悪感を露わにして吐き捨てた。
「ああ、そうだ。お前らを殺すためにな」
エミールは、ゆっくりとマルスの大剣を弾き返し、私の前にその全身を晒した。
その姿を見て、私は言葉を失い、息を呑んだ。
それは、私が知っている優しくて温かい「エミール」とは、決定的に何かが狂っていたからだ。
まず、彼の『右腕』。
猛吹雪の雪山で確かに斬り飛ばされ、病院のベッドでも無くなっていたはずの右腕が、そこには「存在」していた。
しかし、それは人間の腕ではなかった。
肩の付け根から先が、まるで爬虫類のように硬く鋭利な『漆黒の鱗』にびっしりと覆われているのだ。その腕は通常の人間の腕よりも一回り以上大きく、筋肉は異様に隆起し、血管の代わりに禍々しい紫色の魔力がドクドクと脈打って発光している。
指先は鋭い獣の爪のように尖り、彼が愛用していた剣の柄と、まるで肉体が同化してしまったかのように融合していた。
そして、異変は腕だけではなかった。
彼の右半身の肌そのものが、病的なまでにどす黒く変色しており、その皮膚の下を蠢くように、呪いの紋様のような黒い線が右の頬から首元にかけて這い上がっている。
彼の周囲から立ち昇っているのは、清廉な剣士の闘気などではない。まるで上位魔族が放つような、冷たく、粘り気のある、圧倒的な『死と絶望の瘴気』だった。
悪魔の腕。魔族の半身。
その姿は、かつて私に微笑みかけてくれた少年のものではなく、地獄の底から這い出た復讐の化身そのものだった。
強い違和感と、得体の知れない恐怖が、私の背筋を凍らせる。
「……でも、その醜悪な右腕じゃあ、まるで……我々勇者パーティーと貴様、どちらが『堕天』しているか分からないな」
マルスは、嘲笑うようにエミールの姿を指差した。
「それに、魔王の力である禁忌の術を使って魂を現世に繋ぎ止めたなら、もうお前は人間としての余命は……」
「うるせぇ。御託は良い。始めるぞ」
エミールの声には、かつての彼のような熱い怒りすらなく、ただ絶対零度の殺意だけが宿っていた。
彼は、魔族のように禍々しく変貌した右腕で剣を構え直し、紫色の魔力を爆発させた。
「良いねェ!! 第2ラウンド開始といこうか!!」
マルスもまた、狂気じみた笑みを浮かべ、大剣を構え直した。
エミールは生き返った。
私を助けてくれた。
でも、彼は……あの優しかった彼は、いったい何の代償を支払い、何者になってしまったのだろうか。
私はただ、その禍々しい黒い背中を見つめながら、震える手を胸の前で組むことしかできなかった。
第十話
(……………)
時は、僕が絶望的な刺客の刃に倒れ、生死の境を彷徨う深い夢の揺り籠に囚われていた時に遡る。
現実世界で私の肉体が滅びようとしていたその頃、夢の中の僕は、実家の裏手にある古びた木造のベランダで、お父さんの隣に並んで座っていた。
空は透き通るような冬の青に染まり、温かい陽だまりが僕たちを包み込んでいる。
「エミール」
しばらくの沈黙の後、お父さんがぽつりと口を開いた。
「勘の良いお前なら、なんとなく分かっているかもしれないが……」
「……うん」
僕は、自分の膝の上で組んだ手を静かに見つめながら、少し悲しそうな、しかし落ち着いた声で先を促した。
「僕は、現実の世界で……あと数時間で完全に『死ぬ』んだよね?」
「……そうだ」
お父さんは、苦しげに顔を歪めて頷いた。
「お父さん、大丈夫だよ」
僕は、無理に笑顔を作って見せた。
「自分の死期ぐらい、自分自身が一番よくわかってる。この温かい夢の世界からでも、現実の自分の肉体が修復不可能なほど破壊され、魂を繋ぎ止める限界に近いことが、痛いほどよく伝わってくるからね」
僕の言葉に、お父さんは何も言えず、ただ唇を噛み締めていた。
そんなお父さんの大きな背中を見つめながら、僕はずっと胸に秘めていた感謝を口にした。
「それと……ありがとうな。お父さん」
「急になんだよ、エミール。父さん、照れるぞ」
お父さんは、わざとらしくぶっきらぼうに返し、誤魔化すように視線を逸らした。
「照れなくていいよ。……ずっと、お父さんが僕に危険を教えてくれていたんだよね?」
「………」
お父さんは、気まずそうにゴホンと咳払いをした。
「どうして、分かった?」
「なんとなくね。……あの猛吹雪の雪山で、ヘンリーとかいう狙撃手と戦っていた時に、僕の夢の中に響いた『目を覚ませ、危機が近づいている』って声。あれが、少しエコーがかかっていたけど、お父さんの声にそっくりだと思ったからね。それに、勇者に村を襲われたあの夜、ベッドで寝ていた僕を叩き起こした声だってそうだった。あの時点で、すでにお父さんが勇者の手によって殺されていたのだとすれば、死んで魂だけの存在になったお父さんが、僕にテレパシーで危険を知らせてくれていたってことなら、全ての辻褄が合う」
「フフッ。……そうか、バレていたか」
お父さんは、自嘲するように短く笑った。
「でも、結局……お前を救えなかった。ただ危険を知らせるだけで、敵の刃を弾き返すことも、お前を連れて逃げることもできない……無力で役立たずの父さんを、許してくれ」
「そんなことない!!」
僕は強く首を横に振った。
「お父さんは、十分に僕の危機を救ってくれた。お父さんの声がなければ、僕は寝首を掻かれて、もっと早くに死んでいたよ。それに……」
僕は、自分の左手を、心臓の鼓動が聞こえる胸の左側に軽く添えた。
