人事部付 真田雪乃の議事録<言葉を運ぶもの>
前回までのあらすじ
人事部付の真田雪乃は、営業所への業務用惣菜冷蔵庫の設置について現場の声を聞こうと、かつて訪れた南花営業所の門倉に連絡を取る。久々の再会の場に選ばれたのは、路地裏の小料理店。そこで雪乃は、門倉がかつて抱えていた葛藤や、営業所での孤独と向き合っていた過去を知る。互いに少しずつ心を開きはじめた二人。やがて会話は、雪乃の引っ越し相談からプライベートへと踏み込み、思いがけない形で門倉の想いがこぼれ落ちる。そして——雪乃は、自分がずっと「満たされたがっていた」ことに気づくのだった。
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最終章 人事部付 真田雪乃の議事録
最終話 言葉を運ぶもの
心が、重力を失った。
しっかり握っていないと、昨晩に引き戻されてしまう。
帰ってから、ずっとそうだった。
雪乃は今日、母親に起こされてもしばらく起きることができず布団の中でボーッとしてしまい、ギリギリになって慌てて起床した。
女子校から女子大上がりの雪乃には、全ての恋愛が他人事だった。ドラマや物語に出てくる恋愛も、友達の惚気話もフィクションとして楽しんでいた。自分なら、もっと冷静に対処できると思ったのに…。こんなに気持ちが浮き上がってしまう自分自身に戸惑ってしまう。
しかし、そう思うのは自分だけなのかもしれない、と雪乃は一抹の不安を覚える。酔った勢いとか、そういうのも、ありそうだもの…門倉さん、ビールたくさん飲んでたもの…と思うと、いてもたってもいられなくなり、通勤列車の中で、門倉さんにLINEを送った。
雪乃:「昨日のは何かの間違いでしょうか?」
どこか問い合わせめいたメッセージには、すぐに既読がつき、程なくして返信が来た。
門倉:「俺なりの正解を出したつもりだ」
そんなことを言われると、無性に会いたくなってしまう。
雪乃は揺れる電車の中、スマートフォンを胸に当て、吊り革をぎゅっと握りしめた。
次はいつ会えるのだろう…と思った時、営業所と本社は全く休みが合わないことに気がついた。シロヤマ・コーポレーションは多くの不動産会社と同じく、本社は土日休み、営業所は水曜日定休の平日シフト制だ。どちらかの仕事終わりに夜だけ会うか、1日一緒に過ごしたい場合は有給を取るかしかない。2年目の雪乃の有給の持ち数は11日だ。体調不良で休むのにとっておきたいことを考えると、全て使うわけにはいかない。かといって忙しい営業所の土日に休んでもらうのも申し訳ない気がする。
つくづくこの会社は恋愛に向いてない。
せめてクリスマスだけでも…と思って苦笑した。去年の今ごろ、クリスマス休暇を提案したのはまさに自分ではないか。あの時、「営業所の彼氏」の存在を疑われたものだった。私情を濫用するものか、と憤慨していたが、そう思われるのも無理がないほどに、切実な問題だったのだ。
何事も、当事者にならないとわからない。
「仕事しなきゃ。」
雪乃は、PCに向かってつぶやいた。流石にオフィスの席に着いたら気持ちを浮遊させているわけにはいかない。
Slackでのホンシャーマンとしての挨拶も段々と馴染んできたようで、反応や返信をくれる人も増えてきた。
「ホンシャーマンが挨拶してくれると、元気が出ます」
「質問、楽しみにしてます」
そんなコメントももらえるようになった。ホンシャーマンのちょっとした質問コーナーは、雪乃がいつも即席で考える。今日は、何にしようかと、手が止まった。
#ホンシャーマンとおしゃべり
やあ!おはよう、ホンシャーマンだよ!
ちょっと寒くなってきたね!
今日は、仕事をしている中で一番好きな瞬間を教えてほしいなあ!
