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私の寺社巡礼(大谷祖廟と東本願寺)

今年も、大谷祖廟と東本願寺にお参りした。そして、東本願寺には特別な思いをもって参ることになる。

とにかく、東本願寺は大きい。御影堂も阿弥陀堂もどちらもこれでもかというくらいに大きい。あまりに大きすぎて、その大きさの感覚がつかめない。御影堂門から御影堂まで、どこくらいの距離なのかを測りえない感覚を持つ。それはバチカンのサンピエトロ広場に立った時と似た感覚だ。ちょっと大げさかもしれないが。
そして、このふたつの堂を廻る廊下も広くその床板は厚い。

東本願寺の広い廊下

それに比べて、東山の大谷祖廟はつつましい。参道こそ長いが、祖廟そのものは東本願寺に比べればずっと簡素だ。

平安神宮前から大谷祖廟に向かう参道

初めて大谷祖廟を訪れたのは、父の遺骨を分骨するためにだ。もう17年ほど前の話だ。分骨する門徒衆と一緒にバスで京都まで移動した。分骨というと厳粛なという感じがするが、全く違う楽しいバス旅行だった。乗り物酔いしやすい母もバス旅行を楽しんでいた。

その大谷祖廟には両親の遺骨を納めて、東本願寺には義理の両親の遺骨が納められている。特に、意図して分けたのではない。檀家の寺に従っただけだ。

東本願寺は京都駅からも近く、参拝料はなく拝観券やパンフレットもない。自由に御影堂、阿弥陀堂をお参りできるので、海外からの観光客も多い。彼らも単に見学するというのではなく、親鸞聖人や阿弥陀様の前に正座し、ゆっくりとした時間の流れを感じているようだ。

東本願寺に向かう海外からの観光客

それに比べて、大谷祖廟に参る外国人観光客は少ないが、それでも少しずつ増えてきているように思う。「親鸞聖人の御廟でございます。おこころ静かにお参りください」と立て看板がある。観光客だと思う人たちも静かにお参りしている。時折、本堂や御影堂から読経が聴こえてくる。ここが寺だということを感じる瞬間でもある。御影堂の前で涙する人がいる。その嗚咽の声が聞こえてくる静けさの中にいる。

大谷祖廟の総門 立て看板がある

その東本願寺も大谷祖廟も、歴史の中、あまたの門徒衆が支えてきた。まさに民衆が命を削って守ってきた寺だ。

大谷祖廟にお参りした次の日、奈良国立博物館に国宝展を見に行った。
百済観音や数多くの仏像、国宝を身近に見ることができ、感動の波に酔いながら、柿の葉寿司のお店に入り昼食を注文しようとした。
その時に、高校の同窓生からラインが入った。

ラインが知らせる幼馴染の死
そのラインは幼馴染の死を知らせている。

「ううう」、
店の人が何事かといぶかる。 やっとのことで注文をする。
 
涙があふれてくる。

記憶の最初から居る友との思いで
彼とは本当に多くの時間を過ごした。
私の記憶の中に最初から居る家族以外の人だった。
小学校1年の時に、K君やM君と一緒に“おんぼろ決死隊”という遊び仲間を作り、乳母車を戦車に見なして遊んだ。小学校からの帰り道にA医院に寄り道し、先生の奥さんから薬包紙の包み方を教えてもらったこともあった。
小二の時、私が左ひじを骨折した時には、一緒に遊んだ動物のフィギュアを病院に持ってきてくれた。
小学校高学年では彼の親戚の軽トラックの座席でいろいろと話をした。「誰が好き?」と聞かれてウマウマと彼の口車に乗ってしゃべってしまったら、翌日にはそれをみんなにばらされた。

中学時代には旺文社の『中二時代』に載っていた絶唱という小説の主人公“蓮見眉子”に一緒にドキドキした。受験を控えた定期テストの前夜、私の部屋の窓を彼がたたく。彼と一緒に1時間ほど夜の街を彷徨する。勉強している同級生の部屋の明かりを確認する。
高校時代に、彼の部屋で井上陽水の“東へ西へ”を私のカセットに録音した。カセットテープにはその時の息を凝らしている様子が残っている。
洋画も彼が教えてくれた。キャンディス・バーゲン、キャサリン・ロス、ジョージ・チャキリス、クラウディア・カルディナーレ などなど、きれいでカッコよかった。
少しずつ大人への階段を上っていく私に、彼はいつも「お前はケツが青い」言っていた。彼は少しだけ私の前を歩いていた。

もう一度会って話したいと思っていたが、それはもう叶わない。随分と早い別れだ。

幼馴染のSさんから彼の菩提寺が同じお東さんのお寺だと連絡があった。来年には彼の遺骨はそこに帰ってくる。
なので、ちょっと早いが、東本願寺の阿弥陀様の正面に座り、彼のことを思いながら「なまんだぶ」とお参りした。


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