「昔は、死後の世界とか魂の存在なんて疑っていたけど。本当に大切な人が死んでしまっても……その人の心は、魂は、ちゃんとここにあるんだって、今ははっきりと分かるんだ」
僕がそう言うと、お父さんは咄嗟に両手で自分の顔を覆った。
指の隙間から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
息子にカッコ悪いところを見せないために、必死に嗚咽を堪えようとしているのだ。昔から、お父さんはそういう不器用な人だった。
だけど、もうそんな強がりなんてしなくて良いんだ。
「泣いていいんだよ。お父さん」
僕が優しくそう囁いた瞬間。
お父さんは、大きな体を震わせ、僕の胸にすがりつくようにして子供のように号泣し始めた。
「う、うわああああああああんっ……!!」
やっぱり、辛かったんだろう。
苦しかったんだろう。
自分の息子が、自分たちと同じように理不尽に殺されようとしているのに、何もできないことが。
「ごめん!! ごめんよぉ!!! エミール!!!」
お父さんは、僕の背中に腕を回し、顔を押し付けて慟哭した。
「俺は!!! 俺はァ!!! お前を……ッ!! 救ってあげられなかった!!! お前は!! まだ十七で、もっともっと長生きしたかっただろうになあ!!! マーシャちゃんを助けて!! 二人で幸せな家庭を築いて、平和に生きたかっただろうに!!! なのに!! あの時!! お前の後ろに迫っていた二人の刺客に、俺がもっと早く気づいて教えていれば!!! こんなことにはならなかったのに……!!! クソオッ……!! ごめんよ!!! ごめんなぁ!!!」
「そんなことないよ。父さん。お父さんのせいじゃない」
僕は、泣きじゃくるお父さんの広い背中を、何度も何度も優しく撫でた。
「エミール……っ!! ぐすっ……!!」
「僕はね、お父さんの息子に生まれて、本当に良かったって思ってるよ」
「ああぁぁぁぁ!!!! ありがとう!!! 俺も……俺もお前が……!!! 俺の息子で、本当に良かった!!!!」
僕たちは、温かい日差しの中で、これまでの人生のすべてを分かち合うように、互いを強く抱きしめ合って泣いた。
(………………)
それから、お父さんがようやく泣き止み、目を真っ赤に腫らして落ち着いた頃。
お母さんが「お昼ご飯ができたわよ」と、お盆に乗せた料理をベランダまで運んできてくれた。
僕は、それを食べた。
これが、僕の人生における『最後の晩餐』になるのだと覚悟して。
たとえ、これが僕の脳が作り出した幻の味覚であったとしても、今の僕にとっては唯一の真実だった。
メニューは、僕が昔から大好物だった、お母さん特製の温かい煮込みハンバーグだった。
一口食べた瞬間、肉の旨みと甘酸っぱいソースの味が口いっぱいに広がり、涙が出るほど美味しかった。
そして、野菜の甘みが溶け込んだ温かいスープを飲み干し、外はカリッと、中はフワフワに焼かれたパンを完食して、僕は満ち足りた思いで箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
お母さんの顔を見て、僕は深く頭を下げた。
すると、お母さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
だけど、そのお母さんの優しい瞳には、表面張力でギリギリ保たれているような、いっぱいの涙が溜まっているのが見えた。お母さんも、僕がもうすぐこの世界から消えてしまうことを、はっきりと理解しているのだ。
僕は、そんなお母さんに最高の笑顔を向けた。
「すごく! すごく美味しかったよ!! やっぱり、僕のお母さんは世界一の料理の天才だね!!」
お母さんは、唇を震わせながら、何度も何度も無言で頷いた。
そして、限界を迎えた瞳から、大粒の涙が滝のように流れ出した。
僕はそのお母さんの瞳をじっと見つめて、はっきりと言葉にした。
「僕はお母さんの息子に生まれて、本当に良かった」
その言葉を聞いた瞬間、お母さんは膝から崩れ落ち、地面に突っ伏して泣き崩れた。
「エミール……っ! エミール……っ!! やだ……逝かないで……っ!!」
僕は床に座り込み、嗚咽するお母さんの華奢な肩を撫でながら言った。
「泣かないで、お母さん。僕は、世界一幸せな息子だよ。……だって……!! お母さんやお父さんのような、こんなにも優しくて温かい人に愛を教えてもらえて!!! 僕は本当に、本当に幸せだった!!! だから!! 僕は幸せだよ!! お父さん!!! お母さん!!!」
僕がそう叫ぶと、耐えきれなくなった僕自身の目からも涙が溢れ出し、お父さんも再び顔を覆って泣き出した。
僕たち家族三人は、身を寄せ合い、声の限りに嗚咽した。
これが最後だとわかっているからこそ、この温もりを一秒でも長く感じていたかった。
(………………………)
それから15分ほど経って。
涙を枯らすほど泣き尽くした僕らは、だいぶ落ち着きを取り戻していた。
僕らはベランダのデッキの椅子に三人で座り、昔の思い出話や、マーシャとのことなど、色んな他愛のない話をした。まるで、穏やかな休日の午後を過ごすように。
すると、そんな穏やかな時間の中で。
お父さんが不意に真顔になり、僕の瞳を射抜くようにじっと見つめて言った。
「なあ、エミール」
「どうしたの? お父さん」
「お前の命を……あと『10日間』だけ、この現世に引き伸ばすことができる、禁忌の術がある」
「……え?」
僕は耳を疑った。もう数時間で死ぬはずの命が、延びる?
