「私」を手放しても、生きていていい〜ネガティブ・ケイパビリティ、歎異抄、そしてヒンディー語の「ムジェ」が教えてくれること
👇有料マガジンでは、私が実際に試行錯誤して導き出した、メンタル疾患でもお金の心配を無くすノウハウを余すことなくまとめています。
単発で記事を買うよりも、マガジンでまとめて購読したほうが5,150円お得で 過去の全有料記事も読み放題になるため圧倒的におすすめです。
あなたが安心して療養に専念できるノウハウを、ぜひ受け取ってください!
▼ 有料マガジンの詳細・ご購読はこちら
毎朝、目を覚ますのがつらい。
布団から身体を起こすだけでも精一杯なのに、
「今日も会社に行かなければならない」
「ちゃんとしなければならない」
「こんなことで休んではいけない」
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
身体は「もう動けない」と訴えているのに、頭の中ではもう一人の自分が、「もっと頑張れ」「普通の人はできているぞ」と責め続けている。
うつ病や適応障害など、メンタルの不調を経験したことがある方なら、この感覚が分かるのではないでしょうか。
私自身も、仕事や人間関係の中で心身のバランスを崩し、どん底のような時期を経験しました。
当時の私は、
「どうして普通に働けないのだろう」
「どうしてみんなができることが、自分にはできないのだろう」
「こんな自分に価値があるのだろうか」
と、自分自身を責め続けていました。
そして苦しくなればなるほど、さらに答えを求めました。
なぜこうなったのか。
どうすれば治るのか。
いつ復職できるのか。
これからどんな仕事をすればいいのか。
どうすれば以前の自分に戻れるのか。
けれど、どれだけ考えても答えは出ません。
むしろ考えれば考えるほど、自分を追い詰めていきました。
そんな経験を経て、さまざまな本や思想、心理学、仏教、そして言葉について調べていく中で、私は少しずつ違う考え方に出会うようになりました。
それは、
「自分ですべてを何とかしなくてもいいのではないか」
という考え方です。
この記事では、一見するとまったく関係がなさそうな三つの話を取り上げます。
「ネガティブ・ケイパビリティ」
親鸞の思想を伝える『歎異抄』
そして、ヒンディー語の「ムジェ」という表現です。
この三つには、私にはどこか共通するものがあるように思えます。
それは、
「私」という存在が、世界のすべてをコントロールしなくてもいい
ということです。
1.すぐに答えを出す必要はない——ネガティブケイパビリティ
私たちは、小さいころから「分からないことには答えを出す」ことを求められてきました。
学校では問題を解き、正解を出します。
会社に入れば、問題を発見し、原因を分析し、改善策を考え、結果を出すことを求められます。
特にビジネスの世界では、
「結論は何ですか?」
「で、どうするんですか?」
「解決策は?」
と、常に答えを求められます。
もちろん、仕事をするうえでは必要な能力です。
しかし、この「すぐに答えを出そうとする習慣」が、自分の心に向けられたとき、かえって苦しみを大きくすることがあります。
メンタルの調子を崩したとき、私たちはこんな問いを自分に投げかけます。
「なぜ私はこうなってしまったのだろう」
「いつ治るのだろう」
「休職したら人生はどうなってしまうのだろう」
「転職した方がいいのだろうか」
「もう一度ちゃんと働けるのだろうか」
けれど、心が弱っているときほど、こうした問いに明確な答えは出ません。
それなのに、
「答えを出さなければ」
と考え続ける。
その結果、さらに疲れてしまいます。
そんなときに知ったのが、ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)という言葉でした。
もともとはイギリスの詩人ジョン・キーツが使った言葉で、後にさまざまな分野で語られるようになりました。
簡単に言えば、
「答えの出ない状態に、答えを急がずとどまる力」
ということです。
「分からないまま」でいていい
私はこの言葉を知ったとき、とても救われました。
なぜなら、それまでの私は、
「分からない状態=解決しなければならない状態」
だと思っていたからです。
でも、本当は違うのかもしれません。
明日会社に行けるかどうか。
分からなくてもいい。
いつ元気になるのか。
