【創作大賞2026応募・第三幕】音域戦線〜下心ヒロインと、絶対音感な俺〜
【あらすじ】
日野翔太は、親に無理やり通わされているピアノ教室で、幼馴染である柏木桜の玉砕を見届けていた。桜は絶世の美女だが、玉の輿を狙う下心100%の残念な性格。さらに「テロ対策」と称して、常に重さ20キロの電子ピアノを背負い歩く奇人でもあった。
講師への告白に失敗し、傷心の桜を慰めるため、二人は行きつけの家系ラーメン屋へ向かう。しかし、そこで翔太の退屈な日常は崩壊する。「楽器」を改造した音響兵器を操り、不協和音の魔法を放つテロリスト集団が本当に襲撃してきたのだ。桜はケースから戦闘用ショルダーキーボードを取り出し、翔太を守るために立ち向かう。
かつて「世界を守るヒーロー」に憧れる中二病だったが、現実に絶望し、冷笑的なゲーマーとして生きてきた翔太。だが、必死に戦う桜を前に、彼は自分も戦うことを決意する。向かいの楽器店に駆け込み、最強の武器として「ソプラノリコーダー(プラスチック製)」を調達。魔法の覚醒を信じて吹き鳴らすも、出たのは情けない雑音だけで、テロリストに腹の底から嘲笑されてしまう。
だが、その屈辱で怒りが爆発した翔太は覚醒する。格闘ゲームで極めた「フレーム理論」と「動体視力」を駆使し、敵の不可視の魔法攻撃をミリ単位の間合い管理で完全回避。魔法攻撃に頼りきりで接近戦が隙だらけのテロリストたちを、強靭なリコーダーを用いた「純粋な物理打撃」で次々とぶん殴り、見事に制圧してしまった。
魔法の才能はゼロだが、圧倒的な物理(フィジカル)の才能で窮地を救った翔太。桜はその「フォルテシモ(物理)」の力を見込み、自身が所属する対音響兵器特務機関『協奏楽団(コンチェルト・オーケストラ)』への入隊を持ちかける。実は彼らが通うピアノ教室の地下こそが、その秘密基地だったのだ。
冷めた日常を捨て、ふざけたヒーローとして生きることを決めた翔太。下心と物理暴力が交錯する、前代未聞の音楽バトルラブコメディがここに幕を開ける。
第4話
画面の中で『GAME SET』という色鮮やかな文字が弾け、重低音のファンファーレが防音室に鳴り響いた。
「よし、俺の百三十七連勝だな。そろそろ指の皮が擦り切れるから、今日はこの辺にしといてやるよ」
俺はアーケードコントローラーから手を離し、バキバキに凝り固まった首の骨を鳴らした。
結衣の部屋の床には、エナジードリンクの空き缶のタワーが乱立し、ピザの空き箱が地層のように積み重なっている。気づけば、窓の外は完全に日が落ちており、ゲーミングPCの毒々しい七色のLEDライトだけが、部屋の輪郭をかろうじて照らし出していた。
「う、うう……。師匠、もう一戦……次は絶対、無敵抜けからの確反(確定反撃)決めるから……」
「お前、さっきからそればっかり言ってんじゃねえか。オンラインランカーのプライドはどこ行ったんだよ。もうお前のキャラの体力ゲージ、息してないぞ」
床に力なく突っ伏している結衣は、完全に燃え尽きた灰のようになっていた。
一方で、部屋の隅のソファに優雅に腰掛けている西園寺先生は、なぜか涼しい顔をしてアールグレイの紅茶を啜っている。この男、初心者だと言っていたくせに、持ち前の恐ろしい動体視力とリズム感で、格ゲー特有の「目押しコンボ」をわずか一時間でマスターしやがった。元ウィーン・フィルの指先の独立性は伊達ではないらしい。
「いやあ、有意義な時間だったね。音楽のアンサンブルに通じる『対話』が、この電子の箱庭にも存在しているとは。日野くんのフレーム単位の指導は、とても理にかなっていたよ」
「先生が器用すぎるだけっすよ。まあ、たまにはこういうのも悪くないな」
俺は大きく伸びをした。
親の金で無気力にゲーセンに通い、ただ時間を消費するだけだった日常。それが、たった数時間で劇的に変わってしまった。テロリストとの死闘、地下の秘密基地、そしてこの個性強すぎる面々とのゲーム大会。
正直、疲労困憊だが、妙な充実感が胸の奥にあった。
「さて、腹も膨れたし、そろそろお開きにするか。明日も学校あるしな。親父に『ピアノ教室サボってどこほっつき歩いてた』ってキレられる前にな」
「あ、そうだね。じゃあ、お片付けしよっか」