「これから、その禁忌の術がなんなのかを説明する。それを聞いた後で、お前自身にどうするか決めてほしい。……もちろん、すぐには決められないだろうが……現実の肉体の崩壊を考えると、時間がない。できるだけ早い返答を頼む」
お父さんの言葉の重みに、僕はごくりと息を飲んだ。
(………………)
「その禁忌の術とは……端的に言えば、『魔王』との契約だ」
魔王との契約……。
その言葉が持つ、計り知れない絶望と重みを、僕は瞬時に理解した。
かつて、この世界を恐怖のどん底に陥れ、そして今もなお深淵で息を潜めている絶対的な邪悪。
あの猛吹雪の夜、僕とマーシャの魂を直接削り取るような凄まじい威圧感を放った、あのバケモノ。
あんな存在と、魂の契約を結ぶというのか。
僕はお母さんの方を、心配になって横目で見た。
やはり、お母さんの顔は真っ青になり、指先が小刻みに震えていた。
「お父さん! エミールに、あんな恐ろしい魔王と契約させるなんて……! そんなの、死ぬよりも残酷な運命を背負わせることになるわ!!」
お母さんは、食後のコーヒーに砂糖を入れるための銀のスプーンを、カチャンと音を立ててテーブルの上に落とした。
依然として、お母さんの手は激しく震えている。
「わかっている! だからこそ、エミール。これはお父さんからの、あくまで一つの『提案』に過ぎない。お前がこのまま安らかに眠りにつくことを選ぶなら、俺たちはそれを受け入れる。……エミールが、自分で選びたい方を選びなさい」
お父さんもまた、苦渋の決断を迫る自分自身を呪うような顔をしていた。
僕は、目を閉じた。
このまま死ねば、僕は苦しみから解放され、両親と共にこの温かい世界で永遠に過ごすことができる。
だが、現実世界に残されたマーシャはどうなる? あの勇者という名の悪魔は、誰が止める?
僕がここで逃げれば、すべてが終わる。
目を開け、僕はお父さんとお母さんの目をしっかりと、迷いのない意志で見つめ返して言った。
「僕は……魔王と契約する」
「……そうか。なら、お父さんはもう何も言うまい」
お父さんは深く頷き、目を伏せた。
「エミール……っ!」
お母さんが、悲痛な声で僕の名前を呼び、すがるように僕の目を見つめる。
「心配しないで、お母さん」
僕は努めて明るい声を出した。
「僕は、決して魔王なんかに魂まで支配されたりはしない。奴の力を、あくまで利用するだけさ。あの勇者と刺客どもを倒して、マーシャを救ったら……僕はこの手で、魔王も倒すつもりだよ」
「エミール……!」
僕はお母さんを抱きしめた。
「大丈夫だよ。お母さん。僕に任せて。僕は、残された10日間で……僕のなすべき全ての役割を果たしてみせるから」
そして、僕は覚悟を決め、お母さんの温かい腕の中から離れた。
庭を抜け、この平和な夢の領域の果て……地平線の向こう側に広がる、空間が歪んだ『夢の狭間』に向かって歩き始める。
「いってきます! お父さん!! お母さん!!」
僕は振り返り、大きく手を振った。
すると、後ろから二人の声が重なって聞こえた。
「「いってらっしゃい!! また必ず、迎えにくるから!!! それまでどうか、元気で!! エミール!!!」」
僕は、溢れそうになる涙を必死に噛み締めながら、大きく頷き、前を向いた。
(………………………)
歩き始めて、数十分。
周囲の景色は徐々に色を失い、光と闇が入り混じる奇妙な空間へと変貌していった。
ここが、僕の夢と、魔王の領域とを繋ぐ次元の境界……『夢の狭間』か。
足元には何もない。ただ、灰色の雲の上を歩いているような、フワフワとした感覚だけがある。
「エミール……だよね?」
不意に。
そう感じていた僕の真後ろから、鈴の音のような可愛らしい声がした。
ハッとして振り返ると、そこには気づけば、一人の小さな人影が立っていた。
ツバの広い麦わら帽子を被り、白いワンピースを着た可愛らしい幼女。
その顔立ちは、僕がよく知っている、幼い頃のマーシャの面影にそっくりだった。
いや、そっくりというレベルではない。まるで、過去から抜け出してきた本物のような……。
本物……? なぜ、マーシャの幼い頃の姿が、こんな僕の精神世界の最深部にいるんだ?
「私は、5歳のマーシャ。……貴方は、何年後のエミール?」
幼女は、不思議そうに小首を傾げて僕を見上げた。
「11年後……17歳のエミールだよ」
僕は戸惑いながらも、その純真な瞳に絆され、優しく答えてやった。
それにしても……。
この幼女は、間違いなくマーシャの精神の欠片か何かだろう。
だとしたら、なぜ彼女が僕と魔王を繋ぐこの次元の狭間に存在しているのか。彼女自身もまた、何か普通ではない秘密を抱えているということなのか?
「私ね。エミールに、一つだけお願いがあるの」
幼女のマーシャは、無邪気な笑顔のまま、そんなことを言った。
「……? なんだい? 何でも言ってごらん」
僕がしゃがみ込んで目線を合わせると、彼女はふわりと微笑み、そして。
ぞっとするほど冷たい声で、こう囁いた。
「いつか……」
「私を、殺しに来て」
「——マーシャ!!?」
あまりにも突拍子もない、そして残酷な言葉に、僕は弾かれたように立ち上がり、彼女の肩を掴もうとした。
しかし……僕の手は空を切り、そこにはすでに誰もいなかった。
麦わら帽子の幼女は、まるで最初から幻であったかのように、蜃気楼のように溶けて消え去っていた。
それにしても……私を殺しに来て?