浮かれがちな心に喝を入れてほしい、という気持ちがあった。
どっちがヒーローなんだかわからない、と雪乃は苦笑した。
その時。
「真田さん、ちょっといいかな」という聞き覚えのある声がした。
振り返って、雪乃は動揺した。
声の主は、シロヤマ・コーポレーションの城山洋司社長だったのだ。
*
社長室の黒い大きなソファに促され、雪乃は縮こまって座っていた。秘書さんが社長と雪乃の二人分お茶を運んできてくれて、恐縮してお辞儀をする。先ほどまで恋に浮遊していた心がぎゅっと一点に集まるのを感じた。
「すまないね、急に呼び出して」
「いえ…。何か、ございましたでしょうか…」
社長は、豪快に笑った。
「そんなに緊張しなくていいんだよ?」
「す、すみません…」
そう言われても、緩められるわけがない。
「そういえば、君の配属をまだ決めてなかったかと思って」
いよいよだ。「人事部付」の状態から、ようやく雪乃の配属が確定する。
「その前に、謝りたいことがある」
「は…はい」
「君をね、実験台にしていた」
「えっ!」
自分が知らず知らずのうちに人体実験をされていたのだろうか、と色々な映画の怖いシーンが思い浮かんだ。
「あー、冗談だよ」
そして、城山社長は雪乃にまっすぐ向き直った。
「私は、長くこの会社に先代の時からいて、数年前、社長に就任した時…常に新しい風をという思いから新卒を採用してきた。しかし…どんなに優秀で、視点の面白い学生を採用しても、配属されたら配属先の論理に染まってしまう…。そこで、上杉くんと相談してね、どこにも所属しない人材を置いたらどうだろうと…」
そして、ひとつ咳払いをして続けた。
「上杉くんにこの試みを話した時、最初は反対された」
「…そうなんですか?」
「そう。確かにどこにも所属しないという例はあるが、新卒で業務未経験のままこのポジションにいても、何も身につかないまま、会社のためにも本人のためにもならないだろうと…。ただね、真田さんを面接して…入社してくれた時、彼女なら…人事部付でもいいかもしれない、そう言ったんだ」
「私が…どうしてですか?」
「どうしてかは、聞かなかった。私は、彼の目を信頼してるんだ」
「目…」
そう言って、城山社長はテーブルのお茶を一口すすった。雪乃にとっては、社長が何かを口にするのをみるのが初めてだ。去年の会議中、突然社長に声をかけられた時は、神様に話しかけられた気分で極度に動揺していた。
しかし、当たり前の話だが、社長だって食べるし飲む、人間なのだ。
雪乃は、ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「あ…あの…ひとつ…お聞きしてもよろしいでしょうか…?」
「うん、遠慮せず、なんでも聞いて」
「社長、上杉部長のことをすごく信頼しているように思えたんですが…どういうきっかけの出会い…だったんでしょうか…?」
雪乃がそう言うと、社長が破顔した。
「よく聞いてくれたね…彼とは、同期だよ」
「…ええ…そ…そう…なんですか…!?」
あまりに驚きすぎて声が出なくなった。今目の前にいる社長と上杉部長を頭の中で見比べる。社長は強面で奥まった目、大柄でさらにその高級スーツだと任侠映画にそのまま出られそうだ。一方で上杉部長は穏やかな顔立ちではあるものの、そのがっしりした肩がスポーツ経験を思わせる。
意外…いや、確かに40代の同い年ぐらいに見えてもおかしくはない。
「この会社の…ってことですよね」
「そう。新卒で私と上杉くんと何人かが入社した。私はその当時の社長の息子だと言うことは誰もが知っていたからね、次期社長だとか金持ちのボンボンだとかコネだとか…言われていた。私はいじられてもうまくかわしたり、相手が不快にならないように謙遜したり…それこそがコミュニケーションだと思っていた。だが、上杉くんだけは違った」
「どう…違ったんですか…?」
「彼は、絶対に次期社長として私を見なかった。いじったりも、逆におだてたりもしなかった。いつも城山洋司として…接してくれたんだ。彼とは一番仲がいい同期…いや、同期として出会わなくても、友達になれる自信があるな」
その言葉を聞くと、茉莉也の顔が自然と浮かんでしまう。
「上杉くんは一旦、この会社を離れた。その後も様々な職に就いたらしいが…数年前、先代が急に亡くなって…自分が2代目社長に就任するにあたり、彼を呼びよせた。最初は反対された。自分は人事の経験すらない、と言っていたが、私は、君が適任だ、と強く押し切った。人事のことは、これから覚えられる。でも、君は他の人にはない、目を持っている…と」
社長は、湯呑みを持ち上げてお茶を啜り、雪乃にも手で促した。