桜がポテトチップスの袋を丸めながら立ち上がる。
いつものように、自分の体ほどもある巨大な電子ピアノのハードケースを背負い直す。室内だというのに肌身離さず持っているのは相変わらずだが、テロリスト襲撃の一件を経験した今となっては、不思議と頼もしく見えた。
結衣もふらふらと立ち上がり、部屋の出口である重厚な防音扉へと向かう。
「それじゃあ、また明日……地下の作戦室で……」
結衣がドアノブに手をかけた、その瞬間だった。
ピタリ、と。
桜の動きが止まった。
ポテトチップスの袋をゴミ箱に捨てようとしていた彼女の手が空中で停止し、その釣り目がちの大きな瞳が、スッと細められた。
彼女の全身から、先ほどまでの「食い意地の張った残念な美少女」の空気が消え失せる。代わりに現れたのは、ラーメン屋でテロリストの前に立ち塞がった時と同じ、研ぎ澄まされた刃のようなプレッシャーだった。
「……桜?」
俺が訝しんで声をかけようとした時、桜は低く、しかしはっきりとした声で言った。
「この部屋、私達以外もいる」
背筋に冷たいものが走った。
なんだと?
俺は反射的に部屋の隅々を見渡した。六畳ほどの防音室。巨大なモニターと機材の山。クローゼットの扉は閉まっており、ベッドの下に人が隠れるようなスペースはない。俺と桜、結衣、そして西園寺先生。どう数えても四人しかいない。
「おいおい、冗談だろ? ここは結衣の部屋だぞ。しかも完全防音の」
「冗談じゃない。空気の密度が違うの。それに、微かだけど……『音』が響いてる」
桜が背中のケースに手を伸ばす。
その言葉を聞いた結衣が、ハッとしてドアノブを回そうとした。
ガチャ、ガチャガチャッ。
「……開きません」
結衣の顔から血の気が引いた。
「開かないって、鍵がかかってるのか? 内側から開けられるだろ?」
俺は結衣を押し退け、金属製のドアノブを力任せに回そうとした。だが、ドアノブはまるでコンクリートで固められたように、ピクリとも動かない。物理的なロックというより、何らかの強大な力で空間そのものが固定されているような、圧倒的な抵抗感。
「クソッ、なんだこれ!? 溶接でもされてんのか!?」
俺がドアに肩をぶつけても、鈍い音が響くだけでビクともしない。
桜は鋭い視線で部屋の空間を睨みつけながら、呟く。
「つまり、密室に閉じ込められた。何者かの旋律によって」
「旋律……結界系の音響魔術ですか?」
結衣が慌てて部屋の中央に戻り、自身の魔導端末(タブレット)を叩き始める。後方支援係としての彼女の索敵能力がフル稼働している証拠だ。画面には複雑な波形データが目まぐるしく表示されていく。
「おかしいです……! 確かにこの部屋全体を包み込むように、極めて高密度の『呪いの和音』が展開されています。これがドアを固定し、外部との通信も遮断している……!」
結衣の指先がカタカタと震えていた。
「でも……発信源が特定できません。音波は部屋の全方位から反響(リバーブ)してきていて、中心点が無いんです」
結衣は信じられないものを見るように、空の空間を仰ぎ見た。
「しかし、その奏者の実態が無い。これじゃあまるで……亡霊が演奏しているみたい……」
亡霊。
その単語が、冷房の効いた部屋の温度をさらに下げたような気がした。
姿なき敵。音だけが空間を支配し、俺たちを物理的に閉じ込める。そんな馬鹿げた魔法が、実在するというのか。俺はズボンのポケットに突っ込んでいた、ヒビ割れたソプラノリコーダーを強く握りしめた。手汗がプラスチックの表面を滑る。
その時だった。
「実体はあるよ」
静かな、あまりにも穏やかな声が、緊迫した部屋に響いた。
俺たちは一斉に声のした方へ振り向いた。
部屋の隅。七色のゲーミングLEDの光が届かない、薄暗いソファの影。
そこに、西園寺先生が立っていた。
彼は右手に、メンテナンスを終えたばかりの美しい飴色のバイオリンを。
左手に、弓を持っている。
そして、その口元には、これまでの教育者のような優しい笑みとは全く違う、氷のように冷たく、ひどく残酷な三日月型の笑み――ニヤッとした笑いが浮かんでいた。
「な……」
俺は息を呑んだ。
西園寺先生が、ゆっくりと弓をバイオリンの弦に乗せる。
「何故なら、僕が奏者だ」
ギィィィィン……ッ!!!