マーシャを??
僕が、世界で一番愛し、守り抜くと誓った彼女を、殺す?
なんで? どういう意味だ!?
思考がパニックに陥りそうになる。
いけない、いけない……考えるのは後だ。今はそれに構っている時間がない。
肉体が完全に死滅する前に、まずはこの夢の狭間の向こう側、『魔王の夢』の領域にいる魔王と接触し、契約を交わさないといけないのだ。
僕は後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、さらに深く、暗い闇の奥へと足を踏み入れた。
(………………………)
——"魔王の夢"の領域にて。
そこは、先ほどの平和なベランダとは対極に位置する、おぞましい空間だった。
空は血のように赤く、大地は腐肉のように黒くただれ、呼吸をするだけで肺が焼けるような瘴気が立ち込めている。
僕はついに、その最深部を支配する絶対的な存在……『魔王』と対峙するに至った。
玉座のような骨の山の上に、ソレは足を組んで座っていた。
「ようこそ。君が、エミール・ハーヴェストか」
「ああ、そうだ。お前が魔王か?」
僕は、恐怖で震えそうになる膝を必死に抑え込み、睨みつけた。
「ああ。そうだとも。エミール・ハーヴェスト。俺は君の訪れを、心から歓迎しているよ!」
魔王は、芝居がかった手つきで大げさに両手を広げた。
「下らない決まり文句は良い。あんたにとって、こんな死にかけの僕の価値はなんだ?」
「まあ、そう答えを急ぐな。……とりあえず、君はどうしても俺と契約を結びたい、現世に蘇りたい、そういうことだな?」
「ああ、そうだ。それで、契約の条件なんだが……」
僕が魂の代償について尋ねようとした時だった。
「条件……? そんなのいらない! 全く、何もいらないよ!」
魔王は玉座から立ち上がり、滑るような動きで僕の目の前までやってきた。
そして、僕の顔を覗き込むようにして、至近距離でその表情を歪めた。
その魔王の顔は……美しさの中に悍ましさを内包した、醜悪極まりないものだった。
真っ赤に爛れた瞳。裂けたような口からは、人間を嘲るような黒い瘴気が漏れ出している。
魔王は、僕の耳元で、甘く、そして決定的な破滅を予感させる声で囁いた。
「君は……あの『勇者』と『調律者』さえ、僕の代わりに殺してくれれば、それで良い。……フフッ、ハハハハッ!!」
その不吉な笑みは、僕の魂の底にまでこびりつくほどに、邪悪で、どす黒く、すべてを嘲笑うかのように歪んでいた。
この悪魔は、僕の復讐心すらも、自らの盤上で踊る駒として利用しようとしている。
だが、構わない。
——こうして、僕は魔王との血の契約を結び終えた。
自らの右腕と、残された寿命のすべてを代償として。地獄の底から、復讐の修羅として現世に蘇り、目覚めたのだ。
第十一話
この俺、勇者パーティーのマルスがまだ「正義」や「希望」という安い言葉を信じていた頃。
世界を救うため、魔王を討つため、誇り高き仲間たちと共に剣を振るっていた。
だが、結果はどうだった?
気高き戦友たちは、理不尽な暴力と底知れぬ悪意の前に、次々と無惨に命を散らしていった。泥と血に塗れ、どれだけ足掻こうとも、俺の剣は誰一人として守り抜くことができなかった。
絶望の淵で、俺は悟ったのだ。
この世界に、光など存在しない。強大すぎる力の前では、絆も愛も、ただの脆いガラス細工に過ぎないということを。
そして、俺たちの心を根底から完全にへし折った、あの決定的な「裏切り」。あの時、俺の魂は黒く染まり……あの方――勇者ラングルドの絶対的な狂気と力の前に、ただひれ伏すことしかできなくなった。
あの方が望むなら、俺は喜んで地獄の猟犬になろう。
罪なき民を殺し、かつて守ると誓った世界を自らの手で破壊し尽くそうとも、堕天したこの心はもう何の痛みも感じない。
……だから、エミール・ハーヴェスト。
魔王の腕という悍ましい力に縋ってでも、大切な女を守ろうと足掻くお前のその真っ直ぐな瞳が、ひどく目障りなんだ。その無駄な希望が、かつての愚かで無力だった俺たち自身を見ているようで、心底虫唾が走る。
さあ、この紫の瘴気を纏う大剣で引導を渡してやろう。
お前がこれから沈む、一切の救いがない絶対的な絶望の深さを。
(…………)
時は、僕が絶望的な刺客の刃に倒れ、死の淵から這い上がった直後――病院の廃墟でマルス・エマーソンたちと対峙した、あの絶望的な空間へと戻る。
「うるせぇ。御託は良い。始めるぞ」
僕は、這い上がってきた地獄の冷たさをそのまま声に乗せて言い放った。
視界の端に映るマーシャの顔が、恐怖と悲痛に歪んでいるのがわかる。僕の右腕と右半身を浸食する、この禍々しい漆黒の鱗と紫色の瘴気。彼女が怯えるのも無理はない。僕自身、この腕から脈打つように流れ込んでくる『魔王の力』の邪悪さに、吐き気すら催しそうになっていたのだから。
だが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
この腕がどれほど醜悪であろうと、どれほど僕の寿命を削ろうとも。この力で、目の前の敵を完全に屠らなければ、僕たちはここで終わる。マーシャを守るためなら、僕は喜んで悪魔にでも成り下がってやる。
「良いねェ!! 第2ラウンド開始といこうか!!」