「会社として、うちは遅れてる部分…あると思う。上杉くんだって完璧じゃない。でもね、同期を大事にして、等身大に見てくれる人事部長が、真剣に面接をして…選んでくれるなら、この会社は大丈夫…もっと良くなれるんじゃないかと、そう、思ったんだ」
そして、真っ直ぐに雪乃を見つめた。
「だから…真田さん、そんな上杉くんに採用された上に、人事部付に配属されている、おそらく、自分と似たものを感じたんじゃないかな、って思う」
「そんな…」
「そして…君を人事部付に配属させたこと、それは正解だったと思う。というより、君自身が、我々の選択を、正解にしてくれた」
雪乃は目を丸くした。
「そうなんですか?どうして…?」
「君はね、一言で言うと、ヒーローだった」
「ヒーロー?ホンシャーマンの運用のことでしょうか…?」
「ホンシャーマンは、あくまでも結果だ…君がやってきたことが、ヒーローそのものじゃないか」
「私がですか…?」
「うん。全部上杉くんから聞いてるよ。困ってる同期の話を聞いて、解決に動いてくれた。目の前の困ってる人を助けたくて動く…その在り方が…私には、ヒーローだった」
神様のように思っていた社長が、わざわざ呼び出してまで、雪乃のことを褒めてくれている…嬉しくないと言ったら嘘になる。全身で受け止めるべきなのかもしれない。ただ…
「社長、お言葉、とても嬉しいですが…ヒーローなのは…私じゃないと思うんです」
「….どうして、そう思うんだ?」
「お話を聞いてたら、皆さんがそれぞれ、ヒーローでした」
雪乃は謙遜でなく、心からそう思っていた。
いつも、人のために動く人たちが、その優しさゆえに心を痛めていた。
彼らの話を聞くと、自然となんとかしたくなってしまう。
でも、雪乃自身はあまりにも無力だった。
そして、そんな無力な雪乃をいつも助けてくれたのが…
今、手元にある、「議事録」…すなわち、モレスキンのノートだ。
過去に記した言葉たちが、ノートに乗って運ばれて、目の前の困っている人を助ける。雪乃は、その言葉をただ、運んだだけに過ぎない。
「君は…じゃあ、自分を…何だと思う?」
「…このノートが言葉を誰かに届ける船で、私はそれを運ぶ船頭です」
そうして、白いノートを指さすと、社長は肩を揺らしながら笑った。
「面白いね…上杉くんが気に入る理由もわかる…では…これからも、船頭でいてくれるかな…?」
「えっ…?」
社長は、また一つ咳払いをした。
「改めて配属を決定する。真田雪乃は、『人事部付だ』これからも、よろしく」
「今までと…変わらないってことでしょうか?」
「残念ながら、うちに船頭課がないんだよ」
雪乃は、大きく頷いた。
「いえ…これからも、人事部付でいさせてください」
そう言うと、社長は柔らかく微笑んだ。
「じゃあ早速なんだけど、君の意見を聞きたい。去年は君がクリスマス休暇を提案してたね」
「は…はい」
あの時から、全ては始まったのだ。
「去年、君をちょっと試したいと思ってね、つい無茶振りをしてしまったが…驚いたよ。制度が、個人の感情まで考えたものだなんて…やはり上杉くんの目は確かだったと思った」
「そんな…」
社長は、少し俯いて言った。
「実は、個人的にも嬉しかったよ」
「個人的に…ですか?」
「実は妻も元社内の人間でね。今は引退しているが…働いている間は本社と営業所、どちらかが有給を取らない限り、ずっと休みが合わなかった。クリスマスぐらい…って思ったよ。でもそんなの会社は考えてくれない。君の提案には、どんなビジネス書にも書いていない、心があった」
「それでね、今年ももうすぐクリスマスだ。今年は営業所が木曜日。本社は今の所出社日だ。休みにした方がいいと思うか?」
「私が言ったら…休みになるんですか…?」
「わからない。でも、君の心からの意見を聞きたい」
正解はないんだ、きっと…雪乃は思った。去年みたいに、社長は自分を試しているわけではないようだ。本当に、心からの意見を求めている…そう、雪乃にはわかっていた。
だから、雪乃はもう迷わなかった。
「不要だと思います。休みが欲しい人は、有給を申請したらいい、それが、私の心からの意見です」
「そうか。わかった。…真田さんらしいな」
*
社長室から戻り、席に着こうとすると、「ちょっと、真田さん!」と、また聞き覚えのある声に呼び止められた。
また、給湯室の「ホトトギス」が手招きをしている。
給湯室に入ると、3人とも口元に笑みを浮かべていた。
「どうされましたか?」
「真田さん…あなた…好きな人、いるでしょ?」
徳永さんが上目遣いをした。
「えっ…どうしてそれを…」
つい言ってしまった。昨日の今日だ、門倉さんが情報流出させるはずがない。ただ、昨日の夜のことを誰かに見られていたとしたら…と一瞬不安になった。
