短編小説『いま、ここにいること』
灰色の空を眺め、私はひとつため息をつくと、実家の玄関を開けた。古い廊下越しに書斎を覗くと、老眼鏡をかけて本を読んでいた雅彦さんが顔を上げた。
「おお……詩織か」
「うん、おじいちゃん、また来たよ」
「はは、いつも悪いな」
「ううん、私も来たくて来てるから」
そう話しながら私は洗濯をして、その間に貯まった洗い物をする。台所の蛇口から流れる水の音と、洗濯機の音だけが、静かな家を埋めている。
「母さん亡くなってから何も出来なくてなあ」
「あはは、母さんってばいっつも世話焼いてくれてたもんね」
雅彦さんは老眼鏡を外し、居間のソファに座ると、縁側から遠くを見つめていた。白い髪が少し乱れている。気づいた私が櫛で丁寧に梳いてあげると、彼は子供のように目を細めた。
「えっと、あなたは……」
「私だよ、詩織。おじいちゃんの孫」
「ああ……そうだった。孫の詩織な」
また忘れている。今日で三度目だ。
雅彦さんが認知症を患ってから半年が経つ。
妻だったるり子さんが三年前に亡くなり、私が代わりに世話を焼くようになったが、その途中から私を誰だかよくわかっていないようだった。
——でも怒らない。怒るより、何度でも「私だよ」と曖昧に言い続ける方が、お互いにずっといい。
庭に洗濯物を干しながら、私は昔のことを思い出す。
「ほら、今年は良いのが育ったぞ」
庭で育てた家庭菜園のトマトやとうもろこしを自慢げに運んでくる雅彦さんの姿。スイカも立派なのを育てて、夏休みには用水路で冷やしたのを切って出してくれた。
そんな手をかけていた庭の畑もすっかり荒れ果てて、雑草が目立つようになった頃、雅彦さんも少しずつ、時間の流れを見失い始めた。
「なあ詩織、母さん……どこ行った?」
私は洗い物を終え、手を拭きながら答えた。
「母さんはね、もういないの。空の上にいるんだよ」
「……そうだったか、寂しいなあ」
それを教える度に雅彦さんの目が潤む。私はそっと手を握るくらいしかできなかった。
それは大きくて、温かい手だった。
子どもの頃は、この手に連れられてよく公園へ散歩に行った。そして優しくブランコを押してもらった。転んで泣いたときも、この手で膝を撫でてもらうと、不思議と痛みが和らいだ。
「でも、私がいるからね。毎週来るよ」
「そうか、ありがとうな……詩織」
雅彦さんはまた、その名前を呼んだ。
忘れても、また名前を思い出してくれる……それだけで、私は十分だ。でも胸の奥が少し、チクリとした。
夕方近くになると、夕食の準備をする。
何日かぶんの簡単なおかずを作って冷凍しておき、今日の夕食は母のレシピを少しだけ真似した大根と鶏肉の煮物をこしらえた。
雅彦さんは箸を動かしながら、ふと微笑む。
「おお……母さんの味だな」
「あ、わかる? 今日はちょっとだけ味付け、寄せてみたんだ」
「うん……懐かしくて、優しい味だ」
そう顔をほころばせ、ホロホロに煮込んだ鶏肉を口に運んだ。
——食後、雅彦さんは疲れたのか、ソファにそっと寄りかかった。
「詩織……ありがとうな、また……来てくれるか?」
「うん、もちろん来るよ。約束」
「ああ、じゃあ……えっと……郁恵にも、そう言っといてくれ」
「あ……。うん……わかった」
私は静かに頷くと、雅彦さんは静かに目を閉じた。
今日は最後だけ、娘である私の名前「郁恵」を呼んでくれた。やはり雅彦さん……父さんにそう呼ばれると嬉しく感じる。
——と、私の娘の詩織からLINE通知が入る。
『母さん、夕飯は冷蔵庫のやつ食べていいの?』
『ラップをかけてあるからチンして食べて。私はこれから帰るところ』
そう返し、スタンプも送った。すぐに既読が付いた。
認知症は、少しずつ大切なものを奪っていく。でも、全部は奪えない。私がここに来る限り、母さんの温もりも、父さんの優しさも、この家に残り続けるのだ。
「おやすみ、父さん」
私も最後だけ、父さんと呼んだ。夜の帳が下りる中、私はまた、この家に来ることを心に決めた。娘の郁恵ではなく、孫の詩織と思われても。
それでも毎週通い続け、洗濯をし、洗い物をし、髪を梳かし、母の味に寄せた煮物を作る。忘れられても、何度でも。
その小さな行為のひとつひとつが、言葉以上に「私はここにいる」という、娘としての父へ対する存在証明なのだから——