銀髪の戦士、マルス・エマーソンが狂気に満ちた笑みを浮かべ、身の丈ほどもある大剣を構え直した。彼の背後では、黒髪の魔法使いナターシャ・メイデイが、僕の異形の姿に警戒を強めながらも、杖を構えていつでも魔法を放てるよう詠唱の準備に入っている。
僕は、深く息を吸い込んだ。
空気が肺を満たすと同時に、右腕の付け根から呪いのように這い上がってくる黒い紋様が、脈打つように妖しく発光し始める。魔王と契約したことで得た、底知れぬ魔力の奔流。それが僕の血肉と融合し、全身の細胞が破裂しそうなほどの全能感と、それに反比例するような強烈な破壊衝動を呼び起こしていた。
僕は、肉体と同化しつつある剣の柄を強く握りしめ、魔王の瘴気を刃へと一気に収束させた。
空間が、僕の右腕を中心にミシミシと悲鳴を上げる。
「喰らえ……! 呪詛序幕(じゅそじょまく)……"滅式(めっしき)"!!」
僕が右腕を振り抜いたその瞬間。
圧縮された極大の紫色の魔力が、六つの巨大な三日月型の斬撃となって放射状に放たれた。
それは、かつての僕の剣技など足元にも及ばない、純粋な『破壊と死』の具現化だった。斬撃が通過した軌跡の空間が、文字通り「切り裂かれ」、周囲の瓦礫やコンクリートの床が紙屑のように消し飛び、猛烈な砂埃が病院の廃墟に舞い上がった。
常人であれば、その圧倒的な魔力の余波に触れただけで肉体が腐り落ちるような、魔王の呪いが込められた究極の一撃。
しかし、その必殺の魔法斬撃を前にしても、マルス・エマーソンの表情から余裕の笑みが消えることはなかった。
「我が剣は、主君たる勇者に捧げる。……自己流剣技"ミカヅキ"」
マルスは、迫り来る六つの死の刃に向かって、自らの大剣を静かに、しかし神速の域で振り抜いた。
ガギィィィィィィンッ!!!!
鼓膜を突き破るような凄まじい金属音と、火花。
信じられない光景だった。
マルスは、たった一本の大剣を風車のように回転させ、僕の放った六方向からの究極魔法斬撃を、一歩も退くことなく『すべて』防ぎ切り、弾き飛ばしてしまったのだ。
弾かれた斬撃は背後の天井や壁に直撃し、建物をさらに崩壊させたが、マルス自身には傷一つついていない。
「……フン。この程度か? エミール・ハーヴェスト」
砂埃の中から現れたマルスは、大剣を肩に担ぎ直し、退屈そうに鼻を鳴らした。
「魔王の力を借りたからといって、所詮は借り物。貴様自身の器がその程度なら、俺の剣を凌駕することはできないぞ」
僕は、奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締めた。
遠距離での魔法の斬り合いは、無意味か。
僕の魔力がどれほど増大しようとも、あの男の剣技と、彼自身の持つ途方もない実力差は、そう簡単に埋まるものではないらしい。
確かに、これは簡単には行かないな。
だが、焦りはない。魔王との契約は、僕にただの破壊力だけでなく、冷静な殺意をもたらしていた。
遠距離が駄目なら……!
奴のあの長大な大剣が振るえない、超至近距離(インファイト)に持ち込むまで!!
「おおおおおおっ!!」
僕は右腕の剣を高く振り上げ、床を蹴り砕く勢いで、マルスとナターシャの二人に向かって一直線に突っ込んだ。
「ほう。魔法の撃ち合いを諦めて、自ら死地に飛び込んでくるか」
マルスは嘲笑した。
「だが、そんな何の捻りもない単純な突進だな。貴様、血に飢えすぎて頭まで魔族になったか? 何を考え……」
マルスが大剣を振りかぶろうとした、まさにその時。
僕は、背後にいる愛しい少女に向けて、魔力通信で短く、確かな信頼を込めて合図を送った。
『……今だ。マーシャ』
僕が突進しながらそう念じた瞬間。
マルスの視界の端で、僕の背後から凄まじい純度の魔力が立ち昇った。
「補助魔法……"ツインズ"!!」
マーシャの、鈴を転がすような、しかし強い意志を持った凛とした詠唱が響き渡る。
途端、僕の周囲の空気が陽炎のように激しく揺らいだ。
彼女の放った高度な幻惑と分身の補助魔法が、魔王の力を宿した僕の肉体に作用する。
光が屈折し、僕の身体は残像を残しながら、完全に独立した意志を持つ『二つの分身』へと分裂したのだ。
「なにっ!? 分裂したか……!」
流石のマルスも、これには目を見張った。一人の魔王化(まおうか)した剣士が、全く同じ質量と魔力を持って二人になったのだから。
「面白い!! ……だが……付け焼き刃の連携など、まだ甘いぞ!!」
マルスは瞬時に反応し、二人に分かれた僕を同時に迎え撃つべく、大剣の軌道を変化させた。
だが、僕らの連携は、奴の思考のさらに先を行く。
「呪詛序幕……"滅式"!!!」
分身した二人の僕が、マルスの左右から完全に同時に、至近距離で究極魔法の斬撃を放った。
逃げ場はない。大剣で片方を防いでも、もう片方が確実に奴の胴体を両断する。完璧なタイミング、完璧な挟撃だった。
「チッ……! 正面から受けてやる。来い!!」
マルスは防御を諦めたのか、あるいは間に合わないと悟ったのか、大剣を盾のように構える構えをとった。
二つの黒紫の斬撃が、マルスの巨体を十字に切り裂く生々しい感触が、僕の手首に確かに伝わった。
同時に、背後にいたナターシャにも魔法の余波が直撃し、悲鳴が上がる。
……感触ありだ!
