私の地経学入門:自分の中の違和感を言語化してみる
はじめに
地経学について書き続けてきましたが、ここにきて、少し立ち止まりたいと思うようになりました。
これは否定的な意味ではありません。「このまま進めてよいのだろうか」と、自分の足場を確かめたくなったからです。
地経学は、経済安全保障やリスク管理の文脈で語られることが多いと思います。
それは非常に重要で、現実的な動きでもあります。地経学が社会や企業にとって有益な視点を提供していることに疑いはありません。
だからこそ、いまの自分の理解のままで語り続けてよいのか、一度立ち止まって考えたいと思いました。
正直に書くと、最近「地経学とは何なのか」が自分でも分からなくなってきたのです。
理解が深まったというより、輪郭が広がり、焦点がぼやけてきた感覚があります。
今回は結論を出す回ではなく、学び直しの回として書いてみたいと思います。
経済安全保障だけでは、世界は説明しきれない
まずは経済安全保障について。
私自身、「経済安全保障とは何か」を完全に理解できているわけではありません。
当然ながらその重要性は強く認識しています。企業経営や政策にとって不可欠なテーマであることも理解しています。
しかし議論を追うほどに、ある違和感が生まれてきました。
経済安全保障という言葉は世界経済の一部を説明するには非常に有効ですが、全体像を説明する言葉ではないのではないかという感覚です。
近年の議論では、
リスク、脅威、分断、制裁といった言葉が中心に置かれます。
しかし国家や企業は、リスクに備えるためだけに存在しているわけではありません。
世界経済は、危機への対応だけでなく、成長への期待によって拡大してきました。
国家は市場を広げるために協力し、企業は新しい機会を求めて国境を越えて投資してきました。
貿易協定や国際金融の仕組み、地域協力の枠組みは、危機対応のためだけではなく、拡大と発展を可能にする制度として構築されてきたものです。
もちろん、世界経済には常に対立や競争が存在します。
しかし同時に、相互依存を深めながら成長してきた歴史もあります。
この「拡大してきた歴史」を視野に入れなければ、現在起きている変化を正しく理解することは難しいのではないでしょうか。
経済安全保障は、その長い歴史の中で生まれた重要な視点の一つです。
ただし、それだけで世界経済の全体を説明できるわけではありません。
拡大と協力の歴史の上に、いまの安全保障の議論が重なっています。
「守りの視点」だけでは、世界経済の全体像は見えないのではないか。
この問いが、今回立ち止まろうと思った出発点です。
国際政治経済学を読み直す
そこで私は、20年近く前に購入した国際政治経済学のテキストを読み直しました。(有斐閣『国際政治経済学・入門』※私が手に取ったのは初版ですが、現在は第3版まで出版されています)
学生向けの教科書ですが、だからこそ多くの気づきがありました。
読み直したうえで「世界を見る切り口」を多く持つことが重要であると再認識しました。
地経学の議論に触れていると、どうしても特定のテーマに自身の視点が集中してしまう傾向があります。
サプライチェーン、半導体、輸出管理、経済制裁。
いずれも重要ですが、私自身がそれらのテーマを一つの視点でつなげて語ることができていない、という感覚がありました。
一方、国際政治経済学では、まず大きな問いが置かれます。
国家と市場はどのような関係にあるのか
貿易はなぜ拡大してきたのか
国際金融はなぜ不安定になるのか
国家はなぜ協力し、なぜ対立するのか
そのうえで貿易・金融・地域統合・国際制度などが個別に整理されます。
つまり、個別テーマに入る前に世界の政治経済を見る地図を頭のなかに描くことができます。
「安全保障」は全体ではなく一部分
読み直して得た最大の気づきは、国際経済は「安全保障」だけで動いているわけではない、という当たり前の事実でした。
世界経済は長い時間をかけて、
成長、相互依存、利益追求、制度構築によって拡大してきました。
国家も企業も、より大きな市場、より多くの機会、より高い成長を求めて国境を越えて活動してきました。
その結果として貿易体制や国際金融、地域協力の枠組みが生まれ、相互依存が深まっていきました。
そして相互依存が深まったからこそ、リスクや脆弱性も同時に認識されるようになりました。