西園寺先生が弓を一閃した瞬間、人間の可聴域を限界まで引き裂くような、黒板を爪で引っ掻く音を何千倍にも増幅したような不協和音が、爆発的に部屋を満たした。
「がぁっ!?」
俺は思わず耳を塞いで膝をついた。鼓膜が破れそうになるほどの激痛。脳髄を直接かき回されるようなおぞましいノイズ。
「きゃあああっ!」
結衣が悲鳴を上げて床に倒れ込む。
「西園寺、先生……!? どういうことですか!?」
桜が絶叫した。彼女の顔は、驚愕と混乱で青ざめている。つい数時間前、彼女が「年収」と「家柄」目当てとはいえ、人生で何度目かの告白をした相手なのだ。
味方だと思っていた。同じ『協奏楽団』の仲間だと。
西園寺先生は、弓を優雅に構え直しながら、酷薄な声で答えた。
「悪いね、柏木くん。君のストレートな感情は嫌いじゃなかったが、僕には果たすべき任務があってね。……この『協奏楽団』の残党を、完全に根絶やしにするという任務が」
「まさか……あんた、『不協和音(ディスコード)』のスパイだったのか!?」
俺が呻くように言うと、西園寺先生は肩をすくめた。
「スパイというより、清掃員(クリーナー)かな。君達のような素人の寄り合い所帯が、これ以上我々の崇高な『ノイズ』の邪魔をしないようにね。ここで全員まとめて、永遠の静寂に沈んでもらう」
その瞬間、部屋の空間が「ぐにゃり」と歪んだ。
床のフローリングが、波打つ水面のように揺れ始める。
壁のポスターが、モニターが、ゲーム機が、渦を巻くように中心に向かって引きずり込まれていく。
重力の方向が狂う。いや、床そのものが「消失」し始めていた。
真っ黒な、底なしの深淵。
まるで宇宙のブラックホールを部屋の中に無理やりこじ開けたような、漆黒の穴が俺たちの足元にポッカリと開いたのだ。
「うわあああああっ!?」
「ひゃあっ!」
足場を失った俺と結衣、そして桜の体が、ふわりと宙に浮く。
次の瞬間、強烈な引力が俺たちを下へ下へと引きずり込んだ。
奈落への落下。
周囲は完全な暗闇。風を切る轟音だけが耳を劈く。上を見上げると、ぽっかりと開いた四角い空間の縁から、西園寺先生が冷たい目で見下ろしているのが見えた。
「あの方は、お前達三人の命が欲しいのだとよ」
西園寺がぼやいた、その言葉が、反響しながら穴の中へと落ちてくる。
あの方? 誰のことだ。敵のボスか?