やったぞ!!
僕の放った渾身の斬撃は、間違いなく奴らの肉体を切り裂いた……!!
「はず、だった」
煙が晴れる中、僕の耳に届いたのは、苦悶の悲鳴ではなく、呆れ果てたような低い呟きだった。
「……は??」
僕は、信じられない光景に絶句した。
十字に切り裂かれたはずのマルス・エマーソンは、涼しい顔をしてそこに立っていた。
斬撃は確かに彼を捉えていた。だが、彼の着ている衣服が少し破れ、皮膚に浅い赤い線(擦り傷)がついているだけで、致命傷には程遠い。血すらまともに流れていなかった。背後のナターシャも、尻餅をついてはいるものの、無傷だ。
「だが、俺相手にその程度の魔術は、無意味だ」
マルスは、自分の胸元についた浅い傷を指でなぞりながら、ひどく冷酷な目で僕を見下ろした。
なんでだ。
どうして、あれだけの直撃を食らって、擦り傷程度で済んでいるんだよ。
「エミール・ハーヴェスト。貴様の足掻きもここまでだ。……貴様はここで死ぬ」
フッ、と。
マーシャの補助魔法による僕の『分身』の効果は、魔力の限界である「10秒」を迎え、蜃気楼のように掻き消えた。
分身が消え、一人に戻り、技の反動で完全に無防備になった僕。
「この俺の手によってな」
マルスの目が、獲物を仕留める猛禽類のように鋭く細められた。
その瞬間、彼の身体がブレた。
速い。先ほどまでの彼とは比べ物にならない、本来の圧倒的な速度。
「ぐっ……!?」
反応する間もなかった。
すれ違いざま、マルスの大剣が、僕の背中を斜めに、容赦なく袈裟斬りにした。
「がはっ……!!」
魔王の瘴気で覆われた強靭な肉体ごと、背中を深く切り裂かれた。焼けるような激痛と共に、黒い血が鮮やかに噴き出す。
僕はバランスを崩し、無様に地面へと倒れ込んだ。
視界が激しく揺れ、息ができない。
マルスはゆっくりと振り返り、床に倒れて咳き込む僕の背中を、鋼で覆われた重いブーツで、容赦なく、グリグリと踏みにじった。
「ぎ……っ、ああぁぁぁぁっ!!!」
傷口を直接抉られる激痛に、僕は喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
「不思議か? なぜ俺に傷がつかなかったのか」
マルスは僕を踏みつけながら、勝利者の余裕を見せつけるように種明かしを始めた。
「この僕、マルス・エマーソンの魔法の能力は『絶対的な高強度のバリア』だ。しかも、このバリアは僕の肉体を覆うだけでなく、任意の別の者も同時に守ることができる。つまり、俺が展開した不可視の装甲によって、俺も、ナターシャ・メイデイも無事だったというわけだ。お前たちの連携は、最初から俺の防御を貫通する力など持っていなかった」
「ぐ、ふっ……」
口から黒い血が零れ落ちる。
クソッ。
魔王の力を使っても、寿命を前借りしても、それでもまだ、こいつらには届かないのか。
また……! 僕は、死ぬのか!! マーシャを残して!!
「残念だったな、少年。さあ、今度こそもう一度死ね。そして、二度と蘇るな」
マルスが、僕の首をはねるために、大剣を静かに振り上げた。
絶望が、再び僕の視界を黒く塗りつぶそうとした。
ああ、終わる。
僕の命も、復讐も、何もかも。
だが、その時だった。
「エミール……私は、貴方を……」
澄み切った、それでいて、どこかこの世の理(ことわり)から外れてしまったような、冷たく美しい声が、廃墟の病院に響き渡った。
「……理(ことわり)を壊せ。聖魔法……"ロストエデン"!!!」
その言葉が紡がれた瞬間。
マルス・エマーソンが大剣を振り下ろそうとしていたその腕が、そして彼を踏みつけていた足が、まるで透明な分厚いガラスの壁に阻まれたように、空中で突然ピタリと静止した。
「……なっ!?」
マルスが驚愕の声を上げる。彼の顔に、初めて明確な『焦燥』と『恐怖』の色が浮かんだ。
そのわずかな隙を逃さず、僕は残された力を振り絞り、這いつくばるようにして奴のブーツの間合いから強引に抜け出した。
背中から大量の血を流しながら、荒い息をつき、振り返る。
……にしても、何が起こっている?
