短編小説『サイズの合わない靴』
——1997年3月、北アルプス・槍ヶ岳の裏手。
稜線の影にひっそりと佇む無人の山小屋。そこに俯せたまま横たわっていたのは、裸足の遺体だった。
身に着けていた身分証から、間山浩二という人物だったことが分かった。雪山装備ではあったが、リュックなどの装備は一切見当たらず、その両足は靴下すら履いていなかった。
甲はパンパンに腫れ上がり、皮膚は紫から黒へと変色し、爪はすべて壊死していた。踵から土踏まずにかけて縦に裂傷が走る。特に腫れは異常で、足首の周囲は通常の倍近くに膨れ上がっていた。
この状態では、28センチの靴ですら小さく感じただろうと思われるほど、足は異様に変形していた。
奇妙なのは、小屋の隅には登山靴が転がっていたこと。それは間山自身の26.5センチの靴ではなく、それより明らかに大きい28.5センチの靴だった。
登山届が事前に出ていなかったこともあり、事件性を感じた山岳救助隊員は応援を呼ぶことにした。
——雪が止んだ頃、梶原刑事と、相棒の深山刑事が現場に到着した。
梶原は小屋に残っていた靴を手に取り、内側にこびりついた血痕を確かめた。
「……なるほど、確かに間山の靴じゃないな。サイズが合わない」
「しかし山小屋までの足跡……らしきものは一人分しかありませんね」
深山が小声で返す。
「うむ、間山の靴ではないが、おそらく彼がここまで履いて来たものだろう。リュックが無いというのも気になる。さすがにそんな軽装でこの山には登らんだろう。そう考えるともう一人、居たということになる。この28.5センチの靴の持ち主だ」
「……ということは、その靴の持ち主は裸足のまま、この雪山のどこかに残されたか、あるいは……」
「うむ。想像の範囲ではあるが、そうなってくるな」
「梶原さん、いったい、なぜそんなことに……」
「ま、それを調べるのが俺らの仕事だろう」
そう告げた梶原は、一面白の世界となった雪山をまぶしそうに見やると、即座に周辺の捜索を、深山らに指示した。
空からの捜索も相まって3時間後、小屋から南へ800メートル地点の雪田に埋まりかけていた、金田次郎の遺体が発見された。梶原の予想通り、彼は裸足のままで踵は抉れ、傍には間山の物と思われる26.5cmの靴と、二人のリュックが添えられたように一緒に埋まっていた。
そして、金田はそのリュックに手を伸ばすようにうつ伏せのまま亡くなっていた。
——間山と金田は大学の山岳部以来の悪友だった。
「還暦前の最後の本気登山」と銘打ち、二人は冬の槍ヶ岳裏手を縦走する計画を立てていたのだ。あの頃と同じく金田が先頭、間山が後ろ。朝早く樹林帯を抜け、雪の稜線に這い上がったとき、二人は思わず笑った。
「金田、やっぱり冬の北アルプスは格別だな」
「そうだな間山。ただ、あと十歳も若けりゃ、もっと楽に歩けたのにな」
「ははは、それは違いない。腹も引っ込んでいたしな」
「バカ言え、それはお前だけだろう」
息を切らしながらも冗談を言い合い、登山靴につけたアイゼンが雪をザクザクと踏み鳴らして進む。
まだ天気は持ちそうだったが、その稜線に出てすぐに吹雪が来た。天気が変わりやすいのは知っていたが、こんなすぐに……。
そこから一気に横殴りの吹雪が視界を遮り、さっきまでの良好だった視界は何処へやら。もはや数メートル先までも見えるか怪しい状況に陥った。風は台風が如く唸りを上げ、雪がゴーグルを打ち続ける衝撃に眉をしかめた。
——金田さん、足元!