分からなくてもいい。
今の会社に残るのか、転職するのか。
今すぐ決めなくてもいい。
この先の人生をどうするのか。
そんな大きな答えを、今日出さなくてもいい。
ただ、
「今は分からない」
という場所に、自分を置いておいてもいいのです。
これは投げやりになることとは違います。
すべてを諦めることでもありません。
むしろ、答えが出ないものを無理やり答えにしないことです。
心が疲れているときほど、
「どうにかしなきゃ」
という思考そのものから距離を置くことが必要な場合があります。
今日できることが、布団から起き上がることだけなら、それでいい。
顔を洗えなくてもいい。
仕事のことを考えられなくてもいい。
将来について前向きになれなくてもいい。
「今は答えが出ない」
それだけでいいのです。
2.「立派な自分」を手放す——『歎異抄』が投げかけるもの
もう一つ、私の心に残っているのが『歎異抄』です。
『歎異抄』は、親鸞の言葉を弟子の唯円がまとめたとされる書物です。
その中でも特に有名なのが、
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
という一節です。
一般的な感覚からすると、不思議な言葉です。
普通なら、
「悪人でさえ救われるのだから、善人ならなおさら救われる」
と言いそうなところです。
ところが『歎異抄』では、それが逆になっています。
なぜなのでしょうか。
この一節についてはさまざまな解釈がありますが、私自身が強く感じるのは、そこにある「自力への問い」です。
真面目な人ほど、「自分の力」で何とかしようとする
メンタルを壊しやすい人の中には、とても真面目な人が少なくありません。
責任感が強い。
人に迷惑をかけたくない。
期待には応えたい。
仕事を途中で投げ出したくない。
だから調子が悪くなっても、
「もう少し頑張ります」
「自分の意識を変えます」
「私のやり方が悪かったのだと思います」
と言ってしまいます。
私もそうでした。
会社でつらいことが起きるたびに、
「自分がもっと成長すれば解決する」
と思っていました。
上司とうまくいかない。
もっとコミュニケーション能力を高めよう。
仕事がつらい。
もっと効率よく働こう。
人間関係が苦しい。
もっと自分の受け止め方を変えよう。
もちろん、自分を振り返ること自体は大切です。
でも、何でもかんでも
「自分が変われば解決する」
と考えるようになると、いつの間にか世界中の問題の責任を自分一人で背負うことになります。
これは、とても苦しい生き方です。
「どうしようもない私」が救われる
『歎異抄』を読んでいると、私はときどき、こんなふうに言われているような気がします。
もちろん、これは私自身の現代的な受け止め方です。
「そんなに立派になろうとしなくてもいい」
「全部、自分の力で何とかできると思わなくてもいい」
「どうしようもない自分のままでも、生きていていい」
親鸞の思想でいう「他力」は、一般に使われる「他力本願=人任せ」という意味とは大きく異なります。
自分の努力を放棄して、誰かに全部やってもらうという話ではありません。
むしろ、
「人間の力だけですべてをコントロールできる、という思い上がりを手放す」
ことなのではないか、と私は感じています。
メンタルを壊したとき、私たちは「以前の自分」に戻ろうとします。
元気だった自分。
仕事ができた自分。
人から評価されていた自分。
普通に朝起きられた自分。
でも、その「立派だった私」に戻ることだけが回復なのでしょうか。
私は今、必ずしもそうではないと思っています。
以前ほど頑張れなくてもいい。
以前ほど仕事ができなくてもいい。
人から高く評価されなくてもいい。
「ちゃんとした自分」に戻らなくてもいい。
ただ、
「今ここにいる自分」で生きていく。
それもまた、一つの回復なのだと思います。
3.ヒンディー語の「ムジェ」が教えてくれたこと
ここで少し、まったく違う話をします。
ヒンディー語の話です。
私は、言葉の構造や表現の違いを見るのが好きです。
外国語を見ていると、自分たちが当たり前だと思っていたものが、実は当たり前ではないと気づかされることがあります。
ヒンディー語には、「私」を表す「マイン(main)」という言葉があります。
一方で、感覚や必要、欲求などを表現するときには、「私に」という意味を持つ「ムジェ(mujhe)」という形がよく使われます。