だが、そんなことを考えている余裕はない。このまま落ちれば、間違いなく物理的にぺしゃんこになるか、異次元の果てで永遠に彷徨うことになる。
絶体絶命。
ゲームならここで「GAME OVER」の文字が浮かぶ場面だ。
だが。
「ふざけんじゃないわよぉぉぉっ!!!」
落下の真っ只中。
猛烈な風圧に髪を振り乱しながら、桜が吠えた。
彼女は空中で無理やり体を捻ると、背中に背負っていた巨大な黒いケースのロックを、指先の血が滲むほどの力で引きちぎるように外した。
中から現れたのは、八十八鍵のフルスケール電子ピアノ。
重量、約二十キロ。
桜は、空中で重力に逆らうように、その巨大な質量を両腕で抱え込んだ。
そして。
彼女の細い腕の筋肉が、限界まで隆起する。
「私をフラった挙句に殺そうとするなんて……ダサい男のすることよ!!!」
怒髪天を衝く勢い。
桜は、その重たい電子ピアノを、上空にある穴の「出口」――西園寺がいる部屋の空間――に向かって、砲丸投げの金メダリストすらドン引きするようなものすごい腕力で、ぶん投げた。
ヒュゴォォォォッ!!
漆黒の空間を、黒い鍵盤楽器がミサイルのように逆走していく。
ドォォォォォォン!!!!
ピアノが空間の淵、あるいは西園寺の魔術の結界そのものに激突し、ありえないほど汚い、不快な轟音(ノイズ)を奏でた。
『ド』も『ミ』も『ソ』もない。ただの物理的な破壊音。
だが、その強烈な「衝撃音」が、西園寺の作り出した精密な魔法陣の旋律を、一瞬だけ物理的にバグらせた。
その一瞬の隙を突き、桜が叫ぶ。
「転移旋律(チェンジ・コード)!!」
ビキィィィィッ!!
空間に亀裂が走る。桜の投げたピアノが放ったノイズが、強制的に転移の魔法陣(テレポート・サークル)へと書き換えられていく。
荒々しく、力技すぎる魔法行使。
その光の魔法陣が、落下している俺の体を包み込んだ。
「え……っ!?」
視界が白く反転する。
猛烈な引力から解放され、俺の体は上空へと弾き飛ばされた。
ドンッ!!
俺は床に叩きつけられた。
痛みに顔を歪めながら目を開けると、そこは先ほどまでの結衣の防音室だった。
俺は、桜の力技によって、深淵の穴の外へ脱出させられたのだ。
だが、穴はまだそこにある。
そして、その穴の底へ向かって、今度こそピアノという武器を失った桜と結衣が、豆粒のように小さくなっていくのが見えた。
「桜!! 結衣!!」
俺が穴に向かって手を伸ばそうとした、その時。
無限の底へ落ちていく桜の声が、下から響いてきた。
「翔ちゃん! 私達が穴の底に落ちる前に、そいつをリコーダーでぶん殴って!!」
彼女は自分たちが助かることより、敵を打つことを優先した。
術者である西園寺を倒せば、この魔法は解ける。彼女はそれを瞬時に計算し、唯一の物理アタッカーである俺だけを地上に転移させたのだ。
自分の命を懸けた、完璧なアシスト。
……あいつ、本当に男を見る目以外は、最高にカッコいい女じゃねえか。
「オーケイ!!」
俺は短く答え、ゆっくりと立ち上がった。
深呼吸を一つ。
肺に酸素を満たし、全身の筋肉の緊張を解く。
ゲーセンで百三十七連勝した後の、最高のコンディション。
俺は右手に、ヒビ割れたソプラノリコーダーを握りしめた。
西園寺が、わずかに目を見開いて俺を見ている。
彼の完璧な旋律に、予期せぬノイズ(俺)が混入したことに、戸惑っているのだろう。
「やれやれ。まさか君だけを逃がすとはね。だが、無駄な足掻きだ。その子供の玩具で、僕のバイオリンに勝てると思っているのかい?」
「勝てるさ。お前のモーションは、すでに全部見切ってる」
俺は、西園寺を真っ直ぐに睨みつけた。
ゲームの時間は終わった。
だが、ここからは俺の得意なフィールドだ。
相手の隙を突き、コンボを叩き込み、圧倒的な物理で粉砕する。
リコーダーの先端を西園寺に向け、俺は低い声で宣言した。
「俺達の戦いは始まったばかりだ」
第5話
「……遅いな。君の言う『見切っている』とは、その程度の逃げ回るステップのことかな?」
西園寺の冷酷な声が、防音室の壁に反響する。
彼の指先がバイオリンの指板を滑り、弓がG線(一番太い弦)を深く擦った瞬間。
ゴオンッ!!
