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戦国② 鬼左近

◯はじめに

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
のちにこのように詠われる名士だった島左近について今回は解説していこうと思います

島左近

◯筒井家臣時代

島左近(別名:島清興  しま きよおき)1540年(天文9年)、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)に生まれました。いつから筒井順慶(つつい じゅんけい)に仕えていたか定かではありませんが、少なくとも1570年(元亀元年)頃には仕えていたと言われています。
(筒井順慶…大和国郡山城主。筒井氏は興福寺一乗院に属する衆徒で、そのうち棟梁として指揮し寺務の配下として奈良市中を管理する官符衆徒の筒井家が武士化し、筒井順昭(つつい じゅんしょう)の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に大和の多数の豪族を従えていました。)
1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で筒井順慶が、宿敵である大和の戦国大名・松永久秀(まつなが ひさひで)を自害に追い込みます。
この順慶の勝利の背景には、島左近と松倉重信(まつくら しげのぶ)が多聞城(たもんじょう:現在の奈良県奈良市)を攻めようとした順慶に、城を築きしばらく滞在し、織田信長に味方をして後詰をお願いするよう助言したというできごとがありました。
(松倉重信…順慶の家臣)
そののち、順慶織田信長の配下となります。この頃、左近は「吐田城」(はんだじょう:現在の奈良県御所市)を支配下に置くなど、内政面からも順慶を支えていたようです。
本能寺の変」後、織田家は二分化されるようになります。一つ目は秀吉派、二つ目は勝家派です。順慶は悩み抜いた結果、秀吉派に所属します。
1579年(天正7年)には、謀反を起こした荒木村重(あらきむらしげ)が籠城する「有岡城」攻めに、1583年(天正11年)には、滝川一益(たきがわかずます)を攻めるために伊勢(現在の三重県)に出陣します(荒木村重、滝川一益…信長の元家臣、勝家派)。

◯筒井家との決別

1584年(天正12年)頃、左近は椿井城主(現在の奈良県生駒郡)となります。また同年、小牧・長久手で豊臣秀吉と徳川家康が交戦中に、主君の筒井順慶が死去。養子筒井定次(つつい さだつぐ)が跡を継ぎました。
しかし、秀吉の命により筒井氏が伊賀国(現在の三重県伊賀市)へ国替えすることになると、左近は隠遁生活を送るようになります。
その理由としては、2つの説が有力と唱えられています。それは定次の水不足に対する裁定への不服と、定次への絶望です。

◯筒井定次(つつい さだつぐ)への不服

発端は、夏の水不足でした。中坊飛騨(なかのぼう ひだ)…(筒井氏の家臣)が用水路をせき止め、自分の領地内の田に水が回るようにしてしまったことで、左近の領地の田には水が回ってこないようになりました。困った領民達は、左近のもとに対応の陳情に訪れました。
左近はまず、飛騨守に用水路のせき止めをやめるよう依頼しました。しかし、飛騨守が断ったため、新しい用水路を作って自分の領地の田に水が流れるようにしました。その結果、自分の領地の田に水が回ってこなくなった飛騨守は、主君・定次に直訴し、対処を求めました。
定次と飛騨は、昵懇(じっこん:打ち解けて付き合う仲であること)の間柄でした。そのため、訴えを聞いた定次は、今回の一件について、左近にがあると裁定し、新しく作った用水路を壊すよう命令します。水不足自体は、その後の降雨によって解消されましたが、島左近にとって決別を決めるのには十分な出来事だったと言えるのです。

◯筒井定次への絶望

順慶の跡を継いだ定次は、色欲に溺れていたと言われています。左近は、そんな定次を諫めていました。
しかし、定次もその取り巻きも耳を貸すことはなく、そんな状況に愛想を尽かし、左近は筒井家を去ったと言われています。
左近が筒井家を去った大きな理由として伝わっているのはこの2つです。どちらにしろ左近は筒井定次が主君として仕えるべき人物であるのかということに疑問を感じ、筒井家を去ったことに違いありません。左近は筒井家を去ったあとに、蒲生氏郷(がもう うじさと)や豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみ ひでなが)、その息子・豊臣秀保(とよとみ ひでやす)に仕えたと言われていますが長くは続かなかったようです。

◯三顧の礼を経て

左近の活躍は筒井氏のもとで世に轟き、主君のいなくなった島左近にスカウトの声が多数かかるようになりました。
しかし、すでに40代後半になっていた左近は、もう誰にも仕える気はありませんでした。他のあらゆるオファーと同じように、石田三成(いしだ みつなり)からの申し出も断りましたが、三成はあきらめませんでした。「三顧の礼」をもって左近のもとに出向き、自分の石高4万石の半分となる2万石を提示し、ついに受け入れられることになりました。※「石(こく)」とは米の量を表す単位です。  武士の給料は米の量(石高)で表され、 位が上がると与えられる米の量が増えました。  一石は、成人の男が一年間に食べる米の量を基準に決められました。
主君と家臣が同じ禄高なんて前代未聞のことでした。さらに一介の浪人に2万石など、破格を通り越した待遇でした。しかし、左近は金や領地よりも義を重んずるため、実際には2万石もの禄高を受け取ることはなかったのだそうです。
また、秀吉は、三成が家来を得るために破格の禄を与えたと聞いて驚きますが、その家来が左近だと知ると、「島左近ほどの男ならば当然」と納得するほどでした。島左近に菊桐紋入りの羽織を与えたと言われています。
左近という有能な右腕を手に入れた石田三成は、19万石となり「佐和山城」(現在の滋賀県)の主となります。そして、三成が左近に加増しようとすると、「もう禄は十分だから代わりに下の人々に与えてください」と断ります。自分が褒美を貰うよりも、兵を雇って三成の軍を強くして欲しいと思ってのことでした。
左近は軍師としてはもちろん、三成の参謀として年貢収納など内政でも力を発揮し、三成にとって欠かせない存在となっていきました。