たとえば、「お腹が空いた」という表現。
日本語では、
「私はお腹が空いた」
と言います。
ところがヒンディー語では、「私に空腹が生じている」とでも言いたくなるような構造をとります。
もちろん、これはあくまで文法上の特徴です。
ヒンディー語を話す人が皆、「感情は外からやってくる」と考えているわけではありません。
それでも私は、この構造を知ったとき、とても面白いと思いました。
そして勝手ながら、自分の心の持ち方に少しだけ借りてみることにしました。
4.「私は不安だ」ではなく、「私に不安が来ている」
日本語で、
「私は不安だ」
と言うとします。
もちろん普通の表現です。
でも、心が弱っているとき、この言葉はときに重くなります。
「私は不安だ」
「私はネガティブだ」
「私は何もできない」
「私はダメだ」
いつの間にか、感情や状態が「私そのもの」になってしまいます。
そこで、私はヒンディー語の「ムジェ」の感覚を借りて、少し表現を変えてみることがあります。
「私は不安だ」
ではなく、
「今、私に不安が来ている」
「私は落ち込んでいる」
ではなく、
「今、私のところに落ち込みがやって来ている」
「私は何もできない」
ではなく、
「今、私の身体に強い疲労が来ている」
そう考えるだけで、ほんの少し、自分と状態の間に距離ができます。
心の状態は、「天気」のようなものかもしれない
雨が降ったとき、
「私が雨を降らせてしまった」
とは思いません。
台風が来たとき、
「私の努力不足で台風が来た」
とも思いません。
ただ、
「今日は天気が悪いな」
と思います。
心の状態も、それくらいの距離感で眺められたらいいのかもしれません。
今日は不安という雨が降っている。
今日は疲労という強風が吹いている。
今日は悲しみという低気圧が来ている。
それは、とてもつらい。
でも、
「私そのものが雨なのではない」
のです。
雨は、私のところに降っているだけです。
そして天気は、自分の意志だけでは変えられません。
だから、
「もっと晴れろ」
「今すぐ晴れろ」
と空に怒鳴り続けても仕方がありません。
雨の日には、傘を差す。
台風の日には、外に出ない。
心にも、それくらいの扱いがあっていいのではないでしょうか。
5.三つに共通するのは、「私が何とかしなければ」を手放すこと
ネガティブ・ケイパビリティ
『歎異抄』
ヒンディー語の「ムジェ」
文化も時代も分野もまったく違います。
それでも、私には三つが同じ方向を指しているように感じられます。
ネガティブ・ケイパビリティは、
「答えを出す私」を少し手放すこと。
『歎異抄』は、
「立派な人間になろうとする私」を少し手放すこと。
「ムジェ」という表現から私が受け取ったものは、
「感情や身体を完全に支配している私」を少し手放すこと。
三つに共通しているのは、
「私が何とかしなければならない」
という重荷から、少し離れることなのだと思います。
私たちは、自分を過大評価しているのかもしれません。
自分の人生なのだから、自分ですべてコントロールできる。
努力すれば、何でも変えられる。
考え方を変えれば、いつでも前向きになれる。
頑張れば、どんな職場でも適応できる。
でも、実際の人生はそんなに単純ではありません。
どれだけ努力しても変えられないことがあります。
人間関係。
会社の環境。
他人の評価。
病気。
体調。
過去。
偶然。
そして、自分自身の心でさえ、すべて思い通りにはなりません。
それを認めることは、敗北ではないと思います。
むしろ、
自分が背負わなくてもいい荷物まで背負わないための知恵
なのではないでしょうか。
6.休むことまで「立派」にやらなくていい
メンタルを崩した人が、休職をするときにも同じことが起こります。
「会社に迷惑をかけてしまう」
「自分の仕事を引き継いでから休まなければ」
「復職する時期を早く決めなければ」
「休んでいる間にも何か成長しなければ」
そんなふうに考えてしまうのです。
でも、休むときくらい、
「ちゃんと休む人」になろうとしなくてもいい
のではないでしょうか。
日本では、私傷病による休職制度そのものが、すべての会社に法律で一律に義務づけられているわけではありません。
会社ごとの就業規則などによって設けられている制度です。
一方、一定の要件を満たせば、健康保険の「傷病手当金」によって休業中の生活を支える仕組みもあります。
