明日を信じない未来思考[自己改革のために]
今日と同じ明日が来ることを確かなことだと了解している。
それは、硬く信じられていて、明日から仕事がはじまると思うから、逆算し今日は休日で、こうして週一度の考える時間を設けてパソコンに向かっている。
しかし、それはどこかで自己欺瞞をはらんでいるように感じられてならない。端的に言えば“嘘”ではないかと思うのだ。
明日というのは、約束事として成り立つに過ぎず、実は過去の経験を下にした予測に過ぎないのではないか。
明日というのは、「きっと〜だろう」で成立する考えで、実のところ「わたし」は未踏の山中にいて、その不安な要素を排除するために「きっと~だろう」で精神的な安定を保ちながら、仮に構築した窓枠から眺める“想像の景色”のことを言うのだ。
世の中(社会の成り立ち)にはそうした出来合いの物語(フィクション)が多く含まれる。
「きっと~だろう」が確実で実体があるかのように振る舞うことで、嘘を本当にするようなこと。それは人間の思考の癖かも知れないが、かなり恣意的でもあると思う。
仕事(会社)もまずこの物語(フィクション)を共有しなければ成り立たない仕組みになっている。
実は真っ暗な道なきところに放り出されているにもかかわらず、時刻表や地図を共有し、明日という道のりを仮想してわれわれは仕事の成果を期待する。
この仮想の道のりに「わたし」の位置はGPSで表示され、常に明るく灯されており、整備され、安全・安心に通行できる用意があるという。そして、それを信じることが発展し成熟した社会の価値観を受け入れる賢明さだと日々啓蒙されている。
しかし、銀行や保険・不動産がどういったもので経済の何を表現するのか、その正体が明かされることはない。また、無知でそれを理解できないことも多い。
工場の生産性の向上や利潤についても、それがどこまで追求され続けるのか知る由もない。
いずれ戦争や貧困によって家族は離散するかもしれないし、食糧危機はさらに深刻になるかもしれない。確実な未来である「わたし」の終わりという概念は社会の外に追い出されたままになっている。
「生きる」ことについて、それが無効化されるような事象は価値を見い出されないし、思考の枠の外に追いやられる。
賢く振る舞うことや、努力の結果に見合う成功や、貧困を門前払いしてくれる安全・安心な社会や政治システム、セーフティーネットが張り巡らされる平坦な道こそ理想だとメディアは流布する。
ところが実態は(調べたデータが正しければ)、日本の相対貧困率は15.4%で、OECD加盟国では38カ国中7番目に高く、G7ではワースト1位となる。子どもの貧困率は11.5%で、ひとり親家庭の家計は長期に社会問題化している。
さらに、出口の見えないスタグフレーションや格差社会、自国優先主義の戦争といった分断や対立が、崩れ落ちる土砂を巻き込んだ濁流となって押し寄せても、誰も助け船をつくることはできない。それは新型コロナウイルスの蔓延が教訓になったことと思う。
「答え」がない「整備された道」がない「明日が来ることに何の確証もない今」に焦点を当てることこそ“未来思考”だと言いたい。
山登り(自然)は危険だ。しかし、それは時間を持て余した年寄りの娯楽などではなく、足元にある危険と命との整合性を図る知恵となる。
脆弱な約束事としての「明日」と帳尻を合わせたがる「わたし」にとって、山(自然)にあることは思考する身構えそのものと言えそうだ。