間山が叫んだ瞬間、金田の体が傾いた。
「あっ!」
庇のようにせり出した雪庇の端が崩れ、いつのまにかそこに乗っていた金田は、無言のまま斜面を滑り落ちていった。
運が良かったのか悪かったのか、10メートル下の岩に激突して止まったが、その衝撃で右足首が不自然に曲がっていた。
「ぐっ……やっちまった……!」
金田は歯を食いしばった。
「立てるか!?」
吹雪の中、間山は慌てて雪面を降りて駆け寄り、金田を抱え込んだ。
「……無理だ」
金田の足は完全に力を失っていた。無情にも吹雪はますます激しくなる。若い頃にもこんなピンチは何度かあったが、今回はその比ではなかった。二人は同じ予感を抱いた。
——このままでは二人とも死ぬ。
間山は自分のリュックを下ろした。中身の食料、予備着、ストーブ――すべて捨てたのだ。
「おい浩二、何して……」
「背負う!お前を背負って先の小屋まで行くんだ!」
そう叫ぶと間山は金田を背負った。
しかし、大の大人のフル装備は重く——
「ううっ!」
一歩ごとに膝まで埋まり、雪と風に体力と体温が奪われ続ける。声を上げてなんとか足を動かすが、この雪深い山中で大の大人を背負って思うように動けるわけもなかった。その足は牛歩の如くなかなか進まないまま、無情にも時間だけが淡々と過ぎていく。
そんな間山の足も腫れてきてしまっていることに気づいた金田は、胸元のポケットに手を突っ込んでスイッチを押すと、覚悟を決めたように掠れた声を出した。
「……浩二、俺を置いてけ」
「うるさい、黙ってろ!」
「このままじゃ二人ともダメだ……俺の靴、脱がせろ」
「何言ってんだ金田さん!」
「いいから脱がせろ……!お前もわかってんだろ!?このままじゃ……。俺の靴は28.5だ。お前より少し大きい。足が腫れてても……入るはずだ」
間山は震える手で背負っていた金田の足をぐっと掴んだ。しかし、彼からの反応は何もない。もはや痛みすら感じなくなっていたのか——
「浩二……頼む。小屋まで行ってくれ」
そう声を絞り出すと、金田は震える手で自ら紐を解き、靴を脱いだ。凍傷で腫れた足が露わになる。間山は涙をこらえながら、自分の靴を剥がすように脱ぎ、金田の28.5cmをぐっと履かせた。それは、腫れた足に奇跡的に収まっていた。
「いいか浩二、小屋まで行けば……手回し電話がある。ハンドル回せば……救助を呼べる……頼んだ……」
金田は最後にそう言い残すと、雪の上に静かに横たわった。間山は焼け石に水とわかっていながら、リュックを並べて小さな壁を作ってやった。それくらいのことしかしてやれなかった。それでもすぐに雪が金田ごと、白く覆い隠していく。
「金田さん、すまない……すまない……」
吹雪の中、そのまま振り返らずに小屋へ向かった。間山は涙をこらえ、鬼の形相で少しずつ歩き出した。
——「梶原さん、これ……テープレコーダーですかね?」
金田の遺体の胸ポケットからは、ソニーの小型テープレコーダーが出てきた。「何か録音していたんですかね?再生してみます」深山が再生ボタンを押すと最後に録音された、掠れた声が再生された。
『このままじゃ二人ともダメだ……俺の靴、脱がせろ』
『小屋まで行けば……手回し電話がある。ハンドル回せば……助けを呼べる……頼ん……だ……』
「そうか、金田は間山に託したんだな……」
「あ、梶原さん、まだ続きがあるみたいです」
風の音が強くてなかなか聞き取りにくかったので、深山はテープレコーダーのボリュームを上げた。ゴソゴソという音の後に音声が続いていた。
『郁子……孝一……すまない、こんなことに……なってしまって……俺はもうダメかもしれない……郁子、今まで……俺のわがままを聞いてくれて……ありがとう……、孝一……バカな父で……すまない、お前はどうか幸せに……帰ったら必ず……』
「金田は、念のために家族へのメッセージを残していたんですね……」
深山の言葉に梶原は思わず目を伏せ、金田が手を伸ばす傍に並んで置かれていたリュックに視線を移した。よく見ると、少し空いている。
その中には、凍りついたチョコレートが数枚残っていた。梶原はそれを見つめ、静かに呟いた。
「……彼はこれを取ろうとして……戻ってくると思っていた間山に、渡そうとしていたのかもな。金田も最後まで、諦めてはいなかったんだ」
そう言い残して梶原は小屋に戻ると、間山の遺体のすぐ傍にあった、備え付けの手回し発電式電話のハンドルを軽く回した。
ジー、ジー、と元気な発電音。受話器からは確かにツーというダイヤルトーンが聞こえた。
線は、生きていた。ハンドルを回せば確実に繋がる状態だった。
梶原は、電話の傍で倒れていた間山の、凍傷で固まった手を見つめた。
「間山はあそこから吹雪の中、約800メートルを這いずるように、ここまで来た。そして小屋の中で手回しの電話を見つけて、受話器を取った。……でもハンドルを回す力が、彼にはもう残っていなかったんだ……」
「……金田が、靴を譲ってまで託したのに……そんな……」
深山は思わず目を伏せた。
「ああ。金田は最後に『ハンドル回せば通じる』って言った。それが二人の小さな希望だった。……でも、この山じゃ、その希望すら届かなかった」
そう言って梶原は受話器を静かに元に戻した。小屋の外では雪がまた、降り始めていた。
「やり切れない気持ちでいっぱいですが、せめて、このテープレコーダーを金田の家族に渡しましょう」
「そうだな……俺達の仕事はいつもこんなもんさ」
風がぴゅうぴゅうと音を立てて、小屋のガラス窓に雪を吹き抜ける。金田の遺体も、間山の足跡も、全て白く覆い隠していく。
二人の最後の希望すら、閉じ込めてしまうほどに——
了
今回はこちらの企画に参加させていただきました。