空気が、違う。
魔力という概念すら超越した、何か神聖で、同時に恐ろしいほどに純粋な『光の粒子』が、空間のあちこちから発生し、渦を巻き始めている。
「マーシャ……?」
僕は、信じられない思いで、光の発生源である少女を見た。
「マーシャ……!! 一体、何をしようとしてるんだ!!」
僕の叫びに、マーシャは悲しげに、けれど決意に満ちた瞳で僕を見つめ返した。
彼女の持つ杖の先端には、まるで小さな太陽のような、圧倒的な光の球体が収束しつつあった。
「これだけは、絶対に、一生使いたくなかった。お母さんにも、絶対に使うなと固く禁じられていたから」
マーシャの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「だけど……もう、嫌なの。私の目の前で、エミールが傷つくのを見るのは。エミールを、絶対に死なせたくない。だから……」
彼女の声が、震えながらも、世界そのものに宣言するように響く。
「私は今から……『禁忌』を犯す」
その言葉を聞いた途端、マルス・エマーソンが、かつてないほど取り乱したようにわめき散らし始めた。
「クソっ!! やめろ!! やめろぉっ!!!」
彼は見えない拘束から逃れようと必死に身をよじりながら、顔を青ざめさせた。その次の瞬間だった。
「……ぐ……!?」
突如として、僕の頭を割るような強烈な耳鳴りが襲ってきた。
キィィィィィンという金属音と共に、視界が白く点滅する。
魔王の呪いによる反発か? いや、違う。これは……。
(…………)
『私を、殺して』
(…………)
鼓膜ではなく、直接脳味噌に、あの声が響いたのだ。
僕が臨死体験の中で見た、「夢の狭間」にいた、あの麦わら帽子を被った5歳の幼いマーシャの声。
あの時は幻覚だと思っていた。だが、現実の世界に戻ってきた今、なぜ僕の頭の中に再び響くんだ。
ぐ……! これは、誰の記憶だ!?
この声の主は! 幼いマーシャの姿をしたこの存在は、一体何が目的なんだ!!?
なぜ、僕に「自分を殺せ」なんて呪いをかけるんだ!
激しい頭痛と混乱の中で、僕は目の前の現実と、頭の中の狂気に引き裂かれそうになっていた。
だが!!
状況だけを見れば、これは千載一遇の好機でもある。
あのマルスの絶対的な防御バリアすらも、マーシャの放とうとしているあの神聖な光の奔流の前では、紙切れのように無力化されているように見える。
この術を使っても、もしマーシャ自身の身体が無事で済むのなら……。この絶望的な状況を覆すには、むしろ好都合だ!
なぜなら、空気を振るわせるほどのあの破滅的な魔法のエネルギーなら……!
たとえマルスのバリアがあろうとも。
奴らのどちらかを、確実に殺せる!!
第十二話
「……発動!!!」
マーシャの、悲痛でありながらも一切の迷いを捨て去った叫びが、廃墟となった病院の空間に響き渡った。
その瞬間。
彼女の掲げた杖の先端から、まるで小さな太陽が地上に顕現したかのような、とてつもない出力の『原始的な魔力の塊』が放出された。
それは、純粋な光。闇を打ち払い、罪を浄化し、世界の理(ことわり)すらも書き換えてしまうような、圧倒的な白。
「おおおおおおっ!!」
マルスが絶叫し、両腕を交差させて己の持つすべての魔力をバリアに注ぎ込んだ。
彼の周囲に、何十層にも重なる分厚い六角形の魔法障壁が展開される。
だが、聖魔法"ロストエデン"の光の奔流は、マルスめがけて一直線に放たれ……彼の誇る絶対防壁に激突した。
ガラスの城が巨大な鉄球で粉砕されるような、甲高い破砕音が連続して鳴り響いた。
マルスのバリアは、光の濁流の前に一秒の抵抗すら許されず、外側から一枚、また一枚と、まるであぶられた飴細工のように溶け、砕け散っていく。
「ば、馬鹿な……!! 俺の防壁が……!!」
マルスの顔に、明確な死の恐怖が張り付いた。
魔力回路がショートし、彼の巨体が後ずさる。もはや、彼には打つ手がなかった。
光の槍が、最後の障壁を貫き、マルス・エマーソンの心臓を完全に捉えた。
そして、その破壊の光は、彼を跡形もなく消し飛ばす……。
——はずだった。
「…………え?」
凄まじい閃光が収まり、舞い上がった粉塵が夜風に流されていく中。
僕の目に入ってきたのは、予想だにしなかった、あまりにも静かで、残酷な光景だった。
「ナター……シャ……?」
マルス・エマーソンの、ひどく掠れた、信じられないものを見るような声がこぼれ落ちた。
彼の目の前には、一人の女が立っていた。
漆黒のローブに身を包んでいたはずの女魔法使い、ナターシャ・メイデイ。
彼女は、マルスを守るように彼の前に立ち塞がり、両手を大きく広げた姿勢のまま、ピタリと静止していた。
そのローブは聖なる光に焼かれてボロボロになり、彼女の胸の中心には、光の槍が貫通したことによる巨大な風穴が空いていた。
彼女は、自分自身の防御魔法すら展開する暇もなく、ただ純粋な『肉の盾』となって、マルスに向けられた致死の一撃を、その身一つで受け止めたのだ。
「ナターシャ!! おい、ナターシャ!!!」
マルスが、血相を変えて彼女の肩を掴んだ。
その瞬間。
ナターシャの身体は、まるで糸の切れた操り人形のように、がくりと崩れ落ちた。
「あ……」
マルスは慌てて彼女の身体を抱きとめた。
しかし、彼女の瞳はすでに焦点を失い、その口元からは一筋の血が流れているだけで、ピクリとも動かなかった。
その時、すでにナターシャ・メイデイは……世界で最も愛していた男を守り抜き、立ちながらにして、完全に息絶えていたのだ。
(…………………)
廃墟に、不気味なほどの静寂が落ちた。
