ダブルスタンダードを用いる存在への嫌悪を、きちんと言語化しておく
私はダブルスタンダード、二重基準が嫌いだ。
ただし、訂正しておきたいことがある。
二律背反や自己矛盾は、人間として当然のものだ。たとえば胸糞悪い物語をたまに読みたくなる。それで一体誰に害があろうか。
気分が悪くなるものに向かっていけるのが人間の強さであり面白さだと思っている。
私の嫌いをより正確に言い直すと、ダブルスタンダードを他者に用いる人が嫌いだ。
人に限らず、そういう架空のキャラクターも嫌いだ。
ただ、キャラクターは物語において、そのダブスタが重要なスパイスになったり、時にはカタルシス変換が起きたりするので、一定期間は見守ることにしている。
この「見守る一定期間」の基準が自分でも不明瞭なのと、ダブスタを他者に用いる存在をなぜここまで嫌っているのか——せめて構造だけでも整理していきたい。
構造から解剖する
社会心理学に「内集団バイアス(in-group bias)」という概念がある。自分が所属する集団の成員に対して好意的に評価し、外集団の成員に対して否定的に評価する傾向のことだ。
これ自体は、人間として自然な傾向であるらしい。身内をかばいたい。仲間を守りたい。その感情の回路は、生存戦略として人類が長く持ち続けてきたものだ。
問題は、この内集団バイアスが倫理の二重回路として機能するときだ。
内集団への倫理:献身、忠誠、保護、感情移入
外集団への倫理:排除、非人間化、報復の正義化
この二つが、同一人物の中で矛盾なく併存している。本人にとって矛盾ではないのだ。身内を守るための行動と、外敵を排除するための行動は、同じ「正しさ」から来ていると感じている。
所属への忠誠が倫理を上書きしている状態、と言い換えてもいい。
ここで一つの問いが生まれる。立場が逆なら、それを許容できるか?
自分たちが他者に行ったことを、他者から自分たちに行われたとき、同じ基準で裁定できるか。この問いに答えられない、あるいは問い自体が発生しない——そこに私は強い拒否感を覚える。
なぜここまで、と自分でも問い続けていた。
物語の中の矛盾を分析し続けた結果、一つ見えたことがある。
私はそもそも、公平性の担保という概念に強く引き寄せられているらしい。

原則は、向きを変えても原則として機能する。その感覚が自分の基底にある。だからその感覚を裏切る構造に、強く反応する。
物語が感情でそれを覆い隠すとき
フィクションにおいて、『身内への献身』は美徳として映りやすい。仲間のために泣くキャラクターは愛される。家族や愛する人を守るために戦うキャラクターは共感を得る。その情動は本物だ。
しかし、その感情的求心力が加害性の免罪として機能するとき、構造として問題が生じる。
身内への深い愛情と、外への暴力への無頓着が並存している。カメラは前者だけを映し続ける。後者には光が当たらない。問う者も現れない。物語がそれを透明化したまま進行していく。
これが、私の嫌悪の正体に近い。
カタルシス変換が起きた例——魔法騎士レイアース
魔法騎士レイアースという作品がある。近々再アニメ化が予定されているため、具体的な内容には深く踏み込まない。
※間接的ネタバレになるため、レイアースに初めて触れる時を楽しみにしている人は次の段まで飛ばしてほしい。
当時連載中で未読だった私は、テレビアニメ本放送の第一話から視聴していた。しかし第六話で視聴をやめた。
主人公・光への不快感がピークに達したからだ。
目の前の人が困っている、困らせている側は悪い奴、その図式だけで背面にある事情を全く考慮しないまま突き進む構造を、継続して見ることができなかった。
それからしばらくして、たまたま手に取った掲載誌「なかよし」で、その光がそう突き進んだことへのしっぺ返しを食らっている場面に遭遇した。
カタルシスが発生した。
これが「カタルシス変換」だ。
ダブスタを持つキャラクターの矛盾を、物語が暴き、突きつける。
物語がキャラクターの矛盾を透明化しないとき、こういうことが起きる。
魔法騎士レイアースはそれを示した。
キャラクターの矛盾は一定期間見守る価値があると、この経験が教えた。