「勘よ勘。女の勘は鋭いんだから!」
「はぁ…」
ここまでくるともはや才能だ。給湯室にいるべくしている人たちなのだと思う。ただ、噂の種になるのも癪だった。
ふと、一人、織部さんの顔を見て、思い出したことがあった。
(織部さん、確か…コミュニティを…なんのコミュニティだっけ…)
雪乃は全力で物憂げな表情を作ってみせた。
「…実は…そうなんです」
「え!ほら、そうでしょう?相手は誰よ、教えて!社内の人?」
「…お恥ずかしいんですが…フィギュアスケーターの羽柴くん…です。この前のアイスショーの時の氷上での目、あれは絶対に私を誘ってましたね…。」
すると、織部さんの目の色が変わった。
「羽柴くんが誘ってたのは私よっ!」
そう、叫んだと思ったら急に早口になった。
「この前のアイスショーの時でしょう?あれは私、遠征したのよ…3回転ジャンプの後の流し目…あの時、目があったのよ!本当、本当よ。きっと氷上から私を誘ってたの…本当に素敵。私の王子様だわ……って、二人とも、どこ行くのよ!」
いつの間にか、豊川さんと徳永さんは給湯室から出て行こうとしていた。
「織部さん、この話になると長いから」
「私たちも、仕事に戻らないとねー」
織部さんがバタバタと追いかける。
「二人とも、待ちなさい!真田さん、また話しましょ。コミュニティも作ったんだけど、まだ誰も入ってくれないのよ!」
ホトトギスは、給湯室から飛び立っていった。
*
席に戻ってノートパソコンを開くと、Slackから多数の通知が来ていた。
先ほど送ったホンシャーマンの質問である「仕事をしている中で、好きな瞬間」に、今までにないほどの返信がついていた。
From:あんぷりん推し男子
ホンシャーマンおはよう。僕はお客さんの引越し日、今頃引っ越し作業してるんだろうなあ…って思うのが好き。お部屋決まってよかったなあって、胸が熱くなる。
From:マルマリ
ホンシャーマンおはよ!私は、なんもない時が好き。申し込みから契約まで、つつがなく進んだら、すごい気持ちいい。
なんもないことに、全神経注いでるからね(笑)
From:イーストブルー
お客さんが、自分が本当に欲しいものに気づいた瞬間、ちょっと表情が変わるの。その瞬間が好きだよ。
From:カモかも
ホンシャーマン元気?すごい焦っててイライラが伝わってきた入居者さんが、だんだん問題が解決していくと穏やかな口調になっていくと、こっちも安心するなあ。
From:新鮮グミ
自分が作った仕組みで、誰かが笑顔になるのが、最高に好き。
From:ジンベエザメ
自分よりずっと年上のオーナーさんが、相続とか、不動産管理とかで、自分を頼ってくれた時。嬉しいと同時に、もっと勉強しなきゃ、頑張らなきゃなって思う。
From:ミッドサマー
後輩たちが、お客さんに対して頼もしい姿を見せていた時、お母さんみたいな、気持ちになる。
From:路地裏育ち
前接客したお客さんの知り合いで…って新しいお客さんが来てくれた時。
From:敵に塩辛を送る人
ずっと見てきた部下が、自ら新しいことを考えて、動き出した時。
(実は密かに泣いてます。)
半匿名なのに、顔を合わせる以上に、書いた人の声、心が見えるような気がした。
そして、その人たちの顔が、雪乃にはなんとなく分かった。
雪乃は「ホンシャーマン」を、一旦ログアウトして、自分のアカウントで入り直した。そして、キーボードを打って、送信した。
From:サラダ丸
誰かの、心からの声が聞こえてきた時。大好きな瞬間です。
*
雪乃は退勤後、最寄駅の文房具店に立ち寄った。モレスキンのノートの最後のページを書き終えたので、新しいノートが必要だったのだ。
大きな文房具店にはさまざまな大きさや色、厚さのノートが並んでいる。雪乃は迷わず、白のハードカバーを選んだ。
そして、帰宅後。
自分の部屋で、いつもより姿勢を正して座る。
モレスキンの、ハードカバーの表紙をゆっくりと開けると、新しい紙の香りがふんわりと広がった。
表紙を開いたタイトル欄にボールペンが触れると、黒いインキが染みはじめた。インキは滲むことなく、雪乃の手の動きに従って線を描く。
雪乃は、ゆっくりとボールペンを動かした。
それでも、決して迷うことはない。
タイトルは、最初から決めていたからだ。
「人事部付 真田雪乃の議事録」
(人事部付 真田雪乃の議事録 終わり)
12万字にも及ぶ話に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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