つまり、現在語られている経済安全保障は、
世界経済の歴史の出発点ではなく、相互依存が進んだ結果として浮かび上がってきた視点とも言えます。
成長と協力の歴史があり、相互依存が深まり、
その上に安全保障の議論が重なっている。
この順番を意識しないまま議論すると、世界経済がもともと「リスク中心」で動いてきたかのように見えてしまいます。
しかし実際には、拡大と連携の歴史の上に、現在の安全保障の議論があるのだと思います。
その順番を、自分の中で取り戻したいと感じました。
地経学は新しい学問なのか
ここで素朴な疑問が生まれました。
地経学は本当に新しい学問なのでしょうか。
結論から言えば、私は新しく注目されている重要な分野だと考えています。
多くの研究者や実務家が「地経学」という言葉を用いて語る機会が増えていること自体が、この分野の重要性を示していると言えるでしょう。
ただ同時に、その背後にある問いは決して突然現れたものではない、ということも感じていました。
国家と市場の関係
貿易と政治の結びつき
協力と競争のダイナミズム
これらは国際政治経済学が長く扱ってきたテーマです。
つまり地経学は、まったく新しい問いを生み出したというより、既存の問いを新しい状況の中で再配置したものとも言えるのではないでしょうか。
冷戦後のグローバル化、相互依存の深化、そして近年の分断や対立。
こうした変化の中で、政治と経済の関係を改めて捉え直す必要が生まれ、その結果として地経学という言葉が広く使われるようになったのだと思います。
地経学は新しい概念であり、社会にとって有益な視点を提供しています。
だからこそ、その言葉を用いる自分自身の理解が十分なのかを問い直したいと思いました。
「制度」という視点に関心が向き始める
古いテキストを読み直す中で強く意識するようになった言葉があります。
それが「制度」です。
貿易体制、金融システム、地域協力、国際機関。
国家の競争や協力の背景には常に制度があります。
制度は安定を生みますが、同時に摩擦や対立の原因にもなります。
最近の地経学の議論も、制度の上で動いていると言えるでしょう。
そして、制度の変化は企業の意思決定にも直接影響します。
また、もう一つ、今回立ち止まった理由があります。
リスクは管理するためだけのものなのだろうか、という疑問です。
取締役会の議論では「リスクアペタイト(どの不確実性を取りに行くのか)」という考え方があります。
そう考えると、地経学や国際政治経済学は、回避すべきリスクを特定するためだけでなく、どのリスクを取りに行くのかを考えるための視点としても使えるのではないか、と感じ始めています。
この違和感も、いま制度という視点に関心が向いている理由の一つです。
制度リスクという整理を試みる
そこで現在、「制度」という視点からリスクを整理できないか考え始めています。
制度がどのように変化し、どのように使われ、どのように企業や国家の行動に影響を及ぼすのか――その点に強い関心を持つようになりました。
近年の世界経済の変化を振り返ると、起きている出来事の多くは、個別の技術や産業だけでなく、制度の変化として捉えることができるのではないかと感じています。
貿易、投資、金融、技術、データ、制裁。
これらはすべて制度と深く結びついています。
そのため現在、「制度リスク」という視点から、リスクを整理する試みを始めています。
制度がどのように変質し、どのように利用され、どのような影響をもたらすのか。
まだ途中段階ですが、少しずつ整理を進めているところです。
次回以降、この整理の内容を段階的に共有していきたいと思います。
おわりに
今回は回り道の回でした。
しかし、地経学が社会にとって役立つ視点だからこそ、自分の理解を問い直し、学び直す時間が必要だと感じています。
百年創造は「ひとりからシンクタンク」という考え方・アクションの実現を目指しています。私自身も、そして将来の顧客の皆さまもそれを実現できるように。
そのためにも、立ち止まって考える時間そのものを大切にしていきたいと思います。
(続きます。「取締役会が知るべきリスク100選」も時間をかけながら進めていきます)
参考文献
国際政治経済学・入門(第3版)
野林 健、大芝 亮、納家 正嗣、山田 敦、長尾 悟 著
有斐閣(2007年6月出版)