俺の目の前の空間が、目に見えない巨大な鉄槌で殴られたように陥没した。
フローリングの床が放射状に砕け散り、木片が宙に浮く間もなく、すさまじい力で地面に叩きつけられる。
「くそっ……!」
俺は間一髪でバックステップを踏み、その『見えない圧死領域』から逃れた。額から冷や汗が滝のように流れ落ちる。
重力系旋律。
それが、西園寺の奏でる魔術の正体だった。
格闘ゲームにおいて、俺が最も得意とするのは「間合い管理(スペーシング)」だ。相手の攻撃のリーチをミリ単位で見切り、判定のギリギリ外側に立ち、相手の技が空振った(ウィフした)硬直にこちらの攻撃を叩き込む。それが俺の不敗のロジックだった。
だが、西園寺の攻撃は不可視だ。音響兵器による範囲攻撃(AoE)なんて、画面上のエフェクトがない現実世界では避けようがない――普通なら、そう考えるだろう。
「どうした? 距離を取るだけでは、僕には永遠に届かないよ。『プレスト(急速に)』」
西園寺の手首が微かに動く。
弓のアップボウ(上げ弓)。
俺のゲーマーとしての動体視力が、その予備動作(スタートアップ)を捉える。
(来る! E線を使った、直線的な重力波!)
音波が鼓膜に届いてから避けるのでは遅い。だが、西園寺の魔術のトリガーは「音」そのものではなく、「弦の振動」だ。
弓が弦に触れる瞬間の『手首の角度』と『肘の高さ』。それを見れば、次に発生する重力異常の「座標」と「形状」が完璧に計算できる。
G線へのダウンボウなら、発生まで5フレーム(約0.08秒)の円形範囲攻撃。
E線へのアップボウなら、発生まで3フレームの直線攻撃。
俺は、西園寺の演奏フォームという「予備動作モーション」から、不可視の攻撃判定(ヒットボックス)を脳内で完全に可視化していた。
「そこだ!!」
俺は直線的な重力波の判定から横へ半歩(ミリ単位のスペーシングで)ズレて回避し、西園寺が次の弓を引くための硬直フレーム――わずか12フレームの隙に、一気に懐へと潜り込んだ。
「もらったぁっ!」
右手に握ったリコーダーを、西園寺の顔面に向けてフルスイングする。
完璧なタイミング。完璧な間合い。
だが。
「……浅はかだね」
西園寺は微笑んだまま、弓をバイオリンから離し、左手の指で直接弦を弾いた(ピッツィカート)。
ボンッ!
「なっ!?」
俺の目の前に、超高密度の重力の壁(シールド)が局所的に発生した。発生フレーム1の当身技(カウンター)だ。
リコーダーが壁に弾かれ、凄まじい反作用で俺の体は後方へと吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
壁に激突し、床に転がる。
肺から空気が搾り出され、視界が明滅する。全身の骨が軋み、立ち上がれない。
「君の『読み』は完璧だったよ。だが、物理的な火力が圧倒的に足りない。その子供の玩具で、僕の『絶対重力防壁』を破れるとでも?」
西園寺は、狂気すら孕んだ恍惚の表情でバイオリンを奏で続けていた。
「なぜ僕がウィーン・フィルを追放されたか分かるかい? 彼らは僕の音楽を『重すぎる』と言った。音楽とは神の定めた物理法則だ。寸分の狂いもない完璧な和音は、空間そのものを歪め、重力を支配する! だが、凡人どもはそこに感情(ノイズ)を求め、僕の至高の芸術を理解しなかった!」
西園寺の弓の動きが激しさを増す。
「『不協和音(ディスコード)』の『あの方』は、僕にこの力を見せつける最高のステージを用意してくれた。僕は単なる清掃員(クリーナー)じゃない。この世界という無能なオーケストラを、僕の重力(タクト)で完璧に調律(支配)するための、神の代行者なのだよ!!」
エゴの塊。
完璧な音楽を求める狂鬼。それが西園寺という男の正体だった。
