私の地経学入門(第17回) 取締役が知るべき地政学・地経学リスク100選⑤ 国家・安全保障リスクをどう選ぶか
第16回では、リスクを“どう読むか”という6つのフレームを扱いました。一方で、実務では必ず『では、どのリスクから手を付ければいいのか』という課題が残ります。
実際、地経学リスクの範囲は広く、制度、サプライチェーン、技術、サイバー空間、国家間関係……と挙げればキリがありません。しかも、それぞれが相互に影響し合うため、分類だけでは優先順位が見えないという問題があります。
第1分類:国家・安全保障リスクを構成する10の候補
そこで今後は、リスク100選を少しずつ分けながら読み解いていくことにします。最初に扱うのは「第1分類:国家・安全保障リスク」。企業が最も影響を受けやすい領域です。
百年創造は、最近の制度・供給網・安全保障・情報領域の動きを踏まえ、まずは10個の候補を選びました。
米中対立の長期化・構造化
台湾海峡の不安定化(灰色地帯化)
輸出管理の急拡大(半導体・AI)
国家主体によるサイバー攻撃
友好国調達への急シフト(供給網の政治地図化)
中東・紅海の航路不安定化
ロシア・制裁リスクの長期化
朝鮮半島リスクの慢性化
偽情報・情報工作の高度化(国家主体)
国際金融制裁・決済網の分断(SWIFT・人民元圏の台頭)
最初に10個の候補リスクを示したとき、議論はさっそく動き始めました。
取締役:
「この10個が国家リスクなんですか?台湾や米中は分かりますが、偽情報や制裁までここに入るのは、少し広すぎませんかね。」
リスク管理担当者:
「現場感で言うと、むしろ中東や物流の遅延のほうが影響が大きいです。
優先順位として、この10が妥当かどうか……正直、自信がありません。」
経営コンサルタント:
「概観としては分かりますが、分類が重なっているところが気になります。
国家リスク分類で扱う理由を明確にしないと、次回以降の分類との境界が曖昧になります。」
さっそく異論が出てしまいましたが、これは健全な反応です。実際、どの企業でも「どのリスクを国家(安全保障)リスクとして扱うか」
は議論が割れます。
ただし、議論を前に進めるためには、「最初のたたき台」をつくることが欠かせません。
百年創造:
「皆さんの異論はもっともです。ただ、まずはこの10個を候補としてテーブルにのせた上で、最初の5つは前提が容易に変わるという仮説のもと、6つのフレームで読み解いてみませんか。実際に読んでみれば、どれが国家・リスクとして重要なのかが、自然と見えてくると思います。
こうして今回(第17回)は国家・安全保障リスクのうち Group A(最初の5つ)を「前提を揺れやすい代表例」として扱います。
記事(この議論)の目的は、5つのリスクを複雑に理解するのではなく、5つのリスクを決めやすくすることにあります。
そのため、今回は6フレームを実際に使う回になります。4名による実務的な議論を通じて「結局、どこを見るべきか」を絞っていきます。
ここから リスク①米中対立の長期化に入ります。
リスク①米中対立の長期化
1. 構造(Structure)
米国は“技術覇権の確保”、中国は“自力で完結する産業体系”という大枠に入り、対立が「長期の前提」になった構造がある。
2. 現象(Phenomenon)
輸出規制の急拡大、クラウド利用制限、中国需要の急変、部材の迂回調達の増加など、現場で見えるズレが増えている。
3. 問い(Question)
「当社はどのルール(米か中か)を前提に事業を設計しているのか?」
「対中依存を何%まで(どの範囲まで)許容するのか?」
4. ドライバー(Driver)
制度(輸出管理・制裁)× 技術(AI/半導体)× 資本(補助金・投資規制)の連動
5. 波及(Spread)
装置1つの規制強化→生産計画→在庫→顧客納期 → 株主評価まで連鎖。1リスク=1対策では止まらない広がり。
6. 意義(Meaning)
地政学的・地経学的前提を見直し、リスク許容度(アペタイト)を決める出発点になる。
取締役:
「この話は大きすぎます。米中対立が重要なのは分かりますが、だから当社は何をやめ、何を続けるのかが見えません。」
「『対中依存を下げろ』というのは簡単ですが、利益が落ちれば株主から問われます。抽象度が高すぎて、取締役会として判断可能な粒度になっていないのが問題です。」
リスク管理担当者:
「本当に制度が多すぎます。追いかけるだけで日が暮れますし、対中依存の棚卸しも全拠点をやれば半年かかります。」
「依存度を下げろ、と言われても、現場としてはどこから手を付ければ良いのか分かりません。」
経営コンサルタント:
「この議論の最大の問題は、許容ラインがないことです。どの依存度がどの水準を超えたらどんな経営判断が必要か。ここが決まらない限り、米中対立は“いつまでも考えて終わるリスク”になります。」
「6フレームは良い点もありますが、どこまで見れば十分かの議論が必要です。」
百年創造:
「皆さんの言う動けない理由はすべて正しい。しかし、意図せず予測しようとしすぎて動けなくなっていることが問題です。」
「米中対立は予測するものではなく、許容範囲を決めるもの です。」
「取締役会として今やるべきは、対中依存(売上・調達・拠点)の許容レンジの設定 です。たったこれだけで、現場の判断がはやり易くなるはずです。」
「6フレームは“すべてを分析する”道具ではなく、どこだけ見れば決められるかを絞る道具 として使ってください。」
議論を通じて、地経学リスクを「動く議論」に変えるための最初の一手が見えてきます。
取締役会が「1つだけ決める」こと
問いにも重なりますが、「対中依存の許容ライン(上限)を決めること」です。売上・調達・生産能力のいずれかで良いので、この数字を超えたら再検討というラインを設定するだけで、地政学・地経学リスクは実務の議論に変わります。
取締役:
「正直、依存度の許容ラインと言われても、何を基準に決めれば良いのか分かりません。売上○%まで、調達○%まで──という数字を設定して、それを超えたら『見直し』というのは簡単ですが、その数字に明確な根拠がないと、株主説明で論点になりかねません。それに、ラインを下げれば利益率は落ちます。慎重にいくほど儲からなくなる構造は避けたいんです。」
リスク管理担当者:
「数字を決めると言っても、依存度は一定ではありません。四半期ごとに動きますし、品番ごと・拠点ごとに差が大きいです。ラインの設定はよいと思いますが、『ラインを超えたから要再検討』となると、半年ごとに何十件もレビューが必要になる可能性があります。ラインを決めるというより、
どの領域だけライン管理するか、を先に決めないと対応できません。」
経営コンサルタント:
「お二人が言っている課題はその通りです。ただ、ラインを決めるときに
正しい数字や完全な棚卸しを求めてしまうと、この議論は絶対に進みません。本来ラインとは、「違和感を検知するための目安」であって、科学的に正しい値ではありません。
たとえば、売上の20%・調達の30%・生産能力の25%などと設定しても、計算式の正しさよりも、取締役会が地政学リスクを見落とさない仕組みを作ることのほうが重要です。むしろ危険なのは、『ラインは後で決めましょう』と言って先送りすることです。」
百年創造が論点を整理します。
「皆さんの不安はよく分かります。ただ、ラインの根拠が弱いから決められないというのは、リスク抽出・特定の過程では避けた方が良い考え方です。
地政学・地経学リスクは、精密さではなく早めの違和感のほうが価値があります。ラインの役割は、完全な正確性ではなく見落としを防ぐ“アラートの役割”です。
さらに言えば、ラインは3種類のうち1つだけで良いのです。
● 売上依存のライン→ 市場リスクの早期検知
● 調達依存のライン→ サプライチェーン断絶の早期検知
● 生産能力のライン→ 生産停止リスクの早期検知
この3つのうち、自社のビジネスモデルに最も効くであろう1つをまず決めましょう。それに、一度決めたラインは変更可能です。地経学は、ラインを正確に作るのではなく、ラインを動かしながら最適化していく領域です。取締役会の役割は、完璧な基準を作ることではなく『どのラインを見れば事業の前提が崩れるのか』を先に選ぶことです。」
4者の議論から導かれる実務的な結論
✔ ラインに「科学的根拠」は不要→ 目的はアラート(違和感の検知)
✔ ラインは1つだけで良い→ 売上 or 調達 or 生産のいずれかでOK
✔ 四半期の変動に一喜一憂しない→ 年1回の棚卸し+上振れ時のみ対象
✔ ラインは随時修正して良い→ 変化が前提の地経学では自然
これにより、米中対立は“考えて終わるリスク”から“経営判断の材料”に変わります。取締役会が決めるべきは基準の「正しさ」ではなく「使い方」 です。
議論は次のリスクに向かいます。