◯動き出す家康

1598年(慶長3年)に秀吉が没すると国内は不穏な空気に包まれます。家康も秀吉の死後、動き出したひとりです。禁止されていた大名間の婚姻を無断で敢行するなどの行動を起こしています。側近中の側近であった前田利家が家康を止めに入りますが、1599年(慶長4年)に利家が死去すると、家康の天下人への「野心」が表面化し始めます。
家康は三成を武闘派の七将に襲わせ、自分に仲裁を頼んでくるように仕込みます。そして、その条件として三成を政権から追放という形をとりました。左近は三成に対し、複数回にわたって家康殺害を重ねて進言したものの、義を重んじる三成の同意を得られなかったことで、家康殺害計画は実現しませんでした。関ヶ原の戦いの前日に起きた前哨戦「杭瀬川の戦い」(くいせがわのたたかい)で、左近は奇襲攻撃をしかけて見事勝利します。勢いに乗った左近は、さらに島津義弘(しまづ よしひろ)、小西行長(こにし ゆきなが)らと共に夜襲を計画しますが、またしても三成に却下され実行には至りませんでした。
左近の有能ぶりは家康の耳にも届き、関ヶ原の戦いの前には左近を東軍に引き入れるべく、重臣の柳生宗矩(やぎゅう むねのり)を派遣したと言われています。
宗矩の甥「柳生利厳」(やぎゅう としとし/やぎゅう としよし)と左近の娘「珠」は婚姻関係にあり、宗矩と左近は気心の知れた仲。左近は宗矩に「殿(石田三成)は決断が遅くてね」とこぼしつつ「それでも裏切れないのだ」と徳川家康の誘いを断ったと言います。左近は多くの大名が家康に寝返っても忠義を重んじ、寝返ることはありませんでした。

◯関ヶ原の戦い

戦開始直後は西軍有利でした。左近も自ら陣頭に立って戦っていました。
左近に率いられた部隊は、杭瀬川(くいせがわ)に布陣していた東軍の中村隊を挑発。飛び出してきた中村隊の兵を射殺します。それを見た中村軍は出撃してきましたが、左近はしばらく応戦したあとわざと退却。伏兵を潜ませていた場所まで誘導します。こうして追撃してきた中村軍の退路を断ち、退却していた兵も反転して中村軍を挟撃。「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法を採りました。
左近による釣り野伏せによって、中村隊が危機に陥っている様子を見た有馬隊は、即座に救援に向かいます。これに左近と蒲生隊が応戦して激しく交戦。西軍は、最初こそ上機嫌でこの戦いを見ていましたが、東軍側の兵士の苦戦する様子に、撤退を決意したのです。
左近が出陣した目的は、敵兵をせん滅することではなく、西軍の兵の士気を高めることでした。総大将・家康が合流した東軍を撤退させたことで、目的は達成されたと言えました。そののち、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切り、西軍の敗北が決定的になると、左近は三成を逃がそうと東軍の黒田長政(くろだ ながまさ)軍に捨て身で突撃し、銃撃を浴びて討ち死にしました。島左近の人生は60年で幕を閉じました。その鬼気迫る姿は正視に堪えない恐ろしさだったことから、対峙した東軍の兵士達の記憶に残る島左近の姿は、人によってまったく違っていたと言います。また、島左近の強烈な姿が目に焼き付いて、時が経っても悪夢にうなされる者もいたとか。
関ヶ原の戦いで遺体が見つからなかったことから、様々な生存説が存在しています。

釣り野伏せとは
島左近の流れ
関ヶ原の戦いの兵の配置と兵力

◯終わりに

「ただ城下の繁栄に驕って、下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危うい」
これは三成に対して左近が言ったとされる言葉です。上に立つ人が今の結果だけを見て満足し、下の人の努力や苦労を考えることがないと下の人が上を信頼することができず、それが仕事をする姿勢にも表れ始め、そのうち問題が起きるという意味です。三成は仕事こそできますが、人の扱いが下手です。人の気持ちを考えて指示を出すことができず、横柄だと受け取られる言動を取ってしまいます。もしかしたら、左近は西軍の兵たちが寝返るのが分かっていたのかもしれないですね。
左近は猛将というイメージが強いですが、実は軍師としての力もかなりのものでした。義を重んじ、最後まで主のために尽くす姿は最も武将らしいと思います。

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