「……さあ、終曲(フィナーレ)だ。『レクイエム・グラヴィティ』」
西園寺が、とどめを刺すべく、弓を高く振り上げた。
部屋全体の空間がミシミシと悲鳴を上げ始める。今度こそ、逃げ場のない全方位の重力崩壊が来る。
ああ、クソ。
ゲームオーバーか。
俺は、こんなところで死ぬのか。深淵の底に落ちていく桜と結衣を、助けられないまま。
薄れゆく意識の中で。
ふと、俺の脳裏に、懐かしい記憶が蘇った。
――「翔ちゃん、かっこいい!」
底抜けに明るい声。
俺は、思い出した。
そうだ。俺がどうして、あのウザくて下心丸出しで、いつも突っ走っている「柏木桜」の世話を焼き続けてきたのか。
同じピアノ教室の浮いた者同士? 違う。
あいつは、俺の幼馴染だった。
かつて、中二病をこじらせて、木の枝を振り回して「テロリストから世界を守る」なんて痛いモノマネをしていた俺を。周囲の連中が「ダサい」「痛い」と嘲笑う中で、桜だけは、いつも目をキラキラさせて応援してくれていたのだ。
――「翔ちゃんは、正義のヒーローになれるよ!」
あいつは、ずっと変わっていない。
突拍子もないことを言って、周りを振り回して、それでも絶対に自分の信念(下心も含めて)を曲げない。
さっきだってそうだ。自分の命が危ないのに、俺を助けるためにピアノをぶん投げた。
俺は、あいつに報いなきゃいけない。
記憶の底から、もう一つの光景がフラッシュバックする。
小学生の頃。桜と一緒に帰っていた夕暮れの道。地元のヤンキーに絡まれ、桜が突き飛ばされた時だ。
怒りで頭が真っ白になった俺は、ランドセルに刺さっていたリコーダーを握りしめ、ヤンキーに殴りかかった。
ただ殴ったんじゃない。
無我夢中で、息を吹き込みながら殴ったのだ。
その時、俺がリコーダーで奏でた音階。
それは、全ての指穴を塞いだ、最も低く、最も基礎となる音。
――『ド』だ。
その瞬間、ヤンキーの体は、ありえないほどの衝撃波を受けて10メートルも先まで吹き飛んだ。
そうか。ラーメン屋の時だってそうだ。
俺は無意識のうちに、リコーダーの「ド」の穴を塞ぎ、息を吹き込みながらぶん殴っていたからこそ、あそこまでの破壊力を出せたのだ。
リコーダーは、ただのプラスチックの棒じゃない。れっきとした「楽器」だ。
息を吹き込み、正しい音階(チューニング)を奏でることで、ただの物理打撃が、空間を震わせる「音響衝撃波(ソニック・ブロウ)」へと昇華する。
俺が今すべきことは、ただ一つ。
「ぴいいい!」という情けない雑音(ノイズ)で殴るんじゃない。
完璧な『ド』の音を、俺の全霊を込めて奏でてやることだ。
「……ふぅーっ」
俺はゆっくりと立ち上がった。
全身の痛みは嘘のように消えていた。
西園寺が、怪訝な顔で俺を見下ろす。
「無駄だと言ったはずだが? まだ立ち上がるか」
「西園寺。あんたの音楽は、確かに完璧だ。重力も支配できるほどの神の物理法則かもしれない」
俺は、ヒビ割れたリコーダーを両手で構え、全ての指穴(トーンホール)を、正確に指の腹で塞いだ。
小指の先まで、神経を研ぎ澄ませる。
「でもな。あんたの音楽には『ノイズ』がない。感情がない。だから、誰の心も震わせられないんだよ」
「なんだと……?」
西園寺の顔に、明確な怒りの色が浮かんだ。彼の逆鱗に触れたのだ。
「消え去れ、三流が!!」
西園寺が弓を振り下ろす。
最大火力の重力波が、俺を押し潰そうと迫り来る。
俺は逃げない。間合いも図らない。
ただ真っ直ぐに、床を蹴って正面から突っ込んだ。
リコーダーの吹き口を口に咥える。
腹の底から、肺の奥底から、これまでの人生で溜め込んできた全ての感情を、息に乗せる。
かつて俺の妄想を肯定してくれた、幼馴染への思い。
あいつを、今度こそ本当に守り抜くという、熱いエゴ。
喰らえ。
これが、俺の音楽だ!!