暴かれない矛盾——照とシード
ゼンゼロ(ゼンレスゾーンゼロ)に、照とシードというキャラクターがいる。
照については、以前の記事で詳しく書いた。
改めて概要だけ言えば、照は他者への裁定と身内への庇護を、同一の倫理基準で語ることができないキャラクターだ。
それでも私はまだ、照を見守っている。
シードについて書く。
彼女の養父は、自分の命と引き換えに彼女を守り抜いた。養父の死を知ったとき、彼女は泣いた。
しかし彼女は、目的のためなら他者を痛めつけることに躊躇がない。
紹介フレーバーテキストからになるが「合同作戦で指揮官の肋骨を折った」「反乱軍の首領を全身粉砕骨折状態で生け捕りにした」、しかもこの二つは同時に起きた。
彼女の設定には「命の概念に感情的に接続できない」とある一方、「現在は顕著な感情的改善がみられます」ともある。
養父から「心を持つこと」を教わり、養父の死で泣く。しかし他者の身体を壊すことへの倫理的接続は、作中で一度も問われない。
この時点で矛盾の構造は見えていた。
違和感はストーリーを読み進めて、確信に変わった。
以下はゲーム内用語(例えば知能構造体、等)を廃して説明する。
ビッグシードは正しく表記すると「ビッグ・シード」だが、「・」は省く。
シードのストーリーに、ヴェロニカという人物が登場する。
彼女はシードの養父・ビッグシードの主治医だった。
ビッグシードタイプの軍用ロボットは、自我にあたる部分が完全に破損すると修復不能だ。人間でいえば脳死に近い状態。
それでも修復の可能性を捨てられないヴェロニカは、「遺体」となったビッグシードタイプロボの回収を繰り返し、脱走を試みる。
新しい脳を埋め込まれること——人間にとって人格を奪われる行為に等しい——を認めないために。
シードはヴェロニカの嘆きを聴きながら、修復不能であることを告げ、「遺体」のロボたちを任務のついでに破壊する。
ヴェロニカが大切にしていたものを、ヴェロニカの意志を無視して、壊した。
ここまでは、まだ複雑な話として読める。シードの行為が正しいかどうかは、簡単には裁定できない。
しかしその後、部隊長はシードを庇うことばかり言い、ヴェロニカを非難した。物語の重力が最初からシード側にかかっていた。
そしてストーリーの終着点間際で、ヴェロニカはこう言う。
「あなたは私を覆っていたものをはぎ取り、私が大切にしていたことが幻想だったと気づかせてくれた」
「あなたに助けられたあの瞬間…確かに、『ビッグシード』の面影を感じたわ」
シードの加害性——ヴェロニカが大切にしていたものを壊したこと——が、「真実を与えた善行」として変換されて終わる。
しかもヴェロニカ自身の口から。ヴェロニカに「安堵だった」と言わせることで、シードへの批判の芽は摘まれる。
被害者自身が、加害者を赦す役割を担わされている。
世界のバランサーが不在どころではない。被害者がバランサーの口を塞ぐ構造になっている。
照もシードも、矛盾を突きつける存在が作中に現れない。
何度でも言う。
私が怒りを覚えるのはこの矛盾、二重基準構造そのものではない。この構造へ疑問を呈する存在が不在のまま、物語が進行していることだ。
このゼンレスゾーンゼロというゲームのストーリーは、時に、その不在を埋めるために被害者自身が普遍倫理とはかけ離れた位置に動員されるようだ。
最後に言語化しておく
私が嫌悪するのは、矛盾を矛盾として照らす視点が、物語の中に存在しないことだ。
内集団バイアスは人間として自然だ。身内を守るために外へ牙をむく存在は、現実にも創作にも無数にいる。
ただ、物語がその矛盾に無自覚なとき。カメラが献身の美しさだけを映し、加害性には光を当てないとき。問う者が最後まで現れないとき。
私の中で何かが、静かに、しかし確実に拒否する。
見守る一定期間の基準は、たぶんここだ。物語がいつかその矛盾を照らすかどうか、私はそれを待っている。
照らされないまま終わると確信したとき、私は見守るのをやめる。
やめる基準にすでに立っている、私の愛する照は別だ。
照がレイアースの光のように矛盾に気付く日を、待っている。