僕も、術を放った反動で膝をついているマーシャも、目の前で起きた唐突な悲劇に、ただ息を呑むことしかできなかった。
ナターシャは、死んだ。
数え切れないほどの命を奪ってきた冷酷な刺客が、最後に残した行動は、仲間の命を身を呈して守るという、あまりにも自己犠牲に満ちた、純粋な愛の証明だった。
「ナター……シャ……? 嘘だろ、おい……」
マルス・エマーソンは、腕の中で冷たくなっていく彼女の骸を抱きしめながら、激しく震えていた。
その震えは、最初はかすかなものだったが、次第に彼の全身をガタガタと揺さぶるほどの激しい痙攣へと変わっていった。
マルス・エマーソンにとって、この死に方は、この腕の中の重みは……どこかで、確かに見たことがあった。
いや、彼自身の魂の奥底に、絶対に忘れられないほどの深いトラウマとして、確実に刻み込まれていた光景だった。
——かつて、彼らがまだ「英雄」と呼ばれ、魔王討伐の旅をしていた頃。
彼らを庇い、名誉ある犠牲となった数多の戦友たちの死。
そして、彼らを精神の限界まで追い詰め、絶望の淵へと叩き落とした、あの『裏切り』の記憶。
ナターシャの死という強烈な精神的ショックが、彼を縛り付けていた鎖を断ち切った。
彼の精神を狂わせ、"黒い心"を持った怪物へと堕としめていた「堕天」の呪縛。あの勇者ラングルドによって施されていた洗脳と狂気の膜が、今、バリバリと音を立てて剥がれ落ちていく。
「ああ……あああ……」
マルスの口から、獣の咆哮とも、子供の嗚咽ともつかない声が漏れ出す。
彼の震えは、もう止まらなかった。
「……全部……思い出した」
虚ろな目で宙を見つめながら、マルスは呆然と呟いた。
その目から、狂気が消え、代わりに深い後悔と、底知れぬ絶望の涙が溢れ出していた。
「俺達は……何をしていたんだ? これまで……」
彼は、血に塗れた自分の両手を見つめた。
「あの方の……あんな悪魔の手下として。罪のない人々を殺し、村を焼き……かつて俺たちが守ると誓ったはずのこの世界を、自らの手で破壊していたというのか……!」
マルスは、ナターシャの身体をそっと冷たい床に横たえると、ふらふらと立ち上がった。
そして、武器である大剣を拾おうともせず、どこへ向かうでもなく、焦点の合わない目で歩き出した。
その歩みは、まるで夢遊病者のように覚束ない。
彼は、ブツブツと何かを呟いていた。
ひび割れた唇から漏れ出る、何かにすがりつくような、悲痛な祈りの言葉。
「殺さないと……魔王は……」
それは、かつて彼が正義の騎士であった頃、仲間たちと共に掲げた、絶対に曲げられないはずの誓いだった。
「必ず……俺の手で……」
しかし、その言葉が、僕やマーシャの耳に届くことはなかった。
彼が正気を取り戻し、勇者の恐るべき陰謀や、彼らがなぜ堕天させられたのかというこの事件の『真実』を語ろうとしていたことに、僕たちは気づけなかったのだ。
そして、これからもマルス・エマーソンの言葉を……この理不尽な世界の真相を、僕が彼自身の口から聞くことは、永遠にない。
なぜなら。
僕の目には、彼が隙だらけの無防備な状態になったとしか映っていなかったからだ。
「今だ……!!」
僕は、紫色の瘴気を吹き出す右腕に全魔力を込め、地面を蹴った。
先ほどの分身魔法の時とは違う。残されたすべての寿命と、魔王の呪力を叩き込んだ、一撃必殺の神速の刺突。
次の瞬間。
何も抵抗せず、ただ虚空を見つめながら歩みを進めようとしていたマルス・エマーソンの厚い胸板に、魔王の力を宿した僕の凶刃が、深々と、そして致命的に突き刺さった。
「ガ、ハッ……!!」
マルスの口から、大量の鮮血が吐き出される。
僕の剣は、彼の心臓を完全に貫通し、背中まで突き抜けていた。
「これで……終わりだ!! マルス・エマーソン!!!」
僕は、両親の仇を討つという執念のままに、剣の柄を握る手にさらに力を込め、彼の身体を背後の瓦礫の壁へと縫い付けるように押し込んだ。
だが。
刃を突き立てられたマルス・エマーソンの顔には、僕に対する憎悪も、死への恐怖も、微塵も浮かんでいなかった。
彼は、ただ穏やかに、安堵の表情を浮かべていた。
——マルス・エマーソンは、心底安堵していたのだ。
なぜなら、この地獄のような狂気の日々からようやく解放され、先ほど逝ってしまったナターシャや、かつて死別した誇り高き仲間たちに、これでやっと会うことができるからだ。
彼の下がる視線の先には、魔族のように禍々しい右腕を持ちながらも、必死に愛する少女を守ろうとしている僕の姿があった。
そしてその後ろには、傷つきながらも、強大な光の魔法を放ってみせたマーシャの姿が。
ああ。
俺たちが成し遂げられなかったこと。
あの狂った勇者の支配を打ち破り、この世界に巣食う真の闇を払うこと。
俺たちのような弱く、堕ちてしまった大人たちには無理だったが……。
『魔王は、あの少年少女達がなんとかしてくれる』
薄れゆく意識の中で、マルスはそう確信した。
彼らの瞳の奥にある、絶対に諦めないという強靭な光。それがあれば、必ず悲劇の連鎖を断ち切ることができるだろう。
俺は、心の底からそう思った。
「……頼ん、だぞ……」
音にならない最期の言葉を口の動きだけで紡ぎ、マルス・エマーソンはゆっくりと目を閉じた。
彼の身体から力が抜け、僕の剣に寄りかかるようにして、その誇り高き戦士の命は完全に燃え尽きた。
廃墟に、静寂が戻った。
僕は、剣を引き抜き、力なく崩れ落ちる彼の亡骸を見下ろした。
復讐は果たした。
だが、僕の心を満たしていたのは、達成感でも歓喜でもなく、ただひたすらに冷たくて重い、底知れぬ虚無感だけだった。