俺はリコーダーを振りかぶり、渾身の力で息を吹き込んだ。
『プゥォォォォォォォォォォンッ!!!!!!』
完璧な、混じり気のない、ソプラノリコーダーの『ド(C)』の音が、防音室に響き渡った。
ただの音ではない。
俺の打撃のベクトルと、音波の波長が完全にシンクロした瞬間、リコーダーの先端から、目に見えるほどの超高圧縮の衝撃波(ソニックブーム)が一直線に放たれた。
「な……馬鹿な!? たかがプラスチックの管楽器から、これほどの質量が……!?」
俺の放った『ド』の衝撃波が、西園寺の絶対重力防壁と激突する。
ギギギギギィィィッ!!
神の物理法則と、俺の感情(ノイズ)が拮抗する。
西園寺の魔法陣が、ピキピキと音を立ててひび割れ始めた。
「押し通れえええええええっ!!!」
俺がさらに息を吹き込むと、リコーダーの『ド』の共鳴が臨界点を突破した。
パァァァンッ!!!
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、西園寺の重力防壁が粉々に吹き飛んだ。
「ぐふぅっ!?」
圧倒的な衝撃波が、一直線に西園寺の身体を直撃する。
彼の美しいスーツが引き裂かれ、身体が宙に浮いた。
だが。
吹き飛ばされながらも、西園寺はバイオリンをかばうように抱きしめ、その口元に、狂気めいた笑みを浮かべていた。
「ハハ……ハハハハハッ!!」
血を吐きながら、彼は歓喜に打ち震えるように叫んだ。
「素晴らしい……! なんという力強く、野蛮で、美しいノイズだ!! 僕の完璧な理論を、力技で捻じ伏せるとは!」
「……っ!」
「フォルテッシモ(極めて強く)!! 日野翔太、君はなんたる才能の原石だ! 君のその不協和音があれば、僕の交響曲は真の完成を見るかもしれない!」
西園寺の身体が、空中で光の粒子となって崩れ始める。
転移の魔術だ。彼は負けを認め、撤退の準備に入ったのだ。
「今日のところは退こう。だが、忘れるな。世界を調律する運命からは、決して逃れられない。また会おう、僕の愛しいノイズ君!!」
狂笑を残し、西園寺の姿は空間に溶けるようにして完全に消え去った。
主を失ったことで、部屋の空間を歪めていた魔力も霧散していく。
床にポッカリと開いていた漆黒の深淵の穴が、シュルシュルと音を立てて縮小し、元のフローリングの床へと戻っていく。
穴が完全に閉じる直前。
「翔ちゃーーーーーん!!」
「きゃあああああっ!!」
ズドォォン!! という地響きと共に、桜と結衣が、何もない空間から床に吐き出されるように落ちてきた。
「いっったぁい……! お尻が二つに割れた……」
「元から割れてるだろ、馬鹿」
俺は、床にへたり込む桜と結衣を見て、全身から一気に力が抜けるのを感じた。
手の中のリコーダーは、限界を超えた衝撃波を放った代償として、真っ二つに割れてしまっていた。
俺はそれをそっと床に置くと、仰向けに大の字で倒れ込んだ。
終わった。
俺の、いや、俺たちの、初めての「ボス戦」が。
「翔ちゃん、やったね……! あんた、本当にヒーローみたいだったよ!」
桜が、埃だらけの顔で、満面の笑みを浮かべて覗き込んでくる。
結衣も、涙目で俺のジャージの袖をギュッと握りしめていた。
「……ああ。俺たちは、勝ったんだ」
俺は、蛍光灯がチカチカと明滅する天井を見上げながら、ポツリと呟いた。
俺はもう、逃げない。
世界を救うなんて大層なことは言えないが。
手の届く範囲の、この騒がしくて愛おしい日常くらいは、俺の「物理」で守り抜いてみせる。
俺たちの、本当の合奏(たたかい)が、ここから始まるのだ。