会社に休職制度があるのであれば、それを利用することに過剰な罪悪感を持つ必要はないと私は思っています。
働けないほど体調を崩しているのなら、まず治療と休養を優先する。
それだけです。
会社の穴をどう埋めるか。
誰に引き継ぐか。
組織をどう回すか。
そこまで一人の社員が背負う必要はありません。
それは本来、組織が考えることです。
休む人の仕事は、
休むことです。
7.「何者でもない私」に戻る
社会人になると、私たちはたくさんの肩書きを背負います。
会社員。
管理職。
部下。
上司。
夫。
妻。
父。
母。
子ども。
友人。
そして、それぞれの場所で役割を求められます。
成果を出す。
期待に応える。
迷惑をかけない。
役に立つ。
だから、何もできなくなったとき、私たちは怖くなります。
「役に立てない自分に価値はあるのだろうか」
と。
でも、本当は、
仕事ができなくても、
誰かの役に立てなくても、
生産性がなくても、
何者にもなれなくても、
生きていていいはずです。
私は、私を証明し続けなくてもいい。
私は、私を改善し続けなくてもいい。
私は、毎日「昨日より良い人間」にならなくてもいい。
今日一日をただやり過ごす。
それだけの日があってもいいのです。
8.「私」を救うことさえ、いったん手放してみる
メンタルを崩していたころ、私はずっと自分を救おうとしていました。
本を読みました。
考え方を変えようとしました。
人生を分析しました。
仕事について考えました。
将来について考えました。
「どうしたら自分を立て直せるのか」
という問いを、何度も何度も自分に投げかけていました。
でも今思えば、
その「自分を救わなければならない」という考えそのものが、自分を苦しめていた時期もあったように思います。
もしかすると、
私は、私を救わなくてもいいのかもしれません。
今日、答えが出なくてもいい。
今日、立派になれなくてもいい。
今日、心をコントロールできなくてもいい。
ただ今日を過ごす。
それだけでいい。
雨が降っていれば、雨が止むまで屋根の下にいる。
疲れているなら、横になる。
何も考えられないなら、考えない。
人生というのは、こちらが必死に動かさなくても、時間とともに少しずつ進んでいくものなのかもしれません。
おわりに——今日という日を、ただやり過ごす
もし今、この文章を読んでいるあなたが、
「もう限界かもしれない」
と思っているのなら、今日すべてを解決しようとしなくても大丈夫です。
会社を続けるのか。
辞めるのか。
休職するのか。
いつ復職するのか。
これからどんな人生を生きるのか。
今日、決めなくてもいい。
ネガティブ・ケイパビリティが教えてくれるように、
分からないことは、分からないままでいい。
『歎異抄』から私が受け取ったように、
立派な人間になれなくてもいい。
そしてヒンディー語の「ムジェ」という表現から少し想像を広げるなら、
今の苦しさは「私そのもの」ではなく、今たまたま私のところにやって来ているものなのかもしれない。
今日は不安という雨が降っている。
今日は疲労という風が吹いている。
今日は悲しみという雲に覆われている。
それでも、その空模様があなたそのものではありません。
すぐに晴れなくてもいいのです。
無理にポジティブにならなくていい。
「明日はきっと良くなる」と思えなくてもいい。
温かいものを飲む。
布団に入る。
目を閉じる。
息をする。
今日という一日を、ただやり過ごす。
それだけで十分な日があります。
人生には、「前へ進む」ことよりも、「その場にとどまる」ことが必要な時間もあります。
そして、とどまっているように見える時間も、人生から抜け落ちているわけではありません。
それもまた、あなたの人生です。
何者かにならなくてもいい。
立派でなくてもいい。
答えを持っていなくてもいい。
心をうまくコントロールできなくてもいい。
「私が何とかしなければならない」という重たい荷物を、今日だけは地面に置いてみてもいい。
「私」を少し手放しても、あなたは消えません。
そして、
何もできない日であっても。
何者でもない自分であっても。
生きていていいのだと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ、わたくし「えんがわくま」に餌を恵んでくださいませ
いただいたチップは冬を越すための貴重なエネルギー源にさせていただきます